物心ついた時には、既に父はいなくて。
あのクソさびれた田舎町で、母と二人で暮らしていた。
あたしに難しいことなんてわからないし、わかろうともしなかったから、詳しいことはわからなかったけれど。
察しだけは良かったから。子供心に理解出来てはいた。
――きっと、父の顔を見ることは、自分には無いのだろうと。
そういう現実を。
「へへー、あたし一番乗りー!」
「もー、また負けたぁー!!」
でも、それを苦には思わなかった。
そう思えないほど、いい仲間たちに囲まれていたから。
「これで勉強が出来れば100点なのにね」
「ん……ちょっとうらやましい」
楽しかった。
本当に楽しかった、あの頃は。
あたしを取り巻く後ろ暗い事情なんか忘れるくらい。
幸せな、日々だった。
やがて
北部校の廃校が決まり、あたしたちは、疑似的に『卒業』する。
心身共に成長したからだろうか、あたしはまだクソガキもいいとこなのに、その時、意を決して言っていたのだ。
――父の元に帰らないか、と。
母はしばし無言だった。何ならその日一日口を聞いてくれなかった。
でも翌日、あたしに向き直ると、戻りましょう、と言ってくれた。
……あたしは親孝行のつもりだった。もう一度やり直そうよ、と言いたかった。
何があったかは知らないけれど。どうしてなのかもわからないけれど。
きっと全部を最初からやり直せると、信じてそう告げたはずだった。
でも――
「――あそこの住民? あー」
突き付けられたのは。
残酷な現実だった。
「ずいぶん前に死んだよ。部屋で首吊って……」
父が――もとい、あたしたちが元々住んでいたオンボロアパートに、あたしと母は移り住んだ。
いわゆる事故物件ってやつなわけだけど、それ自体に、特に恐怖は感じなかった。
でも生活は苦しくて……まともに学校にも通えない日々が続いた。
図書館に行って、自主的に、学べることを学ぶ日々だった。
――ある日のこと。
いつものように、図書館から帰ってきた時だった。
「……おかあさん……?」
――部屋は。
もぬけの殻になっていた。
それが笑えるんだ。ちゃぶ台には一枚の、ごめんなさい、とだけ書かれた手紙が置かれているだけ。
母の調度品は全部無くなっていて……
ついでに、生活資金もほとんど持ってかれてた。
あたしは、まだ二桁に達するか達さないかって時に。
見事に孤児になってしまったってわけ。
あぁ、子供心に感じていたよ。何かよくないことが起きていること。
きっと良くないことを母はしていると。
要はそれに、あたしという存在が邪魔だったってことだ。
あたしは――この、僅かに父の残り香のある薄暗い部屋に、一人、取り残されたのだ。
独り。
置いていかれたのだ。
幸い、大家さんは理解ある人で。
居住を許可してくれるだけでなく、あたしでも出来る働き口を紹介してくれた。
ウマ娘という自分の性質に、この時ほど感謝したことはない。
普通の人間では考えられない力は、様々なバイトへの応募と合格を可能にした。
やれることは全部やった――年齢に不相応でも。小さいことから、大きいことまで。
我武者羅に働いて、なんとか日々を食い繋いでいた。
光の片隅で。
郊外で。
陰ひなたに紛れながら。
ただただ働き続けた。
生きるために。
死なないために。
ただ、
ただ、
あたしなりにでも、走るために――
……そんな生活が。
しばらく続いたころだった。
「――なあ、お嬢ちゃん」
そいつを見つけたのは。
……否。
「レースに、興味ねぇか?」
そいつに、
……震える両手を見つめる。
自分の過去を、記憶を、思い起こす。
そして、あたしは悟った。
「……はは」
笑えてくる。
笑ってしまう。
あたしは自由になりたくて。自分なりに生きていきたくて。
校長先生の言った通りに。
望んだ未来に――追いつきたくて。
掴み取りたくて。
今まで我武者羅に、無茶苦茶に、働いて、働いて、走って、走って、生きてきたのに。
結局そんなのは……あたしの望む未来の、どことも繋がっていなかったんだ。
結局。
結局、あたしに――
「……結局、あたしに……
自由に生きる権利なんか……無かったんだ……」
「――、――」
……思い残すことはない。
もう、生きようとも思わない。
もう、いいや、なんでも。
どうでもいい。
終わろう。
終えよう。この下らない命を。
下らねえ人生を。
……あぁ。
本当に。
下らなかった。
「――っ!!」
その時。
身体が、乱暴に動かされる。
誰かに庇われ、突き動かされたのは。
何となく、感じられた。
「――え」
「ここにいて!!」
……ミザールは。
あいつは。
それでも、それでもなお、あたしを庇って。
反対側の、中央分離帯近くにあたしを寄せると。
ひとり。
通り過ぎた車の方へと、向かっていく。
「――くっそ、しぶてえなあの野郎……!!」
サングラスの男は、忌々しげに言う。
「もう用済みなんだからさっさとくたばれよ!!」
「兄貴、今の、あのおつきの女が邪魔しやがった。先にそいつを片付けるべきじゃ――」
「あぁ!? テメー俺に意見すんのか!?」
「す、すんません!!」
助手席の男に怒号を飛ばし、彼はホームミラーを見据える。標的である『彼女』は、中央分離帯近くで呆然と座り込んでいた。
「……もう一度だ。それで駄目だったら――!!」
――と。
彼は言いかけた。
「――!?」
その言葉は。
突如、天井から響いた轟音に遮られる。
それは紛れもなく、何者かが、天井に荒々しく降り立った音だった。
「あ!? なん――」
「あの!!」
彼らが状況を把握するのを待たず。
それは現れる。
それは開けっぴろげにされた窓、の上から、覗き込むように顔を出していた。
「!?」
「もういいんじゃないですか!?」
驚愕に身を強張らせる男たちに、それは言う。
サファイアミザールは。
決死に、呼びかける。
「あの子はもう、十分過ぎるほど罰を受けました!! 十二分に過ぎるほど、悲惨に扱われました!! これ以上、これ以上ッ!! 一体何を贖えって言うんですかッ!!」
彼らを、というよりも。
まるで、神をでも、説得するかのように――
「もういいじゃないですかッ!! お願いします!! 終わりにしてあげてくれませんかッ!! あの子を――!!」
言った。
「――あの子を、自由にしてあげてくれませんか!!」
「――何言ってっか、」
それでも、男は。
構わず、ハンドルを握り。
「わかんねえんだよ!!」
勢いよく、車を発進させる。
「う、わあああああぁぁっ!?」
「ミザール!!」
その光景を見守っていたカペラは、思わずその場に立ち上がる。
ミザールは車両の上、天井から振り落とされそうになるが、すんでのところで窓の縁を掴み、踏ん張る。
「お、おい――!」
そんな彼女を乗せたまま。
車は、蛇行を始める。
「離れろ、離れろやこの野郎!!」
「離さない――」
物騒な車両音の中で。
やり取りが、いやに鮮明に聞こえる。
「離さないっ!!」
「こんのうっとうしい――!!」
「絶対に――!!」
「――……」
その声が。
カペラの脳裏の記憶と、重なる。
河川敷で落ちかけたことがある。
『もー離せって。このままだとお前も巻き添えだぞー』
『いい!! それでもいい!! 離さない――』
それが。
共鳴する。
『――絶対に――!!』
「絶対にッ、
離さないッ!!」
……そして、ガーネットカペラは。
人知れず、涙を流していた。
車は荒々しく蛇行する。
このままでは吹っ飛ばされる、とサファイアミザールは考える。
天井に上るところまでは良かったが。
肝心の、そこからどうするか、までは、彼女は考えていなかった。
――ど、どうするどうするどうする……!!
このままじゃ、と考えた先。
彼女は、前方に何かを見る。
「――!!」
それが何かを理解した時。
全身と全霊と勇気と根性を振り絞り。
車から、自ら飛び降りていた。
「――クソ、ようやく降りやがった!!」
サングラスの男は、背後に目をやりながら、なおも忌々し気に言う。
「あの野郎タダじゃ――」
「――あ、兄貴兄貴兄貴ッ!!」
と。
その怒りの矛先を、彼女へも向けようとした――その刹那だった。
「あ? ――」
声に反応し、前へと視線を向け直すも。
時すでに遅し。
「――!!」
彼の運転する車は。
目の前から迫ってきていたパトカーと、正面衝突していた。
「――おら出ろ!!」
「い、いってててて!!」
男は、駆け付けた何人もの警察官によって車から引きずり出され、取り押さえられていた。
「お、おい!! けが人だぞ!! もっと丁重に……!!」
「はい深夜0時40分! 被疑者確保ォ!!」
「は、離せ、離しやがれッ!!」
「あ、兄貴ぃ~~……」
手錠をかけてくる警察官に、男たちはもがきながら絶叫する。
「ッんで俺らだけなんだ!! 先にそこのガキどもを……!!」
「あぁ!? ガキ!? ……どこにいんだそんなの」
「はぁ!? 何言ってんだ、そこに……!!」
と。
男は、道路上に目を向けるも。
「……」
そこには、既に誰もいない。
件のウマ娘たちは、忽然と、姿を消していた。