勝利。
それは何物にも代えがたい名誉であり、栄光。
受け取った者は、もぎ取った者は、喜びと嬉しさに溢れ、祝福と共に、哀しさとは無縁となる。
徹頭徹尾、明るいものである――そう信じて疑わなかった。
実際、そうだったはずだった――今までは。
……なのに。
「……だ、大丈夫ですかー……?」
その日の食堂で。
項垂れる私に話しかけてくれるのは、正面に座るスペさんだ。
声色は見るからに――『聞くからに』心配そう。まぁ、こんな風にあからさまに項垂れてたら、誰でもそんな声になるか……
「……あい。大丈夫っす……」
「大丈夫そうには聞こえないけど……」
呆れたように言うのは、その隣に座るテイオーさんだ。
「なーんでまたそんな落ち込んでんの? 弥生賞勝ったんでしょ? もっと喜ぶべきじゃない?」
「何か悩みがあるのでしたら、相談に乗りますよっ」
「あー……いや。悩んでる、とかじゃなくて……」
カペラちゃんを巡る騒動が脳裏をよぎったのだろう。スペさんは気合十分に言ってくれるけれど、正直、そういうわけではない。
別に……そう。悩んでる、とかじゃないのだ……
「……勝つのって、楽しいだけじゃないんだなーって」
そう。
ただ、それだけなのだ。
「勝つ人がいるなら、負ける人がいるのはわかってたけど。目の前で泣かれるのは複雑っていうか……ただ、だからって謝るのなんて、絶対違うってわかってるし……」
「うわー……女の子泣かせたんだ」
「い、いや、泣かせたわけじゃないですよ!? 勝手に泣いただけ――ってあぁ! この言い方も地雷になる!!」
「あははは……じゃあ、それでちょっと落ち込んでたってことですか?」
「……そんなとこです」
思い出せば思い出すほど、あの時のチヨノオーさんの顔が色濃く思い出される。勝たなきゃよかった……とまでは思わないけど。なんか、重いというか。
手放しで喜ぶことが出来ないな、と。
「なんか……本当にこう……複雑な気持ちです……」
「そりゃそーだよ。よーやく実感湧いた?」
そんな私に、テイオーさんは言う。彼女は、心配そうなスペさんとは対照的に、紙パックのオレンジジュースを吸いながら、どこか達観したような目をしていた。
「……勝つっていうのは、負けた人の想いを背負うこと。その重さは、名誉の大きさに比例して増していく。三冠路線みたいな連戦が特に偉業だって言われるのは、そんな重さを背負い続けなくちゃいけないからだよ。
相手を思う気持ちがあるのはわかるけど――思うからこそ、しっかり勝利の重圧を背負っていかなくちゃ。……勝負に勝つっていうのは、そういうことだよ」
「……さすが、『無敗のクラシック三冠』は違いますね」
「もォ~、そんな褒めないでよぉ~。褒めても何も出ないよ?」
とはいえ、心底嬉しそうにくねくねするテイオーさん。小さな体躯に、幼げな言動の目立つ彼女だけれど――そこには、並々ならぬ精神性が見え隠れする。
無敗で、クラシック三冠。
想像しただけでも、凄まじい重圧――決して容易なことじゃない。
にも関わらず、それを掴み取ってきた彼女。
次期『皇帝』の名は伊達じゃない、ってところか。
「じゃあ、三冠路線には挑戦しないんですか? 重圧どうこう、というお話なら、ちょっと厳しそうですけど」
「でも、苦手って言って挑戦しないままだったら、ずーっと出来ないまんまだよ? 苦手だからこそ、敢えて挑戦すべきじゃない?」
「……ごめんなさい。考えたことも無かったです……」
ずる、と緩くずっこける二人。でも仕方ない。本当にそんなこと、考えたことも無かったから。
皐月賞、日本ダービー、菊花賞のクラシック三冠。
桜花賞、オークス、秋華賞のトリプルティアラ。
そっか。雲の上の話、と勝手に思ってたけど。私も、今年で『クラシック級』。
挑戦しようと思えば、出来るのか……
「……」
……相談。
してみようかな……
「――まぁ、相談だけでもしてみたら? 君んとこのトレーナー、なんだかんだで物分かり良さそうだし」
「そうですよ! 物は相談です! まずはお話を――」
……と。
スペさんは、手を叩いて返事をする。が、それが途中で途切れたのは……
その声が、ここに居合わせている、誰のものでもなかったからである。
「……」
一瞬の間を置いて。
「――!?」
私たちは、勢いよく、その声の方向に振り向いていた。
「おっ、いい反応。良かった良かった。忍び足でやって来た甲斐があったってもんだよ」
悪戯っぽい笑みと、端麗で、大人びた容姿。長い茶髪に、“CB”というアルファベットを象った装飾の光る、白いミニハット。
「し、シービーさん!?」
予想だにしない人物の出現に、まず声を上げたのはスペさんだった。
「いつの間に!? ついさっきまでは……!!」
「そりゃそーだよ。ついさっき来たからね。本当は素通りするつもりだったんだけど、三冠っていう単語が聞こえてきたから。割り込みがてら驚かそうかなって」
「にしたってタイミング考えてよ……心臓止まるかと思ったよ、ボク」
「あははは。ごめんごめん」
「……」
現れた彼女は、悪びれる様子はない。正しく、悪戯が成功した子供みたいに、無邪気に笑うだけだった。
ミスターシービー。『皇帝』と同時期に、一世を風靡した名ウマ娘。
今では引退し、飄々と学園生活を謳歌している、本来なら……私とは、そんなに関わりのない人。
実際これまでは、校舎内ですれ違ったとしても、軽く挨拶を交わすか会釈するかくらいで、ゆっくり話す機会なんて一度もなかったんだけど。
それが、先のカペラちゃんの一件以来、会うたびに絡んでくるようになり。
今ではすっかり、お馴染みになってしまった。
……どうして絡んでくるようになったのかはわからない。確か、会長さんと結構仲がいいって話だったから。そこの繋がりなのかもしれない。
それにしたって、絡んでくる理由にはならないとは思うんだけど……
いやまぁ。別に嫌なわけじゃないから、いいんだけどさ……
「それで、三冠路線考えてるんだって?」
「あ……はい、これから相談するので、まだ何とも言えないですけど」
「そっか。でも、多少なりとも厳しい戦いになるから、覚悟はしといた方がいいと思うよ。どっちに進むにしろ、あと一ヶ月くらいしか準備期間が無いしね」
「まぁー、そうだよね。普通三冠目指すってなったら、遅くとも年始くらいから準備始めるもんだし」
「そ……そうなんですか」
年始から――つまりは、三ヶ月くらいかけて準備するってこと。しかも遅くともってことは、意識の高い子は、それよりも前から準備してるってことだよね。
そう考えると、シービーさんの言葉も、脅しでも何でもない。そんなにみっちりと準備してきた人たちに、たった一ヶ月で張り合う。うん……確かに、厳しい戦いになりそうだ。
「一ヶ月あれば、人は十二分に変われるからね。悲観しすぎなくてもいいと思うけど」
「でもでも、トリプルティアラってなると、スカーレットさんも出てくるんじゃないですか? すっごいレースになりそうですよ!」
「そういえば、今年のクラシック三冠は誰が目指すんだろ。ボクらのチームからは誰か出るんだっけ?」
「スカーレットさんもウオッカさんもトリプルティアラでしょうし、うちからは出ないんじゃないですか?」
「懐かしいなぁ。ルドルフにブライアン……今年はタキオンやカフェが目指すんだっけ。そこにキミまで飛び込んできたら、楽しいことになるだろうなぁ」
「……シービーさんも、クラシック三冠でしたっけ」
訊ねてみると、彼女は爽やかに微笑む。それが全てだった。
「ちょっとちょっと! ボクのことも忘れないでよぉー!! カイチョー以来の無敗の三冠なんだからね!!」
「あははは。大丈夫大丈夫。ちゃーんと忘れてないよ」
「むぅ! なんかあやされてる気分!!」
……実際、柔らかい声色で言われてる辺り、あやしてるんだと思う。本当にこんな子が、会長さん以来の快挙を成し遂げて、世間を沸かせたんだからな。わからないものである。
「ま、どっちにしろ、おねーさんは見守らせてもらうとしますかね」
と、そこでそう言って、シービーさんは立ち上がる。……もう立ち去るのかな。
「え。もう行っちゃうんですか?」
「うん。驚かせられて満足したから」
どこか寂しげに言うスペさんに、シービーさんはそう返す。
「どっちに行くか決まったら教えてね。それじゃ!」
で……そのまま、鼻歌を歌いながら、本当に立ち去ってしまった。その嵐……というより、春一番みたいな自由っぷりに、私たちは思わず顔を見合わせてしまった。
「……何しに来たんだろ、結局」
「さぁ……」
何を考えているのか、よくわからない人。
私の、彼女へのその印象は、そうそう変わりそうにはなかった。