メイクデビュー戦。
毎年六月ごろに開催される、全てのウマ娘が最初に乗り越えなければならない大一番だ。
このレースを制せられるかどうかで、今後の行く末が決まると言っても過言ではなく……一応、トップを取れなくても即退学、みたいなことにはならないようだけれど。
その場合は『未勝利戦』とやらに回されて、そこでも勝てなければ、ここを去ることになる、らしい。
だから、ウマ娘たちがこの試合に緊張したり、不安を覚えたりするのは当然なのだけれど……
「……」
とうとうその日を迎えて。
レース前、観客に軽く走る姿をお披露目するパドックで、その競技場を満たす歓声を浴びながらも。
私が抱いた緊張感は……その感想は、『なんだかいい感じ』、だった。
はち切れんばかりの緊張でなければ、やる気をなくすほどの無気力でもない。
身体が固まらない程度の……程よい緊張感。
どうしてここまで落ち着いているのかはわからない。ここに来て未だ実感がないのか、それとも私が、自分で思う以上に鈍感なのか。
ただ、そんなことはお構いなしに、状況は進むのだ。
「……おー……」
今回のレース。学園の外の競技場で実施され、一般客も訪れるとは聞いていたけれど。
観客席、どこを見ても人、人、人……
……今やウマ娘のレース競技は、一大エンターテインメントとして大成している。それなりに人は来るだろう、と思っていたけれど。
ウマ娘当人でありながら、その人気のほどを甘く見ていたかも。思ってた以上に、観客が多い。
それだけみんな、新人のデビューに注目している、ってことか……
「――、――……」
「――? ――、――!」
「――、――!」
応援する声、議論する声、感心する声。
そのどれもが楽し気で、それだけ私たちに期待していることの証明でもあった。
ただ、それを聞いた私たちが楽しくなれるか、というと、必ずしもそうじゃない。
「――大丈夫、大丈夫……」
ある子は、目を閉じ、胸に手を当て、自分を落ち着かせ。
「……」
またある子は、手と足が同時に出ちゃっている。
「あ……お、お父さんだ。やっほー……」
別の子は空元気を振りまいて。
「……うぅ~……上手く走れるかな……」
また別の子は、泣きそうな声で呟いている。
……言うまでもなく、ここに集った誰も彼もが、初めての大舞台。
場慣れしてないのが普通だ、と苦笑いする。
「……」
そこで『いい感じの緊張』しか経験していない自分が、なんだかひどく場違いに思えた。
今からでも緊張する振りでもしようか。周りに合わせ、自分のコンディションを敢えて下げてみようか……
……いや、やめとこう。そんなことして、本当に身体が固まっちゃ世話ない。
「……ま、頑張りますかね」
そういうわけで、自分を鼓舞するように呟き、パドックから退場する。
何にしても、レースの開始はもうすぐそこ。
行こう、レース場へ。
私の最初の――大舞台へ。
賓客席にて、競技場を見守る秋川やよいの一番の関心は、やはり先日、規格外の挑戦状を叩きつけた一人のウマ娘へと向いていた。
当然、そこまでは相当の距離があるものの、その特徴的な栗毛とポニーテールはよく目立つ。
理事長室にて見かけた彼女は、身体つきも心意気も、それほど突出したものがあるようには見えなかった。
それは彼女が無能である証拠にはならないが、かの『皇帝』に匹敵するほどの才覚の証明にはならない。平たく言えば、とても例の挑戦を達成できるとは思えなかった。
「どうなのでしょうね、例の子?」
近くに立つ駿川たづなも、どこか不安そうに言う。それはまるで我が子を案ずる母のようで、秋川には少しおかしく映った。
「はっはっは! なんだなんだたづな。らしくない! 我が校の誇りある生徒だぞ! 信用しないでどうする!!」
「まぁ、そうなんですけどね……」
たづなも今や、例の取引の内容を知っている。その心境を察することは難しくなかった。
果たして本当にやれるのか。自分たちの期待に応えてくれるのか。
期待半分不安半分で、何しろ秋川は、目の前のレースを注視する。……
レース場に出ると、歓声が一気に極まる。
その中心地に立って、身体がびりびりと痺れるような感覚に晒された。
私たちがどう思おうと、どう考えていようと、それらは収まるところを知らない。
こちらを押し潰さんとばかりに、頭上から降りかかるばかりだ。
それが実際応援だろうと。激励だろうと。緊張を高める要因にしかならない。
周りのウマ娘たちの動きが、ひときわ硬くなったように見えたのは、たぶん、気のせいじゃない……
「……」
あぁ。
やば。
手が震えてる。さすがに緊張してきたか……
心臓はびっくりするくらい落ち着いてるけど。頭は恐ろしいほど冷静だけど。身体は正直ってやつかな。
いや、でもそうだよね。これで決まるんだもの。全てが。
これで決するんだもの。未来が。
恐怖と緊張で、手が、身体が、震えてしまうのは、仕方がないこと、だと、自分でも、思う――
「…………」
……なのに。
あれ? な、のに……
「――っ……」
どうして私、
笑ってるんだ?
『――さぁ各ウマ娘! ゲートに入って、体勢整いました! ――……』
ともあれ――
ゲートに入って。
実況の声が、聞こえてくる。
あぁ。なんだか、懐かしい感覚だ。これ。
目を閉じると、聞こえてくる。
見えてくる。
あの光景が。
あの、情景が。……
『――っし、じゃあミザール、負けた方が今日帰りに荷物持ちな!』
『そっちこそ! 負けたら語尾に『おっぺれぺー』って付けるんだよ!』
『はいはい、口喧嘩はそこまで! 始めるわよー!』
『それじゃ、位置についてー!』
――始まる。
「……位置について」
――競争が。
「よーい……」
――戦いが。
私の、一世一代の、勝負が――
「――、」
……重厚な音が響く。
ゲートが、開いた。
「――どん」
『――今、スタートが切られました!』
――そして。
私の、私たちの、初めての大舞台が――幕を開けた。
ともあれ始まりは順当か、というのが、秋川やよいの最初の印象だった。
注目の彼女――サファイアミザールは、前から数えて五番目。
全体の、ちょうど真ん中あたりに陣取る。
彼女の得意戦術は差し、と聞いている。位置取りとしてはセオリー通りといったところだ。
しかし、速さとしてはやはりやや遅い。
先に最速記録に追い縋る、という目標を聞き及んでいる彼女としては、その走りは想像に劣っているように映った。
――今のペースでは、『皇帝』にはとても届かんぞ。
本当にこれで、本当にこんなペースで。
自分達を驚愕させるようなレースを、見せられるのか。
猜疑を重ねる中で、秋川は、それを見守り続ける。
さて――
戦術とか作戦とか、あんまり考えたことない私だけど。さすがに最初に取るべき作戦くらいは考えとけ、とトレーナーさんには言われた。
走りや経験から分析した結果として――私に適切な作戦は、ずばり『差し』。
中団に陣取り、冷静に状況を見極め、先団を追い抜く戦術だ。
確かに北部校でも、そんな感じでトレーニングしてたよな、と思う。
まぁ、あの時代。みんな奔放に走り回っていたから。トレーニングと表現していいのかどうか、微妙なとこではあるけど。
『踏み込みにパワーがあるのが助かるな 相手を指すのに重要なのはここぞという時の加速力だから 筋トレでもしてたのか?』
『いや、してないですけど……』
自主的に筋トレなんて、した覚えはない。ただ、その時記憶を掘り返した時。それに当たりそうなことはやってたな、と思い至った。
『……バイトで日常的に重たいもの持って運んでたので。そのせいかな』
『まぁ何にせよ それを活用しない謂れはない まず基本の考え方としてな――』
と、まぁそんな感じで。ありがたい彼による座学が始まったわけだけど……
「……、」
……えぇっと。
このレースは2000mで。
この競技場では一周だけ。
緩めのコーナーが三回しかなくて、今既に一回目は通り過ぎたから。
仕掛けるならあと二回のうちのどっちかでやるってことで。
「……、……」
で、高低差も激しめだから地形の変化を如実に感じ取って。
……各場所での力の使い方と走り方を工夫しながら……
…………周りの子たちの動きを見て。
………………差せるタイミング……を……
……
「……?」
……あれ?
なんだ?
なんだ、この感じ。
……ちょっと、待って欲しい。
「……あれ……」
私、今……
レース、してるんだよね?
憧れの学園に入って、憧れの舞台に立って、
更なる憧れを成就させるために、今、必死になって走っている。
そこは自分にとって遠い場所。夢のような世界。
闘志と闘志のぶつかり合う、熱くて激しい戦場のような場所なんだろう、なんて、冗談半分に考えながらも、頑張るぞ! なんて前日は気合いを入れて。
コンディションも万全に整えて、こうして今日、走っている、のに。
走っているはず、なのに……
「…………」
なんだろ。
なんだろ、この感じ。
なんか、
なんか――……
レベル、
低くない?