暖色の灯りが包み込む廊下を、少女は硬い靴音を鳴らしながら歩いていく。
緑がかった長い黒髪と、頭頂部に生えた耳、そして尻尾が、その動きに合わせて上下する。
リムレス眼鏡の奥、鋭い目が向かう先は前方であり、一寸も揺らぐことはない。
壁には、扉が長い感覚で備え付けられており、彼女はそのうちの何枚かを通り過ぎる。
そうして、ちょうど廊下の真ん中あたり、他の扉よりひときわ豪華、かつシックな佇まいのそれの元に辿り着くと、目の前に立ち、上から下へと一瞥した。
懐から取り出すのは、一枚の銀色のカード。それを扉の隣の壁に備え付けられたカードリーダーに読み込ませると、ピッ、という特徴的な音が響き、カチャン、という小気味いい音が続いた。
少女は、扉を開ける。
だだっ広い室内は、灯りがついていない。
レースカーテンを通ったことで、元の気力を失った日光が、静々と照らすばかりで、もし今が夜中であれば、中の様子を満足に確認することも出来なかったであろう。
そんな部屋の中に――何やら、下品な音が響き渡っている。
グゴゴゴゴ、ゴガガガガ――擬音にすればそんなところ。
誰がどう聞いても明らかな、非常に耳障りで不愉快な音――
いびきだった。
「……」
少女は部屋の中を歩き、その音の発信源の傍に立つ。
それは、大きなベッドの上。
オールバックの白髪に、しわくちゃの顔。洋風の内装に似つかわしくない、だらしなく着崩された浴衣。目にはへんてこな目隠し。
その人物――男性は、少女が傍に立とうとも、気付いたそぶりも見せず、いびきをかき続けている。
つまりは、奔放に眠り続けている。
「……」
少女は、しばらくそれを無表情に見下ろしていたが、コキ、コキ、と首を軽く鳴らすと。
その男性の腹部目がけて、側面から倒れ込みつつ、自身の『肘』を突き立て――
「――起きてくださいお父様」
そんな言葉と同時に。
思いっきり、突き立てた『肘』を、腹部へとぶち込んでいた。
「おごぉっ!?」
男性の喉の奥から、この世のものとは思えない奇声が走る。
それと同時に男性は、それまで眠っていたのが嘘であったかのように、じたばたと腹部を抑えると、やがて悶え、苦しみ、ぷるぷると震え出した。
「ちょっ……おまっ……はらっ……だっ……しっ……しぬっ……」
「――二分遅刻です。お父様」
そんな様子にも関わらず。少女は無慈悲に続けていた。
「先方は既にお待ちです。さっさと準備を」
「ぇ……あ? も、もうそんな時間?」
「もうそんな時間です。とっとと起きてください。三分遅刻です」
「目の前でタイムキープはやめてくんない? 威圧感すごいよ?」
しかし言いつつも、男性は急ぐそぶりを見せない。やれやれ、とばかりにベッドから体を起こし、目元に装着していた目隠しを外す。
目尻まで、皺は無情に侵食していたが。
その顔つきは、活力にあふれていた。
「……あれ。でもおかしいな。アラーム付けたはずなんだけど」
「アラームですか」
男性のマイペースなぼやきに、少女は答える。
「それならつい先ほどまで、二分おきに三十回ほど鳴り続いていましたが」
「なんでその時点で起こしてくんないの!? そんなに『お父さん』のお腹にエルボーかましたかった!?」
「あれだけ鳴ればきっと起きると信用してのことです。恨むならご自身を恨んでください。十分遅刻です」
「流れるようにタイムキープしないでくんない? 語尾みたいになってるよ?」
「お父様が手早く準備をしてくださるのであれば、語尾にするのも吝かではありません十一分遅刻です」
「あー、もう。わかったわかった」
そこまで来て、男性はようやくベッドから立ち上がる。ただそれは本当に立ち上がっただけであり、それに続く動作は、相変わらず緩慢だった。
のそのそと、衣装の収められているクローゼットへ向かう。
「やれやれ。『ヒスイ』ちゃんは焦り過ぎなんだよ。商談相手は確か『小林君』だろ?」
「えぇ。そうです。小林商事の社長のご子息、かつ副社長の。個人的に親しいということですが」
「大丈夫大丈夫! 彼なら三十分遅れても、笑って許してくれるから!」
「それ許してるんじゃなくて呆れてるんです」
男性は笑いながら、衣服を以って脱衣所へ足を向ける。ほどなく出てくると、その出で立ちは、先ほどのだらしなさとは無縁となる。
古風な、威厳を感じられる、純和風の着物。
「よろしいですか。早く行きますよ」
少女は――ヒスイは。
ヒスイレグルスは。飽くまで機械的に急かす。
それにようやくやる気を出したのか、男性はわかったよ、と肩をすくめ、返事をする。
「あぁそういえば――」
部屋から出て、歩き始めると同時。
男性は、ヒスイに目を向けて言った。
「昨日の新聞。見たかい?」
「えぇ、見ました」
「どうだった?」
「そうですね……」
男性は何かを期待しているかのように、そわそわとする。
「――やはり最近の逼迫した世界情勢は、無視出来ない事象のように思います。我々も国内大企業の草分けとして出来ることを――」
「いやそうじゃなくて。いやそうなんだけどね?」
が、返ってきた感想は男性の期待したものではなかったために、彼は悔しげにため息を吐いた。
「もっと、こう、あるだろ? ほら。スポーツ誌とか。……見ないの普段?」
「見ません。見る必要がありませんので」
「あぁ~年頃の女の子がそんなんじゃ、お父さん心配になっちゃうよ……」
「余計なお世話です十八分遅刻です」
「あ、忘れてなかったんだ、語尾」
肩を落としながら、やがて男性はエレベーターに乗る。ヒスイもそれに続き、エレベーターが稼働する。
「……ほら。一面に載ってたろ。君のお友達の――ミザールちゃん。弥生賞で一着だって」
「……そうですか」
「そうですかって……それだけ?」
「それだけですが」
「話、終わっちゃうんだけど」
「この移動時間もそろそろ終わりますね」
ヒスイが口にしたと同時、エレベーターが停止する。扉が開くと、目の前には一階のロビーが広がる。
「――あ、社長!! お疲れ様です!」
「おはようございますっ」
「うむ。おはよう。……そっか。もうご友人の栄光にも興味はない……か」
「……興味」
返事をする父の背中は、彼女の目には、いつもより小さく感じられた。胸にざわざわとした違和感を覚えながら、彼女はそれをぐっと押し込め、
「――、申し訳ありません。私はもう――」
「――いやー、小林君! 長らく待たせたね!」
「あ、社長! いえいえ、とんでもない!」
が、その先の言葉が紡がれることはなかった。
父は、社長は、ロビーで待っていた一人の男性に声を掛け始める。
「……」
まぁ、と彼女は考えた。
タイミングを逸したところで、こんなことを言ったところで。今更何にもならない。
ならば何しろ、前のことに集中しよう、と。
いつもと変わらずに。
いつも通りに。……