「そこで、一緒に走りたいの。あなたと」
ヒスイは答えない。
「私だけじゃない。カペラちゃんや、コハクちゃん……色んな先輩、仲間と……最高峰の舞台でさ」
ヒスイは答えない。
「――有マ記念で。一緒に、走りたいの」
ヒスイは。
答えない。
「だから……どう? 学園に……来てくれない?」
無表情に。無感情に。
一寸も、揺らぐことなく。
「一緒に。夢を、叶えてくれない?」
ミザールを。見つめ続けていた。
「……どう?」
「……」
「……ど、どうなの……?」
「……」
相変わらず、エントランスは、人が行き交っている。
彼女らの会話など、誰もが知る由もない。
お疲れ様です――そんな声が、にわかに増え始める。
「……」
「……」
「……」
「……」
無言の時間が。
そこで再び、訪れ。
「――おい、どうなんやって訊いとるやろ」
「!」
痺れを切らしたように。
言ったのは、タマモクロスだった。
「何黙っとんねん。時間が限られてんねんぞ! それとも時間稼ぎのつもりか!?」
「ち、ちょっとタマちゃ――」
「――申し訳ありません」
激高しかける彼女を、ミザールが窘める中。
ヒスイは、唐突に頭を下げていた。
「少し……面食らってしまいまして」
「あ……あぁ。そうなんだ」
「えぇ」
頭を上げた彼女に、ミザールは一旦は胸を撫で下ろす。それが、質問への答えかと思ったからだ。
「まさかあなたが、」
だが、答えはまだ、終わっておらず。
「本当にまだ、」
果たして。
ヒスイは――
言っていた。
「『かけっこ』に精を出しているとは思っていなくて」
はっきりと。
淀みなく。
そう言った。
笑うでもなく。
嘲るでもなく。
本当にただ――
無機質に。
それが。
ただ一つの真実であるかのように。
「……」
「……」
「……」
ぴり――と。
空気が、張りつめる。
ミザールの耳には。
それまで聞こえていた喧騒が、急速に遠のいた気がした。
冷汗を垂らし。眉を顰める。
あぁ――変わっていないと。
本当にこの子は。
何も変わっていない、と。
「……あ」
平静を。
平静を装い、ミザールは言う。
「あ――ははは。そ、そうなんだー。まだ精を出してるの。すごいでしょ」
「そうですね。そのような時間があることは素晴らしいことです」
「う、うん。でね。そのかけっこに、ヒスイちゃんも参加してほしいなって話で……」
「申し訳ありません。出来ません」
食い下がる彼女に――
ヒスイは、再び頭を下げる。
「先ほども申したように、そのような時間はありませんので」
「い――いや。でもさ。そのー……何? 検討くらいはしてほしいっていうか」
「申し訳ありません。これも先ほど申しましたが――私には、果たさなくてはならない『責任』があります」
鉄のように。
岩のように。
揺るがずに、ぶれずに。
「――『遊び』は」
答えた。
「もう、初等部で卒業しましたので」
「――ッ!!」
刹那――
動いたのは、タマモクロスだった。
彼女は、ミザールを押しのけ、前に出たかと思うと。
ヒスイレグルスのスーツの襟首を掴み――
引き寄せ。
至近距離から、睨みつけていた。
食わんばかりの勢いで。
そのまま、絞殺せんばかりの勢いで。
「――ちょ、」
押しのけられたミザールは、ほんのしばし呆然としたが。
その暴力的な行為に、慌ててタマモクロスに縋りつく。
「ちょちょちょちょ!! タマちゃん先輩……!!」
「――今何て言うた」
にも関わらず。
タマモクロスは、それを意に介さず、言う。
「今何て言うたッ!! ウチにもっぺん言ってみろやッ!! おいッ!!」
彼女の、威圧的で――稲妻のような怒号が、エントランスに響き渡る。
その異様な光景に、さしもの社員たちも注目する。
怪訝そうに、あるいは心配そうに、彼女らの様子を、遠巻きに見守る。
「だ、駄目ですってば先輩!! さすがにここでそういうのは……!!」
「やかましいわ!! 関係あらへん!! ここまで言われて黙っとれ言うんか!? そないなこと出来っかい!!」
「い、いやいや! その、ヒスイちゃんはそういうつもりじゃ……!!」
「タマモさん。落ち着いてくださいませ」
「――っ!」
そんな二人の懇願の末、タマモクロスはようやく離れる。
猟犬のように息を荒げる彼女を、ミザールが落ち着かせる中。前に出たのは、マックイーンだった。
「……申し訳ありません。せっかくのスーツが」
「いえ」
スーツを軽く整えたヒスイは、怒っている風ではない。あのようなことが起きたにも関わらず。あのようなことをされたにも関わらず。その表情は、崩れていなかった。
相変わらず――無機質な、無表情のままだった。
「お気になさらず。『いつものこと』ですので」
「……あなたのお考え。理解出来ないことはありませんが」
そんな彼女に、マックイーンは言う。
「もう少し……言葉を選んだ方がいいように思います」
「はい。配慮が足りませんでした。申し訳ありません」
「……」
それに、反論することもなく――
ヒスイは、再三、頭を下げる。
マックイーンは、そのあまりに潔い姿勢に、怒りよりも――
呆れに近い感情を抱いた。
「……ヒスイちゃん」
タマモクロスを窘め――
ミザールが、再び前に出る。
「本当に、本当にもう、レースに興味が無いの?」
「……」
ヒスイは答えない。
「学園生活にも、誰かと過ごすことにも、意味がないって思ってるの?」
ヒスイは答えない。
「私たちと一緒に、昔みたいに、バカみたいなことしたいって。もう、思ってないの?」
ヒスイは……
答えない。
「……」
目を伏せ。
何事かを思案するように、しばし無言になり。
「……先ほども申しましたが」
言った。
「私が興味を持っているかどうかは。問題ではありません」
「――、だから、そういうことじゃ――」
と。
さすがのミザールも、感情をあらわにし。声を荒げかけた。
「――!」
その時だった。
無機質な電子音が、響いていたのは。
ヒスイの目が、右手に装着した腕時計に落ちる。
彼女がそれに指を押し当てると、音は鳴り止んでいた。
「……時間です」
「……へ」
「では、私はこれで」
「ち――ちょっと待ってよ!」
制限時間――
彼女と話せる、勝負の10分が終わった。
ヒスイが、無慈悲に背を向け、歩き出す中――ミザールはしかし、なおも縋るように呼びかける。
「ヒスイちゃん!! お願い!! あと少しだけ――!!」
「おいこらッ!! 時間盾にして逃げる気か!?」
それに呼応するように。
タマモクロスも、叫んでいた。
「さっきから触りのいい事ばっか話して、根本的な答えになっとらんやん!! 本当はミザールと正面切って話すのが怖いんやろ!! 言い訳ばっかせんとしっかり話してみぃや!! この――このッ――!!」
遠ざかる背中に。
自身の想いの、全てを込めて。
「臆病者ッ!!」
「……」
……その時。
ヒスイは、そこで立ち止まる。
ゆっくりと。
彼女らの方に振り返った。
「――……」
その瞳は。
先ほどまでの、無機質なものではなく。
確かに――憤怒の色に、燃えていた。
「……あ」
だが、それも一瞬。
再び、背を向けると。
彼女は、自らのやって来た方向へと、歩き去っていた。
「……」
「……」
「……」
それを見送ってなお。
三人はその場で、しばらくの間、立ち尽くしていた。