それまでグラウンドを走り続けていたメジロマックイーンは、徐々に減速し、やがて立ち止まっていた。
汗を手の甲で軽く拭うと、その背後にもう一つの影が追いつく。
それは見るからに疲労した様子で、立ち止まるなり、膝に手を突いて息を整え始めた。
「――いやぁー、やっぱ速ぇなぁマックちゃんは」
長身に長い白髪――
ゴールドシップは、男前に笑いながらそう言う。
「『今の』ゴルシちゃんじゃあ、もう追い付けるかもわからねーぜ」
「……それは結構なのですが」
そう思う。全盛期にて、輝かしい成績を残した彼女に、そう言ってもらえるのは名誉なことではあるが。マックイーンはそれでも、一つ言いたいことがあった。
「追い抜こうとするたびにホラー映画みたいな顔するの、やめてもらえません……?」
「なぁーに言ってんだよマックちゃん! レースは気迫の勝負だぜ! むしろあれがゴルシちゃんの平常運転なんだからよ!」
「あれが平常運転でたまりますか」
やり取りする二人の傍ら――
客席付近では、スペシャルウィークが、目を輝かせている。
「うわぁー、すごいですね! こんなにちゃんと撮れてるんですか!」
「一応高かったしな」
そんな彼女に対応するのは、サファイアミザールの担当だ。
彼女の視線の先――彼の手元には、大きめのタブレットがあり、そこにはスペシャルウィークを始めとする、チームスピカ所属のウマ娘の走る姿を映した動画が表示されている。
彼らはちょうど、それをコマ送りのようにして細かく確認しているところだった。
「……やっぱりもうちょっとフォーム変えるべきじゃない? 無駄に力入っちゃってる気がするけど」
「やっぱりそうですかね~」
画面を指差して言うのはトウカイテイオー。スペシャルウィークは、それに困ったような顔をして応じる。
「――よし! おい、どうだスカーレット! これで完璧じゃないか!? さっきのコマのとこのポーズ!!」
「あんた……トレーニングのし過ぎじゃない……? しっかりなさいよ……」
その少し離れたところでは、ウオッカがどこかコミカルなポーズをし、ダイワスカーレットが呆れたように言う。
「……いやなぁ。お前の言うことはわかるんだけどな、スズカ?」
その更に別の、離れた場所では。西崎が息を吐いて答えている。
「でもさ、もう『全盛期』過ぎてんだから。無理に負荷上げようとするのは……一応お前の為を思って言ってるんだぞこっちは」
「でも、挑戦しないとわからないままよ。お願い。一度試すだけだから」
情熱的に訴えかけるサイレンススズカに、西崎は難しい顔をするが。
「……、わかった。一回だけな」
「! ありがとう!」
それに押し負け、答えていた。スズカはそれに、嬉しそうな顔をする。
「――おー、やってるね」
そんな、賑やかな空気に包まれているグラウンドに――
新たに現れる影が、一つ。
「お疲れ様、みんな」
「あ! シービーさん! お疲れ様ですっ」
言葉に真っ先に反応したのは、スペシャルウィークだった。それに弾かれたように、テイオーと担当の目も向く。
ミスターシービーは、彼女らにひらひらと手を振っていた。
「お、なんか面白そうなもの使ってるじゃん。すごいね~。私らの代じゃあ、こんな便利な物なかったよ」
「どうせだからって持ってきてくれたんです! お陰で細かいところまで研究できて、助かってます!」
「買ったはいいけど、ここ最近押し入れの奥で眠ってたからな。使ってやった方がコイツも喜ぶ」
「そういえばいくらしたの? これ」
「知らぬが仏」
「あはは。そっかそっか……って、あれ?」
爽やかな笑みで言うシービーだったが、そこで何かに気付いたように周囲を見回す。
彼女は、一旦はその気づきは、正しく気のせいであると思ったが。見回したことで、そうではないという結論に至っていた。
「……『あの子』がいないね。どうかしたの?」
「あ、あー……あははは」
「?」
あの子。いつもなら、どこかしらで栗毛のポニーテールを靡かせていそうなウマ娘。不思議そうに言ったシービーに、スペシャルウィークは、頬を掻き、どこか恥ずかしそうに答えていた。
「それがですね……」
「なぁ、」
……しょりしょりと。
林檎の皮を剝く音が、どこか可愛らしく響き。
「バカは風邪ひかないっつーけど、あれって実は間違いなんだぜ」
宝石のような綺麗な声が、聞こえてくる。
「バカは風邪ひかないんじゃない。風邪ひいたことに気付いてないってだけなんだ。で、気付かないまま治った結果、ひいてないように見えるってだけなんだよ。わかるか?」
でもその声色は。
明らかに怒ってるというか……呆れているようで。
「……お前のこと言ってんだぞバカ」
「……ぁぃ……」
……その声に。
カペラちゃんの声に。
私は、答えたけど。その声は、老婆のようにか細く、しわがれていた。
どうも皆さま。ご機嫌いかがでしょうか。本日はお日柄も良く。
私、サファイアミザールは……
実に数年ぶりに。
ひいてしまったみたいです。
……
風邪を……
「ったく、なんで眩暈した段階で休もうってならなかったんだよ」
「だってぇ……」
「だってじゃねーんだよ。気合いで治ると思ってたのか? バカが。気合いだけじゃどうにもならねーものもあるだろうが」
「……ぇぅ」
「……ったく」
相変わらず、ここは一人部屋だ。
相方さんに迷惑かける、ってことはないし、本来なら、カペラちゃんもここにはいない。この子は一人暮らしだから。
でも……どうも、どこからか彼女に、私が体調を崩したって話が伝わったらしく。
こうして、お見舞いがてら、看病しに来てくれたのである。
振る舞いも言葉も。明らかに不機嫌そうで。まるでお母さんみたいで。
不器用な優しさもまた、見え隠れしていた。
「……カペラちゃん」
「あ?」
「……ありがと……」
「ちゃんと治してから言え」
ほら、と彼女は、切り分けた林檎を、ベッドの傍の勉強机に置いてくれる。その様子は、ちょっとバツが悪そうで面白かった。
……でも。
「……なんで……ひいちゃったんだろ……」
「そりゃ風邪もひくだろ」
後片付けをするカペラちゃんは、変わらず呆れた声色で言う。
「ただでさえ有マっていうでかい目標があるのに、あたしたちを一人ずつ説得して回ってんだろ。それだけじゃない。普通の勉強にダンスレッスンにトレーニング……加えて三冠路線も目指して対策する、なんてなったら、そりゃパンクもするだろ」
「……」
「お前のそういう、我武者羅なとこは嫌いじゃないけどさ」
彼女は、続ける。
「それで自分が倒れてたら世話ねーだろ。もう少し冷静に自分を観測しろっての。……レースじゃそういうことしてんだろ」
「……いけるとおもったんだもん……」
「オメーがあのトレーナーにバカウマって呼ばれてる理由がようやくわかったよ」
ため息を吐いたカペラちゃんに、反論する気力もない。なんか、もう、いつもなら噛み付くような罵倒も……全部、手放しで受け入れるしかなかった。
「……まぁいいや。あんま長居してもアレだからな。あたしは行くぞ」
「ん……」
少し寂しかったけれど、風邪が移っても困る。立ち去ろうとする彼女を、言葉だけで見送る。
「また明日様子見に来る。治ったら連絡してくれ。あ、これはまずいってなっても連絡しろよ。すぐ駆け付けるから」
「……りょーちょーいるからだいじょーぶだよ……」
「……うるせぇな」
あ。照れてる。ここが寮ってこと、すっかり忘れてたらしい。
「じゃあな。お大事に」
「ん……」
そんな雰囲気を振り払うみたいに、カペラちゃんは言って、立ち去る。扉の閉まった音がして、静寂が漂い始めた。