「……」
ふわふわした感覚の中。
耳を澄ますと、色々なところから音が聞こえてくる。
楽しそうな声。威勢のいい声。
有り触れた生活音、物音。
聞き慣れた全てが、なんだか懐かしいような、羨ましいような――それに思えて。それが積み重なり、限界に達しようとした時。眠ろう、という発想がようやくぼんやりと浮かんできていた。
口元が隠れるくらいに、布団を引き上げて。
目を閉じた――
「――?」
刹那。
こんこん、と。軽めにノックの音が聞こえた。
はい――と、なんとか返事をするけれど、やはりその声は、そうだと言うには、あまりに頼りなかった。
「おー、いかにもヤバそうな声だ。……大丈夫そう?」
「……ん」
ただ――訪問者には、ちゃんと聞こえたみたいで。
清涼剤みたいな綺麗な声が、耳を撫でる。
「……シービーさん……?」
「そ。シービーさんだよ。風邪ひいたって聞いたから。扉越しで失礼するね」
わざわざお見舞いに来てくれたのか。感謝を伝えたかったけど、そのための気力すらろくに振り絞れず、曖昧な言葉しか返せなかった。
「無理しなくていいよ。軽く様子見に来ただけだから……でも、さすがに『無理』が祟ったか。有マにお友だち探しに、三冠まで本当に狙うんだもんね」
「……ぁぃ……」
「見上げた大志だ。その心意気はいいけど……身体は資本、ってね」
シービーさんは、言う。
「さっきカペラとすれ違ったから。たぶんあの子にも言われたかもしれないけどさ。それで自分が倒れてたら世話ないよ」
本当に、カペラちゃんと似たことを。
私に、言う。
「……諦めも、大事かもしれないよ」
「へ……?」
「うん。いやね。変な意味じゃないよ。……冷静に、よく考えてみて?」
何を――と思ったけど、続けられた言葉に、耳を傾ける。
「アタシたちには、手は二つしかない。当然、叶えられるもの、持つことの出来るものに、限界はある。あれもこれも、なんて欲張ってたら、何一つ得られないまま終わっちゃうよ。二兎を追う者は……ってやつだね」
「……」
そんなことは――と一瞬思い、もう一瞬で、思い直す。そんなことはないのでは、なんて、布団に倒れ伏している者の、言えることではなかった。
「人生、一度しかないけどさ。一度しかないからこそ、追うモノ、叶えたいことは、ちゃんと狙い澄ました方がいい。『全盛期』を終えた後で……ああすればよかった、ああしなきゃよかった、なんて思うのは嫌でしょ?」
「…………」
「大丈夫。誰も笑ったりしないよ」
反論出来ない私に、シービーさんは、優しく。本当に優しく、言ってくれた。
「確かに、何かから逃げるのは『臆病』かもしれない。でも、それが恐怖とか、理由のない躊躇によるものじゃないなら……それは『臆病』じゃない。何かを叶えるために、別の何かを手放すことを選択するのも、また『勇気』だよ」
「……」
「ちょっと難しい話だったかな?」
……さすが。
という言葉が、頭に浮かぶ。
ミスターシービー、その生き様や生き方は、方々で伝説的に語られている。
雨の日に外で走りたがる……なんてのは序の口で。
晴れれば、そこら中に出没し。
嵐が来れば、空に歌って手を叩く。
雪が降れば、これでもかというほど雪だるまやら鎌倉やらを作って。
雷が鳴れば、テンションが上がってはしゃぎ回る。
寒い日にも凍えず。
暑い日にも草臥れず。
無茶苦茶に、滅茶苦茶に、我武者羅に――
何より、自由気ままに。思うがままに生きている。
そんな彼女だからか――その哲学もまた。そこらのウマ娘とは――人間とは。一線を画していた。
「…………」
……手放すことも、また勇気。
臆病なことじゃない。恥ずかしがることでもない。
それは、とても勇気づけられる考え方だし、納得も出来る、思考なのだけれど。
……だとしたら。
あの子は――どうなのだろうか。
「……ん? どうしたー? 大丈夫? 寝ちゃった?」
「……」
あの子は――
それを、手放したのだろうか?
「おーい?」
「……ヒスイちゃんは」
「ん?」
それが、彼女に伝わるかどうかはわからない。
それでも、縋るみたいに、私は、口にしていた。
「ゆうきをだして……えらんだのかな……」
「……君のお友だち?」
「はい……でも、どうなんだろ……きのうあった、かんじだと……」
……あの子は。
彼女は。
それを、選んでいるようには見えなかった。
私には……
「……むりやり、なっとくしてるように、みえた……」
「……無理矢理、ね」
「わかんない、ですけど……っ」
……あぁ、駄目だ。
こういう難しい話を考えるには、頭が本調子じゃなさ過ぎる。頭痛がしてきた……
「ぅ~……」
「あはは。病気の子に考えさせることじゃないのは確かだね」
唸る私に、シービーさんは言う。
「ま、色々言ったけど。とりあえず今日は、神様がくれたお休みって思ってゆっくり休みな。全てを考えるのは、それからでも間に合うよ」
「……ぁぃ」
「長話してごめんね。じゃ、お大事に」
「シービーさん……」
「ん?」
立ち去ろうとしているのだろう、彼女に、私は精一杯の力を込めて言った。
「……ありがとです……」
「礼には及ばないよ。おやすみ」
「ん……」
その言葉を最後に――
硬い靴音が遠ざかる。
それに耳を澄ませると、急速に眠気がやってきて――
「……」
それに身を任せるまま。
私は、ゆっくりと目を閉じた。……
……それは、夢というよりも、記憶の想起に近かった。
「――おとうさま」
蝉が喧しい合唱を奏でる中で、私はお父様に声を掛ける。
「ん? どうしたヒスイちゃん」
お父様は、いつもの朗らかな笑みで言ってしてくれるけれど。
私の心は……それだけでは、晴れない。
それを見たお父様の笑顔も、自然、曇る。
「……ヒスイちゃん?」
「わたし……おくびょうじゃないよ」
そんな彼に、私は言う。
「わたし……にげてないもの。みんなのために、このよのために、みんながしないようなこともやってるの」
いや――言うというより。
訴える。
「にげてないよ。むきあってる。みんなのために、いっぱい、いっぱい、がんばってるんだよ……」
救いを求めるように。
彼に――訴える。
「なのに……なんで」
そのうちに。
声には、嗚咽が混じって。
「……っ、なんで、あんなこといわれなくちゃ、いけないの……?」
最後には。
号泣へと変わってしまうのだ。
人目も憚らず泣き喚く私を見て、お父様は、狼狽するけれど。
平静を保ちながら、宥めてくれるのだ。
あの手この手で。あらゆることを尽くして。
私を、慰めてくれるのだ。……