「……」
……目が覚めると、そこは『社長室』だった。
頭が、ぼんやりとするのも束の間。
「――っ!!」
急速に意識が鮮明になり、今、自分の置かれている状況を理解する。
悪寒と共に立ち上がると、身体から毛布がずり落ちていた。
それが何よりも、私の脳裏をよぎった推測を確かなものにしていた。
……しまった。
私としたことが。
よもや、社長室の椅子で……寝落ちするなんて。
なぜこんなことになったのか――なんて、わざわざ確かめるまでもない。私はいつものように、社長をここまで呼びに来て。でも再三の呼びかけにも応じないものだから、またエルボーをかまそうとして……
……さすがに連日の暴力はまずいだろうから。まだ時間もあるから、ということで、椅子でぎりぎりまで待とうとしたら……
自分が、寝てしまったのだ。
「……、」
思わず、頭を片手で抱え、ため息を吐く。自分への恥ずかしさと、軽い後悔――に苛まれたと同時、足元に、手紙らしきものが落ちる。
それはどうやら、お父様による直筆のメッセージのようであり――
内容は。
『やっほ~☆ 起きたかな? あんまり気持ちよさそうに寝てたから、お父さん自力で起きちゃったよ☆ 今日は仕事のことは忘れてゆっくりやすみなさい! なんならそのまま泊まってくれちゃってもいいよ☆ おやすみ~』
「……」
……いつもなら苛立ちを募らせる文面だけれど、今の私に、そんな風に振舞う権利はない。
肩が落ちるのを自覚しながら、椅子から立ち上がる。軽く伸びをすると、身体からぽきぽきと小気味い音が鳴った。……本当に、疲労で寝落ちしてしまったらしい。
「……、」
口から漏れ出るのは、ため息。
義務と責任を負いながらも、それを投げ出してしまった、負い目からのもの。
特段緊急の連絡も来ていないから、きっと私がいなくても、仕事の方は何とかなったのだろう。
ただそれでも、申し訳なさという情念は、胸の内に汚れのようにこびりついている。
……もやもやと。
漂い。憂鬱な気分にさせる。
このままここに留まって、お父様に謝罪するのもいいだろう。
けれど、自分のミスのために、彼の私生活を侵害するわけにはいかない。
何より。
『一人暮らし』を選択したのは、自分なのだ。そのように……甘えたくもない。
……明日。
明日、改めて謝罪しよう。名誉の挽回も、汚名の返上も、それからでいい。……
……
「……」
もう……
疲れた。
「……、」
翳った気持ちを小さく吐きながら、社長室から出る。
エレベーターへ向かう足取りも、いつもより重い。
その原因がどこにあるか……は……
なんだかもう。
わかりそうになかった。
……エントランスには、もう日中ほどの社員はいない。
定時を過ぎているのだから、残っているのは残業の社員と宿直だけ。
いつもと変わらぬその景色に、いつもなら特別な感情は抱かないというのに。
今日は違っていた。
先日の――出来事が。記憶が。
望んでもいないのに、目の前に、蜃気楼のように、立ち込める。
『本当に、本当にもう、レースに興味が無いの?』
「……」
『学園生活にも、誰かと過ごすことにも、意味がないって思ってるの?』
「…………」
『私たちと一緒に、昔みたいに、バカみたいなことしたいって。もう、思ってないの?』
「………………」
「……ヒスイさん?」
「!」
声が聞こえて。
ハッとなって振り向くと、そこには、社員の一人がいた。
受付を担当している女性社員だ。いつもならその顔は、見る者を安心させる優しげな笑顔に綻んでいるが。
今の表情は、それとは遠い、心配そうなそれになっていた。
「……なんでしょうか」
「あぁ、いえ。なんだか、悩んでるように見えたので……大丈夫ですか?」
「……えぇ。問題ありません。お仕事、お疲れ様です。私はこれで……」
「あ、ちょっと……」
呼び止める声を振り払い。
ビルの外へと出る。
寒いとも暖かいとも言えない風が、盛大に出迎えてくれるけれど。
解放感も清涼感も、覚えることはなかった。
心も頭も――閉塞感を、拭えない。
外に出たのに。
監獄にでも、足を踏み入れたみたいだった。
「……」
それでも、突っ立ってるわけにもいかない。
正門――出口へと、歩いていく。
そうしてちょうど、敷地外へと足を踏み出した時。
「――お」
その声は。
聞こえてきていた。
「……?」
出所は、横の方。
そちらへと、目を向けると。
「来た来た」
ちょうど――見覚えのない誰かが。
こちらへ、パタパタと駆け寄ってきていた。
「……ヒスイレグルスちゃん、だよね?」
そして、目前に辿り着くなり。そんなことを言い出す。
突然すぎる出来事に――私は呆然とするしかなかったが。
「……そう、ですが」
不用意にも、そう答えていた。
「あはは。よかった。外れてたらどうしようかと思ってたよ」
するとその人は――女性は。
より厳密には――『ウマ娘』は。
「――あのさ、」
嬉しそうに笑いながら。
言っていた。
「ラーメン、
食べに行かない?」
……その。
あまりに唐突で、不可思議な申し出に。
「は……?」
頓狂に、言葉を漏らした。
私の視線の先、彼女の頭部には――
“CB”という装飾の輝く、白いミニハットがあった。
男らしい威勢のいい声が響き渡る中で、ミスターシービーは手を合わせていた。
「――じゃ。いただきます」
「……はぁ」
彼女らが着くテーブル席には、二人分のラーメンのどんぶりがあり。
シービーは、割り箸で中を軽くかき混ぜる。
「世の中には色んな味のラーメンがあるけど、ここのは昔からずーっと変わってないんだよね。シンプルな醤油ラーメン一筋。言う人に言わせれば物足りないかもしれないけど、このシンプルさこそがいいんだよ」
それから、スープの中から麺を掬い上げると。一息に口に含み、咀嚼し、心底幸せそうに顔を綻ばせていた。
「ん~! これこれ! こういうのでいいんだよ~」
「そうですか……」
「ん?」
子供のようにはしゃぐ彼女を――対面。
ヒスイレグルスは、呆然と見守っており。それを見たシービーは、少し残念そうに眉を下げていた。
「あれ。もしかして、ラーメン好きじゃなかった?」
「いえ……そういうわけではないですが」
「じゃあ早く食べちゃいなよ。冷めないうちにさ」
「……はぁ」
実際、それは嘘ではない。脂っこいものを避ける自分ではあるが、食べられないわけではないのだから。差し出されればもちろん食べるのだが。
それでもヒスイは、目の前のラーメンを覗き込みながら、こう思わずにはいられなかった。
……なんで。
見ず知らずの人と、ラーメン食ってんだろうか、と。
ともかく、と彼女も、言われるがままにラーメンを口にする。
確かに、味はシンプルなもので、雑味も、しつこさもなかった。
故に、すぐに食べ終わる。
「――よし、ごちそうさまでしたっ」
「……ごちそうさまでした」
終始困惑しながらも、ヒスイは腕時計を確認する。時間は、六時を回ろうとしていた。
「……あの」
「ん?」
「よろしいでしょうか」
「あー、そうだね」
シービーの返事に、ヒスイは胸を撫で下ろす。このよくわからない、拉致とも誘拐ともとれる行動から、一刻も早く解放されたかった――その一心だった。
「――じゃ、『次』行こっか!」
「……は?」
が。
続けられた言葉に、彼女は、素っ頓狂な声を上げていた。
「おやっさん、ごちそうさまー!」
「おう、毎度! また来てくれなー!」
「あ、あの、ちょっと……」
「さ、次はこっちだよ!」
「あ、あの……!?」
店外へと出たシービーは、戸惑うヒスイの手を引き、どこかへと走り出す。
混乱に塗れたヒスイは、それを振り払うことも出来ず。ただただ引かれるまま、彼女の言う『次』の店へと連行される。