「――!?」
秋川やよいは、思わず身を乗り出していた。
3コーナーに差し掛かる直前。
ちょうど半分を走り終えた時。かのサファイアミザールが、急にペースを上げ始めたからだ。
その突然のペースアップで、周囲のウマ娘を一気に抜き去ってしまい。たちどころにトップに躍り出るも――
何をしている? と秋川は、思わず疑問を募らせる。
まだレースは半分も残っている。距離にして1kmだ。スパートをかけるには、まだ早い。
それも、コーナーを二回こなさなくてはならないというのに。ここで加速しては、コーナーで大きく『膨れる』かもしれないだろう。
「……あんなタイミングでスパートをかけて、大丈夫なのでしょうか」
駿川たづなも、疑問に声を漏らす。いや、良くない。良いわけがないのだ。いくら差しとは言え――仕掛けるにもタイミングというものがある。
明らかに時期尚早で、見誤っている。
このままでは『皇帝』どころか、無様な記録をそのキャリアに刻むことになってしまうかもしれない――そんな心配。
だが。
だが、彼女は減速しないまま、見るからに恐れもしないまま――
第3コーナーへと、入っていく。
ラジコンさんの理屈っぽい話を、脳裏に思い描く。
コーナーでの走り方、コース取りのやり方。
ぶっちゃけあんまりにも理屈過ぎて、ほとんど覚えてないんだけどさ。
でも、重要な部分は、なんとか忘れずに記憶の引き出しにしまってあった。
――えーっと確か。
「……」
コーナーは遠心力が云々で……
それを抑えるために内コーナーがよくて。
……あ。この辺いいな。じゃあそこを起点にして……
減速は最低限にして――
体幹をしっかり持たせながら――
「――、」
ど、
ど、
ど、
ど、
どんっ――と!
とあるウマ娘は、先頭を走るそのウマ娘の姿に、目を見開いていた。
明らかに突出し、先走っている。コーナーにも関わらず、ほとんど減速せず突入し、曲がり切る。
明らかに異様で、見るからに異常な走り方に、悪寒すらも覚えていた。
有り得ない、と。
本当にこんなのが一年目なのか、と。
彼女は自分の能力に自信があった。
パドックでさえ、ほとんど緊張感なく、余裕を持って走り終えられた。
きっと自分が先頭に立ち、ぶっちぎりで勝つだろうと、信じて疑わなかった。
だというのに――結果はどうだ、このありさま。
この無様。
未来がかかっているのに。今後が決まってしまうのに。
こんなにあっさり負けるわけには――いかない!
「――っ!」
そう思い、彼女も速度を上げる。
スパートをかけるには早いが、知ったことではない。
負けるわけにはいかない。置いていかれるわけにはいかない。遅れを取らないよう、遅れを取り戻すよう――
彼女は、一心に、その背中に食らいつく。
――はは。
嘘みたいだ。
まるで、自分が別人になったみたい。
身体が軽い。足が軽い。今ならどこまででも走っていけそう。
やっぱり走るのって楽しい。思いの限り駆け巡るって、他では体験できない高揚だ。
邪魔するものはない。止まる要因もない。
縛るものもない。咎める理由もない。
ここなら。
ここでなら。
走れる。思い切り、駆けられる。
自分の想いのまま、自分の思うがまま――
自分でいられる。
そんな気分だ――
「――はは」
口が歪んだのが分かる。
でも、それを気にもしていられなかった。
だって、楽しいんだもの。面白いんだもの。
それを隠して、何になるだろうか。
「はっ――ははははははっ!!」
楽しい。
楽しい、楽しい、楽しい、楽しい――!!
走ろう、走ろう! もっと走ろう、先へ行こう!
もうどうせだから、やろう。力の限り、出来る限り――
――あれを。
試して、みよう!!
畜生、と、かのウマ娘は歯ぎしりする。
最終コーナーを抜けかけてなお、彼女は止まらない。
あと1、2バ身ほどしかないというのに。そのもう少しの距離が、永遠にも見違えるほど、遠い。
無限であるかのように。少しも、縮めることが、出来ない。
「――っ、」
ならばせめて、と彼女はさらに必死に追い上げる。
気迫だ、存在感の勝負だ。自分が後ろにいる、少しでも気を抜けば抜かされる。
そういったプレッシャーをかけ、相手のミスを誘う。
いわゆる掛からせ、というやつだ。
――大抵のウマ娘は。自身の周囲を気にするものだ。
どれくらいのペースで走るべきか。どれくらいのペースで走らなくてはならないか。現状維持の把握に、周囲観察は欠かしてはならないもの。
先頭を走るものだからこそ、必ず、気に掛けなくてはならないもの。
だから、彼女の戦術はある意味では正しい。その圧倒的な気迫は、自身の存在を知らせるために余りあるほどのものだった。抜かせない、気を抜いてはならない――そういった思いを湧き上がらせるものだった。
ただそれは――
彼女の存在を、正確に認知していれば、の話であり。
「――!!」
刹那。
最終コーナーを抜けた瞬間。
彼女は、見ていた。確かに目にしていた。
その結果として――悟っていた。
目の前のウマ娘は。先頭をひた走る、彼女は――
左も。
右も。
後ろも。
見ていなかった。
前しか、
見ていなかったのだ。
瞬間――
サファイアミザールは、体勢を変えていた。
それは、姿勢を低く取るというもの。
姿勢を低く、前傾に取り――走るというもの。
残り500mほど。
その姿勢を取るなり――彼女の速度は。
一気に、上がり始めた。
そうして、『彼女』の走りが打って変わり――
秋川やよいは、目を見開く。
それは、その走り方が、珍しく、驚きに値するものだったからではあったが。
それ以上に。
そこに、残像を見たからだった。
彼女は見る。かつてのレースの光景を。彼女は見る。かつての競技場を包んだ熱狂を。
彼女は見る。かつてのウマ娘が。
それまでに流布されていた――常識という名の『絶対』を。
覆した瞬間を。
――言うなれば、その走り方は、異常なまでの前傾低姿勢。
見るからに危なっかしいその走り方は。
まるで。
まるで――
「……オグリキャップ、ですね」
そんな秋川の想いを継いだように。
たづながそう言う。
思わず秋川は、彼女と目を合わせ――すぐに微笑みに口元を綻ばせ、視線を戻していた。
あぁ、とそれに対し、肯定を返し、
「……懐かしいな」
その目もまた。
優しげに、綻んでいた。
実況も、歓声も、聞こえない。
周囲の景色が、飛ぶように過ぎていく。
その世界の中で、私はもはや一人だけだった。
自分だけの世界を、思うがままに駆け抜ける。
サファイアミザール、ウマ娘。
趣味――走ること。
走ることは好きだけれど、そういえばなんで好きだったんだっけ。
時が過ぎるごとに、未来を追うごとに、だんだんとその理由を忘れてしまっていた。
好きという感情だけが、心の中にぽつりと残っていた。
……あぁ、そうだ。
ようやく思い出したよ。
私がそれが好きなのは――
それが単に、
楽しいからだった。
――ゴール板はすぐそこ。
レースの終わりはすぐそこ。
姿勢は変えない、速さに恐れない。もっと速く、もっと速く、もっともっと速く――
その一心で、走り続けて――
果たして。
「――っ!」
ゴール板を通り過ぎた。
刹那――気を抜いてしまった私は。
「――んげっ」
……無様にも、そのまま前のめりに転倒してしまった。
「いったたたたた……」
びっくりするくらい不細工な声に、自分でびっくりしながら鼻を擦ると。それに合わせたように、周囲の音が復帰する。
はちきれんばかりの歓声、すっかり上がり切った自分の呼吸の音、が聞こえて……
「……、……」
……笑いながら。
仰向けになって、空を見つめた。
会場中を満たす歓声に身を任せると、込み上げてくる高揚感と、満足感。
……あぁ。やっぱり。
「走るのって……」
――最高に楽しくて。
気持ちいいな、と。
胸の中が、いっぱいになった。
「……ナイスラン、えっと……サファイアミザール?」
「?」
なんて思っていると、掛けられる声。見るとそこには、私を見下ろす一人のウマ娘がいる。
「……負けたわ。のっけからあんな走り方されたら、着いていくなんて出来っこないじゃない……」
「……え?」
「でも! きっと次は勝ってみせるわ! せいぜいその首を洗って待ってなさい!!」
「……えっと?」
「? どうしたのよ」
「えっと……」
ものすっごく勝気に、いい感じのライバルっぽく宣言してくれるのはいいのだけれど。私はそれに、思わず呆然と返してしまった。
「……どちらさまですか?」
「ちょ……!! さっきまで一緒に走ってたじゃなーいッ!!」
どうやら、二着の人らしかった。私はその絶叫に……苦笑いを、浮かべるしかなかった。
『着順確定しました! 一着は八番、サファイアミザール、二着は四番、トキワエレメント――』
「……」
目の前で起きた出来事に、秋川やよいは思わず苦笑いする。
展開はあまりに奔放、その上、例の記録には及ばないものの。
彼女の叩き出したタイムは――十分称賛に値するものだった。
何より、最後に見せたあの走り方――
――狂言だと思っていた。口から出任せだとも考えた。
だが終わってみれば、そこに信用に値する証拠を突き付けられていた。
面白くなりそうだ、と考えさせるほどのものを。
そこに、見せつけられていた。
なるほど。
確かに、これは――
「――ん?」
と、秋川が納得しかけた時。彼女の所持する携帯電話が鳴動する。
取り出してみると、画面上には簡素なゴシック体が並んでいた。
非通知、と。
「……秋川だが」
訝しがりながらも、彼女はその電話に出る。すると聞こえてきたのは――
『これで納得いただけたのではないでしょうか?』
聞き覚えのある。
あの声だった。
「! 君は……!」
『それではこれより、我が担当の邁進をご覧いただきましょう。理事長にはくれぐれも、優しく見守っていただきますよう』
「待て! 君には色々聞くことが――」
『では』
ぶつり、と通話は途切れる。ほぼ一方的なその内容に、彼女は思わず、真っ暗になった画面を見つめる。
「り……理事長? 大丈夫ですか?」
「え……あ、あぁ。うむ、平気だぞ」
心配そうに問いかけてくるたづなに、秋川は飽くまで平静を装って答える。
そう。もちろん、目の前でこのようなレースを見せつけられたのだ、認めるつもりではあったが。
頭の中には、依然として、如何ともしがたい違和感が残る。
それは自分の深層に眠る記憶を擽り、嘲笑うかのようにぼんやりと浮かんでは霧散していく。
糞、と秋川やよいは、やや乱暴に携帯電話を仕舞った。
――思い出せない。
君は一体。
どこの何者なのだ――と。
『――今日ここに集った誰をも驚愕させる圧倒的な走り! これは今後の活躍に期待が出来そうです! 他惜しくも一着を逃したウマ娘も――……』
「……」
薄暗く無機質なその部屋で、歓喜に湧く音を聞きながら、男は立ち上がる。
一連のやるべきことを終え、その足取りは、別の部屋へと向く。
扉を開けた先、そこは、狭く、家具も調度品も置かれていない、がらりとした部屋だった。
正面の壁には――
一枚の写真が、セロハンテープで張られている。
「……ようやくだ」
部屋の中で、男は呟く。
「これでようやく、始められる」
その視線は、貼られた写真へと向けられていた。
そこに写されているのは――一人の少女。
明るい茶髪が眩しい、優雅な服装の、一人の女性。
――日本一のウマ娘養成学園の、現理事を務める人物。
その顔は、自信満々に綻んでいるように見えるが、本当にそうであるかはわからない。
なぜなら――その顔を、覆い隠すように。
――太く、黒いバツ印が、書かれていたからだ。
「……秋川やよい」
男の声が、低くなる。
まるでそのまま、写真を破壊せんとしているようだった。
「俺は……」
その、明らかに怨嗟と憎悪に塗れた声を、少しも隠そうともせずに。
言った。
「……お前を絶対に許さない」