サファイアミザールは、グラウンドで柔軟体操をしていた。
気だるげな風ではなく、むしろやる気と元気に溢れているように見えるが、額には冷えピタシートを貼り付けている。
少し遅れてやって来た担当は、その姿を見て、複雑な心境になった。
果たしてこれは――どう捉えるべきなのかと。
一応、事前に連絡は取っていた。今日はトレーニングは出来そうなのかと。彼女は、LANE上では大丈夫です、と答えていた。
しかし実際に見た姿は――どうにも判断に困るそれ。
本当に体調は万全なのか。
それとも、無理を押してきているのか。
「……なぁ」
声を掛けると、ミザールは彼に目を向ける。
「大丈夫なのか?」
「……」
続けられた彼の問いかけに。
彼女は不敵に笑う。
それから、冷えピタシートを剥がし、ぐちゃぐちゃに丸めると。
それを――担当に投げつけていた。
「――全快ッ!」
そして。
腰に両手を当て、どーん……とばかりに、胸を張り、宣言していた。
「……」
誇らしげな彼女だったが。
担当は、地面に落ちた、丸められた冷えピタシートを拾い上げると。
「――これ投げる必要はねーだろ!」
既に砂に塗れてしまったそれを、ミザールに投げ返していた。
受けたミザールは、それを拾ってポケットにしまう。その表情には、困ったような笑いが浮かんでいた。
「ごめんなさい……なんかこういう感覚、久々で」
「つっても一日ぶっ倒れてただけだろうが」
「体感一年経ったような気がしてる!」
「タイムマシンかよ」
ともあれ――一日、しっかり休んだことで、体調がすっかり戻ったことを確認し、担当は一安心する。
ならば――と、今日のトレーニング方針を伝えようとするが。
「それで、あの……」
目の前にやって来たミザールは、先に声を掛けてきていた。
「ちょっと相談があるんですけど」
「なんだ。お友だち作戦のことか?」
「えっと……それもなんだけど。あの……」
彼が答えると、ミザールは、やや視線を伏せて言っていた。
「……私、」
躊躇いがちに。
しかし――明確に、意を決して。
「三冠――諦める」
諦める。
冷静に考えた時、それは私には『逃げ』のように映ったけれど。
あの時――シービーさんが言ったことにも、一理あった。
有マは簡単に出られるものじゃない。
その足掛かりとして……と三冠路線を考えた私たちだけど、その大きさを侮っていた。
それは足掛かりじゃない。
通過点でもない――れっきとした目的だ。
だからといって手を抜くつもりはなかった――でも、手を抜くつもりがなかったからこそ。
自分のキャパシティを越えてしまった。
自分が許容できる範囲を、完全に見誤ってしまった。
これまでいろんなことがあって……
その全てが、なんだかんだでどうにかなってきたから。
自分が、無敵の英雄か何かと勘違いしていたのかもしれない。
……私は無敵じゃない。
今までは、みんなの支えがあったから、たまたまうまくいっていただけ。
その本質は……一人で無理に抱え込めば、許容量を超えてしまえば、必然、もろくも崩れ落ちてしまう。
ありふれた――どこにでもいる。一人のウマ娘。
一人の、少女なのだ。
「……」
……それを思い知った。
昨日、朦朧とする頭で。
歯痒さと悔しさ。でも、納得感と、諦観。
そういう色々の感情が、行き交って、ぶつかり合って、綯交ぜになって、混沌とした色合いを呈し。
でもしっかり噛み締めて、飲み下して、考え直した――結果として。
その結論に。
至っていた。
「……」
トレーナーさんにとって、その話は予想外だったのだろう。
意外そうに目を丸くし、しばし無言でいたけれど。
「……いいのか?」
試すように、言う。
「今からやれば、まだ間に合うかもしれん。間に合わないにしても、いい経験になると思うぞ」
「……うん。私も、そう思う。でも思ったの。やっぱり……無理して、全部を台無しにしたくない。ちゃんと自分のやりたいこと、叶えたいことに……狙いを澄まそうって」
そして、そう考えた時。
私の中で、絶対に叶えたい、と望む夢は……やっぱり、ひとつだけだった。
「でも……」
でも、かといって。
それのために、だらだらやるつもりもない。
「でも、時間は有限。私たちが挑むとしたら、来年の有マしかないと思う。そのために……今年の『あの子たち』のメイクデビューには、なんとかして間に合わせなくちゃ」
だから……
だから。
「……六月の頭」
考えに考え、悩みに悩んだ、その結論を。
彼に、言った。
「それまでに集まったメンバーで……有マに行く」
「――つまり」
トレーナーさんは、その真意を瞬時に汲み取ったみたいだった。その声色は、なおも真剣で、試しているかのようなそれ。
「全員集まらなくてもいい、と」
「……」
……それは。
諦めじゃない。
手を尽くして、尽くし切って、私がもぎ取った結果なのであれば。
私はそれを――甘んじて受け入れよう。
自分の出来る、限界だと。
納得しよう。
「――はい」
それもまた。
勇気、でしょう?
「大丈夫」
そう。
それに、大丈夫だ。
「今生の別れってわけじゃないもの。会いたくなったら……また会いに行けばいい。それにレースだけなら、いつでも出来るしね」
そう、ただ走るだけなら、バカやるだけなら、いつだってできる。
舞台が小さくなるのは、残念だけれど。ただそれだけだ。
会おうと思えば――きっと。
いつでも、また。……会えるんだから。
「……うん。大丈夫!」
「……そうか」
トレーナーさんは、それで納得してくれたのか。微笑みを以って応じてくれる。
何気に、レアな表情だった。
「わかった。じゃあそれまでは、公式のレースも見送ろう」
「はい。ありがとうございます!」
「ただ当然、トレーニングは欠かさないし、その分、レースも『観る』からな。そのつもりで」
「はい!」
「よし」
一段落して。
彼は、先の真剣な表情に戻ると。それで、と言葉を繋いでいた。
「ヒスイはどうする。そうは言っても、足掻くつもりではあるんだろ」
「……はい。手段は考えてあります」
私は、それに答える。手段。それもまた、決心と共に、考えてはきた。
「あの子を――
「一緒に走る……ってことか?」
「はい。それで……思い出させてあげるんです。楽しいことを」
――私たちは。
「私たちは……それに従っていいんだ、ってことを」
「……けど、本当に参加するのか?」
ただトレーナーさんは、それに関しては納得し切れないようで、怪訝そうに問いかけてきていた。
「頑固者なんだろ。簡単に来てくれるとは思えないが」
「来ますよ。……きっと来ます」
それに応じながら思い出すのは、過去のこと。
あの田舎町で、散々繰り返した、『スポーツ』のこと。
『かけっこ』のこと。
……『遊び』のこと。
そして、それにムキになって、何度も何度もやり直しを要求することもあった、ヒスイちゃんのこと――
「……あの子は……」
「――負けず嫌いだから、でしょ?」
その先を言っていたのは。
私ではなかった。
言葉と共に。
ガッ、と、肩を組まれる。
「――! シービーさん!」
「ごめんね。『楽しそうな』話が聞こえてきたから、来ちゃった」
「……俺も認識出来なかったんだが。どういう近づき方だよ」
確かに。トレーナーさんも、一言も彼女の存在に触れなかった。私はともかく、私の周囲が見えていた彼でさえ、欺くとは。一体どういう走り――もとい歩きなのか……
いや、というか。
それよりも。
「……なんで、わかったんですか。負けず嫌いって」
「ん? んー、まぁ」
離れたシービーさんは、私の問いかけに、しばし意味深に黙り込んだ。
「……昨日会ったから」
「へ!? 会ったんですか!?」
「うん。まぁ個人的に、色々思うとこあってね」
驚く傍ら、ただ、と彼女は言葉を繋いでいた。
「ちょっと、酷いこと言っちゃったから。謝りたい気持ちがあるんだよね」
「……ってことは」
「うん。あの子を誘う役目――アタシに任せてくれない?」
どういう目的で、どうやって会って、何があって、謝らないといけないようなことになったのか……
色々訊きたいけど。根掘り葉掘り訊ねたいけど。どうやら今は、そのタイミングじゃない。
「でも昨日の感じだと、アタシじゃ、ちょっと押しが足りなそうなんだよねぇ」
と、そこできょろきょろと辺りを見回すシービーさん。
「誰かいい感じの子は――」
「――おっし! 一番乗りー!」
その時、グラウンドに、威勢のいい声が響いていた。見ると斜面の上、短めに切り揃えられた茶髪に、ボーイッシュな笑顔が見える。
ウオッカさんだった。
「おーい、早くしろよ新人ー! 間に合わなくなっても知らねぇぞー!」
「――す、すいません! 靴紐がほどけて……!」
ウオッカさんは、そのまま背後へと振り返って、誰かへと呼びかけ。
それに、もう聞き慣れた、綺麗な声が答える。
「っていうか速過ぎっすよ……廊下は走らないルールとか無いんすか?」
「うちの校則は、『静かに走る』だからな。走っちゃいけないなんて誰も決めてないぜ!」
「屁理屈じゃないっすかねそれ……」
「――ちょうどよかった」
ウオッカさんの背後――
現れたのは、赤髪。
カペラちゃんの姿を見て――
シービーさんは、素早く動いていた。
「みんな来るまで、まだ時間かかりそうだな。おし、じゃあウォームアップに――」
「ごめんねウオッカ」
彼女は、斜面を上がったかと思うと。
ガッ、と、今度は、カペラちゃんと肩を組み。
「この子、ちょっと借りるね!」
「――は? え!?」
「あ、シービーさん……」
……なんて。声を掛けようとしても。
時すでに遅し、だった。
「――なぁんなんだよぉぉぉぉぉっ……!?」
カペラちゃんの、哀愁漂う絶叫が。遠ざかっていた。
「……」
「……」
「……」
正しく、嵐のようで。
取り残された私たちは、呆然と立ち尽くすしかなかった。