線香の香りがあたりに漂い。
上品な『りん』の音が鳴る。
サファイアミザールは、仏壇の前に正座をし。
そこに置かれている、優しげな表情を浮かべている男性の遺影に、恭しく目を閉じ、手を合わせていた。
その傍ら、ちゃぶ台の前に座ったタマモクロスは、横目でその様子を観察する。
胸が締め付けられるような、心臓を握られているかのような息苦しさの中、ちゃぶ台に、三人分の湯飲みとちょっとした茶菓子が置かれていた。
「つまらないものですけれど……」
「あ……いや。全然」
同じように落ち着いた教頭に、タマモクロスは慌てて手を振る。それから、慎重に言葉を選びながら、言う。
「亡くなられ……とったんやな。その、校長先生……」
「えぇ。つい数年前にね」
言葉を受けた教頭は、視線を落とし、郷愁に近い情念の灯る瞳で答えていた。
「持病でね……ある日突然倒れたの。すぐに救急車を呼んで、緊急手術を受けたんだけど。時既に遅しで……」
「そう……やったんやな」
「――もー、あの人ったらね。だからお酒も煙草もほどほどにしなさいって言ってたのに」
漂い始めた、薄暗い空気を追い払うかのように、教頭は気丈に振舞う。
「あと……あと数年、生きていれば。こんなに立派に育ったあの子を、見られたのに」
「……それは」
「買い被り過ぎですよ、教頭先生」
答えに窮し始めたタマモクロスの傍に、サファイアミザールが座る。
「私はまだ……何にも出来てません。レースだって、重賞は勝ててますけど、それだけです。まだまだ立派には、程遠いですよ」
「もー、謙遜しちゃって。観たんだからね? かの『皇帝』と渡り合ったところ。凄かったんだから、こっちの盛り上がりも」
「げ……あれ、全国ネットで流れたんですか」
「そりゃもちろん。あの『皇帝』が一年ぶりに走ったのよ? 流さないわけないじゃない!」
恥ずかしそうに頬を掻くミザールに、教頭は慈愛の表情を浮かべていた。
「まさか、発端になったあの人から……指導を受けてるなんてね」
「な、なんでそんなことまで知ってんですか……」
「おばちゃんの情報網、あんまり嘗めない方がいいわよ?」
「……えと」
サファイアミザールは、言葉を探す。彼はかつて、あれだけのことをしでかしたのだ。世間の心象は十人十色。
でも、あの人も、根っからの悪人ではないことがわかった。信頼に値する人物だと分かった。それを証明するための、説得力ある言葉を、自分の語彙の棚から必死に探す。
「大丈夫よ、私も信じてるから」
が、そんな彼女の心情を見抜いたかのように、教頭は言っていた。
「信じ続けたあなたは裏切られたかもしれないけど、それも乗り越えて信じる道を選んだ。それならその信頼は、何よりも確固たるものになるでしょう」
「……だといいですね」
「次裏切ったりしたら、私がとっちめてやるわ」
怖い、と思うミザールの傍ら、タマモクロスも、思わず苦笑いしていた。
「さて、それで――」
と。そこで、教頭は改めて話の口火を切ろうとする。
いよいよ、と気を取り直す二人――だったが。
「?」
居間と繋がる障子が、唐突に開いていた。
「――お袋ー、誰かいるの……」
そこから顔を出したのは。
黒髪を短く切り揃えた、見知らぬ青年。
「あら、あんた起きてたの? それなら言いなさいよ、お客様も来てるのに」
「あ、あ、えっと……」
「あー……は、はじめまして?」
「――っ」
彼は。
ミザールとタマモクロスの顔を、交互に見ると。
見る見るうちに、その顔を赤くし。
「――ごめんっ、用事思い出した! 行ってくる!」
「あ、ちょっと!」
教頭の呼びかけも虚しく。
そそくさと、その場から立ち去ってしまっていた。
瞬時、かつ慌ただしいその行動に、一同は、残された寂しげな静寂に包み込まれる。
「――もう、あの子ったら」
「……息子さんですか?」
呆れたように息を吐く教頭に、ミザールが問いかけると。彼女は、えぇ、と頷いていた。
「ははは……あないにバケモン見るような反応せんでもえぇやんなぁ」
「驚いた、っていうより、恥ずかしがってた感じですけどね」
「そりゃそうよ。あの子、あなたのファンだもの」
「タマちゃん先輩のですか?」
ミザールがそう問いかけると、教頭は、しかし首を横に振っていた。
「あなたのよ、ミザールさん」
「――え?」
予想外の答えに。
今度は、ミザールが動揺する番だった。
「え……え? わ、私のファン……?」
「そ。あの子、最近までずーっと大学行くの行かないので燻ってたんだけどね。例の『皇帝』とのレースを見てから、なんだか吹っ切れたみたいでね。結局近所の大学に入って、今はばりばり頑張ってるのよ」
「そ……そうなんですか……?」
そんなミザールに、教頭は、可笑しそうに笑いながら続ける。
「……あなたは、自分が大した存在じゃないって思ってるかもしれないけれど。あなたのその走りは、姿は。確かに観ている人に変化をもたらしているわ」
未だ納得いかなげな彼女に。
言い聞かせるように。
「もっと、自信を持っていいのよ」
「……え、えーっと……」
「こういう時くらい、素直に受け取っとき」
おどおどしているミザールの背中を、タマモクロスは強めに叩いていた。
「ウチを差し置いてファンになられとるんや。誇らへんとウチが怒るで」
「……」
驚いてタマモクロスを見るミザールだったが。
その頭の中に、ある一つの推測が浮かんでいた。
「……タマちゃん先輩」
「ん?」
「嫉妬してます?」
「しとるわ! 後輩に先越されてんねんぞ! ウチこれでもシニア級やっちゅうのに! なーんか釈然とせぇへんわぁ!」
「大丈夫よタマモクロスさん!! 私がその分応援するから!!」
「おう! おおきにな!!」
あ、そこは素直に感謝するんだ、と、勢いのままに感謝を述べたタマモクロスに、ミザールは笑っていた。
「……さ、じゃ、気を取り直して」
そして。
その一連のやり取りを終えて。教頭は、姿勢を整える。
「そろそろ、本題に入りましょうか。……コハクさんのことについて」
刹那、ざわざわと、中庭の木々が揺れ動く。ミザールは、固唾を呑む。
「しかし……何から話すべきかしらね」
「何でもいいんです。どんな些細なことでも……今は、手掛かりも何一つない状況なので」
「そう。それなら……最初から、順を追って話すわね」
教頭は、そこで目を閉じる。中庭に響く木々のざわめきに耳を澄ますように、しばらく間を置いた彼女は。
「……正直な話ね」
目を開け。
ぽつりぽつりと、話し始めていた。……