蒼の彼方のフォーリズム√乾 沙希   作:amaあま雨音

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1話

 

 

 

 

 小さかった頃は無敵だった。

 何にだってなれると思っていたし、誰にだって勝てると思っていたし、どこにだって行けると思っていた。

 この世には無限の世界が広がっていて、俺はちょっと背伸びするだけでそこを見ることができた。空に、手を伸ばすだけで。

 小学校に入って何度目かの夏。俺は空を飛ぶための翼を手に入れた。

 これまでは手を伸ばしても届かなかった空の尻尾を掴めたように思った。

 小さかった頃に見上げた空に、一番近くに居るのが自分だと思っていた。

 これがあればどこへも行ける。誰よりも彼方へ行けると……。

 

 だから、その時が来た時俺は本当に何も見えなくなってしまった。

 前に誰も居なかった筈なのに、そこに『誰か』が居た時。

 いける筈だった彼方が、遠く先へとかすんで消えてしまった時。

 もうそこには、俺が居る場所は存在しなかった。

 彼方にあった筈の蒼の世界は、俺のものではなくなってしまった。

 伸ばした手は空を切り、掴んだ掌の中には何もなかった。

 だから俺は……日向昌也は……、

 

 がばり、と掛け布団を跳ねのけて起き上がる。

 

「夢……」

 昌也が時計を確認すると丁度8時を回った所だった。

 洗面所で歯を磨き、髪を梳かしてから朝食に食パンを齧りつつ制服に着替える。

 自宅の玄関を開け、空を見上げ呟く。 

「今からだと走っても間に合わなそうだな」

 __本当は、あまり普段使いしたくないんだけど。

 しかし、今日遅刻の生徒を待ち受ける門番をしているのはあの各務先生だ。

 各務葵、昌也のクラスの担任である彼女が当番の日に遅刻してしまった生徒は先生独自のネットワークを駆使して集められた黒歴史的な日記・イラスト・歌ってみた系動画。それらがクラスメイトの前で公表されてしまうと言われているあの各務先生。

「周りは……大丈夫だな」

 停留所についた昌也は念のために飛行経路を確認し、周囲の様子を目視する。

 __よし、飛行禁止のランプも点いてない。

 昌也はそれらのことを確認してから呟いた。

「FLY!」

 その起動キーによって起動したアンチグラビトンシューズ……通称グラシュが反重力子の出力を上げ、反重力の膜、通称メンブレンが昌也の身体を包み込み空へと持ち上げてていく。

 高く飛びあがった身体が初夏のぬるい風をかき分けて行く感じは少し心地が良い。

 __それにしても遅刻しそうだから空を飛んで学校に行く、なんてよくよく考えたらおかしいよな。

 昌也はそんなことを考えた。

 日本の南、南洋の更に南に位置する四つの島からなる街、四島市。

 人口五万人の地方都市であるこの街は一見するとただの田舎町に見える。

 しかし、ここは現在日本の中においてある種『異世界』といって差し支えない程変わった光景が広がる場所となっていた。

 反重力子の発見により発明された、夢の空飛ぶ靴、アンチグラビトンシューズ。

 通称『グラシュ』。

 羽も使わず、エンジンも使わず身体能力のみで飛ぶことが出来るこの靴は人間に新しい視界をもたらした。

 空港法との兼ね合いにより未だ民間レベルでの自由仕様には制限が多かったが一部地方都市では実験的に使用が解禁されていた。

 そのうちの1つで、全国的にも最もグラシュの仕様が多いと言われるのがここ四島市なのだった。

 その利用は若年層を中心に全世代にわたって広がっていた。

 仲でも、学生の利用率は非常に高く、四島の中のひとつ、ここ久奈島においても日常的に通学の手段として利用されていた。

 空を進んで少し、前方に昌也と同じ久奈浜学院に通う制服の生徒がぽつぽつと見えて来た辺りで思考を中止する。

 眼下の小さくなった街の建物や木々、そして真っ青な海を見納めするかのように視線を向けてから着陸態勢に入る。

 あの時と同じ、蒼い空が今日も遥か彼方まで広がっていた。

 

「あと5秒! 4、3、2、1……」

 校門の方から遅刻の門番をしている各務先生のカウントダウンの声が聞こえてくる。

 それを耳の端に捉えながら速度を弱め、俺は学校の停留所へと降り立った。

「はあ、何とか間に合ったか」

 昌也は安堵の溜息を吐きつつ教室に入り自分の席についた。

「今日は珍しいじゃん、空から来るなんて」

 唐突に現れたクラスメイト。

 長く綺麗な黒髪の気だるげな女子、鳶沢みさき。

 席が近いのと一年の時にクラスが同じだったことでなんだかんだ良く喋ってる。

「おはようみさき。順番逆だろ。まずは挨拶だよ」

 昌也がクラスの女子の中でも名前を呼び捨てにしてるのなんてこいつぐらいだ。

 __しかし、よく見てやがったな。

「ん。おはよ~」

 ぽやっとした顔でひらひらと手を振る。

 みさきは低血圧のせいか朝は弱く挨拶にも張りが無い。

 そんな他愛もない朝の挨拶をしていると担任の各務先生がやってくる。

「はいはい、全員早く席に着きな」

「やば、じゃあね昌也」

 そう言って蜘蛛の子を散らすように着席するクラスメイトの中にふらっとみさきも混ざる。

「おはようみんな。今日は爽やかな朝だな。さて、本日の連絡事項だが……新学年早々新しく仲間が増えた。来い、倉科」

 各務先生が廊下に向かって声を掛ける。

 すると教室の扉を開いて、女の子が入って来た。

 少し緊張した様子だったが、それ以上に元気な声色で彼女は言う。

「倉科明日香です。内地の方から来てまだよくわからないことも多いですが是非色々と教えて下さいね!」

 長い髪の毛をサイドで結んでいて、容姿は昌也から見てとてもかわいらしく見える。

 転校生か。昌也はボケっとそんなことを思い、さっきのみさきとの会話を反芻する。

 __俺が空を飛んでいるのは珍しい、か。

「えー、と言うわけで今日からこのクラスに入る倉科明日香だ。みんな、よろしく頼む。それから学年が新しくなってもう2週間だ。委員会や部活など、新しいことを始める者はきちんと申告するように」

 __小さかった頃に見上げた空、いちばん空の近くにいるのが自分だと思っていた。……そう信じていた筈だったんだけどな。

 そんなことを考えていると授業は全く頭に入ってこず、昌也の耳を右から左へと通り抜けて行った。

「昌也ー! 放課後だよっ放課後!」

 みさきの無邪気な声に昌也の意識が現実に引き戻される。

「……知ってるよ」

 もうそんなに時間が経ってたのかと内心驚きながらもさも当然という風に昌也は返す。

「あー、やっと、やっと今日がはじまるんだー。何しようか何食べようか無限の可能性が私を襲うよ!」

 みさきが大げさすぎるくらいの動きを伴いながらそんなことをのたまう。

「襲われるのか。っていうかみさき、いつもものことながら朝とテンション違いすぎるだろ」

 テンションどころか人格レベルで心配になる。朝の低血圧を考えると、血管が切れるぐらいに血圧が上昇してるのかもしれないな……。

「まー、みさきの豹変ぶりは確かにすごいよね。友達やっててちょっと不安になるレベルだもの」

 昌也とみさきの会話に入ってきたのはクラスの青柳窓果。

 みさきの友達で昌也とも普通に話す子だが、こちらは打って変わってまともな人間である。

「窓果もそう思うか」

 昌也が頷きながら言う。

「思う思う。最初はこの子絶対、午前と午後で双子が入れ替わってると思ったもん」

 するとその会話を聞いていたみさきがむっとした顔で言う。

「人を心の病気みたいに言わないでよ」

 昌也は少し呆れた風に言った。

「そう言いたくもなるって。実際二重人格を疑われる変わりっぷりだぞ」

 みさきが手を前にだしぶんぶんと振る。

「や、私は自分に正直に生きてるだけだよ」

「なんか一周して羨ましいな」

 昌也はそう言ったあと、本当に羨ましいなと、少しそう思った。

「昌也は朝より暗くない?」

 少し自分の世界に入り込んでいた昌也にみさきが話しかける。

「俺も自分に正直なだけだよ」

「乗るよ相談? 料金はうどんいっぱい!」

 そのうどんいっぱいは一杯なのか、いっぱいなのか。

 と昌也は少し思案して、どうでもいいかと別れの挨拶を投げかける。

「じゃあなみさき。また明日」

 クラスメイトとの楽しい会話はここまでにして帰宅する。

 かと言って家に帰ってもやることと言えば精々宿題と、今日の授業の復習と次の授業の予習ぐらいなものの悲しい青春なのだが。

 学校の門をくぐり、朝とは違い歩いて帰る。

 見上げた空にはグラシュを使って飛んでいく生徒たちがカーテンのように空を覆っている。

 ゆっくりと坂を下る。

 徒歩の生徒は辺りに全く見えない。

 下り坂を歩く昌也はぽつりと、先ほどのみさきたちとの会話を思い出す。

「俺も自分に正直なだけ、か」

 一陣の風が吹き昌也の首筋をくすぐった。

 その感触に戸惑うように昌也が首の後ろに手をやる。

 今朝も感じた、もう久しく忘れていた感覚。

「俺、まだ本当は空に未練があるのかな」

 坂の下にある商店街の家電量販店の薄型テレビから歓声が響く。

 どうやら情報番組の特集でフライングサーカスについて紹介しているようだ。

「という訳でフライングサーカスのVTRでした、先生、これはどういったスポーツなんですか?」

「はい、フライングサーカスは浮標、通称ブイに囲まれた一面300メートル四方の海上で行われるスポーツです。一対一で争われて、10分の制限時間内により多くの得点を得た方が勝ちです。得点の方法は2つ、相手の背に触れるかもしくは4つのブイに順番にタッチしていくか。この時、相手より遅くブイをタッチすると得点できません、ですから……」

 海の上のフィールドで得点を奪い合う選手を傍目に昌也の思考は奥深くへと潜って行った。

 

 __昔、ジュニアの頃だ。

 FCをやっていた頃俺は女の子みたいに髪を伸ばしていた。肩くらいまではあった。

 髪がメンブレンに張り付くような感触やそこから剥がれ靡く感触が、首筋が髪でくすぐられるような感触が、俺は好きで。

 ここがくすぐったい時はFCをしてる時だから。FCをするのが好きだった。

 試合が面白かったし、練習も面白かったし、飛ぶことが面白かった。……FCの全部が面白かった。

 面白いだけじゃなくて、俺は無敵だった。負けたのは初心者の頃だけだ。途中からは負けることなんか少しも考えなかった。

 勝って、勝って、勝ちまくった。自分の思ったような勝ち方が出来なかったという理由で、悔しくて泣くようなガキだった。

 でもある夏の日、俺は決定的に崩れた。

 俺の不安が、恐怖が、俺の目の前に実体をもって現れたあの日。

 俺は、俺が空を飛ばなくてもいいんだって、俺である必要なんかないんだって思った。

 だから俺は空に背を向けた。FCを、やめた。

 でも、本当に?

 今では思う。

 ただ俺はプレッシャーに押しつぶされただけなんじゃないのか?

 風に遊ぶ襟足を、そっと首筋に押し当てる。

 テレビのアナウンサーの甲高い嬌声によって昌也の意識が現実世界に呼び戻された。

 どうやら情報番組のFCの特集はとっくに終わってしまったようで今では四島のグルメについての実況が始まっていた。

 

 

 その日は食欲も湧かず、軽めに夕食を済ませた後はずっとベッドの上でごろごろしていた。

「って言っても、な。もう何年飛んでないと思ってるんだ」

 よっ、と勢いをつけ寝転がった状態から立ち上がる。

 そしておもむろに棚の引き出しのガラクタの山の中からもう長いこと開けてない箱を取り出した。

「ちょっとホコリっぽいな……」

 軽く掃除して箱を開ける。

 すると中からは真っ白のボディに緑のラインの入った競技用のグラシュが姿を現す。

 かつて大流行したモデル、飛燕の1型だ。

 そのグラシュには昌也のコーチをしてくれていた葵さんの書いたサインと、大切な誓いの言葉がそれぞれ刻まれていた。

 あの頃から比べると性能も大きく向上し今では時代遅れのシューズだ。

 何より昌也の靴のサイズも変わってしまい、いろんな意味で履けなくなってしまった。

 そんな風にしんみりとしていると昌也の腹が切ない叫び声をあげた。

「……コンビニでも行くか」

 夜道を歩くこと十数分。

 幾ら四島市が田舎とは言えコンビニくらいはある。

 話に聞く都会のように交差点毎にコンビニが並ぶ、というようなことは無いが……。

 昌也は少し行儀が悪いと思いながらも先ほど買ったホットスナックの封を開けかぶりつく。

 買ったのは手書きのポップで紹介されていた病みつきになるらしいフライドチキンだ。

 夜風に当たりながら、ふと何かを思いついた昌也は自宅を通り過ぎて海を目指して歩きだす。

「そう、確認してみるくらい良いよな」

 俺は本当に空が、FCが嫌いになってしまったのか?

 もう本当は大丈夫なんじゃないか? 試してみてもいいんじゃないのか?

 昌也が今日そう思ったのは事実だったが、とてもじゃないが言い出せなかった。

 皆の期待を、空に背を向けた自分が気まぐれにそんなことを思ってしまったなんて言える筈がなかった。

 もう昔のように空を飛べないんじゃないかと、全くダメになってしまって皆をがっかりさせるんじゃないかと。

 それが不安で、怖くて、確かめるために飛ぶことすら怖かった。

 でも、夜なら。誰も見ていない今なら少しくらい本気で飛んでも大丈夫な気がしたのだ。

 そうして昌也は自宅からほど近い海岸近くの公園を目指す。

 この辺りは崖になっていて人目に付きにくいため補導の心配が少ないのだ。

 とは言え自分に言い訳できない状態で、自分の意志で今から飛ぶのだと思うと公園への階段を登る足が竦む。

 __ここまで来て流石にそれはないだろ!

 昌也は心の中で自分を一喝し、公園の階段の最後の一段を登り切る。

 そして安全を確認するため周囲を見渡し……、

 空に輝く燐光を目にする。

 これはグラシュが放つ反重力の軌跡、コントレイルだ。

 夜空に淡く緑色の光を放つそれは誰かが空に居ることを示していた。

「こんな時間に先客か……」

 緑のコントレイルの軌跡を目で追う。

 その先には、月明りに照らされた人影が一つ。

 澄んだ銀色の髪と透明感のある整った顔の女の子がいた。

「外国の……子? ではないか」

 雰囲気から一瞬そうかと思ったけれど女の子が公園に一番接近した時に目を凝らしてよくよく見れば日本人の顔だった。

 そしてそれ以上に飛行姿勢がとても綺麗だった。

 昌也が推測するにFCの選手といったところだろうか?

「まぁ、先客が居るんじゃ仕方ないか」

 そう言いながらも昌也は中々その場所を離れられなかった。

 名前も知らない女の子があまりに一心不乱に飛び続けているから、知らず、目を離せなくなってしまったのだ。

 ローヨーヨー、ハイヨーヨー、シザーズ。

 どれもFCの基本的な技だがそのどれもが驚くほどの完成度。

 それに、ここでブイにタッチ、という所で綺麗に止まるものだから昌也は夜空に架空のブイを見てしまった。

 それほどまでに女の子の飛び方は綺麗で、研鑽の跡がはっきりと見えた。

 __案外タイム早いんだな。

 思わず昌也がそう思ってしまうほどの早さ、恐らくスタイルはスピーダーだろう。

「って、見惚れるのも程ほどにしないとな」

 今は良いが、もし女の子が昌也の存在に気が付けば怖がらせてしまうかも知れない。

 それに初夏とはいえ夜はまだ肌寒く、シャツ1枚だと少し寒い。

 身体が冷える前に家に帰ってしまおう。

 そう思った昌也は家に向かって踵を返そうとするが、違和感に気づく。

 何かがおかしい。

 それに今まで綺麗だった彼女の飛行姿勢が崩れてしまったのだ。

「……なんだ?」

 疲労か?

 もう随分続けてる様子だしそれは充分に考えられたが、それでもおかしい。

 昌也は目を凝らす。

 するとようやくその違和感に気づく。今までその光を放っていたグラシュの反重力子の光が弱まっているのだ。

 グラシュは2つの反重力装置だと考えられがちだが、実は反重力子の仕組みで装置を2つ近くに置く事はできないため2つで1つの反重力子の膜、メンブレンを形作っている1つの装置なのだ。

 つまりどういうことかと言うとどちらか1つのシューズが故障したからと言ってもう片方が健在ならば突如にバランスを崩し墜落するという事はないのだ。精々出力が落ちる程度である。

 しかし、稀にあるのだ、シューズが偶然、同じタイミングに故障したり、電池残量の警告音に気づかず充電切れしてしまう事で起こるグラシュでの墜落事故が。

 それに思い至った時、遂に女の子のシューズから放たれる反重力の光が明滅をはじめ、真っ黒な海へと緩やかに落下し始める。

 __充電切れの方か!

 昌也は慌てて起動キーを口にする。

「っ! FLY!」

 彼我の距離は凡そ150メートル!

 重力の力を借りたとしてもこの汎用グラシュでどれだけのタイムが出せるか。

 昌也は今女の子が居る位置より少し下にブイがあると想定、空気抵抗を極限まで少なくなるような飛行姿勢を維持し直進する。

 __5、6……。

 目の前の女の子は何とか落下の対策をしようと試行錯誤をしているようだが、もうグラシュも反応を示さないようで薄くなっていくメンブレンををどうにもできないようだった。

 __7、8……。

 後少しで女の子に手が届くという所で彼女のグラシュは完全に沈黙、墜落を始める。

 海面までの距離およそ50メートル、相対速度を加味するとこの汎用グラシュには限界を超えて貰う必要がある。

「いっ……けぇぇぇぇ!」

 雄たけびを上げる。

 必死だった。

 多分昌也はジュニアの時の世界大会でも今ほど真剣にもっと速くと思ったことは無かっただろう。

 そして、そんな昌也の想いに呼応したのか、昌也が通学に使うローファー型の汎用グラシュは見事カタログスペック以上の速度を絞りだし、女の子を少し乱暴に受け止める事に成功した。

 白波から顔を覗かせる暗礁との距離はそれこそ1メートルも無かっただろう。

「間に……合ったぁ……」

 受け止めた女の子は落下のショックか、あるいは受け止めた時の衝撃で気絶してしまっている様子だった。

 もう完全に沈黙したと思っていた少女のグラシュはまだ少しその機能が残っていたのか昌也が少女を抱きとめる手にピリリと弱々しい振動とも言えない振動を伝えて来る。

 もしかしたら昌也がどうにか間に合ったのはこの反重力子のおかげかも知れない。

 __まぁでも、俺が触れられる時点で相当だけどな。

 昌也は手から伝わる緩やかな振動を感じながら思った。

 そう、本来、メンブレンがしっかりと張られた状態ならメンブレン同士がその膜を突き抜けて接触することはできない。

 つまり昌也が彼女を抱えることが出来ている現状、メンブレンは張られていないと言える。

 昌也は早々に崖の上に上がり少女の脈を確認する。

 呼吸も安定している様子で取り合えず今すぐどうこうと言う事はなさそうだ。

 本当は救急車の1つでも呼べればいいのだが、昌也は学生で、恐らく女の子もそうだ。

 最悪、病院から警察に連絡が行き学校を停学なんてこともありえるだろう。

 それはなるべく避けたかった。

 昌也は女の子を運び、公園のテーブルベンチに横たわらせてから、近くの自動販売機でスポーツドリンクを買って1本を開け、口を付ける。

 それにしても思ったよりも身体が覚えていてくれて助かった。

 昌也は彼女を助けるために空を全力で駆けた時の事を思い出す。

 もう何年も全力で飛んでいなかった昌也の身体は、しかし昌也の言う事を聞いて、しっかりと最高以上のパフォーマンスを出してくれた。

 そのことが今までやってきたことはけして無駄ではなかったという確信となった。

 __まぁ、でも、当然だけど全力を維持するための身体にはなってないな。

 飛行姿勢を維持するために酷使した体中の筋肉がぶるぶると震えるのを感じながら静かにさっきまでの飛行について反芻していると後ろの方から衣擦れ音が聞こえて来た。

「……此、処は」

 どうやら女の子が目覚めたようだ。

 昌也は女の子に向き直りとりあえず現状を理解しているか確認する。

「あー、何があったか覚えてる?」

 女の子はその柔らかな銀髪の髪を左手でかき上げてから少しの思案。

「……確か私はあの時、落ちて……そこからは記憶がない」

 なるほど、意図しない落下で気を失っていたか。

 FCの選手……通称スカイウォーカーがそのような風になることは極めて稀だが決してないことではない。

 グラシュの構造上、その推進力は地球の重力であるため前方方向へ進んでいる時も言い方は変だが前に向かって落ちているという状態なのだ。だからスカイウォーカーが落下のショックで気を失うというのは珍しいことではある。

 だが自由落下で意識を失うという話はそもそも珍しくない。スカイダイビングなんかではよく聞く話だ。

 厳しい練習の最中だったこともあり疲労なんかも加味すればまぁ普通だろう。

 昌也はそう結論付ける。

「ああ、それで偶々近くに居た俺が君が落ちる前になんとか拾い上げたんだ」

 そう昌也が説明すると女の子が何かを訂正するようにすっと口を開いた。

「……沙希」

「さき……?」

 先? それともさっき?

「私の名前」

「あ、ああなるほど、名前ね」

 随分ぶっきらぼうな喋り方をする女の子だなと内心思いながらも昌也は話を続ける。

「で、受け止める時も気を使ったんだけど結構ギリギリになったから結構乱暴な受け止め方になったんだよ。だから身体を確認して、練習も少しの間中止した方がいい」

 ガコン、と音を立てる自販機から昌也がスポーツドリンクを取り出す。

「スポーツドリンクだけど、良かったら」

 そう言って昌也がスポーツドリンクを沙希に手渡す。

「……大丈夫、ありがとう」

 沙希がキャップを外し、スポーツドリンクに口を付ける。

「甘い」

 沙希は少し驚いた様子だった。

「甘いのは嫌いだったか?」

 昌也が問うと沙希は首を横に不利否定する。

「……ううん、思ってた味と違ったから少し驚いただけ」

 確かに市販のスポーツドリンクは味を良くするため糖質の量を多くしているが、まるで市販のスポーツドリンクは一度も飲んだことの無いような反応に昌也は少し驚く。

 __そんなに厳しい食事制限は必要なさそうに思えるけど。

 沙希の身体にちらりと目をやる。

 彼女が今着ているのは黒を基調としたかわいらしいセーラー服だ。

 身体の線がはっきりと見える訳ではないが昌也が抱き留めた時の感想を率直に言うのならば女の子らしい柔らかさはあったが、かなり軽く、痩せていると思う。

「……何か?」

 あまりにジッと見つめすぎたせいだろうか、沙希が両手で大事そうに抱えていたスポーツドリンクをテーブルの上に置いて上目遣いで昌也に声を掛ける。

「ああ、いや、ごめん。ちょっと知り合いと似てたから」

 昌也がなんとも下手な言い訳をする。

「……似てた? 私と……?」

 沙希が殆ど表情を動かさず、しかし少し驚いたような声を出す。

「いや、その……」

 しまった、流石に貴方の身体を見てましたなんて言えないがそれにしても言い訳が下手すぎた。これじゃまるでナンパみたいだ。

「あなたも……似てる」

 しかし沙希から返ってきた言葉は昌也にとって予想外だった。

「えっ?」

「……なんでもない」

 沙希はそれだけをぽつりと喋ると立ち上がる。

「……助けてくれてありがとう。お礼はまた今度正式に……ッ」

 しかしすぐにふらついてしまった。どうやら少し身体が痛むようだった。

「おい、無理はするなよ、ちょっと面倒な事になるかもだが救急車を呼ぼうか?」

「……いや、少しふらついただけ。それよりも良ければ私の荷物を回収して来てくれない?」

「ああ、それは別に大丈夫だけど」

「……ありがとう、私の荷物はえっと、久奈島海岸? のロッカーの中にあるんだけどグラシュ、充電切れしちゃったから」

「久奈島海岸か、ここからは少し距離があるけどグラシュがあればそうでもないな」

 グラシュの耐荷重は300㎏程度と言われていて、1つのグラシュで2人が手をつないで飛行するくらいならスペック的にも問題はない。

 何故ならそもそもメンブレンは装着者の身体の周囲に膜を張るため、起動時に手をつなぐなどして一体となっていた場合、メンブレンの操作が少し難しくなるが1つの膜が2人を包み込むためだ。

「行こう」

 昌也がそう言って沙希に手を差し出す。

「……うん」

 昌也の手を沙希が掴む。

 そう言って昌也の手を取った沙希の手はひんやりと冷たくて、想像以上に小さくてつるつるとしていた。

「FLY!」

 夜気を切り分けて2人夜空に浮かび上がる。

 初夏とはいえ夜はまだ肌寒い、はずなんだけど出会ったばかりの女の子と手をつないで一緒に空中散歩しているという事実が昌也の体温を引き上げる。

 そう言えばあまり深く考えていなかったがここは飛行禁止区域だった筈、浮かれてばかりは居られないと昌也はなるべく目立たぬように飛行経路を取り、久奈島海岸を目指した。

「ありがとう、これ、連絡先」

 ロッカーから荷物を取り出し、壊れた競技用グラシュから恐らく学校指定のローファー型の汎用グラシュに履き替えた沙希がスマートフォンを差し出してくる。

「ああ……」

 昌也も状況を理解しスマートフォンを取り出し連絡先の交換に応じる。

 昌也の連絡先に追加されたステータスには乾 沙希(いぬい さき)の文字が躍っていた。

「……じゃ、また今度」

「また今度」

 昌也が返事するのを確認してから沙希が起動キーを呟く。

「FLY!」

 そう言って沙希は綺麗な飛行姿勢で夜空に溶けて行った。

 昌也は沙希が消えた夜空の先を少し見つめてから思わずつぶやいた。

「なんか、凄い日だったな」

 思わずさっきまで沙希の手を握っていた右手に目をやる。

 __一体俺は何を考えているんだろうか?

 そう自分を戒めるようにかぶりを振るが右手に残ったひんやりとした沙希の手の温度が昌也の思考の邪魔をした。

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