紀元前202年
垓下にて一人の英雄が朽ち果てようとしていた。
姓を項、名を籍、字を羽といい、楚軍を率いて漢軍と覇権を争った王である。
しかし、かつて軍神と謳われ10万の大軍を率いた項羽は今や僅か二十八騎の騎兵を伴い烏江まで来ていた。
「皆、鎧を脱ぐのだ。」
そう言われ今まで項羽に従って来た兵達は戸惑いを隠せなかった。
「しかし、弓で射られたら死んでしまいます!」
堪らず兵の一人が叫ぶと項羽は静かに答えた。
「だめだ。この小舟は小さい。鎧を着ていたら沈んでしまうほどにな。だからお前達は鎧を捨て川を渡れ。」
「戦は終わったのだ。私はこれまで何年も戦に勝ち続けてきた。だが今、他の何者でもない楚の者達を使い、天が私を滅ぼす。
これは私一人が背負うべき業なのだ。皆に罪はない。故郷に帰り田畑を耕し平穏な生活を家族と共に過ごすがよい。」
「王様!王様も一緒に帰りましょう。江東に戻りまた私達を率いて再度劉邦と戦ってください!」
「そうです!戦いましょう!」
「我らは項王様についていきます!」
この戦だけでも仲間の死を数えきれない程に見てきた彼らは未だ諦念を抱かず、ただ闘志のみをその瞳に宿していた。
項羽はそんな彼らに嘗ての自分を重ねていた。
楚を滅ぼし民を虐げた秦に復讐を誓い、その恨みの心だけで強くなっていった自分に
だがそれは自身を破滅させ、果ては国をも滅ぼす一因にもなった。
そのことを今まで思い知らされてきた項羽は王としての最後の命令を彼らに下すのだった。
「今私が江東の王になり挙兵しても民が苦しむだけだ。私の望みは世の人が平穏に暮らすこと。私の命はそのために捧げる。だからお前らは鎧兜も武器も全て捨て川を渡り、そして私の意志を江東の皆に伝えていって欲しい。江東は私達の故郷だ。その江東を決して踏みにじられてはならない。もし天下人が仁義をわすれ、秦のように民を虐げ欲の限りを尽くすような輩なら、誇り高い江東の民はその手に持っている鍬を武器に替え江東を守れ。私はかの地に生きてこの身体を持っていくことはできない。だからお前たちが私の魂を持っていくのだ。」
項羽は跪いて涙を流している兵達を立たせ自身の剣を渡す。
「この剣を江東の地を守る者に渡せ。さすれば私の魂はお前たち江東の民を守ることを誓おう。」
「王様!」
「ではな。縁があればまた来世で会おう!」
そう言い残し、彼は兵達の前から去った。
その後、ただ一人で漢軍の前に現れ、敵兵に囲まれながらも一騎当千の強さを発揮しおよそ100人の敵兵を討ち取った後自刃した。
しかし、齢30の若さで解き放たれた彼の魂は静かな眠りにつくことはなく、すぐに肉体を持って生を受けることになろうとはこの時は誰も知らないことであった。