※本文はC103で頒布したウマ娘合同誌『冬来たりな馬、春遠からじ』にて掲載した内容を再編集した作品となります

1 / 1
ナカヤマ・先生・椿または冬

 

 

 

 ナカヤマフェスタ様

 

 夜分遅くに失礼します。

 先ほどお電話差し上げました───の父です。

 不通でしたので、メールにて失礼いたします。

 入院しておりました娘の容体が急変し、現在危篤状態です。

 医師によりますと、この先数日が山と告げられました。

 ぜひ一目会っていただけないでしょうか。

 入院先は───です。

 折を見てまた連絡させていただきます。

 どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 花壇には、昨年植えた椿が咲いていた。

 赤茶けた縁取りの土台は年季を感じさせる罅割れがあり、乾燥してカラカラになった土が敷き詰められている。素人目で見ても草花にそこまで良い環境ではないだろうが、別に高価な台でも土でもなく、ホームセンターにある安物を使っているから当然だ。

 

 この小学校はお嬢様学校でもなければ、何かしら実績のある名門校でもない。田舎町にポツンとある、全校生徒が二百名程度の小さくて古い校舎だ。近年の地方過疎化にともなって学生数は減っているというが、長年併合されず残っているのは奇跡的とも言えるだろう。

 

 そんな小学校にある花壇なんて、あくまで景観を支える道具であり。

または情操教育の一環として育てさせる目的から用意されている代物であり。

 つまるところ花壇に割ける予算は、初めから雀の涙程度というわけだ。

 

 当然品質は落ちるし、交代制で世話してる職員も何か思い入れを持つわけではない。

 だから花はともかく、花壇の方は朽ちていた。

 

 罅割れた縁取りからは土が溢れていて、奥の方には植えてもいない雑草がボウボウと生えてきている。煉瓦造りの耐久性はまだ良いが、苔や黴のような汚れなんて数瞬見渡すだけで見付けられてしまう。真冬の乾燥した空気ならまだしも、夏場や梅雨の時期なんか気味の悪い蟲らが集まって死骸となっては放置されてる始末だ。

 草花を育てる土台という役割で考えると、既に瀕死の体だと思う。

 

 ただ。

 一方、椿は艶艶としていた。

 どくどく脈打つような色鮮やかさ。

 濃緑で分厚い葉をつける水気を纏った花。

 毒毒しいほどに、紅い。

 枯れ細って痩せていく土とは真逆に、椿は今を生きている。

 それが例え僅かな命としても謳歌するように。

 

「……先生」

 

 キャリーケースを引いて、学校近くから駅前までのバスに乗った。

 

 まるで旅行にでも行く格好が珍しいのか、校門からは羨ましそうに手を振る生徒がいる。私はいつものギラついた笑みではなく、ほんの少し微笑みながら返すことにした。

 

 この先で。

 私が教師として笑っていられるかどうかの自信はなかったからだ。

 

 今こうして最大限譲歩できる対応が、ナカヤマフェスタではなく一人の教師として振る舞える最後の姿かもしれない。

 そう思うと自然と背筋は伸びて、手は小さくなり、年相応の顔つきを浮かべられた。

 

 かつて無茶してきた年相応とは違い、今こそ覚悟を決めるときだろう。

 ついに年貢の納めどきが来たと思うしかない。

 

 実力も経験も。

 友情も相棒も。

 ちっぽけな祈りも。

 全てをフルベットして得られた。

 ───凱旋門賞の奇跡。

 

 だから先生。

 もう賭けられる物は残ってないんだ。

 

 落胆するだろうか。

 それとも安心するだろうか。

 私は勝負師として最後まで生きられなかったよ。

 

 心を育ててくれた恩師へ報いるほどの賭博はもう出来ない。

 だから先生の最後だけは、受け入れることにしたんだ。

 

 弱く未熟なナカヤマフェスタをどうか、

 許してほしい。

 

 ───先生バイバイと。

 景色が動き、視界から遠ざかる子供たちを眺めながら、そんなことを思う。

 

 徐々に雪がちらつき始め、バスの車窓は白い靄に隠されていった。眠そうに座る運転手を後ろから見て、まだ暫く掛かりそうだなと思いマフラーに顔を埋める。

 

 はあっ、と大袈裟に息を吐いた。

 真っ白な煙は出ないのに、灯の消えたような寒さを覚える。

 

「そりゃあ……冬だしな」

 

 正面の、節分時期に飾ったであろう鬼面がこちらを見透かすようだった。

 なんだか妙にばつが悪くなり、今度こそ目を閉じる。

 

 まだ二月上旬。

 真冬の出来事だ。

 

 

 

 

 夢を見る。在りし日の夢を。

 過去を精算するように。また懐かしむように。

 

「そう……フェスタは教師になってくれるのね」

 

 ゆったりとした声色で、先生は嬉しそうに笑う。

 トレセン学園を卒業してから数年後。

 社会人レースの誘いやURA関連企業への就職という道も見えていた筈なのに、私が取ったのはスリルでも安定でもなく、若人の教育だった。

 

「その点に関しては、私自身も意外だったけどな。あれだけ心臓が脈打つスリルに生かされてきたんだぜ。今更何言ってるんだと、他人からすりゃ笑われるかもしれねえけどよ」

「ううん、そんなことない。フェスタがいつだって何かしら考えているのは知っているわ。無鉄砲にも見えるし危険だらけで心配だけど、その先に欲しいものがあるのはレースも博打も変わらないんだから。それがあなたの長所であり美徳だと思っているの。だからフェスタが教師になる道を選んだのは、単に私を真似ている訳じゃないでしょう?」

 

 先生は、見つめながらそう問いかけた。

 おいおい。そりゃ無粋すぎるってもんだろ。

 

「……ったく、本人の前で憧れとか真似てるとか、言えるわけないっての」

「ふふっ、ごめんなさいね」

「まあ、手紙で少し話したと思うけど、凱旋門賞を勝ってから色んなレースで目付けられるようになったんだよ。シンボリやメジロといった上位の奴らとか、期待の超新星世代なんて言われる新入生らとかさ。それで国内レースも何度か走って、勝ったり負けてを繰り返して。気付いたら今まで喰らうだけだった私に、今度は教えを請う奴らも現れてきたんだ。おかしな話だろ。私って明らかにそういうガラじゃねえのにさ」

「そうねえ。話はトレーナーさんからも伺ったわ」

「アイツ余計なこと話しすぎだろ」

「仲が良い証拠じゃない」

「同じ穴の狢ってだけだよ。ああ見えてまともじゃないんだぜ?」

 

 誠実に見えて、一緒にスリルを求める大馬鹿野郎だ。

 今じゃ他の若い娘達と相手してるんだろうな。

 

「話を戻すけど、教えを請われても私はその点じゃ素人だし、大した事は言わないって決めたんだ。別に理論武装しているタイプじゃないし、たまに併走するくらいが関の山だってな。それでもチームレースとかで暇なとき面倒見てやるくらいのことはしてやった。こんなド素人の何が良いんだと思うこともあったが、手伝うたびに後輩らが幸せそうな顔して活きていくんだよ」

「まあ! それは凄いことじゃないの」

「とはいえ博打にも知識は必要だし、流石に格好つかないからトレーナーからも理論的なのは多少教えてもらってよ。今まで感覚的だった部分を理論で補強しては教えて、コース上での動きとか作戦とか考えて、その後輩が勝ったり負けたりするのを見ていたらさ」

 

 ───フェスタ、君は。

 トレーナーの意外そうな表情をよく覚えている。

 

「いつの間にか、走る側じゃなく教える側に向かってたんだ」

 

 自分でも、まさかと思ったよ。

 シリウスの奴には腹抱えて笑われて。

 ジョーダンなんか真顔で、嘘でしょと呟いてたな。

 

「ハハッ! こんな未来は私でさえ想像できなかったんだぜ。十年前の自分が聞いたら卒倒しそうな未来だと思っているよ。反抗期だった悪ガキが、誰かを導く立場になるなんてな。まるで不良漫画のエピローグみたいだろ」

「ええ。かなり素敵な話で、正直に驚いたと言うべきかしら。あのフェスタが成長したって思うと涙脆くなるわねえ。でもそれならトレーナーを目指す道もあったんじゃない?」

「まあ、疑問になるのはそこだよな」

 

 姿勢を変えて、先生を正面から見つめる。

 

「確かにレースを教えるならトレーナーを目指すのが一番良い。例えそうでなくても基礎能力を鍛える教官や、倶楽部チームでの外部コーチって道もあった。今までその日暮らしみたいに、気紛れだった私が初めて進路で悩んだんだぜ」

 

 自分で口にしながら、まるで優等生みたいだなと薄ら笑う。

 先生は聞きながらそのニヤけた面を隠そうとしない。

 

「色々と考えに考えて───結局のところ私が教えられてきた相手は、当然だが熱いレースを知ってる奴らってことに気付いたんだ」

「そりゃあ、トレセン学園だものねぇ」

「ああ。だが先生も知ってるとおり、世の中にはそれを知らないで過ごしてしまうウマ娘もいる。本能で走ることはあってもレースそのものは見たことなかったり、もしくはお遊戯みたいなレースに嫌気が差したりよ」

 

 夕暮れ時の日差しは傾きはじめ、眩しいくらいに室内を照らしてきた。光と影、その境目を生み出すような一本線が引かれる。

 先生の顔は夕影に埋もれて、痩せ細った指がよく見えた。

 

「……つまり、まあ、先生」

「はぁい。フェスタ」

 

 足を組み直す。

 気恥ずかしさを隠すように窓を見る。

 

「私の原点は、結局のところ先生なんだよ。トレセン学園に来てトレーナーと出会ってから、たくさん救われたのは事実だけどさ。そもそもレースへの熱を、生きるって行為を植え付けたのは、先生の小さなお節介から始まったんだ」

 

 それを思い出していたら、自然と手が教師って選択してたんだよ。

 ふふっと、穏やかに笑う声が聞こえた

 

「そっか。じゃあたくさんの生徒と触れ合うようにならなきゃね。勿論私の跡を継いでほしいとは言わないけれど、フェスタなら私以上にたくさんの事を与えられると思うの」

 

 流石に買いかぶり過ぎだぜと返したら、信じてるのよと言ってきた。

 

「ナカヤマフェスタならたくさんのウマ娘を導けるって、そう賭けているの」

 

 年老いた筈の瞳が、キラキラと真っ直ぐ突き刺してくる。

 ……まったく、こんなときに賭けときたか。

 じゃあ尚更、負けられねえよ。

 

「先生ってのは口が上手くなけりゃ難しそうだな」

「大丈夫。フェスタは寧ろ得意だと思ってるわよ」

「ハハッ、そりゃ口八丁と勘違いしてねえか?」

 

 そう笑いながら、先生にしてみれば昔から無条件で信頼してくるのは当たり前という感覚なのを知っている。お人好しというか世話好きというか。先生の親父さん繋がりで特別視されてるのはあるだろうけど、純粋に信じて突き進むのが先生の本質だと思えた。

 

 ふと。

 そういえばフェスタに渡したい物があったわと、唐突に言われた。

 

「渡したい物?」

「ええ。フェスタが進路決めたって話を聞いてから用意してたのよ」

 

 そんな気遣わなくて良いのに、と思う。

 すると先生は、私が用意したかっただけだから、と答えた。

 ボストンバッグをごそごそ漁り始める。

 待つこと一分。

 カバンから取り出されたのは、空色で高級感のある小さな化粧箱。

 

「おめでとう、フェスタ───これは私からの祝福よ」

「……化粧品って、わけじゃないか」

 

 柔らかな、絹のような手触りの箱を開ける。

 手のひらサイズの宝箱から、ふんわりと風が漂ってくるような気がした。

 

「……ブローチ?」

 

 花柄の、少しだけ特別な装いをこらしたブローチが映る。

 派手でもなく、絢爛でもない。

 寧ろ慎ましさを感じるような花だ。

 

「すみれのブローチ。一目見たときね、フェスタなら似合うと思ったの」

「なあ。先生って、よく私のことすみれに例えるよな」

「良いじゃない。すみれって、誠実とか謙虚という言葉があるのよ」

 

 胸の辺りを、軽く抑えるようにして話しだす。

 

「フェスタは身の丈を超えた勝負をするけど、一度始まれば舞台から逃げることはしないから。だから花言葉通りに、あなたはとても誠実な娘だと思うの」

 

 当たり前に、私の目を逃さぬように。

 決して視線を逸らさずに、先生はそう言った。

 

「…………そんな言葉、私には」

 

 自罰の念から背を向けると、フェスタと呼ばれる。

 

「それに、すみれって野花でしょう。コンクリートの隙間からも生えるような突破力があるじゃない。初めて見たレースでのあなたは、誰にも止められない強さを感じたから」

「ハハッ……安直すぎるぜ」

「誰かの印象なんて、そういうもので良いでしょう」

「ああ。まったく、その通りだな」

 

 ギラついた笑みを浮かべて、じゃあ、と言葉を続けた。

 

「私が教師として稼いだら、先生へのお返しは花で返すことにするよ」

「あら本当? それなら……そうねぇ」

 

 ───椿が良いわね。

 

「おいおい……そこはすみれの花じゃないのかよ」

「確かにすみれは大好きよ。私の好きな歌劇にも使われているし。でもすみれはフェスタに渡しちゃったから、他の花が欲しいかな」

「それなら、どうして椿なんだ?」

「椿は枯れないのよ」

 

 あっけらかんと、先生は言った。

 流石にそんなバカな話あるわけない。

 

「いや枯れるだろ。花だぞ」

「ちゃんと育ててれば枯れないわ。正確には萎れる前にこう、ボトッて花弁が落ちるのよ。だから旧くは斬首みたいで縁起悪いとされてるんだけど、捉えようによっては最後まで美しく保てるって意味じゃない」

 

 ああ羨ましいわと、かごの中の小鳥が空へ恋焦がれるように語りだす。

 まるで純粋無垢さを瞳に宿しているようだ。いや或いはそれを望んでいるのかもしれない。先生の輝いている表情には、どこかモノトーンな斜影が入り込んでくる。

 

「しかしもう歳ね。美しさなんて気にしてなかった筈なのに」

「先生はその、身体の方は───」

「今のところフェスタから貰った奇跡に生かされているし大丈夫よ。でもほらフェスタが大人になるってことは、元から大人だった私なんてもうおばあちゃんだからねえ」

 

 誰も悪くないわ。寿命には勝てないのよ。

 どこか昏い、幸薄な笑みを貼り付ける。

 

「そんな、こと……っ!」

 

 思わず苦虫を噛み潰したような顔を向けた。

 すると先生は水気の抜けたような手で、くしゃりと頭を撫でる。

 

「なーんてね、私だってそう簡単に倒れてやるつもりはないわよ」

 

 痩せていても変わらずに、太陽のようにニカッと笑う。

 

「少なくともフェスタが教師を目指すなら、ちゃんと教えられているか見届けなきゃね! 子供に危険な遊びや知識なんて教えていたら、それこそ教職やってた身としては見過ごせないし。しかも私がきっかけなら尚更放っておくことは出来ないわよ」

 

 私のお節介もまだまだ続くから安心してね、と言う。

 この時点で言葉にするまでもなく察してしまった。

 

「なんだそれ。リモートで授業風景でも配信してやろうか?」

 

 恐らく先生はもう、長くない。

 既に皺々で、弱々しい声になっている。

 

「ふーん、本当に見届けるからね。だから花の約束忘れちゃダメよ」

「勝負師に二言はねえな。立派な椿を用意してやるよ」

 

 先生のだんだん嗄れて萎んでいく声色が、まさに椿とは真逆で生きながら衰えていく呪いのようにも感じた。

 

 萎れて、枯れて、薄暗く。弱っていくように。

 だが、例えそうだとしても。

 

「フェスタ、あなたからの椿を待ってるわね」

「だったらそれまで長生きしてくれよ、先生」

 

 私はあなたが醜くなっても、生き延びてほしい。

 我儘を抑え込めるようになったのは大人になれた証拠だろうか。

 

 窓の外は日も落ちてすっかり暗い。面会時間の終わりを告げるナースの声がする。

 その声が今だけはやけに甲高くて、不快に感じてしまった。

 

 

 

 

 肩に溜まったちらつく雪を手で払う。

 道端には白い塊が寄せられ積み上がっている。僅かに残った粉のように乾いた雪をざくざくと蹴りつけた。街頭の灯りは白衣に覆われてるようで色が薄く、まるで街全体が灰かぶりの写真に閉じ込められたようにも思える。

 バスから電車へと乗り継いで、病院の最寄り駅に着く頃には十二時を回っていた。

 

「タクシーは……まだあるな」

 

 平日とはいえ駅前にタクシーが停車していたのは幸運だった。

 窓に近づいてから二、三度ノックすればドアが開かれる。元気ある中年男性のカツカツした明るい声とカーラジオの相撲中継が聞こえてきた。

 

「お客さんどちらまで?」

「こちらの病院までお願いします」

 

 事前にスマホ検索しておいた病院のホームページを見せて告げる。

 あいっわかりましたと車が動き出して、私は暫く無言になった。

 

 車窓の外には人々がまばらに歩いている。昼間ということもあり仕事に勤しむ者と、休日を謳歌する者で入り混じっていた。

 

 やはり地方の都市部とはいえ、設備の整った大型病院は少ないのだろうか。同じような方向を目指していく車を何度も見かける。

 先生は、今どうしているだろうか。

 

 危篤ということは話せることも出来ないのか。いやあまり詳しくないがやはり難しいだろう。そもそもこの瞬間でさえ生きているかも怪しいところだ。

 もし間に合わなかったら、と。

 その可能性だけは考えないよう心を空にした。

 

 小学校の教師になってまだ僅かだが、それでも在りし日に見た夢は続いている。かつて描いていた理想とズレているかもしれないが、こんな私にもまだ生意気だけど教え子というものが出来たんだよ。

 

 だからこそ私は、先生の死を見た上で、教師を続けられるか分からない。

 

 ここに来る道中で、かつての過去を夢に見た。まだ果たせていない約束をした過去の話だ。私の授業を見ることも、立派な椿を贈ることも、私達はお互いに果たせていない。

 

 だからまだ去らないでくれよと、静かに祈る。

 車が走ってどれほど経っただろう。

 

 ……ああ。

 遅い遅い遅い。

 まだ着かないのか。

 寝ぼけてるんじゃないだろうな。

 車がやけに鈍足に感じる。

 もう私が走ったほうが速いんじゃないのか?

 底なしの不安が、ゆっくりと湧き上がってきた。

 

 運転手からすれば無愛想なツラで外を眺めていたかもしれない。しかし誰かと喋る気にはならず、かといって何かに意識を割いてないと正気を保てなかったのだ。

 

「───着きましたよ」

 

 私は短く礼をいうと、会計を済ませてからは乱暴気味に車を出た。

 ガタンと音を立てたし、印象は最悪かもしれない。

 

「先生……っ」

 

 病院に着いてからは、無意識のうちに早足だったと思う。

 事前に親父さんが話を通してくれたおかげで、受付はスムーズに進んだ。

 

 入館カードをかざして、白い清潔感のある通路を進む。

 通路ではカツカツという音が小刻みに響いていく。

 

「はあ、くそっ、暑い!」

 

 暖房が効きすぎているのか厚着しすぎたのか。汗ばんで蒸れるニット帽とマフラーを脱ぎながら病室を目指した。

 

 やがて視界の先に見覚えのある人が現れる。

 かつての面影とは離れてしまっているが、優しそうな風貌は変わていなかった。

 

「フェスタ……来てくれたのかい」

 

 病室の前に立つ、親父さんだ。

 

「あ、ああ。親父さんも相変わらずだな。それより、先生は?」

「……昨晩、キミからの連絡を受けてから少しだけ回復してね。これもキミと娘との縁なのかなあ。微かにだが話せるくらいまでは持ち直したんだよ。今ちょうど検査中だから、こうして私も待ってる最中という訳だ」

「は、はは……」

 

 そっか。生きているのか。

 先生は、まだ生きている。

 親父さんのその言葉だけで、地に足立てるくらいの安心感が戻った。

 

「よかった……間に合ったんだな……」

「依然として危ういのには違いないけどね。せっかく来てくれたしキミと話したい事もあるけど、検査もあと少しで終わると思うよ。こんな年寄りと話すより、今は娘のほうを優先してくれたまえ」

「……親父さん、危篤と聞いてたけどずいぶん落ち着いてるじゃないか」

 

 丸まった背と、皺の増えた顔つき。

 親父さんは初老らしく、落ち着いた声で話しだす。

 

「うん、まあ、これも歳なのかなあ。娘の病気と長く付き合っているとね、なんとなく終わりが分かるんだよ。それに心構えとか覚悟ってのは充分に済ませてきたものさ。情けない話だが今に至るまで何度も泣いたし絶望したこともある。しかし人はいつだって、何やったところで死ぬものだからね。それなら娘のために最後は凛々しく立つのが親として見せられる理想の姿だと思うんだよ」

 

 キミは若いし、存分に泣いても良いんだけどね。

 でも私なんてもう定年間近だからなあ。

 親父さんは、白い天井を眺めながら静かにぽつりと語った。

 

 横からガラガラと音を立てて扉が開く。

 恐らくは担当医師であろう男性と、バインダーを抱えた看護師が姿を見せた。親父さんは軽い会釈をしてから、少し医者と話してくるよと気を使って、同じく遠ざかっていく。

 

 静かになった廊下に、一人のまま残された。

 廊下と部屋は、スライド式の扉で仕切られている。

 

 たった一枚。されど分厚く頑丈な扉。

 この先に───先生が居る。

 

「…………っ」

 

 私は、すぅーと呼吸をして、心を落ち着かせてから扉を開けた。

 不安を見せないように、年相応の大人らしさを浮かべて足を踏み入れる。

 

 久々に見た病室はかつての記憶以上に簡素な作りだった。

 真っ白なベットに、脈拍を測る医療機器。

 部屋は物静かだった。

 まるで寂しい箱のように見える。

 

 窓際のベットには、淡い緑色の病衣を纏った先生がいた。

 

「……せん、せい」

 

 深海魚の腹みたいに冷たそうな肌。

 冬の枯木を連想させる痩せ細った腕。

 油気のないカサカサと揺れる銀糸のような髪。

 

「あら……フェスタ、久しぶりね」

 

 掠れた声がした。

 死に体の、昏くて、影薄い声だ。

 

 生命力と呼べるものは僅かばかりしか感じられない。まるで半身は生きているが、もう半身は死んでいるような状態だった。今こうして喋れること自体が奇跡的で、ほんの少しでも運命が傾けば静かに消えてしまうような儚さを感じる。

 

 先生は、驚くほどに白かった。

 肌が白くて、爪先が白い。

 

 光の錯覚だろうけど、透けてるような純白さだ。例えるなら白蛇の抜け殻みたいに半透明で真っ白に見える。もしくは生まれたての陶磁器人形みたいな艶艶しい純白さも見える。または仏壇に供えられた冷たい蝋燭みたく冷淡な白さにも見えた。

 

 これは、生者の出せる白さだろうか。

 魂が透けてて、白く見えるのではないのだろうか。

 

 私は狂人でないし科学的な根拠は分からない。

 ただ一つ。先生は死に近しいことだけが、直感的に理解できた。

 ああ死ぬんだなと。

 自分でも驚くほどに受け入れてしまった。

 

「先生は、その」

 

 身体の方は───と。

 無意識に発した言葉を無くしてやりたい。

 私は大馬鹿者だ。大丈夫なわけがないだろ。

 そんなの聞かなくても判るだろうが。

 

「大丈夫よ、フェスタ」

 

 だから、そんな筈がない。

 しかし先生は何事もないような表情を浮かべる。

 

「もう冬なのねえ。外は寒かったでしょう」

「ここの病院は暑いくらいだよ。ちゃんと防寒されてるんだな」

「まあ、そうなの。ずっと部屋に籠もっていると判らなくなるから」

 

 室温に慣れてしまうせいか、寒く感じるのよ。

 先生、それは。

 死に体だから、冷えるんじゃないのか。

 

「でもこうしてフェスタと会えて良かったわ。ほら教師って何かと忙しいじゃない」

 

 ふふっ、と。

 年老いても変わらない笑い方をする。

 私は。

 ここで何を話せばいいのか、分からなくなっていた。

 

 元より危篤と聞いてから死に目を看取るのが目的であり、最後に何を話そうかと考える余裕なんてあまり無かったからだ。いや正確には話したいことなんて山ほどあるのに、こうして今際の際に直面するとその殆どが不適切にも思えて喉奥からは出たがらない。

 

「そういえば、フェスタは」

「ん?」

「椿の話、憶えているかしら?」

 

 そう言って、先生は視線をどこに向けてるのか判らないが、窓の外を眺めだす。

 枝だけになった寂しい樹木が、雪を纏っていた。

 

「椿は、枯れないんだっけか」

「最後まで美しくいられるのよ」

「でも落ちた花弁は枯れるし、萎れるだろ」

「死んでしまったら腐るのは道理なのよ。でもそれなら死ぬ瞬間まで椿は生きているってことじゃない。最後まで艶のある輝きでね。だから死ぬときすらも、椿は美しいままなのよ」

 

 半分ほど見れる顔は穏やかな表情をしている。

 確かにその道理で言えば椿は美しいままだろう。

 

「こうして寝たきりだから外を見るくらいしか出来ないんだけど、私が思うに植物ってのは死なないんじゃないかしら」

「いや……先生の見ている木だって、いつかは死ぬよ」

 

 雪を纏った、寂しい樹木を指す。

 葉もなく枝だけで、見るからに弱っている樹木を。

 

「でもほら、老木って言葉があるじゃない。確かにこの樹木も今はこうして寂しいけれど、春になれば花を咲かせてまた大きくなるのよ」

 

 確かに。そういうものかもしれない。

 冗談っぽく、私なんて背が縮んだわと先生は笑った。

 それから、ずるりと。

 牛歩のようにゆっくり身体を動かして、温かな双眸で見つめる。

 

「今は冬なのよ。フェスタ」

「……そりゃあ、そうだろ」

 

 こんだけ寒いし雪は降ってくるし。

 なんならもう二月だ。

 

「世間一般的には真冬のピークになるぜ」

「確かに、外も冬景色よねぇ」

 

 でも、と言葉を紡いだ。

 

「───冬は、あなたもよ」

 

 ナカヤマフェスタにとってのね。

 今は冬なのよ。

 先生の目元が、申し訳なさそうに垂れる。

 

「それは……」

「フェスタにとって、冬はどう思うかしら?」

 

 どう思うかと聞かれても。

 季節の話、って訳でもないよな。

 

「冬の時代って意味なら……苦しいよ」

 

 先生が倒れて、何も出来ないのが分かっている。かつて足掻いていた勝負する気力も、賭けられる対価も持ち合わせていない。自分自身に軟弱で恥じたくなるほどだ。

 

 ああ、なるほどね。

 私にとっての冬はそういう意味か。

 

 ただまあ、悪いな。

 冬越え出来るかどうかはもう分からない。

 

「……これは先生が気に病むことじゃないさ。私の強さの問題で、勝負師として貫けなかった覚悟の問題だよ」

「そう……フェスタは、冬を停止するものと思っているのね」

「……話が見えないんだが」

「あの樹木はね」

 

 先生は、またゆっくりと窓辺を見つめる。今度はハッキリと枝だけの樹木を見た。

 死んでない、寂しいだけの樹木を。

 

「樹木は、停滞しているけど。停止はしてないわ」

 

 少しずつだけど春に向けて蓄えてるのよ。

 生命力とか、エネルギーとかをね。

 

「人も同じ。冬の時代って呼ばれるけど、必ずしも停止することはない。確かに鈍くなるし重くなる。それらが重なれば苦しくて辛くもなる。でもね」

 

 完全に止まらないのよ。ゆっくりでも進められるから。

 

「つまり止まるとしたら、本人の問題ってことを言いたいのか?」

「そうじゃないわ、フェスタ」

 

 停止はしない。停滞するだけよ。

 

「あなたが止まると思い込んでる状況も、実はゆっくり進んでいる」

「そりゃあ……希望的観測だろ」

「いいえ、明けない冬はないのよ。いつかは春が来るわ」

「数年間、立ち直れなくてもか?」

「十年、二十年の冬だとしてもね。寄り道をたくさんするかもしれないし、問題を先送りにするかもしれない。でもいつかは春になる。挑み続けたらそれが早まるだけで、挑まなくてもいつかは終わるのよ」

 

 終わる頃にどう変わっているかは、本人次第だけどねぇ。

 掠れて弱まっている声で、先生はそう言った。

 

「先生は、なんでそんなに希望を見れるんだ?」

 

 私の問いかけに反応して、変わらない穏やかな顔でゆっくり見つめてくる。

 

 深海魚の腹みたいに冷たそうな肌。

 冬の枯木を連想させる痩せ細った腕。

 油気のないカサカサと揺れる銀糸のような髪。

 灯火を宿した───優しくて温かい穏やかな瞳。

 

「『冬来たりなば、春遠からじ』」

 

 一瞬、空気が凪いだ。

 静止した湖面に波紋が広がるように、ぽつりと呟いた。

 

「私の好きな言葉でね。苦しくても幸せはいつか訪れるって意味よ」

 

 ……ああ、そうかよ。

 まったく、最後まで先生をしているぜ。

 私が大人になっても、私に教えるための言葉を知っているんだ。

 

 そして先生自身もその言葉に支えられているのだろうか。あの消えない瞳の灯火をどこから得ているのかって、少しだけ理解できた気もするよ。

 ───先生。

 

「ハハッ……私も本、読まなきゃなあ」

「ねえ、フェスタ」

「なんだい、先生」

「あなたが勝負から降りても、私は勝負を降りてないわよ」

「……どういう意味だ?」

「ふふっ、実はね」

 

 数か月前にあなたの授業を見に行ったのよ。

 

 痩せこけた先生はあっさりと告げた。私が動揺しながら聞き返すと、花壇はフェスタが世話してるのねと嬉しそうに言った。

 

「病院と、フェスタの校長先生に許可を貰ってね。遠目からあなたの授業を見たのよ」

 

 校門付近から窓越しだけどね。

 先生は微笑んでいるが、私は理解が追いついていない。

 

「は? いや、いや。変な冗談はよしてくれ」

「冗談じゃないわよぉ」

「私の授業が、なんだって?」

 

 だから授業風景を見たのよと、平然とした口調で先生は言った。

 

「時間割としては五時間目くらいかしら。国語の授業してたっけ」

「そんな話、一度も聞いてないぞ」

「そりゃあ私もこっそり訪ねたからね」

 

 理解が追いつかない。そうだとしても、このタイミングで言うことなのか。

 違う。先生は勝負と言っていた。この場合何をだ。私に払えるものなんて、先生の結末を考えればそう多くない筈だ。

 久々に想定外の事態に、肌がびりっとざわつく。

 先生は、私の胸元につけているブローチを指して言う。

 

「───あの花壇に、すみれを植えさせてもらいました」

 

 フェスタが世話をしているのなら、春過ぎから夏頃には咲くでしょう。

 私はあなたに、それを見届けてほしい。

 

「な、んで……」

「大好きな花だから。最後に託したいと思ったのよ。それに」

 

 私はまだ、あなたに辞めてほしくないわ。

 願うように、祈るように。

 懇願するような口調だった。

 

「まさか私が心折れて、教師から離れてしまうかもしれないという危惧のために。そんな、そんな無茶をしたのか!?」

「だから勝負なのよ、フェスタ。命をかけたフルベットよ」

 

 正真正銘、最後の賭けね。

 あははと、弱い身体なのに楽しそうに笑った。

 

「ナカヤマフェスタは、すみれが咲くまで教師をやめない。命も祈りも願いも我儘も、全部上乗せしてあなたの『冬』に挑みます」

 

 あとはフェスタ次第かしら。

 まあでも、これでも折れるなら私の負けね。

 

「……なんというか、えげつないな」

「あらまあ、大人って我儘になるとこれくらいするのよ?」

「だからって、流石に手段選ばなすぎだろ。断れねえって」

「でも誰だって折れるときは、どうしようもないものよ」

 

 それにね、と言葉を続ける。

 

「冬を越えるには逃げることや、寄り道することが正解だって時もある。私が無理に引き止めてもフェスタが駄目なら、それは何をしても負けるわよ」

 

 だから勝負になるんじゃないと。

 先生は微笑んだ。

 

 そっか。

 そうだよなあ。

 じゃあ私と先生の勝負になるか。

 今までたくさん賭けてきたけど。

 これで終いだ。

 正真正銘、これが最後の。

 

「…………」

「フェスタ?」

 

 最後の勝負。

 そうだ。そうなんだ。

 

 もう続かない。再戦はできない。

 あなたとは───

 

「………………ちッ!」

 

 目頭が熱くなる。

 零れそうになるのを必死に抑える。

 

「…………く、そっ………ッ!」

 

 だが、もう止まりそうになかった。

 年相応の顔つきは消えてしまう。

 

 悔しい、なあ。

 なんで、なんで先生なんだよ。

 

 最初に出会った頃のかつてを想起させるような、子供の顔になっていく。

 

「……フェスタ」

 

 くしゃりと、柔らかく頭を撫でられる。

 暫くのあいだ無言でそうしてくれた。

 先生。

 私の人生における、先生。

 あなたからの言葉にどれだけ生かされてきたでしょうか。

 最後の最後に私を殺さないための鎖を付けるなんて、酷い大人がいたものです。

 こうして年齢を重ねた私でも、先生の前ではまだ教え子なのでしょう。

 

「せん、せいッ」

 

 それでも、だとしても。

 指を向けて、煽るように。

 私は勝負師として受けて立つことにしたよ。

 

「その、しょうぶ……のったぜ……ッ!」

 

 勝負師に二言はないからな。

 

 

 

 

 ナカヤマフェスタ様

 

 再度のご連絡失礼いたします。

 先ほどお電話差し上げました───の父です。

 娘につきまして、かねてより入院加療中でした。完治に向けて治療を続けてまいりましたが、この数日で病状が悪化し、去る二月六日にて永眠いたしました。

 ここに生前のご厚誼を深謝し、謹んでお知らせいたします。

 なお通夜ならびに葬儀式告別式は下記の日程で執り行います。

 

 ・通夜:二月九日(金)十八時

 ・葬儀告別式:二月十日(土)十一時

 ・斎場:───会館

 ・喪主:───(父)

 

 

 

 

 二月にしては珍しく、雲一つない晴れ空だ。

 希薄で澄んだ、冬の光が静かに降りそそぐ。

 

 少し呼吸をすれば白い吐息がもやもやと吐き出された。冷えた指先は赤くなり、肌の保湿は失われ乾燥してしまう。あとでクリーム塗らなきゃなと忌々しく思う。

 寒空の下、校門前の花壇には椿が咲いていた。

 

「それで、こんな田舎町まで来て大丈夫なのかよ?」

 

 背後に立つスーツ姿のキリッとした男、というか元トレーナーに悪態をつく。

 

「大丈夫ってのは?」

「アンタも仕事……てか油売れるほど暇じゃないだろ」

 

 コイツにも教え子とやらが居るだろうに。今じゃ出会ったころと違って、チーム単位で管理している敏腕トレーナーじゃねえか。

 

 まあ流石に全くプライベートがないわけじゃないと思うが───いやコイツの場合、暇があってもレースだけ考えてそうだな。

 ハアッ、とため息をつく。

 

「ま、久しくもないか。先生の葬式以来だな」

「そうなるね。でも卒業以来、あまり話せてなかったから」

 

 お互いに忙しいからなあと仕方なく思う。

 

「親父さんのことだしアンタも呼ばれてるとは思ったけど、流石に急だから来れると思ってなかったんだぜ。ああ、もしかして危篤状態の時も呼ばれてはいたのか」

「ごめん……自分の都合着くころには、もう」

「いやいや責めてるわけじゃねえって。そんな過ぎたことで悲しむのは先生も望んでないだろうし、そこまでにしときな」

 

 備えつけられた散水ホースを片付けて、トレーナーに顔を向けた。

 改めて見るとコイツも変わったなと思う。新人だったときの若々しさは無くなり、オーラというか雰囲気が熟練のそれを纏っていた。

 現役ウマ娘らからも人気あるようだし、将来は安泰だろう。

 

「そう言えば」

「ん?」

「先生が着ていた死装束って、ナカヤマが用意したの?」

「ああ……先生との約束でな。流石に急だったけど、シリウスのやつに頼んでシンボリ家の人脈を利用させてもらったよ」

「随分手が込んでると思ったら、シンボリ家も噛んでいたんだ」

「ククッ、こういうとき金持ちの知り合いってのは心強いねえ」

 

 支払いは結構な額になったけどな。

 それでも間に合わせてくれるんだから、やっぱ名家は凄えよ。

 

「立派な椿柄だったろ。まあ縁起物じゃないのは分かってるんだけどさ」

「ううん。これ以上なく、美しかったよ」 

「……そうか。じゃあ先生も喜んでくれるだろうな」

 

 小鳥の羽ばたく音が聴こえる。

 ふと空を見上げると、一羽の雀が太陽へと消えていった。

 

「先生は───最期は綺麗に逝けたんだ」

 

 白く透き通るように、美しいままで。

 これで約束とブローチへの対価にしちゃあ充分だろ、先生。

 

「綺麗になれたのは、ナカヤマのおかげだよ」

「ククッ……慰めるのが得意になったもんだな?」

 

 若い娘らを誑かすなよと冗談言うと、ナカヤマはよく後輩からモテたよねと笑われた。

 

 後ろから、遠くのほうから子供の声がする。

 はしゃぎながら走り回る子供達の声だ。

 先生もかつては同じ光景を見ていたのだろうか。

 

 私は校舎のほうへと振り返る。

 花壇には昨年植えた椿が咲いていた。

 

 赤茶けた縁取りの土台は年季を感じさせる罅割れがあり、乾燥してカラカラになった土が敷き詰められている。罅割れた縁取りからは土が溢れていて、奥の方には植えてもいない雑草がボウボウと生えてきている。煉瓦造りの耐久性はまだ良いが、苔や黴のような汚れなんて数瞬見渡すだけで見付けられてしまう。真冬の乾燥した空気ならまだしも、夏場や梅雨の時期なんか気味の悪い蟲らが集まって死骸となっては放置されてる始末だ。草花を育てる土台という役割で考えると、既に瀕死の体だと思う。

 

 ただ。

 この花壇には、先生の植えたすみれがある。

 まだ二月中旬だ。すみれの時期ではない。

 私はいつか見届けられるだろうか。

 

「やっぱり冬だから、あまり咲かないね」

 

 艶艶しい椿だけになった花壇を見つめている。

 トレーナーは何気なしに、そう呟いた。

 

「ああ」

 

 そうだな。

 今は二月なんだ。

 これだけ寒いし雪は降っている。

 草花は枯れていくし樹木は寂しくなる。

 

「咲かないのは当たり前だろ」

 

 それでも。

 先生の言葉を思い浮かべる。

 いつか来る春を想像して、私はもう一度花壇を眺めた。

 

 

「まだ───冬なんだ」

 

 

 


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。