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…………私は、どうしたんだっけか。
ぼんやりした頭で考える。次第にゆっくりとはっきりと、思考が輪郭を作っていく。意識が静かに浮上し始める。
その最中にも、生暖かくぬめりのある何かが顔を這い回っていた。それに気づいたのは、思考を始めてすぐのことだった。頬、首筋、鼻、唇。身体全体がぽかぽかと温まってきている。何だか妙にそれが心地よい。
世界が真っ暗なまま、現状を把握するために緩慢な脳みそを働かせる。どうやら気を失ってたらしい……と思い当たり、一拍。
「ひぅっ!」
次いで、顔から血の気が引いた。口元が引き攣る。相変わらず視界は真っ暗なままだ。というより怖くて目を開けられない。
気を失った女性にナニカが這い回るシチュエーション。男であったときは一度くらいは見てみたいと思ったが、やられる側としては堪ったものではない。
――十中八九、触手だ。
ファンタジー世界の定番が、何故私の身に襲い掛かったのか。ここは空気を読んで「ら、らめぇ」とか言っておくべきなのか。
そんな馬鹿なことが頭を巡っている間にも、ぴちゃ、ぺちゃ、と粘性のある暖かい液体が私の頬を撫でている。
勇気を振り絞り、恐る恐るといった感じで瞼をゆっくりと開けていく。触手は……どうやら見当たらない。触手だと思っていたものは私にのしかかっている犬っぽいなにかの舌だったようだ。
ど、どうやら恐れていた事態じゃない、のか? いや、違う! これは、獣姦フラグ!?
「のわぁぁぁぁあああああ!! アブノーマルは堪忍してぇええええ!!」
身体のバネをフルに使い、私にのしかかっている犬っぽいなにかを蹴り飛ばす。
涙をぼろぼろとこぼしながら、乗っていた布を胸元に掻き抱いて壁際へとずりずり後退していく。背が壁についたところで周囲の様子に気がついた。犬っぽいなにかは床を転がった後、短くうなって横に佇む女性の影へと飲み込まれていった。
「…………へ?」
「あ~、ショウトラちゃんが~。聖ちゃん~、ひどい~。ショウトラちゃんがかわいそうよ~」
聞き覚えのある声に、見覚えのあるシルエット。思わず間の抜けた声を上げてしまう。
「まったく、ようやく起きたワケ? 試験ももうとっくに終わったわよ」
「それよりあんたいったいどんな夢見てたのよ。触手やらアブノーマルやら、聞いてるこっちが恥ずかしくなるようなことをぶつぶつと」
非難の声を上げた冥子ちゃんと、その後ろで呆れたように私を見るエミさんと令子。それを呆然と、胸に掛け布団を抱いたまま眺める私。そうしてようやく、ここが医務室なのだと気がついた。ショウトラも私の怪我を治そうという意図でなめていたのだろう、とようやく情報が繋がった。
「って、あ、そっか。私、冥子ちゃんの暴走に巻き込まれて」
「そ、優勝は冥子で、準優勝が聖。あんたが気を失ってる間に三位決定戦も行われたんだけどねー」
そこまで楽々とした様子で話した令子を、エミさんが悔しげに睨みつける。その様子でどうなったのか直ぐにわかった。つまりは、令子が三位。エミさんが四位ということになったのだろう。
しかし、まぁ三位決定戦は行われるものの、特に三位になったからといって特典があるわけではない。公式な記録には順位のついた四名は載るが所詮はその順位差程度のものなのだが。
とはいえ、上位者は実力も折り紙つき。この試験の順位も考慮されて他の合格者より早く研修を終えられるだろう。事務所を起こした時の箔も違うだろうし。
「それにしても、聖も馬鹿よねー。わざわざ近づいていかなきゃ、十中八九アンタの優勝だったでしょうに」
「え? えぇと、まぁ、相手が冥子ちゃんでしたし。数少ない友人相手で無意識に油断しちゃってたのかも知れないッスね」
「んで、身体の方は大丈夫なワケ?」
「ええ、ショウトラのお陰で、ピンシャンしてますよ」
まだ若干混乱している思考をうっちゃって、肩をぐるぐると回してみせる。体に痛みは残っていない。それを聞いてか、目の前の三人の雰囲気が和らいだ。
「ほら聖。アンタだけGS免許受け取ってないんだから、動けるならさっさと手続き済ませてきちゃいなさい」
「あ、りょーかいっス」
促されるまま真っ白なベッドから降りる。少し頭がくらくらしてよろけたものの、どうやら大事はなさそうだ。
シスター服は暴走に巻き込まれてか、ボロボロだ。上半身は大分マシだが、裾あたりは酷く破れて布地が減っていた。左脚の外側にスリットのように切れ目が入って、太腿が見えてしまっている。こんな破れ方をするようなダメージを負って、よくも今無事なものだ。ショウトラがすごいのか、弱まったとはいえギャグ特性のお陰なのか。
はぁ、と小さくため息をつく。何でこんなことになったかも思い出したからだ。
ひとえにギャグキャラとして、高島聖は横島忠夫よりも劣っているのだろう。お笑いに生きてきた私としては確かに悔しい、のだけど。いくら再生能力が弱くなったからといって、流石に20にもなって馬鹿なことも出来んよなぁ。つか、そもそも女じゃあんまり身体張っても笑いは取れんだろうしな。
気落ちした私を訝しげに見るエミさんに待ち合わせる場所を聞いて、気分を切り替えようとしたけど失敗。やっぱりため息は漏れてしまう。肩を落としながらも、しっかりと、確かめるように床を踏んで救護室を後にした。
何事もなくGS免許を受け取り、幾つかの注意事項を聞いた後、再び令子たち三人と合流しようと会場の入り口まで小走りする。急ぐ。試験会場にはもう見学者はおろか、試験者も数えるほどしかいない。どうやら長い間寝こけていたらしい。
そうして着いてみると、神父も待っていてくれていたようで入り口の待ち人は四人に増えていた。
「すんませーん。お待たせしました」
「聖くん、身体の方は大丈夫だったのかい?」
手を小さく上げながら駆け寄っていくと、神父が私に気づいて声を掛けてきた。真剣な眼差しで、上から下まで確かめるように眺められる。こうも心配されると、なんというかこそばゆい。
「もう大丈夫っすよ。心配かけちゃったみたいで申し訳ないッス」
「いや、無事なら何よりだよ。それはともかく、お疲れ様」
労いの言葉に、思わず「へへ……」と笑みが漏れてしまう。
何だかんだといって、神父にはとても世話になってしまった。収入のない私を養ってくれた上に霊能力の特訓や講義までしてくれていたのだ。買い物や料理、掃除と出来る限りで手伝っていたけど、差し引きしたら絶対に負担の方が大きい筈だ。けれど、これからは表立って仕事の手伝いも出来るだろうし、独り立ちして軌道に乗れば資金面でも助けることが出来る。
GS試験に合格したという事実よりも、これからこの免許を使って恩返しが出来ることが嬉しい。
その後雑談するに、最初は神父も令子たちと一緒に救護室に向かったものの、女性三人に囲まれて居心地悪く、気絶した女性を眺めるのも不躾だろうと外で待っていたらしい。令子が「髪の毛を振り乱して、ものすごい剣幕だったわよ」なんて脚色交えて語るものだから、つい声に出して笑ってしまった。
「ま、まぁそれはいいじゃないか」
顔を赤くして、照れくさそうに神父は言う。それがまた面白くて、自然と口元が吊り上ってしまう。話を変えるためか、今までの空気を払うように神父が咳払いをした。
そこで唐突に思い出す。そうだ。私も神父に伝えておかなければいけないことがあったんだ。
「――ああ、そうだ、令子クンにそこのお二人も。今日はこの後予定はあるのかな? 良ければなんだが……」
「あ、すんません。この後令子たちと四人でお祝いしよう、って話になってるんですよ。そこで夕食も食べちゃうんで、申し訳ないんですけど今日は夕飯作れそうにないんですけど……」
お祝いの話自体は、実は決勝前に冥子ちゃんからのお誘いがあったのだ。
その時二次試験は終わっていなかったけれど、四人とも試験自体は合格していたから消化試合みたいなものだったし、何位になろうと免許取得はめでたいものだ。令子とエミさんも二人にしては珍しく何の文句も言わず、素直に三人とも六道邸に招かれることになったわけだ。
「む……そうだね。いや、私のことは心配いらないから、楽しんでくるといい」
「ありがとうございますっ。それじゃ!」
若干残念そうな色が表情に見えたけど、神父は仕方ないといったように笑って了承してくれる。
「十時までには帰って来るんだよ! 最近は物騒だからね!」
神父の言葉を受けて、冥子ちゃんが呼んだハイヤーに乗り込む。
今日はこれから、冥子ちゃんの家で祝賀会だ。普段は滅多に食べられないピザとかチキン、ワインとかも用意されるみたいだから、楽しみでしょうがない。
そんな風に浮かれていた私に、勿論神父の呟きは届かなかった。
「…………心配していたが、聖クンにも友人が出来たか。そうか。よかった、よかった。ああ、それよりも作っておいたパーティーの飾りはどうしようか。しまっておいても使う予定もないから、捨てるしかないのかな。取っておいたピザの割引券は聖くんが帰ってきてから、改めてお祝いで使えるとして……ああ、飲み物もキャンセルの電話を入れておかないと。夕飯は、私一人なら来来軒のラーメンでいいか。ふむ……そうか。年頃の娘を持つ父親というのは、きっとこういう気持ちなのだろうなぁ……」
そう一人ごちる神父の背中は、ものすごく煤けていた。
「ねぇ、聖ってどうしてこの業界に入ろうと思ったの? 人並み外れた霊能力があるのはわかるけど、きっかけってあった?」
ワインを片手に、一口サイズのピザを頬張っていると、令子から質問が飛んできた。令子もほろ酔いといった様子で、試験の時よりも口調がフランクになっている。
「むぐむー、んんむもぐん」
「……口の中のモノがなくなってからでいいから」
いや、それにしても料理が美味い。冥子ちゃんは問答無用で私たちと一緒にお祝いするつもりだったようで、到着した時にはもう料理が並べられて家を挙げてのパーティーになっていた。
試験に合格したことよりも、もしかしたら冥子ちゃんが自宅に友達を連れてきたということの方が重大なのかもしれない。人数より明らかに多い料理は、私たちがくることを前提に作られていた。
お邪魔させてもらうとすぐに冥子ちゃんのお母さんがやってきて、満面の笑みで娘を嫁にやるような力の入れようで挨拶された。目元には涙が溜まっていた。使用人の人たちにも、「いつまでもお友達であってください」と揃って頭を下げてお願いされた。冥子ちゃんは恥ずかしいといった様子で怒っていた。
令子、エミさん、私の三人は、そのあまりに高いテンションにちょっとだけ引いていた。
「んく。……ふう。あー、こりゃ美味い。って、えっときっかけでしたっけ? えー、私の場合は他に選択肢がなかったっつー感じっすかね」
「選択肢がなかったって、両親がGSとかなワケ?」
私の返答に反応したのは、グラスを傾けていたエミさんだ。ほんのりと頬が染まってきている。冥子ちゃんは何が嬉しいのかわからないけど、ニコニコしたまま私たちの顔を見回している。
「実は私、記憶喪失なんすよ。神父に拾ってもらうまでの記憶がほとんどないんですよね。どうやら潜在的に霊能力はあるみたいなんで、せめて手に職つけておいたほうがいーのかなー、とかだと思います。たぶん」
「――それって、結構大変なことなんじゃないの? なんでアンタはそんな、他人事みたいなのよ」
「実感がないってのもあるんすけど、元々楽観的な性分なんだと思います」
呆れたように令子。「聖らしいワケ」とエミさん。けれど投げ掛けられた軽い言葉と、浮かぶ笑みとは裏腹に眼差しは沈痛なものになってしまっていた。
「聖ちゃん~。可哀相~~」
冥子ちゃんに至ってはご覧の通りえぐえぐと涙ぐんでいる。酔っているのだろうか。
ありゃ、しまったなー。こんな盛り下げるつもりはなかったんだけどなぁ。打ち明けるわけにもいかないから仕方ないとはいえ、みんなを騙していることに罪悪感が。うう、小さな良心が痛い。
「本人はあんま気にしてないんで、大丈夫っすよ冥子ちゃん」
表面上は普通にしてくれている令子とエミさんに向かってまで『気にするな』とも言えないので、にかっと笑みを浮かべて冥子ちゃんに伝える。
目元が涙でぼろぼろになっていたのでティッシュを冥子ちゃんに渡してあげると、それでびーむ、と鼻をかんだ。……そういう用途のつもりで渡したんじゃないんだけど。
「ま、んなことより、明後日はどうします?」
「明後日って……あー。本当にやるの、それ」
「あたりまえよ~。令子ちゃん~嫌なの~?」
「……? いったい何の話なの?」
片手で頭を抑えるようにして呻く令子に、冥子ちゃんが唇を尖らせた。
残ったエミさんは話が飲み込めず、怪訝そうに私たちを見ている。
「エミ、あんた明後日予定入ってる? つか、入ってないでしょ。もちろん」
「ムカつく言い方してるんじゃないワケ! ……まぁ、予定は今のところは入ってないワケだけど」
「結局予定無しなんじゃない」と令子に言われ、不機嫌になるエミさん。また口喧嘩が始まりそうなので、横から口を挟むことにする。
「ピクニックに行こうかって話になってるんすよ。予定ないならエミさんも参加っスね」
「ちょ、ちょっとまちなさい! 何で私の承諾も取らずに話を進めているのよ!?」
この後の展開は予想できるんで、エミさんについては冥子ちゃんと令子に任せりゃいーか。
テーブルから、なんか小さな黒い卵の乗ったビスケットみたいなもの(クラッカー?)をぱくつく。……うーん。まずかないけど、ボリュームが足らんな。これ。同じ卵ならイクラ軍艦の方がいいな。お、そうだ。どーせなら寿司とか、高価で滅多に喰えないもん狙うか。
「なーに、エミ。あんたピクニック行きたくないの?」
「はん、そんな面倒なことお断りなワケ。だいたい何が悲しくて女四人集まってピクニックなんか……」
「冥子ー。エミ行きたくないらしいわよー」
「ふえ、エミちゃん~。なんで~? 私たち~、みんな仲良しじゃない~。きっと~楽しいわよ~」
お、冥子ちゃんの声が震えだした。デジャヴデジャヴ。我関さず。三人を放って、メイドさんに「おすすめとかあります?」なんて訊いている私。
「令子! アンタ卑怯なワケ!!」
「文句があるなら、聖にいいなさい。私もあの子にやられたんだから。そんなことよりフォローしないと酷いわよ。決勝での聖みたいになりたいの、アンタ」
「うう~~。せっかく~お友達になったのに~」
「わ、わかったわよ! 付き合えばいいんでしょ!」
「エミちゃんって~、わたし~最初は怖い人だと思っていたけど~やっぱりいい人よね~優しいし~。冥子~嬉しいわ~~」
結局令子と同じようになったらしい。本当に花が咲いたように冥子ちゃんが微笑んでいる。それを眺めながら、大トロの炙り寿司なんてもんを口に放り込む。うむ。美味い。流石大トロ、すげーな。
もしゃもしゃと食い溜めしている私の横に、すっと寄ってくるエミさん。何だろうか。エミさんも寿司狙いか?
「聖、アンタ覚えておくワケ」
……ん? 何を?
帰ってきたら、ゴミ袋に色折り紙で作ったわっかが押し込められていた。あれだ。鎖みたいになってる奴。神父にどうしたのか聞いてみても、言葉を濁すだけで答えてくれない。なんだったんだろうか。
公開分は以上になります。