「鉄と潮の匂い……浸水区域にでも行ったのでしょうか? ……わ、わぁぁぁ!」
白夜最終日。出勤する道中に会ったアロナックスチーフに声を掛けられた。勢いよくペダルを蹴って、ロードバイクを漕いでいたようで。こちらに気付いて減速するとともにバランスを崩していた。……頭に光輪が浮かんだと思ったら、自転車ごと地面から浮いて体勢を立て直したが。
それに驚くとともに、そもそもとして浸水区域の特徴をなぜ知っているのかといった疑問こそある。そうした意図を含んだ視線を向ければ、アロナックスチーフは説明をしてくれた。
「一時期は本社の探査収集部門にいたんです! いくつかのツールは遺跡や外郭で……原型? が見つかったりするらしいので。こうして浮いたりしてるのも、アロナちゃんのものになった遺物の効果なんですよ。……まあ、業務中は使用禁止になってるんですけど」
レールガン弓を使う時のバリや白の便利屋のように、遺物の使用に際して光輪が浮かぶことがある。そういうものの類だろう。
「なんか喋りすぎちゃいましたね。普段はこんなに話さないんですよ?……最近は幸せなことだけだからでしょうか」
そんな幸せなことばかりの日々──というより不安やら負の感情が
アロナックスチーフは自転車を置きに行ったので、先に社員証をかざして出勤。埋没処理が始まってからの移動経路に関しては、入念なシミュレーションが必要だ。なにせアナウンス開始から脱出までは、多く見積もっても5分。
とはいえ、エンケファリンの方はさほど難しくない。なにせ俺が属しているのは福祉チームだ。精神ケアのために、純度の高いエンケファリンを扱うことが往々にある。コギトの方は……L社の特異点ではあるが、俺個人としては扱う知識が足りない。そもそも、あれは釣瓶がなければ汲み上げることができないので、副次的な目標でしかなくなる。将来的に図書館に行って、L社の本を手に入れることができれば別だが……
そう、図書館だが。俺としては行く気が全く起きない。なにせあれは出来レースだ。
俺もうろ覚えなので、整理のために言語化してみるが。招待状を使った瞬間に、本体たる俺の体は図書館で眠らされる。接待に挑むのは、量子的にコピーされて複写された存在だ。このあたりは、L社本社における記録チームと原理は同じだな。実際、ホクマーがアンジェラに対して説明していた。
これのおかげで図書館側はいくら負けて接待が失敗しようとも、光の強さでもう一丁ができるわけだ。そもそも図書館側が倒せるスペックじゃないと招待状が届かず、一度来てしまえば勝つまでド級のリトライが発生する。それがタネを知った上で見る図書館なわけで……ズルじゃないか? 逆説、負けても死なないので緊急避難先に使うような特色もいるが。
そんなわけで、コギトを手に入れても有意義に使えるかは微妙だ。やるべきことを整理できたので、いつも通りの業務。変化といえば、エルフさんが側頭部に仮面をかけているくらいか。和風の美少女が狐面を顔から外した時みたいな感じのあれだ。"貧しい脚本家の手帳"E.G.Oギフトだろうか。そう思いながら業務の準備をしていると、E.G.Oスーツの胸ポケットに手帳が入っているのに気付いた。これもギフトか? まあ、貰う分には問題ないだろう。ランクが低ければ、ギフトの貰い過ぎは自我の侵蝕を招くが。何度も言うように、俺は5級職員だからな。……もうすぐ、
……本当に何もなかった。なんなら、他の部署でも死者が出なかったまである。幸福で平和な一日。そして──
──光が消えた。都市は静まり返り、暗闇が包む。
「黒昼」
静寂の中で歩みを進める。普段とはうってかわって、出歩く人間すらほとんどいない。なんなら、出社しているのはアロナックスチーフとエルフさん、ゼペットチーフくらいだ。……少し遅れて、懲戒チームのブラウンチーフも来た。
「無断での欠勤がこれほど相次ぐとは。翼の職員ともあろう者が、社への所属意識が低い……というレベルではありませんね。明らかにこの現象の影響でしょう」
「どこかの翼が折れたんでしょうか。それにしても、都市全体に影響するなんて……」
ブラウンチーフとアロナックスチーフが話している。……こういうとき、真っ先に口を開きそうなエルフさんが黙ってるのはなんか怖いな。
「都市を照らしていた光は、南部の方だったか」
「精神影響で真っ先に想起するのはM社ですが、あれは海や水といった幻聴のはずです。該当するかと問われれば、否と言うほかない」
話しながらも業務の準備を整えていく。今回は様々な幻想体を担当しなければならないので、他の部署のマニュアルも改めて読み直したりと大変だ。脱走されても、この面子なら十分に鎮圧できるだけの能力はあるが。面倒さがとてつもない。
「……事務職がいないの、思ったより快適」
幻想体は、人を殺すほどエネルギーをよく生産する。よって、言ってしまえば犠牲として雇われるのが事務職なわけだが。黒昼に影響されて誰も出社してこない。おかげで、懲戒チームの"風雲僧"の脱走を警戒しなくて済んでいる。
仕事の量は多いが、やれることはいくつかあるので今のうちにこなしておく。エンケファリンとE.G.Oを優先してコギトは副次目標と言ったが、それ以外にも副次目標は存在している。例えば、幻想体制圧用の毒性ガス弾。リンバスだと、ガスマスクのくだりで話題に上がっていたと記憶している。そもそもとしてその程度で制圧できるような個体は少ないが、人間に対しては十分に有効だ。なんなら、封鎖したい場所にこれを撃てばいい。疑似的なバリケードの完成だ。
そうした利便性の高い物を纏めて置いておいたりすることで、持ち出しが簡単になる。前世で言うところの、災害時の持ち出し袋が感覚として近いだろうか。
福祉チームから、HP弾と高純度精製エンケファリンを纏める。次いで、懲戒チームから毒性ガス弾。これは、一部署につきひとりのワンオペになるだろうことからブラウンチーフに分けてもらった。
管理人も黒昼でメンタルに影響されているのだろう。完全に現場判断で仕事をすることになる。
「ノルマ達成ですね。お疲れさまです~」
そうして仕事を終えてまた集まったわけだが。さっき集まった時はなにやら考え込んでいたエルフさんが妙に明るい。
「提案なんですけど。この支部、沈めませんか~?」
……ん? いや、埋没処理の話だろうけど。なんで今言い出す?
「エルフさん!? あの、ヤケになってもエンケファリン乱用とかはダメですよ!?」
アロナックスチーフが凄く心配しているが、エルフさんは笑って否定していた。
「たぶん~、L社の本社なんですよね。あの光の出処って~」
「……つまり、このロボトミー社が折れたのだと、そう言いたいわけですか?」
一番レスポンスが早かったのはブラウンチーフだ。人を外見で判断したくはないが、あの眼鏡賢いな。
「つまるところ、制御できないタイミングで支部が閉鎖されるより、我々でその時期を決定しようということか」
ゼペットチーフもアロナックスチーフも、理解が早い。この場にいるのが全員賢いおかげで、話がスムーズに進む。
「管理人室は、E.G.Oなりなんなりで扉を壊せばいい。そこからセキュリティシステムを切って、高純度のエンケファリンとかを持ち出せばいい」
本来は俺ひとりの計画だったが、より多くの人手で行えるならそれに越したことはない。
「……この私がネズミや組織の害獣のような真似をすることは酷く気に障りますが……いいでしょう。そこのふたりが共通で見解を持っているのであれば、一定の信憑性は存在します」
「エルフの。その意図を汲んだのはオレだ。そして、それに賛成でもある」
「わるいことしちゃいますよー!」
三者三様に賛同の意を示す。そんなわけで、E.G.Oを持ってエレベーターを上がり、管理人室へ。カチコミとばかりに扉を破り、中へ入る。アンジェラのホログラムが業務終了のメッセージを再生しているのを横目に、『管理人の為のロボトミー社マニュアル』を探して皆で見る。管理人の仕事やエンケファリンの構造、収容室の構造といったそれらを騒ぎながら見ていれば、目的の項目に辿り着く。
非常事態。支部と管理人の仕事を終了させるフォーストランペットの発令だ。本来はシステムが自動で鳴らす警報だが、管理人側からでもマニュアルで動作させることはできる。いつでも発令させる準備をしつつ、セキュリティシステムを全てカット。今度は管理部署でエンケファリンやら何やらをくすねてくる。このあたりは特に語ることもないな。無言だったのは、この後の進路をどうするかを考えていたのだろう。警報を発令して退社する以外の全てを終わらせた後、管理人室の椅子でくるくる回っていたアロナックスチーフが、それを真っ先に言い出した。
「フィクサー資格のある人、多くないですか?」
ゼペットさんに~、ネロさんに~。そんな風に指差し確認する。
「都市における大金の絡む事業には、おおよその場合においてフィクサー協会が関与します。翼間の取引においても、翼直属フィクサーによる暗闘の例を挙げればキリがありません」
よって、相応の技能を持っていて当然だと語るブラウンチーフ。というか、この人のことは全然知らないな。オールバック眼鏡ってことくらいしか分からない。
「う~ん。いっそ、みんなでフィクサーになるってどうですか~?」
エルフさんが……いや、今はバーバラと呼ぼう。バーバラはそれでいいのか? アンダーシャフトの後継者会議がもうじきなんだが。
「私は遺物がありますし、フィクサーアロナちゃんが一番似合いそうですね!」
「……待て、アロナックス」
「だから、アロナちゃんです! 指揮チームのチーフでもなくなるんですから、アロナちゃんって呼んでください!」
「はぁ……アロナ」
「はい!」
「なんだ、その頭の輪は」
さらっと光輪を出したアロナックスチーフ……本人もああ言っていたから、アロナックスでいいか。アロナックスに視線が注がれる。それはそうだ。誰だって驚く。
「…………非常に不本意ですが。E.G.Oを利用でき、かつ有力な人員を有している場所という意味合いでは、貴方方と道を同じくするのが最適のようだ」
溜息や不満を飲み込む沈黙こそあったが、全員の進路がこの場で決まった。もう少し熟慮しなくていいのかという思いこそあれ、どのみち再就職があと数日に迫っている。誤差といえば誤差だ。
「それに、ちょうど高等級かつ実績を有するフィクサーがいるのです。せいぜい利用しなくては」
……いや、フィクサーをやるにあたっては必要だから、ワンオペ事務所として登録はしてあるが。
「では、これからも決まったところで! せーので押しますよ!」
アロナックスがボタンの上に手を置く。次いでエルフさんがそこに手を重ねる。やらねばならんのかとゼペットが参加し、なかなかブラウンが動こうとしないので俺が。最後に残った彼が渋々と手を乗せた。
『敷地の埋没を開始します』
『エネルギー転送、50%』
押すと共に流れ出すアナウンス。聞いているのはこの5人だけの、退職案内だ。
『解雇手続きは、契約書に記載のある手順に沿って行われます。社員の皆様の、弊社への貢献に感謝します』
「さあ、行くぞ。……外が夜明けであれば、まだ格好の一つも着いたのだがな」
ギフトの帽子をかぶり直し、ゼペットが歩いていく。同じくらいのペースでブラウンが。
「待ってください~! 私は自転車も取りに行かないといけないんです!」
どことなく気の抜けることを言いつつも、続いてアロナックスが走っていく。俺と同じくらいの身長だからか、前二人と比べて歩幅が……
「色々あった」
「えぇ。色々とありましたね」
最後に、ホログラムで映し出されているアンジェラを見る。エルフさんも同じで、目線がその一点に集中していた。
「……さっき、アロナちゃんがどう呼んでほしいか、これからどうするかと言ってたじゃないですか」
アンジェラから目線を外し、エルフさんは出口へ歩いていく。
「私は……世界を救いたかった。熱意と、祈りと、
黒昼に歩いていく彼女の横に並び、その顔を見上げる。正直、俺も予想外だった。まあまあの人数が埋没した支部に取り残される結果になるだろうと思っていたが。こうして直接の犠牲者が出ないなんて。
「エルフさん、あなたのおかげで──」
まあ、結果としてはあれだ。一言か二言で表すのなら。
「──大丈夫、みんな生きてる」
顔を見合わせて、笑い合って。そうしてまた歩み出した。
ネロ
責任を背負いたくないので、ひとりが一番気楽だった。"快く信じて任せられる相手"を持とうとしなかったので、E.G.Oは不完全なまま開花している。
エルフさん
本名はバーバラ・アンダーシャフト。ネロに、かつて魂の救済を目指していたと告白した。……今まさに、
"裏路地の発明品"
アロナックス
かつては浸水区域の遺跡を調査していた。原典の『海底二万里』では海洋生物学者。
"遺跡の遺物"
ゼペット
元鯨捕りかつ、エイト協会から9級フィクサー証を発行されている。事実上の現役フィクサ―二人目。
"外郭の戦利品"
ブラウン
ALEPHランクのE.G.Oウェポンとスーツかつ、"厳粛な哀悼"と同じく精神力を削ってリロードする超高威力弾薬費不要狙撃銃持ち。
"翼の技術"