壁に向かう女。Limbus Company7章以前であれば、特に変わったところの無い普通の幻想体だ。特に脱走することもない、印象に残りにくい幻想体だったが……現在は違う。
都市の地下にて無数に流れる川の一つに『レーテー川』がある。その水を飲めば全てを忘却する川。その元は、ギリシャ神話において冥界を流れる同名の川だ。ウーティスがその名称を含めて知っていたのもさもありなん。
さて、そのうえで。この壁に向かう女の元ネタは『エウリュディケ』という人物だと思われる。死した彼女を取り戻すためにオルフェウスは冥界を下った。そこでエウリュディケと再会した彼は『決して振り返るな』と警告を受けて、妻を後ろに連れて走ったわけだ。ただ、最後に不安になったオルフェウスは後ろを振り向き、妻の姿を見て、彼女を失ったというオチだ。
端的に推測を伝えると。この幻想体は、最悪の場合"遺跡"に関連してくる。このL社にはクリフォト抑止力があるのでマシだが、正直なところあまり関わりたくない。
なんでこんな話をしているか。人手が足りないということで、俺が代理で作業に入ることになったからだ。安全チームは"溶ける愛"脱走による壊滅で現在再編中であり、新しく収容された幻想体の情報を集められる人間がいないらしい。
そんなわけで、エレベーターで上層へ行き、安全チームへ。貰った書類には固有識別番号しか書かれていない。要は、ファーストコンタクトだ。
実施するのは本能作業。今回の場合、清潔を保つために身体を拭く作業が該当するだろう。隔離室に入って感じたのは湿気。壁に向かう女の近くはカビで汚れており、空気も沈んでいるように思える。
先の推測が正しいかの観点で、あの幻想体が呟いている内容に興味こそあるが。作業を確実かつ早急に終わらせる方が優先だ。それに、この好奇心は余計なリスクに区分される。
"溶ける愛"の粘液塊は精神汚染値を下げる作用や作業成功率の向上もあり、そもそも俺は5級職員なのでTETHクラスの幻想体から致命的な影響を受ける装備をしていないこともあって、スムーズに管理作業は終わった。
「記録。5級職員ネロ。当記録は要請を受けて福祉チームから来た職員が記録者であることに注意されたし。管理作業者の人事評価は、福祉チームのものを参照すること」
管理業務を終え、記録を口述する。ボイスレコーダーは便利だ。
「何かを呟いており、その言葉を聞く者にホワイトダメージを与える。また、こちらの注意を引こうとしているようにも感じられた。自制ランクの低い職員による作業実施は推奨されないものだと考えられる」
そんな風に、得られた知見をボイスレコーダーに話して、書類に纏めたら出張作業は終了。誰ともすれ違わないエレベーターに乗って、福祉チームの休憩室へ。ここが俺の定位置だ。
当然だが、本部とは違って支部には試練が発生しない。なので、作業が入っていない時間は基本的に暇だ。TT2プロトコルの恩恵もあって無限残業が発生する本部とも違い、支部は業務終了時刻も決まっている。
そうして今日も"溶ける愛"に作業をして業務を終わらせた後、E.G.O.装備を受け取ってメンテナンスしている時のことだ。一か月後にワークショップがあると連絡を受けた。それに伴い、ALEPHクラス幻想体の管理といった功績から、K社のHP-N弾や中和したエンケファリンであるSP-E弾、場合によってはK社の再生アンプルがいくつか支給される可能性すらあるらしい。HP弾、『K社とのナノテクノロジー協定により製造された』って書かれているの面白いな。涙にナノマシン要素はないのに。
ともかく、今回のワークショップがこの支部で行われる目的にそういった外部評価も含まれているようだ。
「詳しいことは、指揮チームのチーフから聞いてくれ」と言って、指揮チームの職員は立ち去った。
「指揮チームチーフ、アロナちゃんより業務連絡です! 事前に通達しておいた通り、今日はワークショップ開催日です。他支部の方が見学に来られるので、注意してください!」
"アロナちゃん"と言っているが、眼前の彼女はスーパーAIでも4月1日の赤い視線でもない。名前をアロナックス。指揮チームのチーフだ。ちなみに、チーフというだけあって指示は的確だ。
……海底二万里か。海に関連する名前多くない? ここまでくると、エルフ先輩の本名も海関連じゃないかと疑わしくなってくる。
「ということで、ワークショップでの福祉チームは、ネロちゃんの"溶ける愛"がメインになります。なにせ、ALEPHクラスですからね~」
なので、作業開始タイミングには注意してくださいとエルフチーフから言い含められる。
「他の幻想体は?」
「そうですね~。アロナさんのところのO-01-20-12"縛られた王"とか、ゼペットさんの"夢貪る濁流"とかでしょうか。特にアロナちゃんは目立ちますよ、金色の王冠被ってますから~」
「あれ、一人で作業すると強くなるらしいんですよね。指揮チームチーフだから、活かせる機会は滅多に無いらしいんですけど」
そう話している間に、E.G.O.スーツの最終点検を終える。事務職にスーツの入ったケースを渡せば、それぞれの部署に届け始めた。
「色んな資格があると、やっぱり便利ですよね~。この部署に収容されている幻想体の都合上、他の部署から人員を派遣してもらうのはちょっと難しいので~。最低限の研修で済むネロちゃんには助かりました~」
さあ、業務開始だ。まあ、来訪者対応はエルフ先輩とアロナックス先輩の役割で、俺は普通に作業していればいい。"溶ける愛"の見学に来ると言っていたので、そこで来た人間を目にするくらいか。
そうそう、そこでやっておかなければならないことがあった。ここが鏡の世界かの確認だ。例えば、ここでファウストが来ていた場合。少なくとも、ロボトミー社はBエンドか図書館に繋がるエンドを迎える。なにせ"生き残ったロボトミー職員"なのだから。問題はLimbus Companyにつながらない可能性が高いことだが……まあ、普通に生きる分には問題ない。たぶん。なんか全ての鏡の世界を破壊するのが目的っぽいN社や、外郭の星雲とかいう物騒なのが来る可能性は知らん。
そんな鏡人格ファウストは……いない! 少なくとも現段階でここが鏡の世界だとは確定していない。
P社やK社などの数年あるいは十数年後にダンテと愉快な仲間たちが訪れる支部の職員も見かける。ユーリちゃんはいなかった。
そうした他支部から訪れた変化こそ目新しかったが、俺の業務はただひたすらに"溶ける愛"への愛着作業だ。
さて。ここからはその後の話だ。薬品の取り扱い資格などを取っていることもあって、エンケファリンやK社のHP弾などの搬入に俺も関わることになる。ということで、この支部にHP弾やSP弾、再生アンプルまで支給されたのを真っ先に知ることができた。とはいえ、再生アンプルは高級品だ。扱いに気をつけるようにと言われている。
……まあ、割とすぐに使う時が来たのだが。
「巨木の樹液に然り、外郭を由来とする幻想体もあるとは認識していたが……」
情報チームのチーフ、ゼペットが言う。俺に向けてのものじゃない。状況を認識するための独り言。俺も同じだ。
「よもやあのエビまでそうだとはなぁ……!」
止まらないカモメの声。グレープの残香。蓋の空いたウェルチアースによって転移させられた海は、前世の記憶にある場所だった。
──海霧に隠されし空間を拓くために叩け。
──蒼白なその色を探すが為に鯨たちを鳴かせよ、中身を曝け出せ。
──鯨の鳴き声、揃えば現れん。
その先にある真っ黒な湖。その真ん中に灯台のように立ち並ぶのは、全てが巨大な鯨の尾だ。U社にいる鯨とは比較にならないほどの巨躯を誇るそれらと、あるいはいるかもしれない蒼白の鯨。
外郭、鯨たちが眠りに就く場所。
アロナックス
指揮チームのチーフ。一人称はアロナちゃん。"縛られた王"の包帯みたいなE.G.O.スーツと剣、王冠を被った青髪の人物。
指揮チームの幻想体は"縛られた王"と"夜明けのハンマー"。
情報チームチーフのゼペットとは知り合い。