漂う揺らめいて暗い灰色の湖。
──海霧に隠されし空間を拓くために叩け。
──蒼白なその色を探すが為に鯨たちを鳴かせよ、中身を曝け出せ。
──鯨の鳴き声、揃えば現れん。
その先にある真っ黒な湖。その真ん中に灯台のように立ち並ぶのは、全てが巨大な鯨の尾だ。U社にいる鯨とは比較にならないほどの巨躯を誇るそれらと、あるいはいるかもしれない蒼白の鯨。
外郭、鯨たちが眠りに就く場所。
「巨木の樹液に然り、外郭を由来とする幻想体もあるとは認識していたが……よもやあのエビまでそうだとはなぁ……!」
情報チームのチーフ、ゼペットが言う。俺に向けてのものじゃない。状況を認識するための独り言。俺も同じだ。
「この航海を終えて、帰る」
持っているのは、K社のHP弾と再生アンプル。再生アンプルの方は福祉チームとしての研究用のものだ。なので一本しかない。それと、互いのE.G.O.くらいか。当然、通信機は圏外。
U社のロボトミー支部で行われるワークショップは7日後。逆説、7日後までに辿り着く必要がある。この湖から、あの支部へ。リンバスカンパニーの一行と逆のルートを辿るわけだ。
端的に言えば、クリフォト抑止力の低下した"蓋の開いたウェルチアース"に巻き込まれたのだ。ホンルのウェルチアースEGOがHEクラスだったように、この幻想体のポテンシャル自体はかなり高いものだった。波は廊下一つを押し流し、カモメの声と共に船へと導く。
かつてはプレイヤーに円満退職だとか言われていたこの幻想体だが、イシュメールの紹介PVが公開された辺りから雲行きが怪しくなり。5章が公開された時点で、都市なんだからそう美味しい話があるわけないよねというのがだいたいの評価だった気がする。
実際、辿り着いたのは外郭の海だった。初めはオフィサーも何人か一緒にいた、はずだ。彼らは押し寄せる波に呑まれ、命を減らしていった。大湖や波についてある程度以上の知識がある俺や元とはいえ本職のゼペットと違って、彼らの心は弱い。
『いかなる渾沌と震えにも、自らの精神を保てる己の意思』。それを信じきれなかった彼らは、湖の底へと自らを贄にすることを選んだ。他の末路として、人魚となり果てて俺達に殺されたか。
そうして残ったのが、俺とゼペットの二人だ。いくつもの波に遭遇し、それを超え。
この湖に、辿り着いた。
「……五大災害。幸い、今はいないようだが」
それでも、巨大な鯨が何匹も水面下を泳いでいる。そして、避けられない運命の予測もつく。
例えば、ローランがアンジェリカに恋をするように。エイハブが白鯨に執着するように。あるいはヒースクリフがワザリング・ハイツに行くように。
その名が運命を引き寄せるのならば、ゼペットは──
「ッ! ネロ、構えろ! このままだと──」
「──鯨に呑まれる」
「端的に言おう。状況は最悪だ」
視界に靄のかかったような状態で、目を覚ます。軽く目元を擦ってみるが、曇りがかった風景のままだ。
そんな中でも分かることとして。蒼白の鯨ほどの大きさではないが、それでも遥かに巨大な鯨の体内だということだろう。幸いにもゼペットとはぐれることなく飲み込まれたわけで、彼女の声もちゃんと聞こえている。
「……脱出手段」
周囲を軽く見回せば、乗っていた船の残骸。これで、仮にこの鯨をどうにかしたところで、脱出手段はないことになる。
それより、脅威なのは酸だ。金属製の船のパーツは、八割ほどが溶け切っている。俺とゼペットはEGOスーツが優秀だから被害を受けていないが……
「……霧?」
「あぁ。脱出の手段が失われたこともそうだが、これも厄介だ」
強力かつ大量に分泌されている胃酸が異常なまでに霧散し、強い酸性霧を作り出しているらしい。
「福祉チームだったな。スーツの簡易整備は可能か?」
「流石に材料がない。酸で損耗しきるか、クリフォト抑止力下での制御が効かなくなって侵蝕するまでがタイムリミット。傷はHP弾で治せるけど」
これ、手詰まりじゃないか? 覚悟はしていたけど、流石にこの死に方は想定してなかった。いきなり大湖の外郭部に飛ばされるのは想定外すぎる。
「……殺すか。現状、オレ達が取れる手段はそれくらいだろう。心室へ辿り着き、この鯨の心臓を破壊する。少なくとも、それでスーツの損耗は止まるはずだ」
体内の探索は、想定より苦労しなかった。ゼペットは優秀な船乗りであり、鯨の体内で起こり得る危機についての知識は俺が多少なりとも保有している。戦闘力は、論ずるまでもないだろう。問題は、日数の経過だった。
「殺して、この霧と人魚への変貌を止めて。その後は……いや、オレはやれる手段を試すだけだ。情報チームの業務と変わらん」
俺とゼペットは歩みを止めない。目指すは心臓部。船の残骸を組み合わせれば筏くらい作れる。移動に問題はない。リンバスの一行と比べれば、こちらはそれほど長い道のりでもなかったし。道中で特筆すべきことといえば……
「人魚か。一息に片付ける」
立ちふさがる……いや、あれらにはそんな目的もないのだろう。目の前にいるから襲う。そんな単純な行動原理の人魚たちへ、武器を構える。ゼペットの高い身長と同じくらいの錨。夢貪る濁流のEGOは、雷光を纏いながら打撃を叩き込んでいく。
彼女が大型武器を持って前線に出ているが故に、俺の役割は後方からの援護だ。トーチを振るって飛散する粘体の炎を、これからゼペットが攻撃する人魚へ撃ち込んでいった。纏わりつくそれは敵の行動を鈍くして、防御を考えることなく先の先を取り続ける支援になる。常に酸がEGOを損耗させる以上、攻撃を受けないことこそ優先すべきことだ。
故に、問題なのは継戦能力だろう。クリフォト抑止力下にない状態で行われる長時間のEGO運用は、確実に精神や身体を蝕んでいた。そのうえ、鯨の体内にいることから人魚への変化も発生している。
「……まさかオレが、阿呆どもの船のやり残しを片付けるとはな。……あぁ、ともに沈むべきだろう。船長はまだ航海を続けている。なら、アレを連れて行く役目はオレだ」
人魚や血鬼は、定型化したねじれだと言われている。そして、ロボトミーEGOは幻想体の自我を借りている装備。人魚の侵蝕とEGOの侵蝕で自我はどんどんと削れていき……精神汚染値は限界に近い。
──心臓が脈打つ様を実際に見たのは、初めてのことだ。
精神の汚染は限界に近い。俺も、ゼペットもだ。白鯨より体躯は小さいといえど、それでもなお巨体といって相違ない。ダンテ一行と違って黄金の枝もなければ、変化を抑制する手段もありはしないわけで。
E.G.O.を着ているが故にマシではあるが、今度はそのEGOに自我を持っていかれかけている。人魚になるか、侵蝕された幻想体になるかの二択が突きつけられる寸前にここまで来れたのは、奇跡といっても過言ではなかった。
「……
ゼペットは錨を構える。俺には手出しするなと言っていた辺り、なにか思うところがあるのだろうか。あるいは過去のことと混同している可能性もあるが。少なくとも、俺はナレンシフ号なんて船を知らない。
……最期は無言だった。自我も限界だったのだろう。半ば"夢貪る濁流"の様相となっていたゼペットは、錨を引きずる突進を以て心臓を穿った。
感慨はない。彼女にも事情はあったのだろうけれど、今となってはそれを知ることもできないし。
さて、脱出だが。必要なのは鯨だった。正確には、それの侵蝕。
前提として、E.G.O.であるハーロットの原型は、溶ける愛のそれに近い。そしてまだ使っていない機能として、人間を眷属に変異させる力も備わっている。ただ、使いこなすには理解度が足りていないだけで。
故にこそ、鯨が──湖で人間を宿主とするものの総称としての鯨が必要だった。
心の為せることを、実際に理解するために。
心理的な抵抗を解けば、無数の管が肌を覆う。酸を放出するための器官だろう。千本筋人魚が近いだろうか。
赤いドレスの下、自身の柔肌は次々と覆われていき……
同時に俺は、あるだけのHP弾を自分に打った。
前にも自身のEGOからの連想として挙げたが、K社の再生アンプルに起因する品は、宣伝文句にあるようなナノマシン技術の産物ではない。投与した人間が正常だと思う姿に自身を作り変える涙だ。
であれば。一瞬でもいい。"ハーロット"が俺を侵蝕せんとする鯨すら制御下に置けたのなら、K社の再生アンプルはその状態を正常なものとして固定できる。それまでは、HP弾で人魚への変異を堪えればいい。特異点の正体について知識がなければ、そもそも実行できなかったアイデアだ。
こればかりは、今までしてきた就職だとか資格の取得とかとは全く違う。誰一人として成していない無謀。白鯨に侵蝕されていたエイハブも、悪と定義したあれの力を使おうとは思い至らないだろう。
「思考は……継続しテいる。第一段階ハ突破」
伝達される煩雑な情報を処理しきれるよう、退行した神経をHP弾が修復する。今まさに開花しているEGOが自我の殻を守る中で、中身がぐちゃぐちゃにかき回されて。意識は浮沈し、浮遊する。ねじれでも、自身の根幹を失い幻想体になり果てるのでもない、異物混入。
「一度デ、イイ……都市の苦痛がそウでアルよウに、タッタ一度、断チ切ルことガ、デキレバ……」
炎の色が変わる。
この場に同化してはいけないものはない。まだ生命活動を続ける人魚も、EGOに侵蝕されたゼペットも、心臓を貫かれた鯨も、区別なく同化し血族にしていく。
「コノ心ニ残ル
人魚として異形化していた部分が渇き崩れ、人間のカタチで再生する。やるべきことも、問題なく記憶していた。K社の再生アンプルを自身に打ち込む。
涙が記憶している俺自身へと姿を戻し、正常化は果たされた。今や
"夢貪る濁流"の固定行動として最初に行う『襲いかかる濁流』。これは地形を水中に変化させるものであり、"溶ける愛"の要素を多分に含んでいる俺のEGOと混ざれば、"ハーロット"は生物だろうと無生物だろうと自らのものとして塗り替えることができるようになる。……あるいは、全てを領有可能なこの力が、このEGOの本質かもしれない。
ネロ
鯨と人間が混ざった。自我は今までと同じで、ちゃんと前世の記憶もある。
メンタルが崩れると鯨の方に自我が引っ張られていくので、EGOを発現していることも相まってメンタル管理を怠ると死ぬ。