たいていの場合、朝の目覚めというのは、クララ・フォルネウスにとって憂鬱なものだった。
これまで、クララが朝起きた時に最初に思うことといえば、今日もクソな一日が始まるなあ、というものだった。クララの生家であるフォルネウス子爵家は、いわゆる没落貴族と呼ばれる貴族家だった。要するに領地経営に失敗した結果、借金で首が回らなくなり、領地を切り売りするしかなくなった貴族ということだった。とにかくお金に困っており、当然、使用人を雇う余裕などほとんどなかった。
そんなわけで、本来、最低でも五、六人は召使が必要な領主館の家事を、クララはほぼすべて一人でこなさなければならなかった。掃除、洗濯、炊事に始まり、ワガママな義姉たちの世話と、とにかく奴隷もかくやという労働環境だった。クララが幼いころに人買いに売り飛ばされなかったのも、クララがいなくなったら領主館の家事が回らなくなっていたという理由が強いのだろう。
故に、フォルネウス領にいたころのクララは、とにかく働きづめだった。当然、まだ夜も明けぬうちに起き出すのが日課であり、その目覚めが憂鬱だったのは想像に難くない。
しかし、ではアンフィリア公爵家に奉公に出されてからはどうかというと――
「……調子が狂いますね」
いままでの習慣で夜明け前に目覚めたクララは、ベッドから飛び起きようとして、きょとんと眼をしばたたかせた。そこは、ホコリまみれの屋根裏部屋ではなく、広くはないが一人で生活するには十分な部屋だった。ベッドもしっかりとしており、毛布も厚く暖かだった。家具も一通り備えてある。リズベットの専属メイドということで、わざわざ貸し与えられた個室だった。
「これが普通のメイドというものなんですかね……?」
しばしベッドの上でボーっとしていたクララだったが、長年の習慣からか二度寝する気にもならず、もそもそと起き出した。汲んでおいた水で顔を洗い、歯を磨く。支給品であるメイド服に着替えると、手櫛で髪の毛を整える。とはいえ、手入れのされていない灰色の髪は相変わらずぼさぼさだった。それを無理やり髪留めでとめる。備え付けの鏡をのぞくと、濁った灰色の目の、貧相なメイドの少女が半目でこちらを見つめていた。要するにいつも通りの自分ということだった。
身支度を終えたクララは、前の日の洗濯物を手に、部屋を出た。使用人専用の階段を降り、裏口から裏庭に出ると、洗濯物を井戸のそばにある桶に入れておく。これまでは自分で洗濯するのが当たり前だったため、最初は自分で洗濯しようとしたのだが、それは下級のランドリーメイドの仕事だとナタリアに怒られてしまったため、心苦しさを感じつつそのままにしておく。
徐々に明るくなってくる空を横目に、クララが次に向かったのはキッチンだった。煙突からはすでに煙が上がっており、人の気配がした。
裏口からそっとのぞき込むと、ぶかぶかのエプロンをした十歳くらいの明るい少年――クリーオが、まるでコマのようにクルクル回りながら、朝の調理をしているのが見えた。
「あ、おはようございます! お姉さん!」
「……おはようございます」
こちらに気づいたクリーオの元気なあいさつに、クララはぼそぼそと返した。
「相変わらず早起きさんですね。朝のまかないまで時間がありますし、もっとゆっくり寝ててもいいんですよ?」
「いえ、慣れていますから。それより、何か手伝うことはありますか?」
「大丈夫です! お姉さんはゆっくりしていてください。後でお茶を持ってゆきますね」
「……はい、ありがとうございます」
手伝いの申し出をクリーオに笑顔で断られ、クララはすごすごと引き下がった。これまでの経験か、クララとしては働いていないと落ち着かないのだが、しかしここのところクリーオはクララが手伝おうとすると必ず休んでいるように言うのだった。クリーオとしては、毎日毎日、お嬢様に怒鳴られ、虐げられているクララを気遣っているつもりだったが、実際は怒られている『フリ』なので、クララとしてはただただ心苦しいばかりだった。
とはいえ、本当のことを言うわけにもいかない。クララは手持無沙汰のまま、使用人用の食堂の隅っこに居座った。クリーオに入れてもらった紅茶をチビチビとすする。
そうこうしているうちに、少しずつほかの使用人たちが起きだしてきた。
「……そろそろ行きましょうか」
気の毒そうな表情を浮かべつつ、遠巻きにチラチラとこちらを伺ってくる使用人たち。その視線を感じつつ、クララは席を立った。お礼とともにクリーオにお茶のカップを返す。
そのまま食堂を出ようとしたところで、クララはふと足を止めた。食堂の出切口脇の棚に、木箱がおいてあった。
そのなかには――
「手紙……?」
どちらかというと安物の紙が使われた封筒が数枚、中に入っているのが見えた。
「ちょうどよいところにいました」
「メイド長」
そこで、メイド長であるナタリアが顔を見せた。朝だというのに、その佇まいは日中のものと何ら変わりがなかった。
おはようございますと挨拶をするクララに、ナタリアは手紙の入った箱を視線で示すと、
「そこの箱を、お嬢様の部屋に持ってゆくように」
「……かしこまりました」
小首をかしげつつ、クララは箱を抱え上げた。そのまま食堂を後にする。
その背中をジッと見つめる視線があったのだが、このときのクララがそれに気づくことはなかった。
※
『愚図! のろま! ああもう、ほんっとに嫌になりますわ! あなたに比べれば、その辺のカカシのほうがまだ役に立ちますわ!』
もはや恒例となった、リズベットの朝の罵声が今日も響く。
しばらくして、朝の着替えの完了とともに、罵声タイムが終了する。リズベットは満足げに笑みを浮かべると、ソファに腰を落ち着けた。モーニングティーに口をつける。
「ふふ、ここのところ、朝一番で声を出しているせいか、調子が良いですわ」
「……それはなによりです」
斜め後ろに控えながら、クララは相変わらず目をドヨーンとさせていた。
「そういえばお嬢様、よろしいでしょうか?」
しばらくリズベットのとりとめのない話に相槌をうっていたクララだったが、ふと先ほどナタリアに頼まれた件を思い出した。
「メイド長より、お嬢様の部屋に運ぶよう言われたものがございます」
「あら、なんですの?」
「こちらです」
先ほど使用人用食堂から持ってきた箱を差し出した。
それを見るなり、リズベットは嫌そうな表情を浮かべた。
「ああ、そういえばもうですの」
「いかがいたしますか?」
「とりあえず、ワタクシの書斎のデスクの上においておけば良いですわ」
かしこまりました、とクララ。ひとまず木箱は窓辺の棚に置いておく。
そこでふと、リズベットは思いついたとばかりに、
「シンデレラ。そういえば、貴方、公用語の読み書きはできますの?」
「はい、ひととおりは」
「書くほうも?」
「差し障りのない程度には」
「それは結構ですわ」
この時代、文字の読み書きができない者は決して少なくなかった。読むだけなら何となくできる者もいるが、ちゃんとした文章が書ける者は多くはない。貴族の中にも、自分の名前しか書けないという者も多いのだった。
そんな中、クララはそれなりに読み書きができたのだった。
まあ、その理由はもちろん義姉たち絡みなのだが……
「それなら、貴方にも手伝ってもらったほうが良いですわね。後でワタクシの書斎に来なさい。頼みたい仕事がありますわ」
「仕事、ですか?」
「ええ、そうですわ」
そこでリズベットは肩をすくめると、
「まあ、ちょっと馬に蹴られる程度の仕事ですわ」
「……はい?」
目をしばたたかせつつ、かしこまりましたと言うしかないクララだった。
※
使用人食堂の隅が、クララの定位置だった。リズベットの朝の支度や朝食の世話が終わった後、少し遅めの朝食をとるのが日課だった。
ちなみにタイミングがあったのか、今日はクララの向かいには、同じく遅めの朝食をとるクリーオの姿があった。
「ああ、それは手紙の検閲ですよ」
自分が運んで行った木箱が何なのか問うたクララに対し、クリーオはそう答えた。
「検閲、ですか?」
「はい。僕たち使用人が手紙を出したりするときは、必ずお嬢様が中身を確認しているそうなんです」
「なるほど、公爵家ともなれば外部とのやり取りも勝手にはできないものなのですね」
「勝手に手紙を出したりすると罰があるみたいですよ」
ただし、とクリーオ。中を確認されるかわりに、あの木箱に入れておけば、手紙の配達料はお嬢様が負担してくれるとのことだった。ちゃんとした配達人に頼んだ場合、料金も高額になるため、わりと使用人には好評とのことだった。
「月に、二、三回くらい、お嬢様が確認されて、問題ない場合はそのまま配達人に頼んでくださってるみたいです」
「さすが公爵家のご令嬢、といったところでしょうか」
クララが無感動につぶやいた、その時だった。
「なあーにが『さすが』よ。見られるこっちはたまったもんじゃないわよ!」
クララたちのテーブルに、小柄なメイドが歩み寄ってきた。歳のころは、クララと同じくらいだろうか。美人ではないが愛嬌のある顔で、どこか小動物を思わせた。
少女はそばかすの目立つ顔に、不機嫌そうな表情を浮かべながら、
「どーせあの性悪お嬢様のことだから、ただ単にアタシたち手紙を見て、バカにしたいだけでしょ!」
「ちょ、ドロシーさん! あんまり大きな声は!」
クリーオが慌てたように手を振る。そんなに多くないとはいえ、食堂にはまだ何人かの使用人たちがいた。そんな中、公然と屋敷の主人であるリズベットに文句を言うのは憚られるというものだ。
しかし、ドロシーと呼ばれた少女はプリプリと怒りながら、
「アタシなんか、毎月毎月、手紙を読まれてるんだから。怒れちゃうわよ」
そこで少女は、クララのほうに同情的な視線を向けた。
「アンタも大変ね。毎日毎日、あのお嬢様にいじめられて。しかも、灰かぶりだなんて呼ばれてるんでしょ?」
「ええ、まあ、慣れてますので」
「ふうん、まあでも、今までの子みたいに数日で辞めないんだから、きっと図太いのね」
そういうことをズケズケと言う貴方が図太いのでは、というセリフが喉まで出かかったが、クララはグっと飲み込んだ。こういうタイプは、とりあえずしゃべらせておくのが吉だった。
ドロシー・アプトよ、と少女は端的に自己紹介。対して、クララもぼそぼそとした声で、
「クララ・フォルネウスです。灰かぶりでもいいです」
「クララね。覚えたわ」
そこでドロシーは、ぐっとクララのほうに顔を寄せた。少し声を潜める。
「クララ、アンタお嬢様の専属なのよね? なるべく、あのお嬢様がアタシの手紙を読まないようにして欲しいのよ」
「……?」
妙だな、とクララ。もちろん、私的な手紙を見られたくないという気持ちはわかる。しかし、だからと言って、それをほぼ初対面の自分に頼んでどうするのだろうか?
「……出来るかわかりませんが、気にはしておきます」
とりあえず、差し障りのない回答にしておいた。繰り返しになるが、ドロシーのようなタイプは余計なことは言わないほうが吉だった。
「アンタ、結構いいヤツじゃない。頼んだわよ」
ドロシーはニッと笑うと、クララの肩を軽く叩き、そしてその場を後にした。友人だろうか、大人しそうなメイドと連れ立って、食堂を後にする。
「なんというか、表裏はなさそうな人ですね」
「ドロシーさんは、誰とでも仲良くできる方ですから」
笑顔でそう言うクリーオに、クララはそうですかと無感動に返した。
誰とでも仲良くなれる人なんているはずないのにと思ったが、それを口に出すことはなかった。