この日、クララは朝から少々憂鬱だった。
今日の午前に、郵便配達人の馬車が屋敷に来ることになっていた。つまり、今度は届いた手紙の検閲をしなければならないということだった。
馬に蹴られるかはさておき、他人のプライベートを知りすぎたところで、良いことなど一つもないとクララは思っていた。
確かに、ゴシップと言うか、他人の噂が好きな人は多いだろう。人の性とはそういうものだ。
とはいえ、知りすぎてもよくないというのがクララの考えだった。現実主義であるクララにとって、重要なのは、自分の安全にかかわるかどうかだった。無視はしていないし、最低限の噂話には耳を傾けるが、同時に噂を鵜呑みにしないようにしていた。口から出る言葉など、いくらでも飾ることができるからだ。そんなものを信用したところで、判断を誤るだけだということを、クララは良く知っていた。
「大丈夫ですか、お姉さん? また、お嬢様に叱られたんですか?」
リズベットの朝の世話が終わった後の、休憩時間。いつものように食堂の隅でチビチビと朝食を食べていると、いつものようにクリーオが心配そうに声をかけてきた。
「いえ、大丈夫です」
「そうですか……」
純朴な少年に心配させていることに罪悪感を覚えつつ、何も言えないクララは、ただもそもそと朝食を口に運ぶだけだった。
ちなみに暗い雰囲気のクララたちのテーブルとはうって変わり、向こうのほうのテーブルでは、若いメイドたちがキャッキャッとはしゃいでいるのが見えた。中心にいるのは、例の小柄なメイド――ドロシーのようだった。
「ああ、今日は郵便屋さんが来る日だからですね」
クララの視線に気づいたのか、あるいは暗い雰囲気を変えようとしたのか、クリーオが明るい声で言った。
「ドロシーさん、故郷にいる恋人さんから手紙が来る日は、いつもあんな感じなんです。他のメイドさんたちも回し読みさせてもらっているみたいで、皆さん、楽しみにしているんですよ」
「まあ、色恋沙汰は年頃の娘たちにとっては、一番の関心ごとですからね」
ちなみにこの時代、手紙の回し読みや読み聞かせというのは、ままあることだった。特に文章の上手い人や、高名な学者が書いた手紙は、時には書き写され、知り合いの間で流通することすらあった。
もっとも、自分の書いた『恋文』まで回し読みすることはほとんどないのだが。
それはともかく、婚約者からの手紙を待ち望む本人はともかく、その周囲のメイドたちまで浮足立つのが、クララとしてはよくわからなかった。正確には、そういうものだということは知っているのだが、全く共感できないといったほうがいいだろうか。
「私にはよくわからない感情ですね」
「あはは、正直、僕もです」
擦れているクララと、まだ幼いクリーオ。二人の反応はこんなものだった。
しばらくして、年かさのいったメイド――どうやら彼女がベテランメイドのアンナらしかった――にどやされ、若いメイドたちが足早に仕事に向かう。
同じくクララたちも立ち上がると、
「お姉さん、今日の予定は?」
「午後からはお嬢様に呼ばれています。午前中はキッチンの手伝いでもしていろとのことです」
「それじゃあ、午前中は一緒ですね」
「まあ、はい」
無邪気な笑顔を向けられ、クララは気まずそうに眼をそらした。食べ終わった食器を手に、そそくさと食堂の裏にある洗い場に向かう。
とりあえず、午前中は無心で洗いものでもしようと思うクララだった。
※
キッチンメイドの仕事は、洗いものと下ごしらえというのが相場だった。
平民の子が奉公に出されたときに最初につくのが、キッチンメイドかランドリーメイドだった。どちらも、主人や主人の家族の目につかない仕事だからだ。たいていの場合、この二つのどちらかから奉公をはじめ、次第に屋敷内の掃除などをするハウスメイドに昇格してゆく。
なお、平民がつけるのは基本的にはハウスメイドまでだった。そこから上の、いわゆる主人たちの世話をする専属メイドには、貴族家出身の者しか就くことができない。
逆に言えば、貴族家出身の者は、最初から専属メイドになることができる。このあたりは厳格な階級が存在している。
では、まがいなりにも貴族出身であるクララはと言うと、
「……この時間、嫌いじゃないんですよね」
いつもどおりの無表情で、淡々と食器の洗い物をしていた。普通、貴族家出身のメイドは絶対に洗い物などしないものだが、クララは気にしたふうもなかった。なんなら楽しんでいるくらいだった。
もっとも、その顔には絶対に現れないのだが。
「冷たくないですか、お姉さん?」
洗い終わった食器を取りに来たクリーオが、クララにそう尋ねた。
「いえ、この程度なら全く平気です」
「それが終わったら、すみませんがこっちの下ごしらえをお願いします」
「わかりました」
木炭の灰を混ぜた水で食器を手際よく洗い、乾燥用の籠に入れてゆく。ベテランもかくやと言った手際と素早さだった。
しばらくしてすべての食器が洗い終わる。クララは休憩する間もなく、次の仕事に向かおうとした。
そのときだった。
「あ、クララ。ちょうど良いところにいたわ」
パタパタとこちらに駆けてきたのは、ドロシーだった。顔には笑みが浮かんでおり、浮かれている様子だった。
「どうしました?」
小首をかしげるクララに、ドロシーは手に持った紙を差し出すと、
「これ、メイド長からキッチンに持ってゆくように言われたのよね。配達人が届けたものみたいよ」
「……ああ、配達人が来たんですね」
ついに来てしまったか、とクララは内心で肩を落とした。
一方、ドロシーはうれしそうな様子を隠そうとはせず、
「えへへ、そうなのよね。楽しみだなあ」
その顔は、まさしく恋する乙女だった。
本当に自分にはわからない感情だなと思いつつ、クララはドロシーから紙を受け取った。内容に目を通す。
同じく、ドロシーも背伸びをしつつ、興味津々に紙をのぞき込むと、
「それ、なんなのかしら?」
「どうやら、今度届く食材のリストのようですね」
「へえ、そんなことが書いてあるのね」
なあんだ、とドロシー。彼女の興味を引くようなものではなかったらしい。
「預けていいかしら?」
「はい、こちらは私がコック長に渡しておきます」
「じゃ、よろしくね」
そう言って踵を返すドロシー。クララもまた、キッチン内に向かおうとする。
その刹那――
「…………えっ?」
クララの体が、ピタリと止まった。背筋から頭のてっぺんに、ゾワリとした何かが走った。
クララは思い返す。今、彼女は何と言った?
――へえ、そんなことが書いてあるのね。
「待ってください!」
「ん、どうしたの?」
呼び止められ、ドロシーは足を止めた。振り返る。
そこで、ドロシーはハッと息をのんだ。彼女は見た。クララの伸び放題の前髪の奥からのぞく、灰色の瞳。その瞳が、まるで魔女の鍋のようにドロドロとした色に染まっていた。
「ど、どうしたのよ?」
戸惑うドロシーに、しかしクララは濁り切った眼を向けながら、
「教えてもらっていいですか?」
「な、なに?」
「文字の読み書きって、出来ますか?」
その問いに、ドロシーは少しバツが悪そうに眼をそらした。
「じ、自分の名前くらいしか書けないけど、悪いかしら?」
「…………」
クララは無言のまま、相手を視る。
顔の表情、瞬きの回数、瞳の動き、呼吸の深さ――
判定は――『真実』。
「嘘じゃない、ですね」
「べ、別に嘘なんて言ってもしょうがないじゃない」
不機嫌そうにドロシーは言い返すが、しかしクララはそれどころではなかった。自分がとんでもない思い違いをしていたことに気づいたからだった。
「もう一つ教えてください。ドロシーさんは、あの恋文を誰に書いてもらってたんですか?」
「あの恋文って、アンタまさか見たの? ちょっと、どういうつもり……」
「いいから教えてください」
ドロシーの言葉をぴしゃりと遮り、クララはずいっと顔を近づけた。その有無を言わせぬ雰囲気に、ドロシーは唇をわなわなさせつつも、
「ど、同室のロッコって子よ。ほら、あそこで掃除してる」
ドロシーが指さしたほうに、クララはバッと顔を向けた。少し離れたところで、庭の箒がけをしている若いメイドがいた。
クララは、ドロドロと濁り切った眼を向ける。
数秒後、クララはしまったとつぶやくと、
「配達人はどこですか?」
「配達人なら、さっきまで玄関でメイド長と話してわよ。もう、いったい何を言って……あ、ちょ、ちょっと!」
怪訝そうなドロシーをよそに、クララは踵を返した。そのまま走り出す。
「いったいなんなのよ……?」
その場に残されたのは、わけも分からぬドロシーだけだった。