クララは、それなりに体力に自信があるほうだった。とはいえ、激しい運動が得意かというと、そういうわけではない。
息を切らしつつ玄関に向かったクララだったが、しかしそこにメイド長や配達人の姿はなかった。即座に踵を返すと、階段を上り、二階にあるリズベットの書斎に向かう。
扉を前に、強めのノックを三回。入室の許可を待たず、クララはドアを開けた。
「失礼します、お嬢様!」
「どうしたんですの、シンデレラ?」
突然部屋に飛び込んできたクララに、執務机についていたリズベットは目を白黒させた。同じく控えていたナタリアも眉を顰める。
「許可もなしにお嬢様の部屋に足を踏み入れるとは何事ですか」
「メイド長、お叱りはあとで」
ナタリアの言葉を遮ると、クララはリズベットに向かって、
「すみません、お嬢様。例の恋文は?」
「恋文と言うと、ドロシーの? それなら、先ほど郵便配達人が持ってゆきましたわ」
リズベットは窓の外に視線を向けた。ちょうど郵便配達人の馬車が、屋敷の門に向かって走り出しているところだった。
「まずいです、止めないと」
「どうしたんですの?」
「あの手紙です。あの手紙が、おかしい手紙なんです」
そう言いつつ、クララは部屋を出ようとした。馬車を追いかけるつもりだった。
「お待ちなさいっ!」
明らかに焦ったクララの様子に、リズベットは顔色を変えた。真剣な表情で、クララを呼び止めると、
「何か、見つけたんですのね?」
「はい」
「間違いは?」
「ありません」
「わかりましたわ」
迷いのないクララの返事に、リズベットは立ち上がった。
そして次の瞬間、クララは自分の目を疑った。
なんと、リズベットが背後の窓枠に足をかけたかと思うと、そのまま窓の外に身を投げ出したのだ。
「お嬢様ッ!」
焦ったようにクララは窓枠に飛びついた。ここは二階だ。落ちたらただでは済まない。
しかし、またしてもクララは目を疑うこととなる。
なんと二階から飛び降りたリズベットが、音もなく、むしろ華麗とも言うべき姿で地面に着地していた。その様は、まるで天使か、あるいはしなやかな猛獣のようだった。
地面に降り立ったリズベットは、そのまま何事もなかったかのように走り出した。まるで疾風のような速さで、見る見るうちに馬車との距離を縮めてゆく。
そしてあっという間に郵便配達人の馬車に追いついたかと思うと、リズベットは御者に声を掛け、馬車を止めたのだった。ちなみに、突然真横に現れたお嬢様の姿に、御者が死ぬほど驚いていたが、さもありなんといったところだろう。
「……」
あまりに非現実的な光景に、呆然とするクララ。
ちなみにその背後では、ナタリアが頭痛をこらえるように頭をおさえていた。あのおてんば姫が、というつぶやきを聞いた者は、幸いいなかった。
※
数分後。
息を切らした様子もケガをした様子もなく、リズベットが平然と書斎へと戻ってきた。
その様子に、クララは唖然とするばかりだった。
「……お嬢様こそ、魔法使いか何かですか?」
「あら、言ったじゃありませんの。これでも鍛えてますのよ」
飄々としたリズベットの様子に、力が抜けそうになるクララだった。なお、クララ以上に何か言いたげなナタリアだったが、何とか抑えているようだった。
「それで、手紙を取り戻してきましたわよ。おかしいところとはどういうことですの?」
「っ! そうでした」
クララは、リズベットから例の恋文を受け取った。今度は封がされていたが、構わず封筒を破ると、中から手紙を取り出す。
そして、濁った眼で手紙をひとしきり観察すると、
「……やっぱり、そうだ」
クララはリズベットに向き直ると、頭を下げた。
「申し訳ありません、お嬢様。思い違いをしておりました」
「どういうことですの?」
「ドロシーさんは、文字が書けないのです」
「別に、そんなのよくあることではありませんの?」
繰り返すが、この時代、文字の書けない者は珍しくなかった。手紙の代筆などもあたりまえのことだった。
しかし、そういうことではないとクララはかぶりを振った。
「確かに、代筆の手紙は珍しくありません。文の内容は、もちろんドロシーさんが考えたものでしょう。ですので、確かにこれはドロシーさんの手紙です。ただ……」
クララはそこで言葉を切った。手紙をリズベットたちに見えるように掲げる。
「文の内容を考えたのはドロシーさんでも、書いたのは別の人です。文の『形』に現れてくる性格は、あくまでも『書いた者』のものになります」
最初、クララはこの手紙がドロシー本人の書いたものだと思っていた。故に、手紙から読み取った人柄と、本人の人柄がある程度一致していたため、それでよいのだと思っていた。
しかし、書いた者が別となると、話が変わってくる。
「ドロシーさんに聞いたところ、これを書いたのは同室のロッコさんと言う方だそうです」
「ロッコ・ルロンドですね」
ナタリアが補足する。
「アンフィリア公爵家の傘下の騎士候の出の娘です。ドロシーとは同期になります」
「少しですが、そのロッコさんを観察しました。庭を箒ではいていたのですが、かなり細かく掃除するタイプでした。ゴミを集める際も、とにかくチリ一つ残さないように、最後の最後まで集めるような方でした」
「確かに、ロッコ・ルロンドはそういった性格です。少し神経質なきらいはありますが、細部まで目端がゆく子です」
「でも、その子が代筆したからどうだというんですの?」
不思議そうに首をかしげるリズベットに、クララは指先で手紙の端をなぞりながら、
「細部にまで気を配る者が、こんなに『文の端』をバラバラにすると思われますか?」
『っ!』
あっ、とリズベットとナタリアは息をのんだ。
「繰り返しになりますが、文の形には必ず書いた者の『性格』が現れます。けれど、この手紙から読み取れる人物像と、書いた者の人物像が一致しないのです。となると、考えられるのは一つです」
この手紙には『嘘』がある。クララはそう告げた。
「私も見落としていましたが、もし集中力が切れてしまい、文の端がバラバラになっているとしたら、文字の濃さも徐々に薄くなってゆくはずです」
この時代、一般的な筆記具と言えば水鳥の羽だった。インクがかすれるたびに、インク瓶にペン先をつけ、インクを補充する必要がある。
「しかし、見てください」
クララは文の端を指さした。リズベットたちはのぞき込む。
文字の濃さは、右端までずっと濃いままだった。
「濃さが変わらないということは、ペン先にインクをつけなおしながら、右端まで文を書いているということです。たまたま文の長さがこうなってしまったはずはありません」
「それはつまり……」
真剣な表情を浮かべるリズベットに、クララは告げた。
「わざと、文の長さを変えているんです」
※
わざと文の長さを変えている。
その言葉が浸透するにつれ、リズベットとナタリアの顔に理解の色が浮かんできた。同時に、理知の光が瞳に宿る。
「学のない私には、これにどういう意味があるのかまではわかりません」
クララは言い含めるように、
「ですが、文の長さをわざとこのようにしているのは間違いないと考えます」
「……ナタリア、どうですの?」
リズベットに聞かれ、食い入るように手紙を見ていたナタリアは、ぽつりと言った。
「なんとなくですが、わかってきました……おそらく、一種の暗号になっているのだと思います……」
「解読できますの?」
「おそらく……文の長さという糸口がわかれば……」
ナタリアは顔を上げた。
「一晩いただけますか、お嬢様?」
「ワタクシも手伝いますわ。午後の予定はすべてキャンセルですわね」
そこで、リズベットはクララに笑みを向けた。その笑みは、ひどく好戦的でありながら、見惚れるほどに魅力的な笑みだった。
「お手柄ですわ、シンデレラ」
「あ、その、光栄です」
突如そんな笑みを向けられ、クララは思わず目をそらした。顔が少し熱かった。
そんなクララの様子に、リズベットはほほえまし気に顔を少し緩めると、
「今日はあまり出歩かず、部屋にいなさい。何かあれば呼びますわ。もちろん、このことは口外無用ですわよ」
「……はい、かしこまりました」
一礼し、クララは踵を返した。肩越しにチラリと見ると、リズベットたちは真剣な目で、手紙に集中していた。メイド長が暗号とつぶやいていたことから、あんまり穏やかなことではないんだろうなと思いつつ、部屋を後にする。
書斎を出たところで、クララはようやく気を抜いたように息を吐きだした。
「本当に、口封じで始末されないことを祈るしかないですね……」
リズベットの専属メイドとなって半月ほどが経ったわけだが、どうにもこの屋敷はおかしいことばかりだとクララはぼやいた。
ワガママお嬢様の演技をするリズベットに、その協力者であるメイド長。一方、使用人たちは主人のことを恐れつつ、どこか軽んじている。先日のメイドが窓から落ちた事件も、結局、そのメイドがいつの間にか姿を消したことでうやむやになってしまっていた。残されたのは、リズベットが気にいらないメイドを突き落としたという根も葉もない噂だけだった。
まるで、得体のしれない何かが蠢いているかのようだと、クララは感じていた。
もちろん、クララにとってそれは自分とは関係のないことだった。何も知らず、何も語らず、無知のまま過ごせば良いだけだ。
だが、しかし――
「たぶん、もうすでに巻き込まれてますね……」
特に今日などは、自分から関わりに行ってしまった。本来なら、別にわざわざリズベットに告げる必要もなかったはずだ。
なのに、自分から行動してしまった。あまつさえ、自分から郵便馬車を止めに行こうとしたくらいだった。
らしくない、とクララは嘆息するばかりだった。
「本当に、この世界はクソですね……」
いったい今日の行動が、自分にどう影響するかわからなかった。自分のこの眼をもってしても、人の心まで読むことはできないのだ。リズベットが自分のことをどう思っているか、わかるわけではない。
好意ならまだいい。利用価値があると思われるのもいいだろう。
しかし、もし危険だと思われたら――
「……まあ、その時はその時ですね」
クララはそこで悲観的な思考を遮断した。考えても仕方がないことは、考えない。それが辛い少女期を過ごしてきたクララなりの処世術だった。
それに、とクララはつぶやく。先ほど目にした、リズベットの好戦的で、けれど魅力的な笑み。あの様子なら、少なくともいきなり消されるということはないだろう。
今一度、リズベットの書斎のほうを一瞥すると、クララはその場を後にしようとした。
そこではたと思い出す。
そういえば、ドロシーをそのままにしてしまった、と。
「……今回、一番被害を被ったのはドロシーさんかもしれませんね」
なお、クララのつぶやき通り、届いたはずの婚約者からの手紙がいっこうに自分の元に来ず、ドロシー・アプトは数日間やきもきすることとなる。
間違いなく、今回の件で一番割を食ったのは、彼女だった。