志村と伊東の二人はまだ昼下がりだというのに、行きつけのワインバーで葡萄酒を摂取していた。このコンプライアンスがうるさい時代、二人は一杯だけという制約をアリスとつけている。
ワイングラスにトクトクと適量に注がれたルビー色のワインを空気を交えクルクルさせ、二人の間にドン、とボトルが置かれた。
伊東が志村に向いて「いいですか。」と説明し始める。
「志村さん。グラスは決して空けてはいけません。半分残して、ボトルから追加で注ぐんです。」
志村は「わがっだ!」と誰かのマネをして答える。
「今の返事はみこちと違って本当に理解した奴ですね。」
「あ、わかった?モノマネのクオリティ上がっちゃったかな?」
「ナチュラルに濁点着けるのはアイツくらいですよ。」
「ガハハ」と笑って一気にグラスを半分まで飲み干すと、入り口からほんわかと浮いた声がした。
「なーにバカやってんだか。」
二人が振り返るとそこには独特なイントネーションの持ち主である戌神ころねが、呆れた目線を向けて立っていた。「お!」とあいさつを返す荒くれもの二人は前回お世話になったことに感謝を述べると彼女を二人の並んでいるカウンター席へと座らせた。
お礼に一杯いかが?と言う誘いである。
しかし誘われた戌神は「こーね、お酒弱いからさ。しかも赤って頭痛くなるんだよ。」と答える。
「なんだお前。俺たちの酒が飲めねえってのか。」と伊東がふざけながら言うと、ころねは目を丸くして珍しそうに「おおう、令和の時代にアルハラ。」と感心したように返した。
「なんでもハラってつけるな。お前だって圧ハラしてるじゃないか。」
「圧って何?こーね、そんなものかけてないよ。」
「熱心なファンが圧に負けて指持ってきたっていうじゃないか。みこちから聞いたぞ。」
「アイツ後でしばくぞ。」
「オサムの加護を受けてもヨットで負けたそうじゃないか。」
グギギ、と顔が真っ赤になる。
ころねの圧を下げるようにグラスにワインが注がれた。紅色のそのフルボディーは、彼女の眼には別の何かのように見て取れた。
「そういえば伊東チャン、最近ここいらで変わった人がいるという話を聞いたことがあるかね。」
ころねの話題に伊東は即座に答える。
「変わった人ならその辺にゴロゴロいるぞ。」
彼女は笑いながら「そーなんだけどさ。」と短く言うと、軽くグラスの香りをかいだ。
「そうじゃなくてね。人格が変わった人…とか。」
そして彼女は意味ありげにリップをグラスの縁につけた。他の地元民から酒癖だけでなく、人柄がガラッと変わった人物がいるというのだ。「二重人格?」と志村が間に入る。
「家族行事にも参加しなくなったんだって。チラッと聞いた話では子供の名前を間違えたって。噂じゃこの前起きた自動車事故に遭ってから見たいよ。」
「それ誰?」
「ほら、丘の上に住んでいる建築士の人。」
丘の上と言えばその昔、外交官が住居を構えた由緒正しい土地である。
伊東は「またか。」と溜息をついた。
「そっち系の人の話か。」
「そうなんよ、なんかあるんじゃないかと思ってさ。」
二人は同じタイミングでワインを口に流し込む。伊東は一口で半分まで飲み切った。
呑みにティの和を乱すことはここらで万死に値する。
H公園の一件から彼ら後方支援所の面々は以前にもまして財団との関係が改善された。つまり情報共有が一層円滑に行われるようになったのである。
「あの公園は永久的に封鎖することになったけどな。」と志村は下を向きながら言い、つづけた。
「俺たちは今より忙しくなるぞ。上長の日原さんも出払ってるしな。」
ころねはキョトンと目を丸くし、すぐに誰の事か思い出した。
「あー!日原さんね!あの変態ね!」
すかさず志村が「こーねさん?」と注意するように声を上げる。
「はっきり言い過ぎた。」
「志村さんも十分ひどいっすよ。あの人はストライクゾーンが広いだけっすから。」
小高い丘の上に建てられた辺理貴道氏の住居からは市の半分以上を見渡せる絶景が広がっていた。貨物船や客船のバースから国の血管とも形容される主要道路を過ぎると、観光地とオフィス街が丁度重なる。そこから先は地元民の行く繁華街となっており、関外に向かうにつれ背の高い建物は無くなっていった。
みこはその景色を見ながら、先週起きた事故現場がどのへんなのか無意識に眼で探す。
「白上はアノ繁華街の入り口までなら行ったことがあります。」
フブキは指で方角を示した。
「みこ、その先までちょっと遊んだよ」みこは少し自慢気に言った。
「どこいったんです?」
問われた彼女は「ふふん」と鼻をならした。
「ガールズ・バー」
「ア、ずるい。」とフブキは笑いながら答えた。
ハマり過ぎて週末が大変なことになっているということはまだ内緒なのだ。駐車スペースから森本が来ると3人は開いたゲートから敷地内へと入って行った。
彼女らが初めに目にしたものは車道の端にある真新しい車庫であった。住居はそこから少し歩いたところに位置している。
ゆっくりと、そしてじっくりと敷地内を見渡し、この広さの土地を購入するのがいかに高い買い物で、その上住居を建てるということがどれほど金額の必要とするのかフブキとみこは話し合った。結論は今の自分達ではいくら補助が出たとしても無理だということだった。
何故建築関係の人間はこうも金持ちなのか。たとえそれが一部の人間のみだったとしても、妬みより羨ましさが勝る。
フブキが思い出したように声のトーンを下げてみこに耳打ちする。
「三咲ちゃんの件、追ってます?」
みこはコクリと頷く。
「でもよくわかんなかった。あれって野放しにするって意味?」
「『収容不可』つまり監視下に置くそうです。それに伴って公園自体も永久的に封鎖するってことです。」
「…」
森本はこの会話を聞いているのかわからないが、厳しい顔つきだったのをみこは横目で見た。
3人が辺里邸の玄関まで着くと、中から長髪の夫人、アリサが出迎えた。ストーカー被害の相談を持ってきた本人であり、上品な服装からはそのふくよかなボディラインが見て取れた。みこは思わず「エッッッッド」と声を漏らす。
フブキは「コラ」と注意するが、その目は垂れている。
コホン、と咳ばらいをした森本は二人に振り返り指導に入った。
「二人共、もう何年も在籍しているんだから下手なことしちゃダメ。今まで何してたの?ってなるでしょ。後輩たちに示しがつかないよ。」
注意された二人は素直に謝罪したがその言葉は形式上の物であることは誰にでもわかった。アリサ本人に聞こえていなかったことがそのような態度をさせたのだ。
森本はさらに続ける。
「本部は今まであなた達に投資してきたのよ。その分をもうそろそろ返す番なの。だから成長したところを見せて頂戴。」
話はまだ続く。
「だから今回私はついているけど二人の自主性に任せるわ。好きなようにやりなさい。」
二人の背中をポン、と押してアリサの前へと差し出した。
今までとどう違うのか、フブキは素直に話を聞き入れられなかった。
夫人は目の前に来た二人に少し視線を下げ、優しく微笑みを向けた。軽くあいさつをすると一行を応接間へと案内する。
「今日は主人も同席しています。娘は今学校にいますので、少し立て込んだお話をさせていただきます。」
ふとこの場にいない貴道氏の話を出されたのでフブキは尋ねてみた。
「ご主人今いらっしゃるんですか?」
「ええ、主人の貴道が…玄関までお出迎えできずに申し訳ありません。」彼女は申し訳なさそうに声を低くする。
「いえいえ、お気になさらず。お忙しいでしょう?建築士でしたっけ?」
アリサ夫人は「ええ」と短く答える。
「独立してフリーでやっています。ここまで来るのにガレージがあったでしょ?あれ主人が建てたんです。」建築に関して口をはずますと、彼女は少し自慢そうに笑みを浮かべた。
「ここ数日は資料室に籠りっきりなんです。せっかく三階に自室を設けたのに。」
「今三階は使っていないってことですか。」とみこがアホ毛を立てて聞くと夫人は「そうなの」と子供をあやすように答えた。
みこのおぎゃり本能が反応する。
我を失いかけたが最後に夫人がぽつりとつぶやいた「人が変わったみたい。」と言う発言は聞き逃さなかった。
今、4人は応接間の前に立っている。木製のドアの向こうには一家の主である辺里貴道氏が待っているはずである。