すぐに気が変わるかもしれませんが。
一九二三〇五一一
中央連合王国首都ビーターズ、裕福にして幸福にも溢れる市民が棲まう花の都、その中心部に一軒の大きな屋敷が建っていた。
周囲に立ち並ぶ立派な豪邸にも負けず劣らず、歴史と威厳を感じさせる佇まいをしているその屋敷ではあったが、ただ1つ他のどことも違う点があった。
それは道ゆく人々が少し背伸びをすれば窓から見えるほど、あらゆる部屋に詰まった膨大な量の雑貨である。
しかもその多くは、ほぼ土塊と変わらないヒビ割れた陶器や酷く錆びているひしゃげた鉄塊、飢えた鼠も忌避するであろう萎びた植物など到底用途があるとは思えないものばかりだ。
しかし、この家に住まう者にとってはそれでいいのだ。
否、それがいいのだ。
そこにある物品は悉く世界が産み落とした歴史の証人であり、そこに存在するだけで無限の知識を内包している、いわば知識の結晶と言える。
そして何より、その家の全権を握る主人はそういったガラクタ(世間では侮蔑の意味を持つ言葉だが、ここでは敬意を込めてこう呼ばせていただく)をどうしようもなく愛していたのだから。
主人の名はオーギュスト・ウル・ドクノオト・スカルノーズ。
世界中の知識を集め、代々編纂し続けている書籍スカルノーズ世界博物誌に記し、最終的には人の手によるアカシックレコードの顕現を目指す名門貴族スカルノーズ家の20代目当主である。
父親が調査中に行方不明となり、若くして家督を継ぐこととなった彼は現在机に齧り付いて大好きな執筆作業に取り組みながらもフラストレーションを体感200%以上蓄積していた。
『なぁ、ピニャータ。僕は今人生で最高に悩んでいる。この溢れんばかりの知識を文章に綴りたい気持ちと、今すぐどこかの遺跡や密林に調査しにいきたい気持ちがせめぎあって、今にも心象のリングでバーリトゥードを始めそうなんだ。』
『あらまぁそれは、しょうもない人生でございますね。…なぜ人間の脳みそが2つに分かれてるかご存知ですか、ドク?貴方のような人がいつでも体を増やせるようにですよ。』
そう冷たく答えた女性はピニャータ・キプレア、スカルノーズ家の使用人の中でも唯一主人の助手をこなせる人物である。
『ハハハ、バカ言っちゃあいけない。最近の研究報告によると脳みそは一対で始めて意味を成すんだ。どちらかが欠ければそれ即ち不完全、瑕物の玉から価値は失われるよ。第一、肝心の海馬は一つしかないじゃないか。』
ピニャータは既に彼を無視し、綴りの間違いやインクのシミをチェックする校閲作業にリソースを割いていた。
その時、コツコツと窓を叩く音がした。
『ああ、手紙屋さんか。ピニャータ、窓を開けて配達員さんにライ麦を差し上げてくれ。』
彼女は書類から目線を上げ、窓を開放して手紙を受け取る。
草花の香りを湛えた、眠気を誘う春の柔らかな風が締め切られていた部屋を満たしてゆく。
窓辺でライ麦を突いている個体識別用の足輪が巻かれた鳩を尻目に彼女は手紙の封を切った。
『あら、上等な便箋…ええと何々…』
『どうだい内容は、つまんなそーなら捨てていいよ。』
『いえ、きっと貴方にも喜ばしいことかと。バイン子爵に願い出ていた例の調査、許可が降りました。』
それを聞いた青年は弾かれたように椅子から立ち上がり、普段の彼からは考えられないような動きでクローゼットからコートを引っ張り出した。
『すぐ出発の準備をする、ピニーは倉庫番に荷物の用意をするよう伝えてくれ。後、人夫達にも連絡してくれると嬉しい。』
昔からいつでもそうだった、夢中になった彼に彼女の名前は長すぎるのか自然と略称で呼ぶ癖がある。
尤も、本人は気づいていないようだが。
『あら、仕事の方はよろしいので?机の上、片付けちゃいますよ?』
テンガロンハットを被った青年はニヤリと笑う。
『これも大事な仕事のうちさね。さ〜あ張り切って行こう‼︎』
窓辺から鳩が飛び立った。
それからわずか3時間後、彼等は十数人の人夫を連れて公営の発着場に停められた自身の飛行船リガラベルダ号に乗り込んでいた。
人夫達はいずれも各々の専門分野に深い造詣を持ち、彼の父の代から贔屓にしていた生粋の冒険家である。
目的地周辺の地図を机に広げて現地での段取りを確認していた青年に運転士はベルを鳴らして出発の準備が整ったことを伝える。
『流石、仕事が早い。ではこれより我々はアーチ・ド・アストローヴォの調査に向かう!道中は比較的安全なルートを使用するが総員、一切の油断なきように、以上!』
号令と共に人夫達はそれぞれの持ち場へと散ってゆく。
ある者はボイラー室へ、また別の者は大気中の魔力濃度の観測へ、そして彼等のリーダーを務める青年は…上部デッキでひたすらスケッチブックと向き合っていた。
『ドク、何をなされているので?』
そう問われて彼はようやく背後のピニャータに気づいたようだ。
『ああ、鳥を描いているんだ。あの鳥の脚には輪が着いているから、記録しておけば後で問い合わせた時何処から飛んできたかわかるはずだ。見たところあのサトリガモは若鳥の羽毛が残っているし、今回が初めての渡りのはず。いい記録になるだろう。ピニャータこそ何をしにきたんだい?5月とはいえどここはまだ寒いよ?』
『ご心配無く、それなりに厚着はしておりますので。本命の用事は別にありますが、せっかくなのでどこぞのうっかりさんのために忘れ物をお届けしに来ましたよ。』
彼女が青年がちょうど部屋に忘れて来た双眼鏡を差し出す。
『なんだ、知ってたんじゃないか。一緒に見てくかい?』
『いえ、私はフィルターの交換ついでに先日のベスプラ山噴火の火山灰が引っかかっていないか見に来ただけですので。貴方もサンプル欲しがっておいででしたし。』
『ありがたいねぇ、ここ最近じゃめっきり珍しい大噴火だったからなぁ。記さねばなるまいよ。』
そういうと再び青年はスケッチブックと渡り鳥の群れの間で振り子のように目線を振る。
気候にもよるが多くの場合ビーターズ周辺で一年中見られるありふれたカモにただならぬ好奇心を向けるその姿、それに彼女は満足を覚える。
いつもと変わらぬ青年の吸い込まれるような黒い瞳を確認し、彼女は密かに笑って大気フィルターの方へと春の香りが満ちる甲板を歩いて行った。
到着は3日後の予定だ。
『だからね、僕は思うわけだ。やはり夢の魔物は自然発生ではなく、世間的に最も忌まわしいとされる魔術実験の過程で生まれた存在なんじゃないかと。現にラミー州の伝承にそれを仄めかす記述が…』
『人為的起源説にはワシも同意見ですが、その伝承はあくまで童歌程度のものです。必ずしも真実を写しているとは言い難い。今は自然発生発生説の矛盾点を探しておりますが、定説だけあって多くの資料と過去の学説が強固に支えております。無論歴史は書き換えられるものですが…』
スカルノーズ青年は魔物学を専門とする人夫と延々と議論していた。
2人はしばらく前から手を動かすのをやめ口だけを動かしているため、当初は湯気の立っていたスープの表面にも膜が張り始めている。
ところがそれを気に留める者はいない。
他の人夫達も多くが一介の学者である以上、議論が始まれば食事すら後回しにしたい気持ちは十分に理解できるものだ。
とはいえあまりに長引くと片付けが遅れ、夜間の作業に影響が出かねない。
自身の分を食べ終えたピニャータが痺れを切らしたのかスタスタと2人に歩み寄り、強めに足を踏みつけた。
『『ぎにゃっ!』』
『大変建設的な議論、私甚く感銘を受けました。それはそうと、召し上がらないならお二人の分はお下げしてよろしいですか?調理師のドルドンさんも困っておられますので。』
『ああ悪かった悪かった。空きっ腹じゃ頭脳労働はできないよ、勘弁してくれ。』
『おーおー、スカルノーズ卿と話しているとどうも時間を忘れそうになるわ。失礼失礼。』
こういう場面での仕切り役は大抵ピニャータである。
というよりも何かが滞った時、大抵その原因には船長であるスカルノーズ青年が関わっているため、彼女が介入せざるを得ないのだ。
大人しく食事を再開した2人を確認し、彼女は1日分の観測データを整理するため資料保管庫へと向かった。
重いドアを押し開け、紙の匂いが充満する部屋へと入りランプを灯す。
大雑把に纏められた資料を慣れた手つきで仕分けしていく彼女は、ふと窓を見た。
そこに広がる月がまだ登っていない空では、普段目立たない星までもが各々違った輝きを放っており、今時分の頃を代表するうずむし座とカブトムシ座が煌々と存在感を見せていた。
一応連載中としてはいますが続けるかどうかも気分次第です。