機動戦士ガンダム SEED 運命の繭   作:ドクトリン

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マユ

 

「皆さん。この子も、今日から新しい家族です。さあ、自己紹介を」

 

「マユ・アスカ…です。よろしくお願いします」

 

 マルキオという牧師のことは私は知らなかったのだが、ここらではそこそこ有名な人だったようだ。人格面に優れた牧師であり、地域の人に愛されていた。私のような戦争孤児の面倒を、ほぼボランティアで行っていた。

 また、政治面というには些か語弊があるかもしれないが、多方から様々な援助を受けており、経営面での問題は無かったように見える。

 

 一口に孤児院と言っても、当然質の違いはピンキリだ。パトロンの影響が子供達の進路に大きく影響を及ぼす。

 例えば有名政治家であった場合。真っ当な進路を用意される院もあれば、彼らの慰み者として、身体を扱われる事件などもあった。例えば真っ暗な反社会組織であった場合。大抵は身売りされ、性産業に使われるか、傭兵として働くことになるか。例えば国営であったとしても。行く末は強化兵士となり、訓練中に死ぬか、戦場へ出て死ぬ事もあったようだ。

 

 子供の人権は、戦時中という異常事態に煙に撒かれ、蔑ろにされることが社会問題となっていた。

 

 皮肉な事ではあるが、孤児院という一点において、私は戦争孤児の中では非常に幸運であっただろう。マルキオは、決して安くはない筈の、義手と義足を用意してくれた。リハビリ医療を受ける資金も出してくれた。

 リハビリは地獄だった。リハビリ専門病院に通い詰めて、慣れぬ身体を動かし続ける。バランスも取りづらければ、物も上手に掴めない。

 暫くの間は車椅子生活を余儀なくされた。

 

 マルキオはいつも優しかった。孤児院を巣立っていった先輩達も、たまに遊びに来る程には、子供達から尊敬され、そして愛されていた。彼も子供達を平等に愛していた。

 

 しかし当時の私は。世間というものを全く知らない子供であり、自分が世界で一番不幸な人間であるという確信を疑わずに、絶望しながら生活していた。

 

 あまり何事にもやる気を出せず、障害も手伝って十全に家事の手伝いもできない。車椅子で、鬼ごっこもできない。

 そんな私は同世代の子達から何となく敬遠されていた様に勝手に感じていた。

 彼らの方が余程精神が大人だったのか。それともマルキオの教育故なのか。虐められるなんてことは決して無かったし、たくさん話しかけてくれたけれど、私が輪に入れなかった。

 

 皆とても優しかったのに。それでも、孤独は拭えなかった。

 そして、それがとても申し訳なくて、また惨めになる。

 

 同世代と馴染めない私を見兼ねたからだろうか。はたまた、偶然か。院に入ってから一番話し相手になってくれたのは…年上のお兄さんだった。

 彼は晴れた日はデッキにあるウッドチェアに座り、ずっと海を見て過ごしていた。雨の日はどこにいるのか知らなかった。いつも遠くを見て、悲しい顔を湛える彼が。

 孤独を払拭できない私と似ているように思えて。勝手に自分を重ねてしまったのかもしれない。

 

 だから…初めて話しかけたのは、私からだった気がする。

 

「お兄さんは…働かなくてもいいの?」

 

「…手厳しいなあ」

 

 それが、私と彼の最初の思い出。

 

 

「義肢?」

 

「うん。マユも大きくなったし。僕とアスランで作ってみたんだけど」

 

「それは、ありがとう…」

 

 しかし、申し訳ないと言うのが本音だった。

 確かに最近背丈が伸びてきたのを実感している。定期的にリハビリ通院は続けた甲斐もあり、数ヶ月後には一人で歩ける様になったのだが。

 丁度タイミングが悪く、両脚の長さが揃わなくなってきた。

 

 かねてからそろそろ買い替えなければとは言われていたのだが、最初に買い与えられた義肢も決して安いものではない。

 

 それを誰かから耳ざとく聞いたのだろう。大方、ラクスかカガリからであろうが。

 

「機械工作は得意だからな。キラもこういう時は役に立つんだぞ?」

 

「言い方…」

 

 二人してあーだこーだと、私の介入する余地のない話で盛り上がっている。やれプログラムはどうだの、部品は俺のスクラッチだの、終いには月の幼年学校時代の宿題は俺がやってやったなど、ヒートアップしていく。

 

 

「ふ、二人とも!本当にありがとう!!」

 

 何やら関係のない話にまで発展しそうになった為、慌ててストップをかけた。

 

「凄い…こんなに動かしやすいなんて」

 

「ハードは俺でソフトはキラが作った。特に、脊髄に流れる電気信号を鋭敏にキャッチする為のハードモジュールの開発に苦労したが、カエルの坐骨神経の神経伝達速度と人間の速度との比用いて実験を重ねて──」

 

「まあとにかく!!試作機なんだけど。脚として動くといいなって思ってるんだ。

 これからはマユに合わせて微調整が必要だとは思うし、腕の方も作りたいと思ってる。それで…マユは付き合ってくれるかい?」

 

「ううううー!!!うわーーーん!!!」

 

 私は延々と、えんえん泣いた。みっともなく泣いた。

 1リットル位、涙を流したかもしれない。

 キラもアスランもそれには大層驚いたようで、何とか泣き止むように手をワチャワチャ動かしてアタフタしていたのを覚えている。

 

 後から知ったのだが、彼らはモルゲンレーテの実験室を使用していたらしい。

 戦争によって多くの兵士や民間人が腕や朝を失った。その社会的損失は計り知れない。彼らが満足に働かなくなるだけではなく、彼らへの医療費や介護費が嵩むとそれだけで財政問題として大きく膨れ上がっていくからだ。

 

 モルゲンレーテ…ひいてはオーブ国は元々、神経系を利用した新技術の研究を行っていたようだ。

 それを社会の需要と供給に合わせて上手く技術転用した形となる。

 

 私は栄えある試作機1号の被験者になったわけだ。

 

 所長のシモンズともこの時に知り合った。曰く「ちゃんと作れれば億万長者」とのことで、テスターとして励めよと言われたのを覚えている。

 

 キラとアスランがその実験に加わっている理由は彼らのバックにいる女性達の働きかけもあるとは思うのだが。

 それでも私のことをこんなに想ってくれているのだと伝わってきて、嬉しさで泣いてしまったのだ。

 

 私は、私が幸せ者であると知った。

 

 

 ジブラルタル基地。その最奥。モビルスーツドックの更に奥。

 陽の光が一切届かぬ深淵。

 そこに横たえられるのは一体のモビルスーツだ。モビルスーツの体裁を保てるギリギリの状態であった。

 暗い部屋には照明が最低限しかない。真上から雑に照らされたそのモビルスーツは、実際の傷以上に傷んでいる様に見えた。

 

「議長。回収した『ストライク』のデータです」

 

「確認しよう」

 

 モビルスーツ開発チーム。その一部の、デュランダルが最も信頼する技術員達には、回収した『ストライク』の運用データを調べさせていた。デュランダルは、それを満足そうに眺めていく。

 

「特異的なのはこのコックピットですね。既存に使用されている技術とは根本的に異なるアプローチで設計・運用されています」

 

「面白い。アレに使えるかもしれんな。引き続き解析を頼む。それと可能ならば再現を」

 

「了承しました。お時間は頂くかと思いますが必ずや」

 

 技術員達は黙々と作業を進める。デュランダルが真に見初めた彼らの技術は、一般のコーディネイターのそれを遥かに超越する。

 作業を進める職員を尻目に、デュランダルは死んだ様に眠る機体を仰ぎ見て静かに笑う。

 

 

 叙勲式は、数日後に華々しく挙行された。

 

 ジブラルタル基地にわざわざ最高評議会議長であるギルバート・デュランダルや、ラクス・クラインが式に参列することとなり、式典の前から彼らを一目見ようと軍人達はこぞって式に参列している。

 

 式典の関係者席に座るアスランとルナマリアが小声で話をしている。レイは体調が優れないようで、欠席していた。

 

「シンの為にこんなに立派な式が開かれるなんて、アイツも出世しましたねえ」

 

 アスランが頷き、そして背後に聳え立つ巨大な一枚布を仰ぐ。それをルナマリアも目で追いかけ、感嘆の溜息を漏らす。

 

「しかも、シンのための専用モビルスーツが贈られるって…アレのことですよね?」

 

「間違いなく、後ろに控えているアレの事だろうな」

 

 特にシンは、『フリーダム』と『ストライク』の二機を単独で撃破した功績が讃えられ、最新鋭のモビルスーツが与えられる事になった。

 その報せを受けたのは、アスランであってもつい最近。どうやら、最新鋭の機体らしく、直近まで一部の者以外では機密事項であったらしい。

 

 更には、現在ジブラルタル基地には、膨大な戦艦とモビルスーツ、そしてザフト兵士が駐屯している。何故かといえば、つい先日、月の全軍に対し当基地への集結命令が下っていたからだ。

 

 アーサーはそれを俯瞰し、感嘆の声をあげる。

 

「いやあ、すごいですねえ!ここまで集結すると、やはり壮観といいますか…」

 

 海岸には、見渡す限りこれでもかと戦艦が敷き詰められている。ザフトの一大勢力が、ここジブラルタルに結集されつつあった。

 こんなに戦力を集めて、一体何をしようというのか。次の作戦についてはまたま聞き及んだいないグラディスは、その戦力に溜息を漏らしてしまう。

 

「『剣を取らせるには、その大義が重要である』昔。指揮官学校で教えられた言葉よ。まあ、当たり前のことね」

 

 先日のデュランダルの会見からというもの、世論はデュランダルを指導者に祭り上げ、世界中で反ロゴス思想がヒートアップし続けている。

 デュランダルは民衆の、怒りという強大なエネルギーに指向性を与えてしまった。更には、それに大義を付けるというおまけ付きで。

 

「討つべき敵とその理由が納得できなければ、誰も戦えないわ…

 そして今。議長の手によって、私たちにはわかり易く、はっきりと示された。…それはありがたいことなのかどうかわからないわね。軍人としては…」

 

「軍人としては…ありがたい、ことなんでしょうね…?」

 

 アーサーはグラディスとの問答に、あまり理解を示せずにいた。

 

 式はつつがなく進行する。

 シンの功績がデュランダルによって語られていく。

 

「先日の凄惨なベルリンの惨劇は、皆さんの記憶に新しいでしょう。彼シン・アスカは、これを引き起こした『デストロイ』を単独で撃破せしめました。

 さらには…国際指名手中である、アークエンジェルに搭載されたモビルスーツ、『フリーダム』と『ストライク』ですら、彼は一人で連続に撃墜しております」

 

「彼の実力は、最早誰にも疑う余地はありません。よって…私は彼に『フェイス』の称号を与えます」

 

 先日の功績を讃えて、シンには『フェイス』の称号が与えられた。ラクス・クラインが彼の胸に胸に白い羽の意匠のバッヂを手ずから付けている。これを皆々拍手で祝福する。

 

 そして、最後には最新鋭のモビルスーツがお披露目となった。グレーの布が外され、その正体が姿を現す。

 その後、わざわざデモンストレーションのためにエンジンが作動し、モノクロカラーのディアクティブモードから、フェイズシストシステムが起動した姿へと切り替わった。

 

 白を基調とした体躯に、赤色に染まる大羽。背負うは大剣と大砲。運命を切り開く力が、この世に産声を上げた瞬間であった。

 

「これは『デスティニー』。最新鋭のザフトの機体にして、最高の機体です。ここにいる最高の戦士であるシン・アスカに託します。賛成の方は…拍手を」

 

 その場にいる全員が拍手で応じる。兵士たちが興奮に満ちているのが伝わってくる。

 ルナマリアが笑顔で拍手する。その隣に佇むアスランはこの会場で唯一人、笑顔を浮かべられずにいた。

 

「シン…お前は…」

 

 関係者席からはシンの表情はよく見えない。彼は壇上のデュランダルの前に立ち、向かって敬礼をしている。だから、アスランは彼の背中しか見えない。

 シンが笑っているのか、それとも他の表情を浮かべているのかはアスランには最後までわからなかった。

 

 

 式典中は様々な警備が希薄となりかねない。それ故…という訳ではなかったのだが、レイ・ザ・バレルはデュランダルから別任務を与えられていた。

 それは集中治療室で眠る少女の護衛である。

 

 別段式典に興味はなく、煩いところも苦手であったレイは、特に断る理由もなく受け入れる。

 レイは、眠る彼女の顔貌を見つめる。彼女の口からは、人工呼吸器は既に取れている。鎮静は解除されている。カルテを見ると、既に何度か目を覚ましては寝てを繰り返しているらしい。こここら徐々に目を覚ましていく予定だ。

 その治療経過をレイは知ってか知らずか。特に気にも留めず、丸椅子に座り文庫本を読み続けている。

 彼に任された任務は護衛であるが、それくらいは文庫本片手にでも故務まるだろうというのが、彼の意見である。サボりではない。

 式典の様子が、ナースステーションのテレビで放送されている。それを耳だけで把握しつつ、彼は本の文章に目を通し続ける。

 

「う、うぅう…」

 

 少女が何度目かの呻き声を上げる。レイはそれに気がつくが、特段反応はしない。ゆっくりと覚醒していく。目を覚ます。脳の働きによって、身体から離脱していた意識が、身体に呼び戻される。

 医師と看護師があわてて近寄り、バイタルの計測と様々な処置をしていく。それが終わる頃には、少女の意識は完全に覚醒しており、周囲を冷静に見る事が叶うようになっていた。

 

「ここ、は…?」

 

 レイに向けて放った言葉ではないなのだろう。それを理解していたが、金髪の青年は少しだけ間を開けてゆっくりと答えを与えることにした。

 

「ジブラルタルのザフト軍基地だ」

 

「何故ここに…」

 

「覚えていないのか?君はアークエンジェルを守るため『ストライク』に乗り、ザフト軍と戦った。そして…」

 

「あの世、なの?」

 

「何故そうなる…?」

 

「だって、私は死んだんじゃ…」

 

「確かに死にかけていた。しかし、ギリギリのところで死に損なったというだけだ」

 

「生きて…」

 

「そうだ。幸か不幸かは、知らないがな…」

 

 レイが文庫本から一切目を離さずに返答を続ける。

 丁度盛り上がっている所なのだろうか。ページを捲る手が少しばかり興奮気味になっているように見えた。

 少女はそんなことを意にも返さずに言葉を紡いていく。 

 

「……私と戦った人は」

 

「『インパルス』。君の兄…シン・アスカが乗っていた」

 

「そうか。やっぱりそうだったんだね…だったら…」

 

 二人は石の如く固まり、何も発することはない。

 ページをめくる速度が緩やかになる。少年は表情を決して変えることはない。

 

「だったら…どうだと言うんだ?」

 

「…よかったなって」

 

「よかった?…なぜ?」

 

 レイは…遂に文庫本から目線を上げて少女の顔を見据えた。レイから思えば、少女の顔貌は苦しみと痛みでいっぱいであろうと考えていた。それも当然だろう。

 それが仕組まれたのかどうかは神のみぞ知るところだが、彼ら兄妹は殺し合い、苦しんだ。それを知った彼女の心境といえば推し量ることすらできない程のものであろう。

 

 にも関わらず。レイの予想は大きく外れた。穏やかそうに笑みを湛えている。

 

「お兄ちゃんが生きててくれたから……」

 

 少女のか細い声。

 一言一句聞き取ることができたレイにも、その意味への理解が追いつかない。

 少女は兄と戦った苦悩よりも。兄が生きていた喜びに価値を見出しているということなのだろうか。

 理解はできるが…同時に、不可解にも思えた。

 

「…本気でそう思っているのなら大層おめでたい奴だな」

 

「そうかな…どうだろ」

 

 再度の緘黙。次の言葉を紡ぐ権利は少女にあるように思えた。しかし、彼女はぼうっと呼吸を続けるのみ。

 

 先にその沈黙が苦しくなったのは意外にもレイであった。彼は生来、寡黙な青年であるにも関わらず。

 彼の脳裏によぎったのは雪原での戦い。少女を一方的に嬲り、痛めつけたあの時のこと。

 

「俺が…あの『ザク』のパイロットだ」

 

 告げなくとも構わない事実を自ずから開示する。

 それを少女は意外そうな顔をして聞いている。そして、少し笑ったように見えた。

 

「……ああ。確かに声が同じ…なのかな…?」

 

 実際のところは。拡声器越しで加えて戦闘中の騒音がひどく。また彼女自身焦っていたこともあり、声色が似ているかどうかの判別は付かなかった。しかし、静かな場所で直接声を聴きようやく腑に落ちる感覚を得る。暫し前の記憶と符合した。

 

「……覚えてる?書店で…」

 

 遠くの彼は少女に近づき、ようやく自身を少女に開示した。

 あの日。あの場所で会ったあの。

 

「覚えている。オーブの書店で、赤毛の少女と共に…」

 

「……やっぱり。カレンが…あの子のことね。後からイケメンだって煩かったから…結構印象に残ってて」

 

 少女が心なしか遠くを見つめているような気がした。

 

「あの時は世話になった。感謝を伝えそびれていた」

 

「カレンも楽しそうだったよ」

 

「そうか」

 

 少しだけ空間は弛緩する。けれど、

 

「うん。だから…いつか…いつか。あの子にも伝えてあげて欲しいな」

 

 少女は声色を震わせながらなんて事ないフリをしているようだった。

 レイも文脈を敏感に読み取ってしまう。

 

「…そうか」

 

 少女は何も言わない。何も発しない。レイは、どうしても少女を捉えきれずにいた。平生の彼ならば、気にも留めなかっただろう。

 

「怨んでいないのか?」

 

 だが、間の悪いことに、彼も平生の様子からは程遠い。

 レイの問いは加速していく。

 

 

 起きてからお医者さんとか看護師さんに色々されているうちに。なんとなく落ち着いてきた。よくよく痛い頭から記憶を引き摺り出すと、ここ数日何度か起きては寝てを繰り返していた様な気がする。

 身体中が怠かった。息もしづらくて、頭に巻かれている包帯は痒くて鬱陶しい。

 幸いというべきなのだろうか。以前と調子が変わらないのは四肢のうち三本が無いことだ。貴重な残り一本を失わずに済んだことは幸運と言って差し支えないだろうか。

 

 頭がぼうっとする。首が痛い。喉が渇いている。身体はいつもより、遥かに重く感じた。

 

 傍にいる男の人は恐らくは私の監視役だろう。私を逃がさない為か。

 それとも、私が自殺しない為か。

 

 そんな元気も体力も、肉体も持ち合わせていない。

 

 彼は酷く苛ついている様だった。先ほどから携えている文庫本のページが、一切捲られていない事に気が付いてから、そう感じるようになった。

 それが不憫に思えて、何となく気になってしまう。

 しかしそんな心境を知りはしないであろう青年は、真横からぶった斬る様に強い言葉を用いる。

 

 だからやっぱり素直に応えたかった。

 

「……怨んでいないのか?」

 

「そんな事…」

 

 怨み。憎しみ。怨嗟。憎悪。悪意。挙げたらキリが見えない、辛く悲しい感情の奔流。

 

「怨んでるよ…」

 

 ヒトとして正しい感情だ。生物としての本能だ。

 

「違う…怨んでた。でも…彼女は…きっと。私がそういうふうになるのを望んでいないんだ」

 

 あの現実主義で夢見がちな少女を追懐して、自然と笑みが溢れた。

 

「その暇があるなら…資格の一つや二つ取れって、怒られちゃう」

 

「…では何故戦っている。戦場は君のような少女が来るべき場所ではなかった。最初は巻き込まれただけだとしても、どこかで降りることはできただろう…」

 

「そうだったのかな。わからないけど…」

 

 どうだったか。一度殺されかけて、でもそのあとに。どこかに逃げて隠れて。息を潜めひっそりと生きていけば。こんなことにはならなかったかもしれない。

 

 しかし、それでは…

 

「ならば、それは怨みによる戦いだろう」

 

「それは…違うと思う」

 

 そう。違うのだ。私はそんなことを思って戦ったのではないと思う。

 最初の戦いは…只、生き残るためだった。何者かに襲撃されて、友人は殺されて、逃げついた先にあった身を護る鋼鉄の鎧。

 次も似たようなもので、私が混乱して勝手に飛び出した。

 それから暫くして、ちゃんと考えることができるようになった。

 

 私が望むこと。正しいこと。間違っていること。

 生き残った意味。生きていく意味。

 

「私は…彼女を裏切りたくないから戦ったんだ」

 

「それは矛盾だ。先程君は言った。彼女はそのようなことを望んではいないと」

 

 レイは問い続ける。先ほどまでとの矛盾。明確な相違点。

 これを正さなければ、己の存在を否定されるかもしれないという予感と恐怖。それから逃れるため、何としても言葉を狩るため躍起になる。

 

「もしかしたらカレンは私に戦いなんてして欲しくないのかもしれない。ただ…」

 

 遥か遠くへ想いを馳せる。優しい友人の顔を思い出す。その優しさを覚えている。誰もいない場所を見すえて、小さく声を漏らした。

 

「私にやさしくしてくれた人達に…一人でちゃんと生きているよって。見せたいんだ」

 

 それが私の本当の気持ち。

 

「だから私のわがままなんだ。カレンに怒られちゃうかも。でも…私がそう決めて、そう願ったんだ」

 

 そう、これは私のエゴだ。

 

 自分が何をしたいのか。何を正しいと思い、何を間違っていると考えるのか。

 自分でそれらをちゃんと考えて生きていくことが。私を思いやってくれた彼女への手向けであり、皆への感謝だと思った。

 

 たくさんの悲しみを経験してきた。膨大な苦痛を抱えてきた。

 でも。

 それと同じ───、いやそれ以上。それより遥かにたくさんの。

 さまざまな人の優しさに救われてきたんだ。

 多くの人の親切で歩いてこられたんだ。

 

 それら全て…生きていなければ得られなかった尊い記憶。

 

 嬉しいことも。辛いことも。楽しいことも。苦しいことも。

 

 全部が全部。私の大切なモノ。

 

「だから…私は生きているんだ。自分の足で、精一杯生きていくために」

 

 喉は乾ききっているのに。疲れ切っているはずなのに。目頭がこんなにも熱い。喉は自分のモノとは思えないくらいに痛くなっている。

 それら全てが…私に生の実感を与えるんだ。

 

「だって私は…この世界が好きだから…どうしようもなく惨めでも。辛くても。生きていたいと思うから」

 

 それだけだった。どんなお題目を並べて、見栄を張って着飾ったところで。つまるところは、そういう究極のエゴ。

 醜い自分が嫌になる。でも、そんな嫌な自分も好きなんだ。

 これらは矛盾。だけどそれでいいじゃないか。矛盾上等。

 ただそれら全てをひっくるめて、自分というだけだ。

 

 レイが私の話を呆然を聞いているように思えた。きっと引いているだろう。

 こんなに自分勝手な奴は見たことがないに違いない。

 でも、これが私なんだ。

 

 少年は───私の勝手な感想ではあるが、少しだけ震えていた様に見えた。

 

「君は…すべての人間に、救いはあると思うか?」

 

 そのあまりにも透徹な瞳とは裏腹に、内に抱える苦悩への感懐を抱いた。

 

「私は───、」

 

 そうか。私が彼のことを気にかけてしまった理由───それはきっと。

 彼の寂しそうな姿が、昔の私に似ていると思ったからだろう。

 




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