金髪の青年と二人。静寂が辺りを支配している。私も彼も一切言葉を発することはない。二人の息遣いだけが支配している。
彼は立ち上がった。病室を後にするようだ。ここで一人放置されるのは、少し寂しい気もしたのだが、私は引き止める術を持たない。
しかし。
そういえばと。私は終ぞ此処まで聞きそびれていた疑問を口に出した。
「…最後に。貴方の名前は?」
「……レイ」
「レイさん。いい名前だね」
彼は素直に教えてくれた。それが嬉しかった。
透徹な彼を表現するにぴったりの音だと思った。
それに反応を示すことはなく、彼は静かに病室から去った。
流石にこんな身体で急に話すと疲れてしまうようで。
私はいつの間にか気絶したように眠った。
☆
それからの生活は一瞬で過ぎ去った。楽しい時間程、短く感じてしまう人間の性に、少しばかりの悲しさと同時に、生活が充実していることへの嬉しさを覚えた。
カレンに出会ったのは、初めてモルゲンレーテへ行って暫くしてだった。当時の彼女は学生の身分でありながら、所属する研究室の関係でよく会社の研究室にいた。
歳が一回り程離れた社会人たちに混じった勤務生活の中で、同性であり偶然にも年齢がほぼ同じ私たちが中を深めていくのは、至極当然だったのだろう。
「タイピング?」
「そう。このままだと報告書の提出がおぼつかないんだい…」
私の目下の悩みは、義手がうまく使えないことであった。勿論、リハビリを始めた頃とは比べるべくもないほどに成長した。しかし、細かい作業…特に、今一番目の上のたんこぶであったことがタイピングの遅さである。
「うーん。義手を使い始めた時期を考えたら充分できてる方だと思うけど」
「それはまあそうかもしれないけれど…」
しかしこれから仕事をしていく上で避けては通れない道である。モルゲンレーテの社員も、カレンも。私の周りの人はものすごく速い。特にキラなんてプログラムを書く時など、指の動きが見えないほどだった。
それに引き換え私ときたら、そもそもキーボードなんてろくに触ったことがなく。ブラインドタッチなんて夢のまた夢。指が細やかに動かせないこともあり、キーボードを見ながらでさえほどほどの頻度で打ち間違えてしまうのだから目も当てられない。えっちらおっちら毎回報告書を記載する時間は、毎日苦しいものだ。遂には、上司に代わりに打とうか?などとまで言われてしまう始末。
私は昼ご飯のサンドイッチをほおばる。今日も格別においしい。ラクスが作ってくれたたまごサンドは絶品だ。一つ辛いことがあるとすれば量が多すぎることだ。
…まあ、私は成長期なので食べ過ぎという概念とは無縁ということにしておこう。
「そうだ!サンドイッチ!」
「なに?今日の昼ご飯?あげないよ!」
「誰も取って食いやしないわよ。マユさ、いつもお姉さんに弁当作ってもらってるんでしょ?それと夕ご飯も」
「そうだけど…」
「自分で作ってみたらいいんじゃない?」
花嫁修業も兼ねて!なんてことを。親指を突き立ててグーをしながら真剣に語る彼女は恥とかを感じることはないのかと時々思う。
「せっかく“自分の身体”を動かせるんだから、何でもやってみた方がいいって」
「まあ、お姉ちゃんが迷惑じゃないなら…一度訊いてみようかな」
その日。帰宅後にラクスにお願いすると。
「やりましょう!是非!やりましょう!!」
と、至極ご機嫌な様子であり。頼み込んだこちらが少したじろいでしまう程にやる気を見せた彼女と私は、時間を見つけては一緒にご飯を作るようになった。
私は姉がいたらこんな感じなのかなと。とても嬉しく思ったのを覚えている。
☆
叙勲式は万事恙なく終幕した。今はそれが終わった後の立食パーティの真っ最中である。とても和やかで落ち着いた雰囲気の懇親会だ。
ザフト軍の中でも一部の高官や、デュランダル、ラクス・クラインなどのVIPしか参加を許されてはいない。
アスラン達ミネルバのクルーたちも、その一部は参列を許されている。モビルスーツパイロット組と、グラディスとアーサーだ。
「にしても…レイはこんなおいしいご飯が出ているのに、体調不良だなんて。かわいそうに…」
アーサーは何の気なしに、ビューティに並べられたサラダを食す。年齢もそこそこになってきた彼には、揚げ物は少し重かったからだ。
「そうですね。シンもお偉い様方への挨拶回りで大変そうだし。シンの分、とっといてあげよ」
ルナマリアは対照的に、これぞ年頃の女の子といった感じで。自分の好きなものを好きなだけ平らげている。
その言で、シンを遠目に探したが、シンはデュランダルと共にザフト高官へ紹介回りをさせられているらしく、あまり好きなものを食べることはできていないようだ。
「少し席を外します」
アスランは独り、パーティ会場から出ることにした。
理由としては。あそこの空気はおいしくなかったからだ。シンを祀り上げるデュランダルも、それに手を叩いて喜ぶシンパも。
会場はどこかの古城を使用しているようで、大きなガラス張りのドアからベランダへ出ることができる。丁度外の空気を吸いたかったところだった。ドアを開ける。少し肌寒い風が肌を撫でた。
夜の空を見上げる。
月は静かに空に浮かび、星々は自身の存在を世界に示すがごとく瞬く。
しかし、少し遠くを見る。層の厚い、黒い雲がこの美しい夜を侵略せんとしている。遠くで落雷があったのだろう。雲が光ったのが見えた数刻後、耳朶には不快さと不安さを強調する耳鳴りが響いた。
「少し、降るかもな…」
静謐な夜に暗雲が立ち込めている。
それは、彼の未来を暗示させるようで、アスランの不安は強くなる。
彼───シンを想う。彼はこんなことをさせられている場合ではないはずだ。少しでも妹であるマユの傍にいてあげるべきだと思う。
しかし、今のアスランにできることは何もない。この会がさっさと終わり、明日また空いた時間に少女の病室へ足を運ぶことくらいしか、彼にはすることができないのだ。
マユの正体を知っているのは、ザフト軍内ではアスランとグラディス、そしてデュランダルくらいのものだろうか。シンの心境を慮って、軍内では箝口令が敷かれた。
それ故だろう。ルナマリアもレイも。アーサーや他のクルーも。シンを褒めこそすれ、彼を心配する者が皆無なのは。
それが、またしてもシンを苦しめている様にアスランは感じていた。
シンがようやく解放されたのか。ルナマリア達の元に集まり皆々で集まり食事をしている。不幸にもシンは背を向けており、その表情は拝むことはできない。
シンの様子が気にかかったこともあり、ゆっくりとその輪に加わろうとした矢先、桃色の髪をした奇抜なドレスを身にまとう少女に、声をかけられた。
「アスラン!こんなところにいては風邪をひいてしまいます!」
「ミーア…」
「ラクスですよ。今は周りに人がいないから、これくらいの注意で済ませます」
そう言いながらアスランの額を小突く。この子は最初から距離が近いとアスランは困惑を隠せないのが本音である。
そのビジュアルは他の追随を許さぬほどの美形であり家柄も伴っているアスラン。それだけ聞くと大層女慣れしていても不思議ではないのだが。
小さな頃から親同士が決めた余りにも有名な婚約者がいたせいで、アスランにちょっかいをかける女性は皆無。本人の無頓着さも加わり、実を言えば女性を上手に扱いに余り慣れていない彼にはミーアの行動の意図が読めない。
「…ラクス。君こそ、プラントから降りて、こんなところで何をしているんだ?」
「貴方に会いに…という冗談はさておき。議長が私にも、共に来てほしいと。それが私の役割だと言ってくださったので」
「地球は危ない。さっさとプラントに戻った方がいい」
「プラントだって危ないです。いいえ…ともすれば、この世界で危険がないところなどないのかもしれません。
でもそんな争いを議長は終わらせようとされています。そのお手伝いができるなら私としても願ったりです」
「ミーア…」
「私、自分なりにちゃんと考えているつもりです。勿論ラクス様がこの役割をされるのが一番なのでしょうが…」
彼女の強い意志を感じる。確かにデュランダルの全面協力があると言えど、あのラクスの代わりが務まっているのだから、彼女の胆力たるや並外れたものがあるのかもしれない。
しかし、その役目はラクスの代替品に過ぎない。それを考えるとアスランは少し身震いがした。
「…もしラクスが帰ってきたら…」
「え…?」
ミーアは意外そうな顔をする。いや意外であったのはそれをアスランから指摘されたからだろう。きっと彼女は…
「君は……」
どうなってしまうのだろうか。彼女の『役割』は全て本物のラクスがこなせるろう。確実にそれ以上の成果もあげるに違いない。
これ以上は声に出して言えなかった。もしかしたら彼女も薄々察しているのかもしれなかった。しかし、その未来を考えることが怖かったのかもしれない。
彼女からそれ以上何かを口を開くことはなかった。
二人の間には微かな緊張が走る。
鼓膜を揺らすのは少し強くなってきた風に流される木々のざわめきだけ。それは彼らの心の揺らぎを示している様に見えた。
ミーアは少し気分が優れないらしく自室へと先に戻った。少し心配であり、付いていこうかと提案したが、
「今は独りにしてください…」
と言われてしまえばアスランも引っ込まざるを得ない。
廊下まで彼女を見送る。会場に戻ろうと踵を返すと、デュランダルが廊下に出て誰かと話しているのを、アスランは目ざとく見つけなんとなく物陰に身を隠してしまった。
これでは、今更出ていくことはできない。盗み聞きをするのは本意ではないが…会話は自然と彼の耳に入ってきてしまう。
☆
「はい。予定より遥かに早く捕虜が目覚めました」
「そうか…」
「如何ほどにいたしますか?」
「…今、シンをいたずらに刺激したくはない。あまり気は進まないが…」
「では。予定通り再度の麻酔を…」
「それが懸命だろう。彼女には彼女の役割がある。それまでの間、もう少しゆっくりとしていてもらおうか」
「わかりました。今すぐに伝えます」
部下と思しき男がその場を去っていく。デュランダルは会場の方へと足を戻した。
「再度の…麻酔?」
冷や汗が止まらない。動悸が五月蠅い。頭が熱くなった。心が底冷えする。手足が震える。息がしづらい。
アスランは…聞いてはいけないことを聞いてしまったのを自覚した。
曇天が世界を支配する。雨風が窓を叩く。落雷が啓蒙を鳴らす。
「マユ…」
彼の足は自然と足早に。暗くて、昏い場所へと向かっていく。
☆
朝から式典の中心人物として参加した上に、終わってうまい飯が食えると思ったら今度は議長に連れられて、偉そうな人達に挨拶回り。
「朝からドッと疲れた…アレ?レイとアスランは?」
「お疲れ。アスランはちょっと外の空気を吸ってくるって。レイは体調が悪いみたい。はいこれアンタの分」
「サンキュ。そうなんだ…」
シンは少し落ち込む。遂に、戦う覚悟と力が手に入ったのだ。それに、倒れていたアスランが戦線復帰となればいよいよザラ隊は盤石だ。今まではアスランに迷惑をかけてばかりであったが、ようやく彼の力になることができる。
それに、自分を心配してくれていたアスランにちゃんとお礼を言いたい気持ちがあった。
レイの体調はいかがなのだろうか。そういえば、エンジェルダウンの前も何だかナイーブそうだったのを思い出した。酷いようなら一度ちゃんと顔を見に行かないと。
しかし、それを素直に言うのも癪なので、なんとなく誤魔化す。
「なんだよ。みんなして俺のこと全然興味ないじゃん」
「私は居るでしょうが!」
ルナが居てもなあ、なんて軽口で笑い合う。
辛い現実を誤魔化して。騙し騙しで。何となくやりくりして。
ようやく笑うことができた気がした。
☆
全力で走った。肺が痛い。喉頭は張り裂けそうだ。心臓の鼓動は体内循環を全力で回転させ、肺は酸素を得ようと必死に空気を取り入れた。その音が五月蠅すぎてそれ以外は何も聞こえない。
雨が降っている。土砂降りだった。雨が顔を打つ。服が重い。靴はぐちょぐちょだ。
そんな些末な事を一切意に返さずにただただ走った。
走る。奔る。少女のところへ。
「おい!貴様!一体何を…ぅう!!!」「そこの!止まらないと…ぐぁ!!」
何人もの見張りをなぎ倒した。数は数えていない。警報はまだ鳴っていない。
「はぁ、はぁ、はぁ…」
集中治療室の前に辿り着く。息は不規則で、四肢は千切れそうだ。しかし、数度の深呼吸で、努めて全身を安定させる。
ドアをこっそりと開ける。男と女が一人ずつ。眠る少女に何か処置をしようと試みている。
「何を…している?」
「貴方は…一体なぜここに?」
医師と看護師と思しき二人は、見るからに慌てている。しかし、そんなことを気にしている場合ではない。
「何をしているのかと聞いているんだ」
「それは…それは…!彼女は。そう。夜間のせん妄が激しくて。それで、再度の麻酔…鎮静をと思いまして…」
「再度の…鎮静」
「はい。…眠らせなければ、暴れてしまうかもしれませんので…」
医師はアスランを言いくるめたと油断したのか。堰を切ったように、急に饒舌になりせん妄と麻酔の医学的関係について語り始める。
しかし、今の彼にそのような言は意味がない。
「ふざけるな!俺を甘く見るな!そんなふざけたおためごかしが通用すると思うなよ!」
アスランは医師の胸倉を左手で掴み、右手で拳銃を突きつける。
「言え!一体誰に命じられこんな事をしている!!」
「それは言えません。私には…言う権利がないのです!」
それを全て聞く前に医師を殴り昏倒させる。忠告はしたつもりだった。
看護師は大慌てで逃げようとしていたが、医師が気絶させられたことと、拳銃を突きつけられた二つによる精神的ショックで気絶した。
「マユ…こんなところにいては…俺が…」
幸いにも彼女にかかっている麻酔は、まだ浅いようだった。自発呼吸をしている。麻酔が深く効きすぎると、呼吸筋も停止するため、人工呼吸器を繋ぐ必要があるのだが…それは今は不要であった。もし呼吸が止まっていたら、人工呼吸器の使い方がわからないアスランが彼女を連れ出すことは不可能になっていただろう。
しかし浅いとはいえ麻酔がかかっている。彼女を起こそうと試みるが、少し唸るだけで開眼はしない。仕方がないため担いで運ぶことにした。
彼女をベッドの白いシーツで優しく包んだ。病院衣は薄く寒そうだ。それに外はあいにくの雨。彼女を少しでも守りたかった。
病室を静かに出る。ここに来るまでの間に粗方の警備はのしてしまったからか。辺りはめっぽう静かである。
「今なら…」
背負う彼女の余りの軽さに驚きながらも、彼が駆け出そうとした時───。
「何をしているんですか?アスラン」
「レイ……!」
金髪の青年は、ゆっくりと歩みを進める。
「何をしているんですか?こんな夜更けに。濡れネズミですよ」
レイは右手に持つアスランに拳銃を向けている。アスランは少女を背負っており、一切の抵抗ができない。
二人の距離は約5メートル。アスランは焦りながらも、この5メートルを突破する方法を、頭の中で計算する。その考えが纏まるまで、会話で時間を稼がねばならない。
額に脂汗を浮かべながら、何とかレイに声を返す。
「レイこそ。体調が悪いと聞いていたんだが…」
「……こんなくだらないやり取りは辞めましょう。我々のためにならない」
「…そうだな。頼むレイ!そこをどいてくれ!」
「彼女を…どうするのですか」
「ここにいてはだめなんだ!議長に良いように使われてしまう!」
「……そうですか」
レイの携える拳銃の引き金がゆっくりと絞られる。アスランは決して目を離さない。
決して目を背けない。彼は…それができるほど器用ではないからここに立っているのだ。
アスランは焦りながらも、決して銃口から目を切らない。レイの呼吸と指先の動きからタイミングを。銃口の向きから弾道を予測し回避することだけに集中する。
「シンだって…!」
その言葉に…無機質であったレイが反応する。表情は暗くてよく見えない。
そしてレイは一呼吸置いた後。実に気楽に引き金を引き絞った。
「ぐぅ!!」
乾いた銃声が廊下を反射し響き渡る。鮮血が病院の清潔なリノリウムを赤く染める。
☆
「アスラン、遅いね…」
外を見ると、いつの間にか降り始めていた。式典中に降らなくてよかったーなんて、気楽な声でルナマリアは曇天を眺める。
「天気、悪くなってきたな」
ガラス越しに空模様を眺める。ついさっきまで星が広がっていた気がしていた空は、もう迷子になってしまった。導となる月も今は隠れ、本能的な暗さはこの夜を越すことへの不安を煽る。
マユは元気だろうか。まだその時には立ち会えていないが、いずれは目を覚ますはずとのことだ。そうなったら、たくさん話をしたい。今までのこと。これからのこと。マユの将来の夢のこと。
その為には…
「平和を…」
シンが独り言ちる。あまりに小さな声で、傍に居たルナマリアも聞こえていないようであった。ルナマリアの表情には笑顔が浮かんでいる。周りの人もそうだ。みんなとても楽しそうに笑っていた。
こんな風にマユが笑える世界を。当たり前の幸せを当たり前に享受できる世界を彼女に与えるのだ。
シンは改めて独り静かに決意する。
「その為に…」
全てを撃ち落とし全てを討つのだ。
正されるべき悪を滅ぼし真の正義を示せ。
☆
「ぐぅ…」
レイは…自身の左上腕を撃った。掠っただけだろうが夥しい量の出血が流れ出る。苦悶の表情を浮かべる彼とは対照的に、困惑を隠せないのがアスラン。病院の廊下は彼の血で赤く染まり、ちょっとした水たまりが形成される。
「レイ!!」
アスランが駆け寄ろうとするも、それをレイは手で制した。
「来るな!!…これをもっていってください」
レイが何かをアスランに放り投げる。それは床を滑り、アスランの足元で止まった。
「これは…!車のキーか!」
レイから渡されたのは車のキー。型番からして軍用車だ。それをレイはわざわざアスランに渡した。
「あっちから物音がしたぞ!」「何だと!ただちに向かえ!!」
遠くから人の喧騒が聞こえる。足音も沢山だ。銃声がしたのだ。きっと彼らはすぐにこちらへ向かってくる。
「レイ…!」
「病院の裏に停めてあります。…11番ドックへ。早く行ってください」
「…シンを頼む」
アスランは鍵をポケットにしまい込み少女を抱えて走り出した。
金髪の青年は傷みを訴え続ける左腕を抑えながらその背中を見送る。少女から言われてしまった言葉は、深く深く脳裏に刻み込まれている。
「良い名か…」
「俺は…ラウなのだろうか…」
二年前。デュランダルに投げられた言葉。未だに引っ掛かりレイの心にしこりを残し続けた。
『ラウは…もういないの?』
『ああ…だが、君もラウなんだ。レイ…』
当時それを言われて、自分はどう思ったのか。あまり思い出せないその記憶は、痛みと共に蘇ってくる。
「…左腕だけでも…こんなに」
自分で与えた痛みを自覚する。こんなに痛いのかと。ここまで熱いのかと。……それをレイはようやく知った。
左腕を抑えていた流血で赤く染まる右手を見つめた。赤い色だった。他のあらゆるモノよりも、生命を感じさせる色。
「普通の…人間と同じ」
独り言ちてその場に蹲った。周りには誰もいない。それが今日はやけに寂しかった。ちっぽけで、吹けば飛んでしまいそうだった。
☆
「アスラン結局パーティお開きまで帰ってこなかったね」
「ラクス様も先に帰ったみたいだし。一緒に泊まってんじゃない?」
「あ…あんた、いきなりなんて事言うのよ!」
「婚約者なら別にいいじゃん」
「そりゃあまあ、そうだけど…」
ルナマリアが口をモニョモニョさせて言い訳がましく言いすがる。シンにそういう話で先をいかれたことに少々御立腹である訳だが、勿論シンはルナマリアの考えているような性の事情について話をしている訳ではない。
本当にただ泊まっているだけ程度に認識している。その認識のズレが今のルナマリアの敗北感を生んでいるのは皮肉なものである。
ぼちぼち帰るかと席を立つ。今日は充実していた気がする。
最新の専用機『デスティニー』。そしてフェイスへの任命。
そのどちらもが、アスランにはすでに行われていたことだ。
彼に少し追いつけたかもしれない。
グラディスから電話が掛かる。もう夜は更けている。あとは帰って眠りたい。
上司からの電話に対し、気だるい返事をしながら応答した。
「シン!!今すぐに1番ドックへ向かって!」
「え…」
グラディスは思いのほかに焦っているらしい。電話越しても鬼気迫る雰囲気がありありと伝わってくる。
「…何者かが保安要員を撃ち倒して逃走しているわ」
その報せはシンにとって最もショックなことの一つ。
「その容疑者は……アスランということよ」
☆
「車…これか…!」
アスランは駆ける。病院の裏に停めてあるといった軍用車はすぐに見つかった。少し人目に付かない木々の間に隠すように、停めてあった。
集中治療室からは幾分離れていたが、発砲音によってそちらに兵士が集中したのか。幸運にも、車に乗り込む迄に兵士とかち合うことはない。
エンジンをかけ、ライトをつけずに静かに出発する。しかし、レイがこのタイミングで病院にいたこと。そしてわざわざ人目のつきにくい病院の裏側に駐車していたということ。わざわざ自分を撃ってまで兵隊を呼び寄せたこと…それは。
「レイも…マユを…!」
それは今となっては判断のしようがないことだ。ただ、彼の強い思いをアスランが感じたのは事実。それだけは誰にも否定させてはいけない。
「11番ドック…!」
レイの言葉。ここから車を走らせれば十数分と言ったところだ。現状これ以外にここから脱出する手がかりはない。
車のエンジンをかける。法定速度など関係なく爆速で運転したい。しかし、雨風が思ったよりも強く煩わしい。視界が悪く速度が思ったよりも出せない。それがアスランの不安と焦りを余計に煽る。
助手席に横たえた少女を横目で見る。彼女はこんな状況でもすやすやと寝ているようだ。それを見てなんだか自分だけ焦っているのではと苦笑してしまう。しかし───!
『警告!造反者あり。基地内の兵士は全員要警戒されたし!───』
ジブラルタル基地内全域に赤いシグナルランプと共に響き渡るけたたましい警報が鳴った。
「アラート!!」
予想よりは遅かった。こうなってしまってはもう退路はない。逃げ抜くしかないのだ。歩けぬ少女を守りながら。
「11番…アレか!」
車を横滑りさせて停車する。幸いあまり人の気配は感じない。証明は灯っておらず、そこに横たわり鎮座するのは一体のモビルスーツのみ。それがこの空間を我が物顔で占拠している。
「『グフ』…!」
蒼色の『グフイグナイテッド』。ザフトの誇る最新鋭機の一つだ。レイはこれを…
コックピットに乗り込む。オペレーション・システムを起動する。正常に動作し、全身の駆動系が賦活化する。中枢を支配するコンピューターが、抹消までの伝達回路を活性化させていく。
万事出撃の準備は出来た。その機体は飛び上がることに喜び昂ぶり、今か今かとその時を待ちわびる。全身のコントロールは十全。
───あと不足しているのは、彼の意志。生きて切り抜けるという覚悟のみ。
「動け…!」
ゆっくりと立ち上がる。肩の装甲に非常階段が引っ掛かり、おもちゃの様にひしゃげて吹き飛んだ。左手を地面につけて姿勢を取る。それだけで大地は揺れた。両脚を地につけて屹立する。
視界の高さが急激に高くなる。先ほどまで立っていた地面ははるか遠くに錯覚される。
ヘルメットは膝の上に寝かせた少女に被せた。シートベルトは一つのみである。衝撃で危ないのは彼女の方だと思った故だ。
その窮屈さからだろうか。眠っていた少女がゆっくりと覚醒した。
「ここ…は?」
「無事だったか!」
「アスランさん…?え?なんで?どこ?」
「後で全部説明する!今はここを脱出するぞ!…アスラン・ザラ!『グフ』発進する!」
ドックの出撃口は施錠されている。それに向かい全力でスラスターを噴射する。
「わ、わ、わ…!ぶつかるー!」
そして両前腕に取り付けられた射撃兵器『ドラウプニル』4連装ビームガンを叩きつける。数刻後、爆発と黒煙をかき分け、蒼き騎士は豪雨に身を晒す。
発着許可の出ていないモビルスーツが、ハッチを爆撃して出撃したのだ。直ぐに追手が迫るだろう。
「頼む…間に合ってくれ!」
アスランは『グフ』のスラスターを可能な限り噴かせ、全速力でジブラルタル基地の領域外へと出ることを試みる。
海上へ出る。曇天と豪雨とが世界の全てを包み込む。直下には荒れ狂う地中海。世界のすべてが漆黒に染まり、時折見られる光源は落雷によるものだけだ。方向感覚も、上下の感覚すらはっきりと定まらぬ中、アスランはモニターに表示された地図だけを信じて闇を切り裂き突き進む。
しかしモニター上にはもう一つの熱紋が。後方ジブラルタル基地から圧倒的な速度で飛び出し、追従してくるかの機体。
遥か後方。五キロ程離れた位置。決して肉眼の視力ではとらえることはできない。望遠カメラに映し出されるその先には。
理解は一瞬。されど、飲み込むのには永遠と錯覚するほどの時間を要した。
───はっきりと見える。
「『デスティニー』!」
赤き翼に怒りを乗せて。雷鳴の如き衝動に駆り立てられた少年が、彼らを逃がさない。
☆
「なんでアスランが…!」
『デスティニー』のコックピットに乗り込む。オペレーション・システムは既に起動している。シンが到着するまでの間に、整備兵がしっかりと調整してくれていたようだ。
フェイズシフトが起動する。機体色はモノクロームカラーのディアクティブモードから、ヴァリュアブルフェイズシフト装甲利用したトリコロールカラーを基調としたカラーリングに即座に変異する。
ハイパーデュートリオンエンジンの生み出す莫大な熱量と運動量をコックピット背後の振動から実感する。
『泣き言を言っても始まらないわ。アスランを連れ戻しなさい!』
通信越しにはグラディスが五月蠅く騒いでいる。グラディスもいつになく焦っているようだった。自艦から脱走者を出したとなっては、それも仕方のないことである。
シンも何が何やらわからなかった。それでもわかっていたことは。アスランは変なところもあるし、口うるさく説教ばかりしてくるけれど。
それでも、何の考えもなしに突拍子もないことをする人ではないということ。
だから…さっさととっ捕まえて話を聞かなければならない。
「わかってますよ…シン・アスカ!『デスティニー』行きます!」
左手に携えたレバーを全力で押す。それだけで莫大なエネルギーに指向性を与えることができる。推進力が生じ、八十トンの質量が重力の網を逃れて宙に浮かぶ。
ぐんぐんと加速していく。闇に向かって。暗い世界に飛び込んて行くことは、不思議と怖くはなかった。
もう慣れてしまったのか。それとも…
シンは闇の中を突き進む。ただ一心不乱に、周囲の様子は顧みることはない。
少年は…運命の虜囚である。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
皆さまからいただく感想や評価、イラストなどが本当に筆者のモチベーションにつながっております。
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また感想や評価を気軽に書いていただけると嬉しいです。
ここからの展開は事前に何パターンか検討していたのですが、アスランは脱走させることにしました。なぜなら彼が動いている方が話も画面も面白くなるからです。彼にはいつも頼りっぱなしです。
話のテンポが遅いでしょうか?
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丁度いい
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遅いと思う
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速いと思う