「――待ってくれッ!!」
「うおぉ!!?」
手を伸ばす。
しかし、その先には何も無い。
ジョン・カワセは霞のように消えてしまっていた。
呼吸を乱しながら、俺はゆっくりと視線を横に向ける。
すると、濡れタオルを持った状態で固まっているミッシェルがいた。
俺は自分の体に視線を向ける……あぁ、そういう事か。
夢から覚めて、俺はようやく元の世界に戻ってきたようだ。
此処は仮想空間では無く、本物の世界で。
彼女は眠ったままの俺の看病をしてくれたのだろう。
濡れタオルは俺の体を拭く為の物で、俺の服ははだけていた。
ミッシェルはゆっくりと俺の体を見て、俺の目を見て来る。
そうして、さっきまでは普通にしていたのに。
急にカッと顔を赤らめて後ろを向いた。
俺が首を傾げていれば、ミッシェルは「か、風邪ひくぞ」と言う。
「……ありがとう」
「……別にいいよ。仲間だし」
俺はミッシェルにお礼を言いながら、シャツのボタンを付け直した。
服を着直した事を彼女に伝えると、彼女はゆっくりと振り返って来る。
そうして、ホッと胸を撫でおろしながら濡れタオルをおけの中に入れた。
「……それで? 体は大丈夫なのか。痛い所があるなら言えよ。絶対に無理すんな」
「……大丈夫だ。何処も痛くない……二人は?」
「任務だよ。SAWからの依頼を熟しに行った。今頃は別の線戦でデータを収集している頃だろうさ」
ミッシェルはそう言って笑う。
無事なら良かった。俺はそう思いながら窓の外に視線を向ける。
もう雨は降っていない。
光を遮る雲は消えていて、透き通るような青が広がっていた。
気持ちの良い大空には、無数の鳥が隊列を組んで羽ばたいている。
何処か遠くへ向けて飛んでいく鳥たちを見つめて俺は小さく呟く。
「……鳥か」
「……ナナシ?」
「……いや、何でも無い」
自由な鳥たちには憧れる。
何処までも飛んでいける彼らの道を塞ぐものは何一つなく。
この広い空の上を泳ぐように羽ばたいていった。
「……ジョンは来たのか」
「……来てねぇよ。ただ、情報は約束通り貰ったよ……碧い獣は”天の都ノース・カメリア”に現れるってさ」
「ノース・カメリア? それは確か……北部地方の中心にある”
「そうだ。神が降り立つ神聖な場所。神託を受ける五大神殿の一つがある所だな……態々、危険を冒して敵の懐に入るなんざ正気とは思えねぇけど……丁度、神からの神託を大神官が貰う日が近いし。その日に奴は来るってそのジョンの情報では書かれてたぜ」
「ノース・カメリアに碧い獣が……生身でか?」
「あぁ? 当たり前だろ……いやいや、襲撃しに来る訳ねぇだろ……だよな?」
二人で互いに見つめ合いながら、少しだけ不安になる。
もしも、何かをしでかすつもりなら危険だ。
メリウスに乗って襲撃するのであれば、大きな被害が出てしまう。
あそこには多くの一般人が住んでいて、彼らは関係ない筈だ。
巻き込まれてしまえば彼らは抵抗も出来ず殺されてしまうだろう。
……恐らくは襲撃じゃない。そんな事は無意味だから。
幾ら、戦闘能力が高い碧い獣であろうとも。
単身でノース・カメリアを落とせるとは到底思えない。
カメリアの名がつく場所には、カメリア青騎軍の中でも選ばれし猛者が集っている。
それこそ、たった一人で軍隊を相手に出来るほどの強者もいるだろう。
そんな相手と戦って、碧い獣であろうと生還する事は難しい筈だ。
あの漆黒のメリウスがいたとしても大して変わりはない……神託の内容が関係しているのか?
現地で聞かなければいけない内容か。
いや、幾らなんでも神官でも無い奴らが情報を得ている筈は無い。
そもそも、情報を得ているのであれば行く必要なんて無い筈だ。
つまり、神託に関係している事だが。その内容は恐らく……秘匿されている可能性が高い、か。
公には公表できない内容。
一部の人間にしか知り得ない情報で。
その内容を確認する為に、態々、危険を冒して天の都に侵入しようとしているのか。
恐らく、情報を手に入れられる方法の中で最も成功率が高い日が神託を受ける日に違いない。
普通であれば警備が厳重になる日に侵入を計画する人間はいない。
が、神託を行う日に大神官を襲うのではなく。
神殿内部に侵入するのであれば……逆に、侵入は容易くなるかもしれない。
大神官を守る為に警備を厳重にする。
それはつまり、大神官がいない神殿の警備が薄くなる事を意味している。
神託の内容が記録されているもの。それを強奪するか、その場で閲覧し情報を得たいのだろう。
その日の神託では無い。
いや、そうなれば神託自体は関係ないのか?
単純に神殿内部に侵入しやすい日がそこであっただけなのかもしれない。
「……ジョンは一体、何処でこの情報を……」
「……で、お前は行くのかよ。こんな得体の知れない情報を信じて」
ミッシェルは聞いてくる。
俺の回答は既に決まっていた。
「行くよ。行かなければいけない」
「……なら、俺も行くよ」
「先輩もか? いや、危険だ。此処に残って」
「うるせぇ。俺の勝手だろ? それに、自分の身くらい自分で守れる……まぁ別に戦いに行く訳じゃねぇんだからな」
ミッシェルはそう言って笑う。
確かにそうだ。戦闘を想定して行く訳じゃない。
俺は単純に、碧い獣を追って行くだけだ。
神殿に侵入するつもりも無ければ、現地の人間と争う事も考えていない。
「……それに、カメリアっていう名のつく場所にいる人間たちは異分子に対して強い敵意を抱いているしな……俺が主人って事にしとけば、突っかかって来る奴もいねぇだろ」
「……助かる」
「いいよ、別に……よし。それじゃ、ナナシの意識も戻ったし。飯でも食いに行くか」
「……今からか?」
「あぁ? 当たり前だろ。お前も一週間以上眠ってたんだから、腹が減ってるんじゃねぇのか?」
ミッシェルはそう言う。
すると、隙を伺っていたかのように腹の虫が鳴る。
俺は腹を摩りながら、静かに頷いた。
「ま、急にがっつくんじゃねぇぞ。行き成り腹にしこたま入れたら胃が驚いて吐き出しちまうからな……うーん。おかゆを出す店ってあったかぁ?」
「……なら、俺が作ろうか。確か、簡易的なキッチンが此処にはあっただろう」
「お、いいねぇ! ナナシが作るもんは異様に美味いからな……そうと決まれば買い出しに行くぞ! ほら着替えろ着替えろ!」
「……ふふ、分かった。外で待っていてくれ」
「おぅ。ま、急がなくていいからなぁ」
ミッシェルはそう言いながら部屋から出て行く。
パタリと閉じられた扉を見つめてから、自分の腕に視線を向ける。
点滴を刺した後があるが、今は何もつけられていない。
意識がそろそろ回復するだろうと考えて抜いたのか。
それとも、必要な分だけを注入し、他は注射器で摂取させていたのか。
何方にせよ、助かる。自分で抜く手間が省けたからな。
俺はベッドから起き上がり、服を脱ぐ。
体を嗅いでみれば、臭いはしなかった。
多分だが、ミッシェルが定期的に拭いてくれたのだろう。
心の中で彼女に感謝しながら、近くに折りたたまれた状態で置かれていた服を見つける。
服を着ようとすれば、一番上に紙が置かれていて……ふふ。
「……勝手に出るな、か……ミッシェルだな」
彼女らしい気遣いだ。
俺は紙を折りたたんで横にそっと置く。
そうして、新しい服に着替えていった。
新しい服に着替えて、靴を履く。
そうして、準備が整った俺は外へと出た。
部屋から出てみたが、何故かミッシェルはいない。
待っていてくれと言ったのに……先に行ったのか?
俺は不思議に思いつつ、廊下を歩いていく。
鉄の階段をコツコツと音を鳴らしながら降りて行って。
メリウスが置かれているのを確認しながら、外に繋がる扉まで歩いていく。
扉に近づいていくと何か声が聞こえて来た。
争うような声で……この声はミッシェルか?
「――何度も来るな! 帰れ!」
「――いえいえ、話だけでも」
ミッシェルの声と若い男の声だ。
もめている様だが、男の方はやけに落ち着いている気がする。
俺は不安に駆られて、扉に駆け寄る。
そうして、勢いよく扉を開けた。
するとそこには、今にも殴りかかりそうな剣幕で声を荒げるミッシェルと。
ニコニコと笑っている黒髪七三分けの男が立っていた。
紺色のスーツを着たやせ型の男で、俺が出てくると笑みを深めて前に立とうとしてきた。
しかし、ミッシェルが俺の前に立ちはだかり「話は終わってねぇ!」と言う。
「いやはや、困りましたね。私が用事があるのはナナシ様でして……あ、お初にお目にかかります。私はSAWで営業を担当させて頂いております。ミムラと申します」
「やめろッ!」
名刺を差し出してきたミムラと名乗った男。
ミッシェルはその名刺を払いのけた。
はらりと名刺が落ちて、ミムラは体をよろけさせた。
俺は危ないと思ってミムラに手を貸した。
彼は「ありがとうございます」と言いながら姿勢を正した。
そうして、やれやれと首を振りながら乾いた笑みを零す。
「何度も申しましたが。私は別に、ナナシ様を襲いに来た訳でも賠償を請求しに来た訳でもありません……まぁ勿論、我が社に対してした事は調べがついていますが」
「そんな事は関係ねぇ! 私はお前から聞いたナナシをテストパイロットにする話を断わったんだッ!!」
「……テストパイロット?」
「おぉありがとうございます。説明する手間が省けましたよぉ」
「……っ! 行くぞナナシ!」
ミッシェルはそう言って俺の手を掴む。
用は済んだからと去ろうとしてミムラが声を掛けて来る。
「もしも気が変わりましたら! ご連絡ください! ポケットに名刺を入れさせてもらったので!」
「――っ! あいつ!」
俺は自分のポケットを漁る。
すると、確かにミムラの名刺が入っていた。
ミッシェルは捨てろと俺に言ってきた。
俺は気の無い返事をしながら、ミムラの名刺をジッと見つめた。
『SAWは君に近々コンタクトを取って来るかもしれない……奴らを信用するな。奴らにその二つを渡してはいけない』
「……ジョンの言った通りだな」
「あぁ? 何か言ったか?」
「……何でもない。行こう」
俺は名刺をポケットに戻す。
そうして、ミッシェルの手を引いて歩いて行った。
ミッシェルは俺の手をジッと見つめている。
俺はそんな彼女を不思議に思いつつ、SAWについて考えた。
テストパイロットに俺を推薦してきた訳。
十中八九が、あの任務が関係していると思う。
普通に考えるのであれば、テストパイロットにして俺を始末する気か。
事故に見せかけるのであれば、始末するのも容易いだろう。
しかし、SAWほどの大企業が、態々そんな回りくどい事をするとは考えにくい。
だとするのなら、俺を利用しようとしているのか……やはり、万象か?
奴らは異分子を使ってエネルギーを生み出している。
そして、そんな奴らが狙っているのは異分子の中でも特別な存在であるハイランダーだ。
災厄に関しては自分たちで探しているとして、ハイランダーはどうやって捕まえる気か。
そもそも、俺はそのハイランダーについて詳しくはない。
どんな異分子がハイランダーで、どんな違いがあるのか。
何も分からないが……奴らはもしかして、自分たちの手でハイランダーですらも生み出そうとしているのか?
可能性は十分にある。
異分子を作れるのであれば、ハイランダーも何れは……信用するな、か。
確かに奴らは危険だ。
俺を利用して、何かをさせたいのだろう。
その目的は不明だが、危ない事には変わりないだろう。
この話は蹴った方が良い……心ではそう思っているが……。
ミッシェルは奴の事を忘れようと話を振って来る。
俺はその話に相槌を打ちながらも、ポケットの名刺を捨てる事はしなかった。