皆が寝静まった夜。
腕時計を確認すれば、時刻は既に午前一時を過ぎていた。
街灯の灯りだけが灯った道。
傭兵たちが利用する区画から大きく外れた街の外側の区画に殺人鬼の家があった。
人目につかない場所に建てられたそれは、周りを家々に囲まれていて。
陽の光も差さないような影となる場所に、小さな一軒家が建っていた。
他の家と変わりはない。
冷たい印象を覚えるコンクリート製であり、恐らくは二階建てか。
奴の家に繋がる細い通路の端で様子を伺う。
明かりは午後十一時頃まではついていた。
そして、家から人が出た気配はしない。
つまり、殺人鬼はあの家の中にいて、電気が消えてから二時間以上は経過している。
念の為に暫く様子を伺っていたが出て来る気配はしない。
此方の様子を窓から伺ってくる素振りも無い……好機だ。
奴にまだ正体がバレていない今。
奴の家に侵入し、殺人鬼を拘束する必要がある。
神父が何とかして伝えてくれた情報。
これを無駄にしない為にも、俺一人で成し遂げなければならない。
ゆっくりと腰のホルスターから拳銃を抜く。
回転式の拳銃であり、装弾数は五発。
少々心許ない気はするが、取り回しの観点から俺はこれを好んで使う。
ハンマーはフレームに隠れて、服に引っかかる心配は無い。
重量も抑えている上に、シンプルな構造故に不具合も少ない。
黒塗りの拳銃を片手に持ちながら、俺は細い道を歩いていく。
足音を消しながら歩いていき、殺人鬼の家の扉に近づく。
ゆっくりと覗き穴から中を確認すれば、部屋の中は真っ暗であり近くに人の気配は無い。
俺はポケットからピッキングツールを取り出して――ッ!
肩が軽く扉に触れた。
そうすると、扉は小さな音を立てながら開かれていく。
俺はまだ何もしていない。それなのに扉が開いたのは……鍵をしていなかったのか?
いや、あり得ない。
巷を騒がす殺人鬼が、家の鍵を掛け忘れる筈がない。
そんな初歩的なミスを犯すのはあり得ない事で……誘っているのか。
まだ分からない。
俺の正体がバレているのか。それとも、単純に鍵を掛け忘れただけか。
後者であるのなら警戒のし過ぎだったで済むが。
もしも前者であるのなら、更に警戒して進む必要がある。
バレていて逃走しないのなら、相当な自信があるのだろう。
俺一人くらいなら無力化できるか。
或いは、隙を見て逃げ出せると考えているのか。
何方にせよ、誘っているのならその誘いに乗ってやる。
俺は家の中へと入る。
そうして、扉をゆっくりと閉めてからカチャリと鍵を掛けた。
部屋は真っ暗であり、家中の窓に強力な遮光カーテンをつけているのか。
俺は少し迷いながらも、持ってきたライトをつける。
そうして、銃を構えながら周りをライトで照らしていく。
飾り気の無い家だ。
玄関には何も置いておらず。
床や壁も石のタイルであり、何の色味も無い。
他の住居であればもっと何かを置いたり、壁や床も違うのだろうか。
知る術は無いものの、牢獄なような場所で生活をしたいとは到底思えない。
二階へと続く階段がすぐ近くにある。
奥へと続く扉と右側の部屋に続く扉か。
恐らく、寝室は二階であり一階はリビングやキッチンだろう。
ならば、速やかに犯人を捕まえる為に二階へと行かなければならない。
寝ているのか。それとも待ち伏せしているのか。
家に上がり石のタイルを踏んでいく。
音を殺しながら、ゆっくりと進んでいって上へと上がって行く。
一段一段、細心の注意を払いながら上がっていき……部屋は三つか。
恐らくは、最後に明かりが消えた場所が寝室だろう。
つまり、一番奥にある扉の先が目的の場所で……扉が開いているな。
一番手前の扉が開いていた。
不自然な開き方であり、俺は目を細める。
これは罠か……いや、あからさますぎる。
罠であるのなら、こんなにもあからさまな筈がない。
ブラフか、それとも……無視は出来ない。
階段を上がって来るのであれば音が微かに聞こえてくるが。
別の部屋から出てきて襲われれば気配を察知できるかは分からない。
最低限、二階にある部屋は確認しておいた方が良いだろう。
俺はそう考えて、銃を構えながら少し空いている扉へと近寄った。
ゆっくりと扉を開けていき中へと入って――っ。
部屋の中には無数の写真があった。
それも普通の写真では無い。
一枚の写真を見れば、そこには肉片らしきものが収められている。
他にも似たような物があり、中でもハッキリと分かるそれは……惨殺された人間の死体の写真だった。
体をバラバラにされて、それを写真に収めている。
中には恐怖に染まった顔でレンズを見つめる人間の頭部だけのものも……っ。
悍ましい写真の数々。
見ているだけで心臓の鼓動が早まっていき。
強い吐き気に襲われて、恐怖が体を凍えさせていく様だ。
身の毛もよだつとは正にこれであり……証拠は見つけた。後は犯人だけだ。
写真が壁一面に張られた部屋を見渡す。
そうして、誰も隠れていない事を確認してから写真を適当に取りポケットにねじ込み廊下へ出る。
残された扉は二つだけであり。
俺は真ん中にある扉を開けて中へと入った。
その部屋には大きな置物が飾られている。
それは動物の剥製であり、主に熊の剥製などが置かれていた。
迫力のある剥製であり、まるで今も生きているように感じる。
歯を剥き出しにして威嚇するもの。
両手を広げて自らを大きく見せるもの。
それらとは違い、小さな子熊を抱いて身を丸めているものもある。
後は壁に鹿の頭部が飾られていたり、殺人鬼のものらしき猟銃などもあった……妙だな。
ここ等へんで狩猟を行える場所は無い筈だ。
昔はもっと自然豊かで、野性の熊や鹿もいたかもしれないが。
今では、ただの荒野が広がっていて動物たちも別の地方に流れていったと記憶している。
今では羽休めで止まる程度の鳥くらいで……何処で熊や鹿を?
犯人が狩猟をした訳ではないのかもしれない。
犯人の特徴で言えば、死体をバラバラにするところで。
恐らく、奴が犯行に使うのは銃では無く鋭利な刃物だろう。
となると、刃物を好んで使う犯人とは特徴が一致しないレイアウトだ。
剥製を飾るほどの人間であれば、それなりの金持ち。
また死体を飾るのであれば、写真では無く実物を持ち帰ったりするのではないかと思った。
まるでコレクションのように飾る筈なのに、奴は写真で満足している。
これは妙であり、これほどに大それた事をしでかす人間が妥協するとは思えない。
もしかしたら、此処には別の人間が住んでいたのか。或いは、今も住んでいて……いや、考え過ぎだ。
別の住人がいて、犯人がそいつに成り代わった可能性。
考えたくはないが、無い事も無いとは思える。
この街の中には、顔を変える為の施設も勿論ある。
探せば非合法な場所もあるのだろうか。
そこまでは分からないが、現代の技術であれば全くの別人になる事も出来てしまう。
考えたくはないが。
自分の近くでも、気づかぬうちに全くの別人が笑顔で話しかけて来る事があるかもしれない。
顔を変え記憶を奪い……早く、行こう。
犯人が隠れられる場所は此処にも無い。
階段の近くから音も鳴っておらず。
犯人が寝室から出て、一階へと降りた気配もしなかった。
扉が開いていたのは、ただの偶然だったのか……?
部屋から出ようとした時。
少し妙な視線を感じた。
ゆっくりとライトをつけて剥製の熊たちを見る。
熊たちは当然だが既に死んでいて、その瞳は俺へと向いているが……気のせいか。
視線を感じた気がしたが、そこには剥製の熊しかいない。
俺は扉を潜り、廊下に出る。
そうして、ようやく寝室へと繋がる扉の前に立つ。
ライトを消す。
少しだけ目も慣れてきていた。
周りも薄っすらと見えている。
これならライトをつけずとも、周囲の状況は分かるだろう。
静かに呼吸を整える。
そうして、少しだけ汗ばんだ手で拳銃のグリップを握った。
ライトをポケットに戻し、扉のノブを握る。
そうして、ゆっくりと回して――扉を開けていく。
開かれた扉の先には、ベッドが一つ置かれていた。
カーテンは閉められているものの、街灯のほのかな明かりが差し込んでいて。
毛布が掛けられたそこは盛り上がっており、明らかに人がそこで寝ている。
寝息は聞こえないものの、微かにベッドが動いていた……いるな。
音を立てずに近づく。
犯人は眠っており、俺には気づいていない。
拘束するのなら今であり、俺はゆっくりと毛布に手を掛ける。
……何だ。妙な感じだ……違和感……何かを、見落としている……。
奇妙な違和感を抱いた。
目に見えている情報の中で、何かを見落としている気がした。
だが、俺には何も分からない。
ベッドがあり、そこには人が確実にいて。
微かに動いている事から……いや、いい。
考えても仕方ない。
確かめればいいだけの事だ。
俺はそう考えて、毛布を勢いよく剥がして――ッ!?
「――っ」
「……ぁ…………ぁ…………ぃ…………」
ベッドには確かに人が眠っていた。
生きていて、俺と目が合っても逃げようとしない。
いや、そうじゃない。逃げようとしないのではなく――逃げられないのだ。
顔と思わしき部分にはある筈の皮膚が一切なく。
神経や血管が剥き出しとなり、流れた血が固まり黒ずんでいる。
ごっそりと皮膚が剥がれているそこには、目玉がくりぬかれて穴だけになっていた。
口と思わしき部分からは、空気なのか声なのかも分からない掠れるような音が聞こえて。
手足を五寸釘のようなもので打ち付けられたそれは、まだ辛うじて生きていた。
いや、違う。
生きているんじゃない。これは明らかに……生かされている。
何故、どうして。
いや、そこじゃない。
重要なのはベッドで眠っている瀕死の男が誰なのかだ。
こいつは絶対に犯人じゃない。
犯人がこんな状態でいる筈が無いのだ。
なら、一体……そうか。これはこの家の主で――
「……ぅ、ぉ……」
「――ッ!」
瀕死の男が何かを発した。
その言葉の意味が何故だか分かった。
俺は拳銃を背後に向けようと――ッ!?
背後から何かが伸びる。
そうして、俺の体を拘束し。
そのまま首を太い腕で絞めつけて来た。
皮膚に当たる感触は毛であり、明らかに人間の体毛ではない。
これは動物の毛であり――あの剥製かッ!?
「――ぅ!」
「死ね、死ね、死ね」
熊の剥製を被って隠れていた男。
やはり、俺が来る事が分かっていたのか。
違和感の正体はこれであり、俺は完全なミスを犯した。
拘束を抜け出そうにも、奴は剥製を着ているせいで打撃は効かない。
拳銃は奇襲を受けた際に、奴の一瞬の動きで弾き飛ばされて。
床の上に転がった状態で置かれていた。
屈んだ上に手を伸ばさなければ届かない。
完全なる詰みで、段々と気持ちがよくなっていく。
意識が薄れていく中で奇妙な快楽が襲ってきて。
俺はまずいと思いながらも、力が自然と抜けていった。
殺人鬼は呪詛のように殺意を言葉にして。
俺はそんな奴の言葉を聞きながら――服の下に隠したアーミーナイフを抜く。
「いぎぃ!!」
「――かは!! は、は、は……ぅぅ」
勢いのままに、奴の腹部へとそれを刺す。
打撃は効かずとも、着ぐるみでもないそれは容易にナイフを通してしまう。
肉を抉る感触がして、奴は悲鳴を上げてのけ反る。
その瞬間に拘束が緩んで、俺は奴から離れてから喉を摩る。
そうして、空気を取り込みながら床に転がった拳銃を取り――引き金を引く。
乾いた銃声が響き渡り、一瞬の閃光が発生する。
奴はナイフを突き刺したまま、転がる様に部屋から出て行った。
弾丸は奴の体に命中したが、あの剥製の所為で大したダメージにはなっていない。
恐らく、あの下に防弾ベストでも着ているのか……厄介だな。
俺は急いで廊下に出る。
そうして、扉を開けて剥製の置かれていた部屋を覗き――ッ!?
危機感が働いて、床を転がって回避行動を取る。
その瞬間に扉が砕かれて破片が飛び散る。
乾いた銃声が響いて、中から犯人の不気味な笑い声が聞こえて来た。
カシュリと排莢する音が聞こえて――あの散弾銃か。
アレはただの飾りでは無かった。
犯人は強力な武器を手にしてしまった。
奴は笑い声をあげながら、部屋から飛び出してきた。
俺は一瞬の判断で、階段へと飛び転がる様に落ちていく。
上から銃声が聞こえて、階段の柵が砕かれてパラパラと破片が落ちて来た。
一気に下へと降りて、体を起き上がらせる。
転がる様に落ちたせいで、体中が鈍い痛みを発していた。
が、今は痛みを気にしている暇は無い。
俺は玄関の扉に近づいてロックを解除して外へと出ようとした。
「――な!?」
扉は開かない。
ロックは解除した筈なのに、扉はびくともしなかった。
俺は銃口をノブへと向けて――ッ!?
嫌な気配を感じた。
俺は後ろへと飛んで回避行動を取る。
その瞬間に、扉へと銃弾が浴びせられて無数の”窪み”を作った。
「どこ行くのぉぉぉ? ひひ、ひひひひひ」
「……っ」
今ので理解した。
扉は爆薬でもない限り開かない。
俺は急いで近くの扉を開けて中へと入った。
扉を閉めてから、周囲に目を向ける。
窓らしき部分は――ダメだ。木の板を打ち付けている。
強力な遮光カーテンでは無かった。
物理的に光を遮るように、板を打ち付けていて。
アレでは板を取り外している間に、殺人鬼に殺される。
考えろ、考えろ、何か、何か――あれは!
目に映ったのは石油ストーブだ。
今の時代には珍しい物であり、年代物と呼べるような代物だ。
アレなら、もしかしたら――時間が無い!
俺は石油ストーブに銃口を向ける。
そうして、躊躇うことなく引き金を引いた。
銃声が響き渡り、一発の弾丸がストーブに命中し――炎が巻き上がる。
暗闇を赤い炎が照らして、炎は勢いよく燃え上がった。
徐々に炎は部屋に広がって――ッ!!
扉から転がるように飛んだ。
その瞬間に、扉は勢いよくはじけ飛んだ。
熊の剥製を着込んだ奴がゆっくり中へと入り。
歯の中から下衆な笑みを浮かべながら、俺を見つめて来た。
「火をつけたのかなぁぁ? 逃げながら、壁に穴でもあけるきかなぁぁぁあああ!!?」
奴が銃口を俺へと向ける。
俺はその場から飛び上がった。
そうして、キッチンの中へと身を滑り込ませた。
奴の放った弾丸、それが俺の体に触れて鮮血が舞う。
「――ぅぁ!?」
「ひひひひひ!!!」
キッチンに置かれていた調味料などをぶちまけながら。
俺は腕の傷を抑えながらうめき声をあげる。
奴はそんな俺の声に気分をよくしていて、ゆっくりと俺へと近づこうとしていた。
俺は荒い呼吸で床にある――それに視線を固定する。
「……あった」
目当てのものをようやく発見した。
まさか、こんな所に置いてあるなんてな。
俺は傷口から手をのけて、べったりと血が付いた手でそれを掴む。
そうして、笑みを浮かべて近づいてくる奴に目掛けて――投擲した。
奴は笑う。
笑いながら、銃口をそれに向ける。
避ける事も出来ただろう。無視する事だって出来た筈だ。
だが、奴はそれに狙いをつけて――撃つ選択肢を取った。
がすりと音が響き渡り、銀色の容器が砕けて――炎が一気に広がった。
「え、ああぁぁぁあああああぁあぎゃああああぁぁ!!!?」
奴が撃ったもの、それは灯油が入った専用の容器だ。
石油ストーブを見た時に、上に埃が被っていたのが見えた。
だからこそ、奴はそれを使わずに放置していたと考えた。
分かる訳ないよな。
それを使った事が無いお前が。
此処で使用されている灯油の入った容器を、認識できる筈がないんだ。
燃え上がった灯油を全身に浴びて。
全身毛だらけの奴の体は大きく燃えあがった。
奴は机や椅子を弾き飛ばしながら転がって行く。
そうして、体を捩りながら何とかしてその剥製を脱ぎ捨てた。
中に入っていた奴の体は火傷でひどい事になっていた。
髪の毛はチリチリであり、着込んでいたベストもボロボロだ。
「い、あぁ、ぃぁい、あぁぁぁ」
俺は奴の前に立つ。
そうして、銃口を静かに奴に向けた。
邪魔な剥製を脱ぎ捨てて、頼みのベストも頭部は守ってくれはしない。
俺はこれを狙っていた。
炎は広がって昼間のような明るさで、至近距離には剥き出しの頭部がある……外しはしない。
「ま、って、まて、まって!! いう いいまぅ! もうひと――ッ!!?」
「……何だ?」
何かを言おうとした男。
しかし、その瞬間に奴は体を大きく震わせた。
眼球はぐるりと回り白目を剥いて、奴は首を手で掻きむしりながら――静かになった。
銃を戻してから、急いで脈を計る。
すると、奴は……既に事切れていた。
何かを言おうとしていた。
しかし、それを話そうとした瞬間に苦しみ始めて。
そうして、パタリと死んだ……まるで、口止めをされたかのように。
奇妙だ。奇妙過ぎる――窓の木が落ちる。
崩れ落ちた先には外の景色が広がっていて――あれは。
一瞬、何かが見えた気がした。
外から中を伺っていたのか。
しかし、ほんの一瞬でありそいつは一目散に逃げていく。
後を追おうとした。が、犯人や上の住人を置いていく訳にはいかない。
「……くそ」
自らの策で、好機を逃した。
俺は悪態を吐きながらも、死体となった犯人を抱える。
そうして、上へと急いで戻りながら住人を救いに向かう。
§§§
あの後は、死体と重傷者を同時に抱えながら、燃え上がる家から何とか脱出した。
異変に気付いた住人の通報により、すぐに警察官や消防車が駆けつけて来たが。
俺を見つけた警察官の中には、レストランで会った警察官もいて。
俺が異分子であると知っているそいつらは、俺を地面に押し付けて拘束した。
俺は怪我人で、ひどい火傷を負った男が犯人だと何度も説明した。
しかし、俺の言葉は聞き届けて貰えなかった。
そうして、留置所に入れられてしまった。
すぐにヴァンたちが駆けつけてくれたが。
あの家に一人で向かった俺の事を怪しんだ警察は、すぐに俺を出してはくれなかった。
何度も何度も事情聴取を受けさせられて、ひどい暴行も受けた。
お前が犯人だ。お前も共犯何だろうと……忘れていたが、これが当たり前だ。
異分子に人権なんて無い。
怪しければとことん疑われて。
平気で暴行されて、尊厳すらも踏みにじられる。
俺はただ機械的に奴らの質問に答えていく。
どんなに殴られようとも、どんなに罵倒されようとも。
俺は真実しか話さなかった。
警官の話から、大体の事情は分かった。
あの殺人鬼の死因は毒殺であり、恐らくは自分で飲んだものらしい。
家があんな状態だから詳しい事は分からないが、俺が飲ませたのではないかと思っているようだ。
そして、上で眠っていた男はあの家の本当の住人で。
彼は傭兵である殺人鬼と交流があり、男に騙されて皮膚や目玉を取られた様だ。
その傭兵は、男の顔を文字通り奪い。何時からか本物の住人のように振舞い生活していたらしい。
不審に思っていた人間もいたらしいが、まさか、顔を奪っているとは誰も思わなかったのだろう。
傭兵は本物を生かして拷問し、男から情報を聞き出してうまいこと生活していたようだ。
だからこそ、不審に思っていても本人しか知り得ない事を言っていたので誰も通報しなかったと……悲劇だな。
警官は既に死んだ殺人鬼よりも。
まだ生きている俺にご執心であり、何が何でも俺を共犯者にしたいらしい。
殴る蹴るの暴行はエスカレートしていき、少しだけ命の危機を感じ始めた頃――俺は外に出る事が出来た。
拘留されて一週間後に何故か俺は釈放されたのだ。
ヴァンたちに聞けば、アンドレー神父が事情を説明してくれたようだ。
この街の顔役のような存在が、俺が無罪であると言ってくれたお陰で。
俺はこれ以上、ひどい目に遭わずに済んだ。
一週間も掛かったのは、彼の言葉であろうとも最低限調べる必要があると警官たちが言っていたからで。
彼はそれでも何とか説得し、俺は何とか生きている内に出る事が出来た。
あの時に負った怪我は、ほぼ傷は塞がっていた。
新しく受けた暴行の傷はまだ残っているが。
こんなものはすぐに消えるだろう。
時間を掛け過ぎてしまった。
碧い獣が出現する神託の日はもう間もなくで。
俺はアンドレー神父にお礼を言ってから、すぐにノース・カメリアに向かう事を伝えた。
彼は俺に「本当にありがとうございました」と言って涙を流していた。
その手はギュッと俺の手を握りしめていて、僅かに震えていたのを覚えている。
そんな彼の顔を見て――俺は不思議と何の感情も湧いてこなかった。
何故かは分からないが……説明は出来ない。
最後に、俺はマーサさんにクッキーの礼を言う。
傍にいたマリアを見れば、俺の事をジッと見つめていた。
これでもう安心であると目で伝えながら、俺は彼女の頭をくしゃりと撫でてその場を去った。
その時に、マリアが俺に対して声を掛けて来た。
振り返れば、彼女は小さく微笑んでいて俺を見つめていた。
『ありがとう』
感謝の言葉、確かにそう聞こえた。
今更、改まって何を言うのかと思ったが。
俺はその言葉に笑みで応えて、また来ることを伝えた。
彼女は頷きながら、ただただ微笑んでいた。
何故かは、分からないが。
俺の心は少しだけざわついて――ちくりと痛みを発していたような気がした。