カタカタと窓が震える音が聞こえて、瞼を揺らす。
風によるものであり、鳥の鳴き声が遠くから聞こえてきて。
車の排気音も疎らに響いていた。
冷たい空気が和らぎ光と共に暑さが表れ始める中。
微睡む意識の中で、俺はゆっくりと瞼を開ける。
すると、眠った時と同じシミが浮かぶ天井が見えた。
視線をずらして窓の方に目を向けた。
窓から差し込む陽の光が空中を舞う埃に当たってキラキラと輝く。
瞼を完全に開けて、静かに窓の外の景色を見つめていた。
下の階のバカたちの声はもう聞こえない。
営業時間はとっくに過ぎており、奴らはもう帰ったのだろう。
俺はゆっくりとベッドから体を起き上がらせた。
まだ少し体が痛いが……問題ないな。
足も手も動く。
ブーツを履きながら立ち上がって、つま先を軽く叩いた。
そうして、俺は体の具合を確認しながら、ゆっくりとテーブルの方に移動する。
その上には、小さな鏡が置かれている。
それを手に取って、俺は自分の顔を見た。
全く手入れされていないぼさぼさの黒い髪。
濁り切った黒い瞳は死人のようで。
顔に少しだけ殴られた跡があるがどうでもいい。
髪をゆっくりと掻き上げれば、額の中心部には銃創があった。
一体何時からあるのかは分からない。
記憶を辿ろうにも、俺は子供の頃の事を何一つとして憶えていなかった。
俺を見つけた警官の証言を纏めた記録を見させられた事がある。
事務的なものであり、軍に飼われる前の儀式のようなものだ。
そこにあった記述によれば、俺を発見した時には俺の親は死んでいたらしい。
俺は血だまりの中で気絶していて、検査をした時に異分子である事が判明した。
俺の死んだ両親は異分子では無かったが。
何故か、俺は異分子になっていた。
感染経路は不明であり、親による遺伝ではない事だけが分かっていた。
世間の人間は知らないだろうが。
異分子との接触によって感染者になる可能性自体はほぼ無い。
飛沫でも空気感染もしない。そもそもウィルスと呼べるかも怪しいのだ。
大体が親による遺伝か……別の方法での感染だ。
まだ詳しくは判明していないが。
何かしらの要因により、普通の人間が突然、異分子になる事例が多発している。
ずさんな調査の結果、感染した人間が異分子と少なからず関りを持っていたと発表されて。
普通の人間は異分子と接触していれば、感染するものだと勘違いしている。
だからこそ、奴らは極力俺たちと関わろうとしない。
この宿の主が、俺を泊める事を拒否しようとしたのがいい例だ。
だが、実際には異分子と関りを持っていなかった人間も異分子になったという報告があった。
結果だけでは何も分からない。
そして、上の連中も態々それを解明する気が無いような気がする。
異分子のほとんどは殺し、生き残った奴らも首輪を嵌められ管理される。それだけだ。
退役時に受け取った適応剤。アレを定期的に投与し続けなければ俺はすぐに殺されるだろう。
一月に一回自らに投与すれば、俺たち感染者も普通の人間のように街を歩ける。
もしも、投与を放棄していれば自動的にこの首輪が近くの管理者に通達する筈だ。
そうなればどんな理由があろうとも、俺は即座に処刑されてしまうだろう。
……この謎を解明しなければ、永遠に終わりは来ない。
それなのに、何故、奴らは数を減らす事しかしないのか。
至る所で根も葉もない噂はある。
残された異分子を企業の連中が使って実験をしている事や。
そもそも、神は俺たちの知らない真実を既に知っているという事も。
火の無い所に煙はたたないが……何が真実かなんて分かりはしない。
異分子たちの部隊にいれば、よく聞く話だ。
噂も、異分子になった人間の情報も日常的に聞かされていた。
奴らの国へと逃れようとする”三大企業”の役員を抹殺する任務を主に受けて。
俺たちは極秘裏に動いては、そういう人間を闇に紛れて殺していた。
表向きには事故を装って。時には、メリウス同士の戦闘もあったが。
そのほとんどの任務は完遂していた。
一般兵には頼めない仕事。
傭兵に任せれば、金に目がくらみ裏ぎられる可能性もある。
そもそもが、誰も引き受けたがらない汚れ仕事を受けるのは……何時だって俺たち異分子だった。
危険度が高かろうとも、俺たちの仲間がどんなに戦死しようとも。
奴らは顔色一つ変える事無く出撃を命じるだけだ。
「……」
目を閉じれば、過去の記憶がフラッシュバックする。
眠っている時も、食事をしている時も忘れる事は出来ない。
目の前で仲間が殺されて、理不尽な理由で仲間が処刑されて。
次は自分だと怯えていた新兵が、次の日には――首を吊っていた光景を。
俺たちに自由はない。
俺たちは決して幸福にはなれない。
感染者となった日に運命は決まった。
名誉市民じゃない……ただの家畜だ。
「……っ」
拳を固く握りしめる。
しかし、握った拳の行き場は無い。
俺はゆっくりと力を緩めて世界に目を向けた。
多くの国が、この世界で動いているが。
奴らを陰で動かしているのは、世界を牛耳っている”三大企業”だ。
奴らが命じれば、その国の王は忠犬の如く付き従うだろう。
誰が見ても分かるほどの上下関係。
国というものはただの飾りで、その本質を担っているのは奴ら企業になっている。
利益を追い求めて、人の不幸ですらも金に換える亡者共。
そんな人間が多くの国を動かしていると思えば、少なからず身震いはする。
奴らの采配一つで、俺たちの存在は消し飛んでしまうからだ。
法律も何も関係ない。
三大企業の重役たちが黒だと言えば、それが明らかに白であろうとも黒になる。
どんなに俺たちが健全に過ごしていようとも、だ。
「……奴らとは、なるべく関わりたくはないが……それは無理だろうな」
最早、如何なる職種に就こうとも。
三大企業の息が掛かっていない所なんて存在しない。
奴らは何処にでもいて、何者にも成れる。
光あるところにも影が支配する場所にも……。
俺はそんなどうにもならない思考を打ち消す。
そうして、こんな所でのんびりしている暇は無いと鏡を置く。
疲れすぎて上着を着たまま寝てしまったが。
気にならないくらいにはぐっすり眠れた。
俺は上着を正してから、ナップサックを手に取る。
鍵を持った事を確認して、俺は早速、銀行に行く為に歩き始めた。
コツコツと靴の音が小さく響いて。
ひんやりとしたドアノブを掴んで静かに回す。
そうして、外へと出てから周りを確認した。
昨晩、俺の部屋に強引に入って来た男の気配は無い。
待ち伏せしているかもしれないと思ったが杞憂だった様だ。
俺はホッと心の中で胸を撫でおろしながら、鍵を差し込んで扉をロックした。
そうして、荷物を持ちながら廊下を歩き、階段を下りていく。
酒場で騒いでいた人間たちが消えて。
木の板が軋む音がやけに聞こえるようになった。
ギシギシと軋ませながら、俺は下へと降りた。
そうして、カウンターの前で酒を飲んでいる店主に声を掛ける。
「……ありがとう。鍵だ」
「……とっとと行ってくれ」
仏頂面の男は鍵を受け取って、俺にさっさと出ていくよう顎を動かす。
失礼な態度に見えるが、まだマシな方だ。
俺は静かに頷いてから、言われた通りに宿屋を後にした。
戸を開けて外に出れば、眩しいほどの輝きを放つ太陽が昇っている。
まだ早朝だというのに、少しだけ暑くなっていた。
俺は片手で光を遮りながら、銀行を探しに行こうと――
「よ、お早いお目覚めだな。待ちくたびれたぜ」
「……待っていたのか。此処で」
「あぁ、お前がすぐに出て行っちまうことも考慮して二時間前からな」
声を掛けられて横を見れば、宿屋の壁に背を預けるグラサンの男がいた。
ニカリと笑って親指を立てているが、本当に二時間前から立っていたのか。
俺がジッと奴を見ていれば、何処となく寝不足のような目をしていた。
目の下にクマが出来るほどではないが……呆れた奴だ。
俺は奴を無視して歩き出す。
すると、奴も俺の横に並び立って歩き出す。
ついてくるなと言いたいが、気分を害されて通報されたくはない。
俺はグッと堪えながら、なるべく奴を意識の外に置く。
「なぁなぁ。アンタ、本当に退役兵なのか?」
「……あぁ」
「へぇ、だろうな」
俺は足を止める。
奴はさも当たり前のように言葉を発した。
あの揺すりをかけて来た奴らとはまるで違う反応。
それの所為で俺は足を止めてしまった。
俺は間抜けな顔で俺を見ている奴に思わず質問してしまう。
「……どうしてそう思う」
「あぁ? だってそうだろ。店の中から見てたけど……アンタ、アイツ等のパンチ見えてただろ」
「……」
「プロの格闘家だってアンタほどの目はしていないさ。俺の見立てじゃあの野獣も悪くなかったしな……それと、アンタの手の形だな。それは長い間、操縦レバーを握っていた奴の手だ。掌の皮が硬くなって下ろしている時も自然と握るような手になっちまってる。たこなんかを見れば、どういう機体に乗ってたのかも大体分かるぜ」
……奴の言葉に嘘はない。
手の形なんて気にした事は無いが。
奴の言葉には妙な説得力があった。
そして、その言葉を聞いたからこそ、こいつから感じた”何か”も勘違いではないような気がした。
のらりくらりと生きてきたような腑抜け面。
その日暮らしの風来坊かと思っていたが……何が狙いだ。
俺は警戒心を跳ね上げながら。
奴の動向を見ていた。
もしも、俺を使って何かをさせようとしているのなら。
今此処で…………はぁ。
また、だった……また、空気をぶち壊す音が鳴る。
獣のうなり声のようで、全く怖さを感じない低い音。
奴の腹から鳴るそれを静かに聞きながら、俺は奴を見る。
警戒心を上げた自分を恥じながら。
俺は心底うんざりしている目を奴へと送る。
すると、奴は照れくさそうに笑いながら頭を摩っていた。
「あはははは、悪いな! 俺は三食ちゃんと喰わねぇとダメな体質でな……昨日の礼に飯を驕らせてくれよ!」
「……金は無いんじゃなかったのか?」
「そうそう! それがさ。こういう時の為に、靴の中敷きの下に金を入れていたのを思い出してな……ほら!」
奴は俺の前で汚れている黒い革靴を脱ぐ。
そうして、中敷きを剥がしてからその下にあった紙幣をちらつかせる。
けらけらと笑う馬鹿を冷めた目で見ながら、俺はため息を零す。
……まぁ、腹は減っている。
昨日は、結局疲れて何も食べていなかった。
湯あみもしていない上に、服も着替えていない。
軍服のままであり、これでは色々と目立つかもしれない。
ナップサックには私物は入っているが、着替えは何も無い。
すぐにでも銀行から金を下ろして、新しい着替えを用意したかった。
だが、それよりも先に腹を満たした方がいいだろう。
俺はニコニコと笑う奴を見る。
一件無害そうには見えるが……まぁ、どうでもいいか。
「……先に銀行に寄りたい。それでもいいか」
「おぉ! いいぜいいぜ。何処へでもついてくからよ!」
奴は靴を脱ぎ直してから、紙幣を指で挟む。
俺はそんな奴を視界の端にやりながら歩き出す。
退役してからまだ時間は経っていないが、厄介事らしきものがやって来た。
隣で口笛を吹くグラサンを少しだけ警戒しつつ。
俺は今後の予定を頭の中で考えた。