水の入ったボトルを持ったイザベラ。
彼女はそのボトルのキャップを取ってからゆっくりとが頭上に掲げる。
太陽の光が反射して、清らかな水がぷかぷかと揺れている。
彼女はそのボトルを静かに傾けて、下で寝ている女にぶっかけ始めた。
「さっさと起きろ」
「ぶぁあぶあぶぶぁぁぶばめぇてぇぇあばばば――ヤメロォォ!!」
気絶していた筈の女も、流石に冷たい水を浴びせられて飛び起きた。
彼女のスーツは水を浴びてびしゃびしゃである。
くしゅりとくしゃみをしながら、彼女は犬のように顔を思い切り左右に振る。
「な、何をしているんですか!?」
「何って……いや、こっちが聞きたいんだけど」
「私!? 私が何を……アレ、そう言えば私は何を?」
「……ナナシ、こいつ殴っても良いか?」
「う、嘘ですよ! ジョークですよジョーク! や、やだなぁ……マジで殴ろうとしていました?」
「今すぐ殴られたいのか?」
「……ごめんなさい全て話しますだから怖い顔をしないでくださいお願いします」
早口で言いながら平謝りする女。
俺は残念過ぎる女を見ながら、どうして俺たちをつけていたのかと質問する。
「あのですね。実は私こういうものでして……あ、濡れてる」
「……良妻賢母(予定)ユーリ・ミヤフジ26歳独身。趣味はスイーツ作り……ふざけているのか?」
「え、あぁ! すみません! こっちは婚活用のもので……これです!」
「……ッチ」
「え、今舌打ちしました? しましたよね明らかに!?」
「ナナシ、落ち着きな。私なら殺してるよ」
「はは、傭兵って怖い人ばかりだなぁ! ごめんなさぁいぃ!!」
ちゃんとした濡れた名刺を貰う。
そうして確認すれば、傭兵統括委員会所属の三級特別調査員と書かれていた。
にわかには信じがたいが、こいつは傭兵統括委員会から差し向けられた人間のようで。
ニコニコと笑っている馬鹿を見てから、イザベラにどうするかと目で訴える。
すると、彼女は面倒臭そうな顔をしながらも「どうしてつけてきた」ともう一度聞いてくれた。
「実はですね。最近、ナナシさんの名が職場の中で広まっていましてね……SAWから一目置かれて、S級の手配者と交戦して生き延びて、この短期間でDランクに昇格しているスーパールーキー。その正体は元カメリア青騎軍所属の凄腕パイロットで……これはちゃんと見て判断すべきだァっと上司が言ったんですよ。そこで手の空いて……優秀な私が抜擢されて、こうして遠路はるばる調査に来た次第です! えっへん!」
「……暇だったのか?」
「違います! 私が優秀だからです!」
特別調査員のミヤフジは、得意げにそう言う。
暇だったこいつに調査を任せた上司は愚かにもほどがある。
秘密裏に調査すべき案件だろうに、既にこいつは俺たちに見つかり捕まってしまった。
こいつはまだその事実を認識できていないようで。
のほほんとした顔で何かを考えていた……絶対にスイーツの事考えているな。
「……まぁ、それなら別にいい……用が済んだのならとっと帰れ。それじゃ」
「ま、待ってください! このままはいそうですか、で帰れませんよ! もし手ぶらで帰ったら、私絶対にクビにされちゃいます! いいんですか!? いたいけな美女が路頭に迷うんですよ!?」
「頑張れ」
「ひどい! 酷過ぎます! 人殺しですよ! このままじゃ貴方は一生人殺しになりますよぉぉぉ!!」
「……放せ」
「放しませぇぇぇぇん! 絶対に放さなぁぁぁぁぁいぃぃ!! 死んでもですよぉぉぉぉ!!」
さっさと立ち去ろうとすれば、ミヤフジは俺の足を掴んで離そうとしない。
ズルズルと引きずっても放す気は無いようで。
俺が冷めた目を向ければ、こいつは目に涙を溜めて鼻水を啜っていた……哀れだ。
『……』
『……くぅ』
昔、任務を受けて立ち寄った街で。
空き箱に入れられて捨てられていた犬を見つけた事がある。
やせ細った子犬であり、黒い毛をしていたな。
うるうると瞳を潤ませていて、雨に打たれてぶるぶると震えていた。
可哀そうであり本当なら連れて帰りたかったが。
当時の俺は軍人で、誰かを養うだけの余裕は無かった。
だからこそ、屋根の代わりになるものを作ってやる事しか出来なかった。
何故か、俺は当時の事を思い出してしまった。
もう一度、ミヤフジに視線を向ければ……似ている。
あの子犬とそっくりであり。
何故か、俺の中の良心がこいつを見捨てるなと訴えかけている。
見ているだけで悲しくなり、見捨てて行けばまたあの時のような罪悪感を抱く事になる。
「ぅぅ、ぅぅ、ぅぁ、ぇぅ、ぇぅ」
「……」
もう、美人だとか組織からの手先とか……どうでもいい。
こいつは犬だ。
雨の中で震える子犬だ。
俺はただ子犬を放っておけないから、手を差し伸べるだけだ。
俺はそう自分に言い聞かせながら、ゆっくりとその場にしゃがむ。
「……分かったよ。何をすればいいんだ?」
「え!? いいんですか! 本当に私に協力してくれるんですか!?」
「ナナシ何言ってるんだよ。正気か?」
「……すまん。でも、放っておけないんだ」
「え」
何故か顔を赤らめる女。
口を両手で押さえながら、キラキラとした目で俺を見つめて来る。
風邪でも引いたのかと思いながら、俺は落ちて少し濡れた上着を羽織りなおす。
そうして、もう一度、何をすればいいのかミヤフジに尋ねた。
「……えっとですね。取りあえず、ナナシさんの活動記録を取りたいので……いつも通りに過ごしてください!」
「……それだけか?」
「え、はい……あ、別に私は戦闘記録を取集する為の人間では無いので。あくまで活躍する傭兵さんたちの日常の行動を記録する係です!」
「……それは何か意味があるのか?」
「ありますよ! 見た事ありませんか!? 月刊ヨウヘイ=サン! 私は主にその月刊雑誌のネタを探す人間なんです!」
「……知ってるか?」
聞いたことも無い雑誌だ。
元軍人の時も、捨てられた雑誌を拾って読んだ事はあるが。
その中に、ヨウヘイ=サンなどという名前の雑誌は無かった。
ふざけた名前であり、恐らくは飯でも食っている時に適当につけたのだろう。
俺は念の為に、何か知らないかとイザベラに尋ねる。
すると、彼女は眉間に皺を寄せて考え始めて……何かを思いだした様だ。
「……あぁ聞いたことはあるよ。何でも、注目の傭兵について書かれた雑誌だとか……あまり戦いには役に立たない上に、どうでもいい事ばっかり書いてあるから。一部のコアなファンしか読んでいないらしいねぇ」
「えぇぇ!? それは何処の情報ですかぁぁぁ!? 人気です! 大人気です!! 特に美男美女の記事を書けばそれはもう飛ぶように!」
「……それ、ただの芸能雑誌と違いがあるのかい?」
「……えへ」
可愛いつもりで舌を出してウィンクをするミヤフジ。
十代の少女であれば可愛げもあるだろうが、もう二十代後半だろう。
色々ときつい気がして、俺は真顔のまま彼女を見つめてしまう。
すると彼女はスンとした顔になり「その目はやめましょう」と言ってくる。
……まぁ、取りあえず事情は分かった。彼女は調査員であるが、その目的は雑誌の記事であるらしい。
傭兵統括委員会にそのような部署があった事は知らなかったが。
イザベラが言うのであれば、本当に存在するのだろう。
その雑誌の為に、彼女は此処まで来て俺の情報を収集しようとしていた。
まだ、記事に出来るような事は集められていないようで。
俺が何とかしてネタになるような事をしなければいけないようだ……いや、何でだよ。
俺は碧い獣を探して此処まで来た。
それなのに、何故、この女にネタを提供しなければならないのか。
意味不明であり、この女を手伝う話を今すぐに撤回したくなる。
しかし、ミヤフジは俺のそんな空気を察して目を潤ませて来る……うぅ。
この目はダメだ。
本当にあの日に助けられなかった子犬の顔がちらつく。
本当は関わってはいけない部類の人間で。
こんな事をしている時間なんて無いのに……はぁぁ。
「……今から神殿に行くが……来るか?」
「え、神殿に? 一体の何の用事で……は! まさか、神託の内容をリアルタイムで知る為に! そうですよね! そうなんですよね!」
「いや、ちが「分かりました! でしたら、この私が一肌脱ぎますよ!! お任せください!」……くそ」
話を遮られた上に、何故か勝手に解釈されてしまう。
否定しようにもミヤフジは既に何かをしようと考えていて。
俺は頗る嫌な予感をさせていた。
「さぁそうと決まればすぐに行きましょう! 善は急げですよ!!」
「……大丈夫なのか?」
「……俺にも分からん」
一体、神殿に行って何をするつもりなのか。
同行は許可したが、もしも何か問題を起こすのなら……もう一度気絶させるしかない。
くつくつと笑うミヤフジ。
奴は何かを計画しているようだった。
「ふふふ、少々予定と違いますがまぁいいでしょう……今に見ていなさい。このスーパーエリート調査員の真の実力を……ふふ、ふふふ、うふふふふ」
「……全部聞こえてるな」
「……無視しな。私はそうする」
色々と残念過ぎる女ユーリ・ミヤフジ26歳。
スイーツ好きで、婚活にも頻繁に参加しているこの女は危険だ。
能力が高いとか頭が良いとかそんな次元の話では無く――
「……あれ? そういえば神殿ってどっちに……あれ、あれ、あれれ?」
枝分かれした道で迷い始めたミヤフジ。
俺はそんな女を見つめながら静かにため息を零す。
そうして、肩を叩いてから右の道を進むように指示をした。
彼女は笑みを浮かべながら「ありがとうございます!」と馬鹿正直に感謝を言っていた……素直なのは良い事だ。
不安な道のりであるが、これも何かの縁だろう。
実際、神殿に入る為には誰かしらの協力が必要不可欠だった。
その中でも、世界規模で信頼される傭兵統括委員会の人間であるのなら、もしかしたら……。
少しの希望を抱きながら、俺たちは神殿へと向かう。
この女を頼りにするのは少し嫌だったが。
此方も協力するのだから、この女にも役に立ってもらわないと困る。
だから、そんなに嫌そうな顔をするなとイザベラを見て――
「うぎゃ! 何か踏みました! ぐにゅってしました! 黒い何かです! ここここれは……あ、ただの粘土だ。あはは!」
「……はぁぁぁぁぁぁぁあ」
「……すまん」
大きなため息を吐きながら、イザベラはポケットから煙草を出す。
俺は無言でポケットからライターを出して彼女のそれに火をつける。
能天気な女。いや、本物の馬鹿であり、少しでも頼りそうになった俺も馬鹿に見えて来た。
いや、違う……こんな奴でも、委員会の人間だ……きっと、きっと……ダメだ。成功するヴィジョンが見えないっ!
ずぶ濡れのスーツを着て、ぴちゃぴちゃと音を鳴らしながら歩く不審者。
くしゃみをしながらブルブルと震えていて……先ずは着替えさせよう。
起こす為とはいえ、水浸しにしたのは俺たちだ。
風邪をひかれては後味が悪い。
イザベラにその事を伝えれば、彼女は「そうしな」と言う。
彼女にお願いしてヴァンに連絡をしておいてもらう。
俺は前を歩く彼女に近づいて、そっと上着を掛けてやる。
「……ポ」
「ぽ?」
小声で何かを呟いたミヤフジ。
頬を赤らめながら俺を見つめてきて――ッ!!
「ぐへ、ぐへへへ、ふひひひひひ」
にへらと笑いながら涎を垂らし始めた。
何かを妄想している顔であり、こいつの視線から邪悪な気配を感じた。
よからぬ妄想であり、俺はそそくさと後ろに後退する。
ミヤフジはそんな俺を見てバチリとウィンクをしてきた。
「……照れ屋さんです、ね!」
「……助けてくれ」
「……頭が痛いよ。本当にね」
悪寒が走り体を震わせる。
イザベラは煙草を吹かせながらヴァンに愚痴をこぼした。
神殿へと続く道を歩いていく俺たちはかなり目立つ一行で。
俺はやはりこの選択は間違いだったのではないかと激しく後悔していた。