では試しにやって見給え。
夜章
目は口程に物を言う。というが、より正確に言うならば、悪口よりも陰口よりも煩く煩わしいのが視線だろう。
授業が終わり昼食を食べようと食堂へ向かう俺へと向けられる視線を感じてチラリと後ろを振り返る。
そして振り返れば、やっぱりアイツがいた。
その眼差しの持ち主は猫。初めて出逢った当時のように隣には従者(亀)を従え。甘え。すがり付き。伏し目がちに如何にも傷付いてます凹んでますな表情の猫。
その口から亀へと向けて紡がれている言葉は俺に対しての呪詛だろうか。悪口陰口のコミュニケーションに於けるその有用性は計り知れない。記憶、認識、経験を共有し合い、無意識的に共犯意識を生み出す。その共犯意識による団結。更に人の陰口を叩く事が効果的なガス抜きとなり、今後の人間関係をより一層円滑にする。
いやぁ、素晴らしい。人の悪口って最高だな。陰口一つあれば誰とでも仲良く出来る。それをやられる側は堪ったもんじゃないが。
衆愚という言葉がある様に、人は群れる程その愚かさを増す。その中に放り込まれれば例え正しい行いをしても、いや、正しければ正しい人間程数的暴力によって塗り潰されるだろう。出る杭は打たれるのではない。抜いて棄てられ、雨風に晒され、いずれ朽ち果てる。其処には個人の意思も資質も性格も、ましてや感情など考慮される筈もない。
昔(といっても最近だが)はあんなに仲良かったのに。今となっては俺と猫との間にはかなりの隔たりが出来てしまっている。まぁ、この学校の学生大半とは隔たりがあるんだが。でも今回のはそういった関係の無さ故に生まれた隔たりではなく、純粋に意識的。言い換えれば感情の溝による隔絶だ。
互いを認識しない、俺とその他大勢との関係性なら特に問題はない。息をする様に互いを無視し、空気のように存在を扱う。
だが感情の溝によって決められた関係性というのは違う。たとえどれほどの隔たりがあったとしてもいずれ何処かで出逢わなければいけない。
舌打ち交じりに踵を返し、食堂へと歩を進める。心なしか俺の歩調は上がっている様だった。
まぁね。年がら年中べったりってのもしんどい。何より『しんどいな』って自覚しちゃった時が一番しんどい。傍目八目と言うがまさにそれだ。こうして一歩離れて見てみると如何に俺たちが狂っていたかが良く分かる。これすらも敗者の戯言にしか聞こえないんだろうけど。
心の中だけで彼らと自分に醜い悪態を吐く。
目前で談笑している男女混合グループを早足に抜き去り、姦しく騒ぐ女集団を追い抜く。周囲の喧騒から自分独り取り残されているかのような錯覚に陥りながらも、それでも足だけは食堂への距離を緩慢に詰めていく。
俺のラブコメはこうして閉幕となった。ハッピーエンドとは程遠い、醜悪極まりない終わり方。
蛇の行方は誰も知らない。
○
春休み。俺たちの学校の春休みは二月の終わり頃から三月一杯まで続く。つまり一カ月近い長期休暇が取れるという事だ。皆口々に予定を語り合い、遊びに行く予定を立て、カップルは顔を見合わせてにっこり笑い合う。
クラスは愚か、学校からも、言えば社会からも疎まれている俺からすれば憎たらしい光景である事この上ない。
俺の春休みの予定は英検の勉強で完全に埋められている。単位の取得数が余りにも進級ギリギリなので外部単位に手を出さないと拙い事になっただけの自業自得だ。
実際に俺の単位は悲惨を極めていた。後二つ落としたら進級出来なくなるギリギリの所。色恋に現を抜かしていたお前が悪い、と俺の事を糾弾し、仮初めの満足感を得たいという奴も居るかもしれないが、それは俺が悲惨な結果に終わった事で見逃してもらいたい。それは火事場泥棒に入った挙句、去り際に油を掛けていくようなものだ。屍体蹴りは良くない。
因みに単位と云うのは各授業教科の成績優良によって与えられる称号みたいなものだ。その単位の手持ち数によって進級できるか否かが判断される。俺はその単位を相当数落としてしまった。
要するに俺は頭が悪いという事。頭はコロコロと回るが、それが良い方向へ転がった試しがない。
しかし、英検である程度の難易度の級に合格すると、その単位を履修できるので、俺は今それを狙っている。
家に帰ってからもダラダラ勉強したり、しなかったり。文庫本を手に取ってみたり、読んでみたり。暫く読み返している内に新しい本が欲しくなり。
「古本屋にでも行こうかね……」
一時間前までの決意は机の上に消しゴムと共に放り投げ、俺は小銭とショルダーバッグ片手に家を出た。春休みとは云えども、今はまだ二月。頬を刺す様な寒さは春という単語とはまるで無縁。俺は未だにあの上着を着込んでいる。膝の上で眠る猫にそっと掛けてやったりした、あの黒い上着を。
「下らねえ……」
束の間無駄な感傷に浸ってしまった“俺”を一蹴し、“俺”は自転車を庭の駐輪場から叩き出す。
《恥の多い生涯を送って来ました。》
ずっと昔に古本屋で見つけた、そんな言葉をふと思い出して、俺は一人苦笑いした。
○
古本屋はやっぱり立ち読み出来る所が最高だ。俺は普段からコスパの悪い漫画は避けて文庫本(ライトノベル含む)ばかり買っているが、立ち読みならその点を気にせずに好きなだけ読めるからいい。
二時間近くを古本屋で無駄遣いし、俺は一冊の文庫本(ライトノベル)片手にレジの前に並んでいた。俺の前の男性客が、中古ゲームか何かを大人買いしたのか矢鱈と会計が遅い。
然したる問題はないか。俺は何かを待ったりするのはそれほど苦手ではない。
人間が待ち時間を嫌う理由は手持ち無沙汰な感覚が嫌だったり、誰かと一緒だと間が保たなかったりするのが原因なんだろう。某千葉県にあるのに東京ランドに行ったカップルは別れるなんて
その点俺はと云うと、無駄なまでの想像(妄想)力に満ち満ちているし、普段から基本敵に単独行動だ。何も問題はない。
退屈凌ぎに辺りを曇った目で見渡し、隣のレジで見覚えある人影を見つけた。
覚えがある。よりも、忘れられない。の方が正しいか。
丸みのある頬も、一重瞼でありながらぱっちりした目も、その上に何の違和感無く置かれた柳眉も、何も変わっていない。ただ、最後に見たときよりも幾分か伸びた髪が否が応にも時の流れを感じさせる。俺がかつて好きだった女の子。
じゃあ、今は?
目が合って、俺達はようやくお互いの存在に気付いたようだった。
「あ、蛇じゃん」
「……{羊}か。久しぶり」
中学時代唯一の女友達。俺の何気無い一言で人生が壊れてしまった女の子。
かつて俺が好きだった彼女の事を、【迷える子羊】と云う言葉からここでは羊と呼ぶ事にする。
ちょうど前の男性客の買い物が終わった様だったので、俺はその男性客と入れ替わるようにしてレジに入り、カウンターに文庫本(ライトノベル)を置いた。税込み百八円の小銭を代償に得た文庫本を手に、何故か先に会計が終わったにも関わらず入口付近で待っていた羊に視線を投げる。俺と羊は誘い合わせたかの様に一緒に店の外へ出た。
二人とも無言のまま駐輪場まで歩き、互いの自転車の隣で足を止める。俺は羊の隣に自転車停めてたらしい。
俺も彼女も帰ろうとしない。自転車の籠に互いの買い物を入れ、ハンドルを握ったまま何となくコンクリートの地面に視線を向けている。
人が吸い込まれては出て行く古本屋。びゅうびゅうと吹く風の音と無言に耐えられなくなり、俺は頭をがしがしと掻きながら羊に話し掛けた。
「あー……。どうだ、最近」
久し振りに中学校の同級生に逢ったのと、ソイツが他人じゃなかったのとで、俺は何となく羊と世間話を開始した。
俺の言葉に彼女も多少面を上げたが、目と目が合う程には上げずに、俺の自転車のサドルの辺りを見ながら返事をした。
「どうって、普通大変だよ。毎日バイトしてさ。学費も払わなきゃだし」
「学費? 復学したのか?」
俺が知っている噂の限りでは、確か羊は既に学校を辞めていた筈だが。
そんな俺の心中を察したのか、羊は何でもないかの様な調子でその先を続ける。
「いや、してないよ。オレはもう学校を辞めたけど、行っていた時の分は払わなくちゃいけないからね」
「さいでね……」
誕生日こそ忘れたが、俺と羊は同い年な筈だ。そんな彼女が自分の学費とやらについて淡々と語っているのを見て、俺は絵の重要なピースが僅かに欠けたパズルを眺めている様な、少し複雑な気持ちになった。
まるで羊が何処か遠くへ行ってしまっているかの様な。いや違う、と思い直す。それは俺が皆から取り残されているだけ。手を取って、共に歩む人を失っただけ。
ぎゅっと心臓を掴まれたような嫌な圧力を感じる。無意識のうちに一瞬だけ眉を顰めてしまったかもしれない。
「蛇はこの後暇?」
「……ん? あぁ。どした?」
二月の冬空の下、ポケットに小さな手を突っ込み、寒そうに身体を震わせて話す彼女は、思い返すとちょっとだけ笑顔だった気がする。
「いや、今から家に帰ってもする事無いし、時間潰しに買い物行くんだけど、蛇も来る?」
轟音と共に冷たい風が俺達の間を吹き抜けた。店の外に建てられた
空高く舞い上がっている筈のその飛行機は、煙を立てて落下していく戦闘機のようにも見えた。
○
自転車を漕いで十分程の距離にある大型スーパーマーケットに来た。一つの店の中に複数の店舗が軒を連ねる、複合店とでも呼ぶべき代物だ。
羊が先頭を歩き、俺がそれに着いて行くと云う所謂RPGスタイルで店の中を進んで行く。
羊の背中を視界に捉えつつ、周囲を見渡せば様々なものが目に入る。
俺には縁が無さそうな花屋。小さいながらも固定客の居そうなクリーニング店。買い物籠を乗せたカートを隣に置き、休憩スペースで
「えっと、こっちだね」
羊は振り返ると少し歩みを遅らせ、俺との距離を詰める様に、話しかけながらちょっと近付いてきた。俺もそれに適当な返事をして、その羊の目的地を目指す。
さっきから続いている妙な違和感。
無理矢理に言語化するならば“こんなものだっただろうか”という拍子抜け。女の子との買い物と云うのは例えそれが形骸的なものだったとしても、決して男子高校生の日常ではない訳で、それなりに大きなイベントだったはず。
だから自分がそんな違和感を抱いたことが意外だった。
なんと言うか、何とも思わないんだな……。
その後俺と羊は特に会話を交わす事も無く、人と人との間を擦り抜ける様にして歩く。
歩いている途中で擦れ違った、仲良さ気にお喋りする女子中学生二人組の「好きな男子二人から同時に告白されたらどうする?」「それヤバーい!」とかいう頭の悪い会話に鬱々としながらも、俺は羊の背中を黙々と追いかけた。
因みに俺は二人の男に同じ日に告白して両方からOKが出たから片方をその日のうちにフった女が居ると云う話を先輩から聞いた事がある。それヤバーい!
十分程羊の後ろを歩き、着いた所は白とピンクが基調の店。
雰囲気といい、品揃えといい、女性向け小物店とでもいうべき代物だ。間違っても俺が一人で入っていい場合じゃない。
一人なら。今は羊という免罪符が居るから大丈夫なはず。
「あーっと、何買うんだ?」
「ん? ちょっと布製の収納ボックスをね」
「へー、意外」
「意外ってなんだよ。オレだって片付けぐらいするよ?」
俺と下らない会話を交わしつつ、羊が手に取ったのはピンク色の収納ボックス。ちょっとした段ボールぐらいの大きさだ。
「して、何故布製?」
「あー、紙だとね、夏とか湿気るんよ。窓際に置いとくとこう、グニャって」
「なる。で、大方予想はついてるんだが、何を入れるんだ?」
「漫画だよ。
「やっぱりかぁ」
出逢った頃から羊は少年漫画が好きだった。中学の頃に羊の部屋の写真を見せて貰った事があるが、見渡す限り漫画の山だったのは記憶に新しい。ほんの一年前だけれど。
「この箱もまさか漫画本を入れられるとは思ってねぇだろうな」
「そうだな。こんな可愛い柄なのにね」
羊は笑う。何でもない、名前の無い時間がゆっくりと流れていく。
結局羊は例のピンクい箱(布製)を買った。当たり前だが俺は全く金を出していない。
……俺は猫と回転寿司食いに行った時も割り勘で払わせた様な人間だし。同じ枚数食べて、端数は俺が払ったけれども。
○
羊は手にレジ袋を二つ持って、俺はさっきの古本屋のレジ袋を持って店の外へと出る。暖房の効いていた店内から急に外へ出た事で、俺は思わず首を
外は既に暗く、人通りの少ない道路を街灯が照らしていた。下を向き早足に通り過ぎる男性。場違いな程元気な犬に引き摺られるようにして散歩している女性。その全てが硝子越しに見ているかのように自分とは関係の無い世界。
そんな夜の中、すっかり冷えてしまった自転車に跨り、足でヘッドライトを蹴り飛ばしてスイッチを入れ、俺と羊は一緒に羊の家へと向かった。俺は方向違うけれども、女の子を夜に一人歩きさせるのは良くない気がした。そもそも歩きではないけれど。
錆び付いた自転車を漕ぎ進み、道の中程まで来た所で、羊が
「蛇はさ、学校で彼女とか出来たの?」
彼女が俺に問い掛けた。突然の質問にペダルから足を踏み外しそうになるが、ギリギリで持ち堪える。
俺は普通の調子を装って彼女の質問に答えた。
「昔はね。今は居ないよ」
「何かあったの?」
「色々だよ。色々。告白して、付き合って、クリスマスにフられた。同じ奴に告白されて、付き合って、今度は俺がフった。色々さ」
俺も羊も黙ってしまう。自転車のタイヤがカラカラと鳴る音と、夜風が吹き抜ける音だけが夜の住宅街に木霊する。
それから羊は呆れた様に笑って俺に話し掛けた。
「蛇って本当に女運が無いよな。オレもこんなんだし。オレも男運無いんだけど」
「悪いね。俺がこんな奴で」
「蛇の事じゃないよ。{熊}だよ。後は熊とか熊とか熊とかぁ……」
「おう……」
あまりの剣幕に一瞬たじろいでしまった。羊がこんなに嫌悪感を露わにするのも珍しい。
熊は俺の中学時代唯一の親友だ。絵と歌が上手い、ちょっとオタク気のある奴。
彼の事は熊と名付ける。深い理由は無い、ただ体格が大きいからだ。
野生のグリズリーよりは熊のプゥさん方向のベクトルが近い。
「アイツ、他の皆が見ている前で盛大に告りやがって……『羊、好きだ!』だぜ!? 信じられるか!?」
「良くも悪くも俺はその場に居合わせなかったけどな。見てたら今でも
「オレは大半の男は嫌いだよ。蛇は、まぁ、いいけどさ」
羊はやっと笑顔を取り戻す。羊本人は自覚が無いのかもしれないが、羊は並以上には可愛いのだ。今の笑顔だって、並の男子だったらうっかり好きになる位には。
けれどそうはならない。勘違いも思い違いも思い込みももうしない。きっとまた、手痛いしっぺ返しを喰らうに違いないんだ。
偶然も運命も、俺はもう信じない。
だから俺はそんな羊の
「酷ぇ事で。去年のバレンタインに手作りチョコくれた奴の発言とは思えないぜ」
「別にそんなんじゃない。あれはただの義理だよ。友達に友チョコ作ったから蛇の分もついでに作っただけだ」
「態々作ってくれた辺りが流石だぜ。コレが世に言うツンデレってやつか……」
「バカ、勘違いするな。オレがそんなキャラに見えるか?」
「……どうだか」
女って生き物は意味不明だからね。
俺は何となく笑う。羊も俺の言葉が冗談だと分かっているんだろう。やはり小さく笑っていた。
○
「じゃあ、オレん家此処だから。ありがとね」
「おうよ、じゃな」
「じゃあ。……また今度」
その今度は、来るのだろうか。
羊は早足に家へと入っていく。羊の姿が完全に消えるのを見送って、俺も自転車を漕ぎ出した。
帰路の途中に、駅から続く太い道へ出ると、酔っ払いや若い男女のグループが彼方此方で騒いでいた。
それらを避ける様に道の端を通る。淡々とペダルを漕ぐごとに雑踏も喧騒も聞こえなくなってきた。
そのまま進み、十字の交差点に突き当たると、今度は一転して車の通りが多くなる。
近くの電柱の下には誰かは置いたのであろう花束が、冷たい風に吹かれて散り散りになっていた。
俺はそれに一瞬だけ目を止めると、再び何事も無かったかのように横断歩道を渡り始める。
目前の歩行者信号は、既に点滅を繰り返し始めていた。
(´・ω・`)