「君には僕の好きな花を教えよう」
「これは呪いだよ。年に一度、必ず僕を思い出す様に」
従尼章
充電器から抜く事さえ面倒臭い。ベッドの上で寝転がったままスマートフォンの画面を灯す。暇を潰す為に意味も無く、インターネットブラウザを開いては閉じてを繰り返す。
連絡用SNSで、彼女から可愛らしいパンダのスタンプが一つ、ポンと送られてきた。パンダのスタンプは黒電話の受話器を頭上に掲げている。つまり電話がしたい。そう云う意味なのだ。
最近の彼女は就職活動が本格化してきている事もあり、中々自由に時間を取れない状態だった。しかし、僅かな時間を縫ってデートをしていた。他の人に言わせれば恋人同士なのに全然逢えていない方らしい。
勿論、俺だってもっと多くの時間を彼女と共有したい。楽しい時を一緒に過ごしたい。
だからといって彼女の足枷になるのはそれよりも数倍嫌だった。
なるべく彼女の都合に合わせる。電話を掛けるのは基本的に彼女からだった。
電話を取る。
『別れようかなって思うの』
本当に動揺した。心なしかスマートフォンを持つ手が震えている。何故なのかと尋ねた。一応ながらも答えは返ってきた。
就職活動が忙しくて時間が取れない。勉強にも時間を使いたい。だから別れたい。
彼女は言葉こそ遠回しで濁したが、暗にお前は邪魔だと言われたのだ。
今までの行為は迷惑だったとその口から告げられた。
頭の中が隅の方から徐々に徐々に白く濁っていく。漸く澄んできた泥水が、突然掻き混ぜられた時と同じ様に、綺麗な思考に靄が掛かる。
『キミは高卒だから分からないだろうけど』
『私は違う』
俺が就職した時は、それこそインターンなんてものはなかった。面接だけ受けて合格を貰って終わり。悪く言えばどこにでもあるような仕事。
お前に私の苦労は分からないだろう。口を挟まないでくれ。
それは明確に明らかに確かな拒絶だった。感情で出来た氷の壁だった。気持ちの大河から愛を抜いた、カラカラに干乾びた絶望の溝だった。
受け入れたくない現実と、追い求めていた理想とのギャップに打ちのめされている所に、知ってか知らずか彼女は追い討ちを掛ける。
『それにもう好きじゃないし』
ほんの二週間前だ。好きだ、大好きだ、と俺は直接口に出して彼女に伝えていた。私もだよ、なんて言って彼女は俺に口付けた。
人間は誰しもが愛に飢えている。俺も、恐らくは、彼女も?
どれだけ口で愛を語ろうと、満足する事は絶対にない。こんな事を昔の俺は偉そうに思っていたではないか。まただ。また俺は上辺の言葉に騙された。好きと云う気持ちに踊らされた。
あまりに、情けない。
キミも言いたい事があるなら言ってほしい、なんて言われたが、明らかに参考にする気がないのは流石に分かりきっていた。それでもなお、火山灰みたいにくすんで真っ白になった脳から言葉を絞り出す。
「俺は君が大好きだった」
『私にはもう分からないや』
『ねぇ、キミはさ、私と結婚したかった?』
「生涯を捧げても惜しくはないと思っている」
『私はね、そんないい人じゃないよ』
「……」
一拍置いて、深呼吸。
『これはね、一回別れるだけ』
『また二人が落ち着いて、そうしたらもう一度付き合えばいい』
『それまでの、休憩』
言われて苦笑いする。それはドコで休憩すればいい? イツまで待てばいい? そもそも俺に居場所なんて何処にもないじゃないか。いや、あった。
あぁ、
どこかで見た光景だ。既視感、とはまた違う感覚。一度見た作品のリメイクを見ている気分だ。
その先まで俺は知っている。彼女は。いや、既に他人に落ちぶれてしまった彼女は。
もう二度と俺の隣で笑う事はない。
もう何も言う事も言える事もなくなった。ダイスは既に投げられた。
『じゃあ、今までありがとう』
最後の女の言葉。
三年間の想いを乗せた電話はタップ一つで呆気無く終了した。既に切れてしまった電話の画面を見て唇だけで笑う。
俺は知らない間に一時間も電話していたのか。
人は楽しいと時間が過ぎるのが早く感じると云う。今は他人となった女との電話は、彼女だった存在の声を聴いているのは、やっぱり楽しいモノだったのか?
「さよなら」
拝啓、恋愛の失敗者様。
この三年間もまた、猫との記憶の様に、俺の人格を形成する柱となるのだろう。
何かの賞で表彰された時、自分の名前が隅に乗った新聞。そんな存在と同じ。古い記憶に塗れて、二度と取り出す事はない、取り出さないから色褪せない、とてもとても大切な記憶。
「どうか幸せに」
さよなら。僕の大好きな人。
俺は、出会って、愛して、哀に落ちた。
I,逢愛哀。
既に震えの止まった指先で、俺は彼女の連絡先を削除した。