お次は哀の時間だ。
愛してる、ってそう伝えたのは、
新しいものが欲しかっただけ?
俺と猫が彼氏彼女になって何が変わったのかというと、小さなところで色々と変化が起きた。
まず、猫が俺に甘えるようになった。人に対して甘えるという表現を使うのは些か変かもしれないが、実際あれは甘えられていると云う表現以外の適切な表し方は無いと思う。背中に抱きつかれたり腕を組まれたりするのを、甘えるという表現以外を用いて俺の語彙力では表現出来ない。
後は、俺とだけ手の繋ぎ方が変わった。具体的には、掌を合わせて指を絡めて手を繋ぐ。俗に言う恋人繋ぎと呼ばれる物だ。しゅるしゅると五指が蛇になったかの様に指を動かして愛おしそうに俺の指を撫で回してくる。恥ずかしくて死にたくなる。
こんな感じで月日はずんずん過ぎて行き、十二月になった。
確かこの辺りで一回デートに行った記憶がある。場所は市駅。俺達の学校がある市の中で、一番大きな駅だから、市駅。正式な略称かは知らないが、俺達の学校の学生なら大方この呼び方で通じる。
その市駅で何していたかと云うと、実は何にもしていない。適当に店を冷やかして、本数冊買って帰っただけ。
デートなんて今までした事も無かった俺に、どうしろと言われてもどうしようもない。
宝石やら服やらの売り場で、「コレ可愛ぃー!」って目を輝かされても、俺は全くそれらに興味が無いので適当に相槌打つのが関の山。猫に若干潤んだ悲しそうな目で見られたのが胸に突き刺さった。申し訳無い。
後は音楽系の店に行ったりもした。俺はCD買わない人なので、どちらかと言うと楽譜を中心に見て回っていた。あまり知られていないゲームのBGMの様なマイナーな曲を探していたんだが見つからなかった。当たり前だ。自分で書くしかないのかもしれない。
因みに俺も猫も、狐も亀もある程度なら
最後に本屋に行った。本を買ったのは俺ではなくて猫。題名は忘れてしまったが、手に取っていた厚さと大きさから推測するに単行本だと思われる。
○
十二月に入ってから一週間と数日。俺と猫は部活が終わってから弓道場へと足を運んでいた。
既に飯も食い終わり、風呂にも入っているので後は寮の門限を気にするだけ。そしてその時間までは一時間程度の余裕があった。
俺と猫は弓道場付近の階段に座っていた。部活終了後に態々自主練をする人は居ないようで、日の暮れた中、こんな場所まで来ているのは俺と猫の二人だけ。
正確には猫は座っていない。俺の上着を被り、俺の膝に頭を乗せて眠っている。大方疲れているんだろう。最近は冬の大会が云々で部活も厳しくなってきているし。
猫は今は横を向いて、くうくうと穏やかな寝息を立てている。
俺は猫の頭を撫でる。猫は時々身じろぎする。そんな平和な時間が流れていく。
蛇足だが、俺と猫、それと亀は兼部をしている。俺は剣道部と例の同好会。猫と亀は弓道部と写真部。猫はその他に茶道部にも入っている。これは未来の事になるが、猫は後々に俺達の同好会にも顔を出すことになる。四足の草鞋とかお前動物かよ。
猫は俺の上着の裾を握って眠っていた。猫の小さな寝息が暗闇へと響く。俺は猫の髪に手櫛を入れたり、猫の柔らかい頬をプニプニと押したりして楽しんでいた。
……寒くなってきたな。
俺は一旦、猫の寝顔を見るのを止めて辺りを見回した。
切れ掛かった蛍光灯が虫の羽音のようなジジジという音を立てる。時折吹き抜ける風はお世辞にも涼しいとは言い難い。寧ろ冷たいと感じる程だ。
そんな空間の中でも、猫と触れている場所だけは暖かい。そんな当たり前の事が俺には嬉しい。
「ふふっ」
口元が綻んでしまう。十二月の空気へと溶けていく俺の声は、自分でも
猫を起こさない様に声を小さく抑えて笑っていると、猫が俺の膝の上で頭を転がす。そのまま俺の顔の方を向いて、握った小さな手で目の辺りを擦っている。
「ん? 凪はなんで笑ってるの?」
「お? 起こしちゃったか?」
「ううん。ただ起きただけだよ」
猫はそう言って体を重そうに起こした。まだ少し眠いんだろう。頭をフルフル振ったりしている。その度に猫の艶やかな黒髪が振り乱れる。せっかく梳いたのに勿体無い。
小さく猫は欠伸をして、それで目は冴えたらしい。さっきまで糸の様だった猫の目は既にパッチリと見開かれている。
俺もそれを確認してから首を曲げて関節を鳴らす。子供の時からの俺の悪い癖だ。既に鳴り癖の付いてしまっている俺の首は、それだけの簡単な動作でバキバキと音を立てる。ついでとばかりに背筋を伸ばすと、こちらからも小気味な音が鳴った。
それから俺は立ち上がり、よろけて近くの壁へと
別に格好付けたいとかそんな理由ではない。母親譲りの貧血が酷過ぎるだけだ。下手に急に立ち上がったりしようものならば、視界が曲げた下敷きに映る景色の様に歪む。そのまま平衡感覚を失い、地面へと無様に叩き付けられる事になる。猫の前でそんな醜態は避けたい。恥ずかしいし。
「で、どうすんの? 帰るのか?」
正直な所、もう少しこのままで居て欲しい。猫に膝を貸してた所為で右足の痺れが凄い。微量の電気を流されている様な触ると変な声が出る状態を通り越して、肉が冷たいゴムになってしまった様な感覚がぼんやりとしか残らないあの領域にまで達している。壁に
俺は猫の返事を聞こうと、顔を猫へと向ける。猫は俺を見て何やら悪戯を思いついた小悪魔の様な笑みを浮かべていた。
猫の微笑み方は、いつものにぱっとした快活な笑い方ではなく、うっすら目を細め口角を上げる、艶っぽい笑い方だった。
「おい、どうし」
俺の言葉は途中で止めさせられた。
猫からのハグ。甘えている時とはちょっと違う。ギュッと強めに抱き締められる。
余りに突拍子も無い行動に、俺は目を白黒させる。俺は一から十まで計算して動けばある程度の事には対応出来るのだが、予想外の出来事には滅法弱い。
猫の大きな胸を押し付けられて、耳に舌が這う。今まで感じた事の無い感覚に、体が火照ってくるのを自覚した。
一旦体を離し、改めて見た猫の顔も、恥ずかしいという自覚があるのか顔を真っ赤にしている。
「あのさ、凪?」
「う……へ? な、何だ?」
今の俺は混乱しているのと照れているのとで、上手に言葉を紡げない。喉の奥から出てくるのは、まるで赤子のようなか細い声だけ。それでも一応の返答は返す事が出来た。
「私と凪って付き合ってるんだよね?」
「一応肩書きはそうなってるな」
「ならさ……」
猫はグイと顔を近づける。突然の事に、俺は顔が赤くなると共に鼓動が早くなるのを自覚した。
猫は普段よりも官能的な笑みを浮かべている。
そんな猫の顔がすぐ近くにある。たったそれだけなのに、全身が硬直し、思考も曖昧になってしまう。今俺はどうなっているんだ。状況を掴もうと周囲を見回そうとするが、動かない。顔をピクリとも動かせず、猫の顔から目を背けることが出来ない。
猫はそんな俺の横の壁へと手を突く。
右足が未だに痺れている事もあり、俺はその場から全く動けなくなった。
猫は優しく微笑んで。
「名前で呼んでも、いいかな」
猫はそれ以外に何か言葉を発した訳でも無いのに、そのあまりにも真剣な表情に見惚れてしまった。
気付けば、二人の顔の距離が近い。
どちらかが寄って行っているのだろうか、自然と近付く。
猫はゆっくりと目を閉じて、唇を委ねる様にこちらに向ける。
無意識の内に、猫の肩を握っていた。
唇の距離が、もう後少しの所まで近付く。互いの息遣いを感じる。
猫が顔を傾けた。
俺も、それに合わせて逆側に顔を傾ける。
やがて、二人の唇がそっと重なった。
頭がボーっとする。思考が停止し、五感すら無くなる。
唾液の湿り気が唇を濡らす。柔らかい感触が唇を通し全身へと広がっていく。形容しがたい幸福に心が埋まり、いつまでもこうしていたいという欲望が脳内へと渦巻く。
「……っぷはっ」
唇を離すと、猫が甘い声を漏らした。
口付けはほんの数秒、本当に互いの唇を少し重ねただけで終わった。
初めてだった。これが俺にとって初めてのキス。
唇を離した後、互いにハッと目が覚めたように冷静になった。二人して真っ赤になり、俺は逃げ場を探す様に俯いた。猫を見ると、俺と同じ様に俯いている。
「蛇」
「……?」
未だに多少ボーっとしている頭で答える。猫が俺の名前を呼んだから。
「蛇はこれが初めてなの?」
「そうだな。猫が初めてだ」
「そっかぁ。ふふっ。じゃあさ」
これも初めてだよね?
再び猫は俺に口付ける。
有無を言わさず、二度目の口付け。更に目を見開いて固まってしまう。
しかも今度は、俺の閉じていた口を押し開いて、熱くぬめった舌が口内に侵入してきた。
「んむっ、ちゅるっ、れろ、れろれろ、れるっ、ちゅぴっ、んふぅっ、ちゅるるる……」
先程を上回る衝撃が身体を駆け抜けて、完全に茫然自失となる。
滑らかに蠢く熱っぽい舌が歯並びを舐め、俺の舌に幾度と無く絡まってくる。
こんな甘美な感覚があるなんて、知らなかった。口の中をかき回されたことによる快感が思考を蕩けさせて、心地良いふわふわとした浮遊感に包まれる。気付けば手を猫の腰に回していた。猫はぴくんと反応したものの、さして気にもせず俺の口内を舐り回すのを楽しむ。
「んっ……」
風の音に紛れて、彼女の息混じりの声が漏れる。
自然と、繋いだ手は互いに求めるように指を絡め合う。
思考が吹き飛んでしまう程の、濃厚な口付け。唇をはむはむと咥えられ、歯列を舐められ、舌を吸われ、猫の口内で吸われた舌がねっとりと味わわれる。
「んっ、あっ、んんっ……」
徐に、徐々に、互いの舌を絡ませ合う。
こんな場所でという緊張が相俟って、否が応でも興奮が高まる。
「ふあっ、あふっ、んむぅ……っ」
猫の声は痺れるような甘さを帯びていき、空いていた左手が俺の右肩を掴み、顔や身体を更に密着するよう促してくる。
彼女の求めに応じて、身体ごと左を向いて、更に密着して彼女の口内を貪り、仄かに香る甘い匂いを堪能する。
俺は顔を真っ赤に染めながら、ちらと猫の表情を窺う。
俺程では無いにせよ、猫も顔を朱色にしている。赤面する猫の姿を可愛いと思ってしまうのは惚れた弱みだろうか。
「んっ、んちゅるっ、れろっ、じゅるるっ、はむっ、あむっ、れるっ、んむっ、ちゅるるっ、んんっ……んんんっ……」
舌で舌を絡めて、目を閉じて。唾液を送り、啜り、舐めるように。首に絡めた腕が巧みに俺の顔の角度を変え、様々な角度から俺の口内を舐め、歯列を舐り、舌を咥え込んで啜りに啜る。
猫の背筋をゆっくりと指で撫でると、猫は弓なりに体を反らせた。お返しにとばかりに猫も更に強く舌を入れ、唇を貪る。
そうして、どれくらいの時間が経っただろうか。
俺は漸く猫から離れた。互いの名残惜しさを表わすように口に架かる透明の橋が地面へ垂れるのを、俺と猫は惚けたように見ていた。口の周りまで唾液でベトベトになっていた。猫の瞳も潤み、その肌は火照って上気していた。
急に恥ずかしさが戻ってきて、慌てて猫から視線を反らす。
人生最大級に胸が鳴り響くのを感じる。頭は幸福と混乱がごちゃごちゃに入り乱れ、マトモに考えることすら覚束ない。
「大好きだよ、蛇」
この言葉すら聞き取るのが精一杯。
猫は未だに多少赤い顔のまま俺の手を握る。なんてこと無かったこれだけの事に、今の俺は恥ずかしさを覚えてしまう。
「じゃ、戻ろっか」
「お、おう。そうだな」
ふと握られた手に力が篭る。俺も笑ってそれに返した。
俺は猫に手を引かれ、コンクリート製の硬い道を歩き始める。
月は、出ていなかった。
○
「お前、最近変わったな」
「何だ唐突に。気持ち悪い」
俺が寮でゴロゴロしていると、蟻が話しかけてきた。ちなみに、アレから数日後の事だ。
蟻の言葉に、俺はベッドで横にしていた体を起こし、ベッドへと座りなおす。蟻も俺の机へと腰掛けた。今の蟻の行動から推測出来る事は、この話は長くなりそうだという事。立ち話で済む内容なら一々座ったりしないし、何よりも今話す必要も無いだろう。俺半分寝てたんだし。折角の休日なのに。
俺は腕と脚を組んでから蟻に目線だけで会話を促す。自分を守るように交差させた腕と脚は、心理学的には拒絶のサインとして知られる。ついでに気怠げな雰囲気も出しておく。こういう時にだけは無類の演技力を発揮するのが俺という人間だ。
無意識を有意識に行い、相手の無意識に影響を与える。これはもう無意識を操る程度の能力とか名乗ってもいいかもしれない。グリコのポーズはしない。
「蛇はさ、何か上手く言えないけど楽しそうになったんだよ。前はもっと取っ付き難そうな奴だった」
「そりゃそうだろうよ。俺は人と仲良く出来る様な人種じゃない」
皆の中心に立つ奴と云うのは確かに居る。何もしてないのに人を惹きつけて、何時でも何処でも皆の人気者。あの様な人種と俺はどうにも反りが合わない。
俺達みたいな
「亀達と一緒に居るからか?」
「さーな。そうかもしれねぇな」
俺は適当にはぐらかして誤魔化した。追求されると面倒だ。
「きっとそうだろ猫可愛いし」
「手ぇ出したらシバかれるぞ、蠍に」
「蠍って……。あー。あの陰険そうな奴ね」
実際今の所、蠍に何の動きも無い事が多少気に掛かっている。そろそろ暴発してくれても良い頃なのに。暴発してくれたら大義名分が立ったって事で容赦無く殺処分に出来るのに。一番嫌なのが嵐の前の静けさと云う可能性。
どちらにせよ警戒を怠るつもりは微塵も無いけれど。
ポケットの中の携帯が震えて誰かからの通知が来た事を俺に教える。
そういえばそろそろ飯の時間だ。
『蛇ー。ご飯いこー』
メッセージが届いたようだ。猫から飯の誘い。見れば窓の外は既に薄暗い。
「誰から?」
「猫からだ。ちょいと行って来る」
俺は携帯を仕舞いながら答える。
さて、晩餐の時間だ。
○
俺は猫に対しての人間観察をしだいに解いていった。自惚れかもしれないけど、猫の闇も病みも結構治まってきていると思ったからだ。
そうこうしている内に冬休みが始まった。寮生が銘銘に荷物を運び出していく。その荷物は迎えに来た親達の車へと詰め込まれ、そのまま自宅へと運ばれる。
俺もそんな寮生の一人。荷物を親のワンボックスに詰め終え辺りを見回すと、同じように荷物運搬が終わったのか汗を袖で拭っている猫を見つけた。
お前も今から行くのか?
そうだよ。また来年だね。
また、来年だな。
あえて”帰る”という言葉は使わない。それは猫には使ってはいけない
俺は猫と軽くキスをして。そこで別れた。
○
十二月二十五日。世は既にクリスマス。
耳を澄ませば聞こえるクリスマスソング。何時もより二割増で五月蝿い喧騒。十二月真っ只中も良い所で、時々吹き荒ぶ風は氷のように冷たい。
そんな寒さを家に
しかしそれは
今の俺には友達が居る。猫が居てくれる。今年の俺はいつもとは違う。
それに、友達が居たとしても男の場合は、クリスマス系のイベントに参加するというのは結構難易度が高い。
女同士ならまだしも、男同士でクリスマスを共に過ごすなんて大惨事だけは誰もが避ける。
『蛇ー。起きてる?』
『んな? どうした?』
猫から急にメッセージが届いた。時間は既に夜十一時少し前。指を画面に表示されたキーボードに滑らせ文字を打つ。
『ちょっと言いたい事あるんだけど』
『ん? どした』
『前に言ったよね? 私の事。あんな彼氏でも私の初めての彼なんだ』
携帯を持つ手が一瞬震える。その話の切り出し方は猛烈に嫌な予感しか感じない。
『私は今、蛇の彼女だけど、彼の事も忘れられない』
『おい』
『今のままじゃ駄目なんだ。ちゃんとケジメ付けなきゃ駄目なんだって。中途半端じゃ』
『おい、何が言いたい?』
分かってしまった。次に猫が何を言い出すかを。
それは先輩の言っていた通り、本当に俺には理解出来ない理由だった。
『必ず。必ず凪の所に戻るから』
『おい、おいって!』
猫からのメッセージ。文字で伝えられるそれは、ただ淡々と事実だけを俺に突きつけてくる。スマートフォンの画面に表示された文字は、何度瞬きをしても変わる事はなかった。
『私と別れてください』
十二月二十五日、クリスマス。
「俺じゃねぇよ。俺の友達。ソイツもそういう女の事好きになって、一緒に居たんだけど、最終的に訳わからん理由でフラれて、泣いてたな」
俺もまた、泣いてたかもしれない。
失恋、を経験した事になるのだろうか。