それは”偽善”だと誰かが言った。
クリスマスも終わり正月も過ぎ。学校が再開した。俺達の学校は
寮に荷物も運び入れ、いざ暇になってみるとする事が無い。先輩の部屋でゲームでもやるかな……なんて一人で考えていた所で、猫から着信が入った。無視するか応答するか
『凪、今いい? ベンチ』
それだけ言って猫は通話を終了する。以前の甘えた声と態度が嘘の様な、猫と云う機械が言葉を読んでいるだけの感情の
溜息を吐いて、俺はベッドから起き上がった。服の裾を適当に払ってから、毎度御馴染みの黒の上着を羽織る。
俺は身内には甘いが他人がどうなろうと知った事ではない。折角の余暇を、今となっては他人の猫に使ってしまうのは少々癪だが、しょうがない。
俺は”ベンチ”へと向かう事にした。
ここで言うベンチとは寮の真ん前にある丘の事を指す。正確にはそこにひっそりと置いてあるベンチの事だが。簡単な屋根付きのベンチの近くには自販機もあり、一休みするには丁度良い場所だ。近くには25mプールがあり、水泳部女子の掛け声をBGMにうつらうつらと
ベンチで何するのかと近づいて行くと、もう既に猫はそこに腰掛けて俺を待っていた。
猫の姿を見た瞬間、俺は自分の目が急速に濁っていくのを感じる。
流石に自分でも驚いた。どうやら俺の深層心理は知らず知らずの内に猫へと嫌悪感を抱いてしまっているらしい。
ちょっと戸惑いながら、それでも冷静に自己暗示を掛け直す。イメージするのは”凪”の偶像。過去は切り捨て前へと進む、そんな人間の偶像。
目に光が戻るのを実感する。これで
「なんか用か?」
俺はベンチに座る猫の隣に立つ。俺が座らないのは猫の無意識を操る為だ。勿論腕も組んでいる。更に首を鳴らしたり、左手首に付けた時計を気にする様に何度も見たりしてやる。首を鳴らすのは退屈、時計を気にするのは相手を急かすサインだ。年上相手にやると不快感しか与えないから注意が必要。
「これ、お土産。凪に」
そう言って猫が手渡したのは、キーホルダー・ストラップの一種。
何かの動物の牙に針金でアクセントの装飾を加え、そこから紐が伸びている。赤と黒の石を数珠の如く交互に通したその紐の先には翡翠色の硝子球。そこからも同種の紐が四本伸びていて、二本の先には小さな鈴が、残りの二本はフック型のパーツへと繋がっている。アジア系の民族装身具といった印象だ。
そういえばコイツ冬休みに台湾行くとか何とか言っていた。その時のお土産なんだろう。
まぁ、
貸すと言うならいらないけれど、あげると言うなら遠慮無く貰うのが俺だ。貰うだけならば特にリスクが存在しないから。貰ってみてやっぱり要らなかったら誰かに売り飛ばせばいい。
「用事はこれだけか? 終わりなら俺は帰るぜ」
まだ何か言いたげに呼び止めようとする猫へ、飯の時は呼んでくれ、とだけ吐き棄てて俺は早足に立ち去った。
猫の目が戻ってしまっていた。何より俺の事を名前ではなく"凪"と呼んだ。
俺は使い古したスニーカーの踵を引き摺りながら、考える。
あそこで俺が帰ってしまったのは悪手だったかもしれない。”凪”ならそこで話を展開していって、色々と聞き出す事も出来た。でも急拵えの暗示ではあの程度が精々。最後にギリギリで猫との関係を持ち堪えただけ二重丸といった所だろう。
取り敢えずは寮に戻って自己暗示を掛け直さなくてはならない。猫の事を直す為の話術の計算もしなくてはならない。
冷たい風が巻き起こり、目に塵が入る。
俺はそんな小さな事にすら舌打ちして、寮への道程を急いだ。
○
俺は再び計算尽くの日々を送り始めた。
俺も話を聞くよ、と多少肩が触れる程度の距離で座る。言葉だけで言うのではなく実際に触れる事で精神面と肉体面の両方から”独りじゃない”という感覚に陥れる。
表情も大げさに作ると怪しまれる所か不快感を与えかねないので、なるべく表に出さないように心がける。時々内容に合わせ一瞬だけ悲痛そうな表情を作るだけで充分だ。
後、こういう話を聞く時に最も重要だと俺が考えている事は、相手の話に対して意見を言わない事だ。自分が必死に説明しているときに「でもそれってこうじゃない?」と話の腰を折られて茶々を入れられたら誰だって話す気失せる。それが相談事なら尚更だ。
だから相手の言葉を
畢竟、そういう問題とかは自分自身で解決するのが一番手っ取り早いと云う事だ。頭がパニックに陥っているから訳が分からなくなっているだけであり、冷静に落ち着いて一つ一つゆっくり確認していけば意外と簡単に解決したりする。親や教師が癇癪起こしている子供に「もう一回ゆっくり教えて?」と言うのはこれが理由ではないかと俺は睨んでいる。
それでも駄目な時には、「第三者の目線から言うけど……」と始めに断ってから意識を誘導する。最初に断って於かないと「他人の癖に偉そうな事言うな!」と逆切れを喰らう羽目になる。なら最初から相談とかするなよと常々思う。
この誘導する際にも注意が必要で、”お前が悪い”という方向へ持っていくとアウトだ。忽ち脳内で敵認定されて口が重くなってしまう。どうしても否定するなら相手が間違っている理由を一から説明して相手に納得させてからじゃないと駄目。それが女なら尚更の事。
「っつー感じかな」
「お前ヤベえな」
猫との久し振りの再会から寮に戻った俺は、現在狐の部屋で駄弁っていた。狐が今の俺と猫達の関係を聞き出そうとするから散々に愚痴を吐いてから長々と自論を語ってしまった。
何やら戦慄している狐は置いておいて、俺は狐の部屋を見渡した。
相変わらず汚ない。床には何に使ったのかも分からないプリント類が変な折れ目を付けたまま散乱しており、ベッドの上にはシャーペンが転がっている。絶対に寝ている時に刺さる。驚く事に、まだ荷物搬入から一週間しか経ってないのだ。なのにこの散らかり様は何故だ。
「まぁ、後一週間位で何とかなんだろ」
俺はあっけらかんと笑う。
俺が行い、そしてこれから始めるのは一種の洗脳だ。俺の存在を猫の中で重要な人物として脳内に刷り込み、半ば依存の様な状態を形成するのが
「お前のよく言ってた”計算”ってそういうことだったのな」
「そゆことー。ね、簡単でしょ?」
ここで狐の同部屋が入ってきた。ソイツは俺の姿を狐のベッドの上に認識するや、隠す気もない舌打ちをする。そのまま椅子を引いて
「まぁ、何とかなんだろ。じゃな、狐。また明日」
陰口は聞こえない様に言うもんだぜ?
去り際に野球猿に聞こえる様に、しかし聞かせる気は無いかの様に罵倒してから狐の部屋の扉を閉める。
野球猿の低い沸点が頂点に達したのか、物を拳で殴り付ける様な音が部屋の中から響いてきたのが非常に愉快だった。
○
それから一週間経って一月十九日。天気は雨。強いとも弱いとも言えない微妙な雨が朝からずっと降り続いている。
俺は猫に呼び出されて寮から例のベンチまで来ていた。
俺はトレードマークとも言える黒の上着を雨で濡らしながらベンチへと向かう。
猫は凪ではなく”蛇”に話があるらしい。そう言われると動かざるを得ない。
「あ……、蛇」
「んで、話って?」
猫はその言葉に俯く。雨で湿った猫の髪がペタリと額へ張り付いた。
雨が更に強くなる。近くの道を一人の学生が急ぎ足に駆けていった。それに合わせて水音と足音が跳ねる。
俺は所々ペンキの剥げたベンチに座った。人一人空間を開けた先には猫の体がある。
「勝手に離れてごめんなさい」
猫は俺に謝る。小さなその声は外の雨音に掻き消されそう。でもなんとか聞き取ることができた。
「もういいって」
許した訳ではないが怒っている訳でもない。人に対して抱くイメージと云う物は、悪い方向へは容易く変化するが、良い方向へ変化する事は絶対に無い。だから誰かを心の底から許す事は不可能だ。
ならばどうするのか。そのイメージが隠れてしまう程に新しい印象を上塗りすれば良い。元の悪印象を覆い隠して忘れさせてしまう程の好印象を植え付ければいい。勿論それは単なる
許してはいないが怒ってもいない、と云うのはそういう事だ。
俺は猫の頭を撫でる。二、三回程撫でていると、猫がまた何かを言った。
「実はね、冬休みの間に彼に逢って来たの」
「さいで」
全くに興味が起こらない。俺がその話を聞いた所でどうしようもない。
「彼に呼び出されてね、逢ったんだ。そしたら彼、私の事抱きしめてゴメンって。またやり直せないかって言ってくれた」
言って
「でも、断ってきたんだ。今は蛇が居るから」
「そか」
俺は興味が無い話だと、とことん無愛想になる悪癖がある。
でも猫が俺の為って言って断った、言ってくれたと云うのは素直に嬉しかった。
俺は猫の頭をぽんぽんと叩く。猫から嗚咽が漏れ出した。
猫の顔を覗き見ると、泣いていた。大きな目から涙を零して猫は泣いていた。
猫はそんな俺の目線に気付いたのか多少赤くなった眼をこちらへ向ける。そのまま俺へピッタリとくっついて、顔を俺の肩口へと擦りつけた。
「でもさ、私が蛇と別れた時にさ……」
嗚咽を時々漏らして猫が言う。その揺れが俺の肩越しに伝わってきて、コイツは今泣いてるんだな、なんて漠然と考えていた。
「ちょっとぐらいはさ、引き止めて欲しかったな、ってっ」
猫は更に強く顔を押し付ける。気付けば腕も俺の体に回されていた。
俺はクリスマスのあの日、突然の事に茫然自失の俺は猫の事を殆ど引き止めなかった。引き止める事が出来なかった。
去る者拒み、来る者追えず。
それが一番傷付かずに済む方法だから。
人を傷付けるのは人間で、
人を苦しめるのもうやっぱり人間。
だから俺は何か遭ったら直ぐに切れる。そんな人間関係しか今まで築かなかったし、築けなかった。
”
故に俺は引き止めなかった。
俺は猫へと抱擁を返す。一瞬猫の体が怯える小動物の様に跳ねたとしたが、それも一瞬。俺へ回す腕に再び力が篭る。
十分位はそうしてたんじゃないかと思う。
不意に猫が俺から離れた。もう泣いてはいない。猫はもう一度だけ目を擦って、そして笑った。
「勝手に別れてごめんなさい」
まずは謝罪。
「待っててくれてありがとう」
次に感謝。
「私と、付き合ってくれますか?」
告白。前は俺から言った言葉を、今度は猫の口から言われる。
俺の答えは決まっていた。
「またヨロシクだな、猫」
俺は猫の肩を軽く叩いて、手前に思い切り抱き寄せた。
気が付けば今の俺は計算など何もしていなかった。猫が告白してきた事で緊張の糸が切れてしまっていた。
猫の事を抱きしめる俺の手は細かく震えていて、力の加減なんてまるで出来ない。
「怖かった」
自分の意思では無いかの様に言葉が漏れる。
「本当に怖かったんだ」
その声は自分でも驚く程にか細かった。
”俺”なんてこんなものだ。気丈に振舞えるのは”凪”であって、今の俺ではない。
「猫が離れていった時、凄く怖かったんだ」
これこそが俺の本性。一度道化で塗り固めた仮面を取ってしまえば、なんて事ない臆病な地金が露出する。
多分猫は驚いているだろう。裏と表を切り替えるように俺がガラリと変わったから。それでも弱く、しかし確かに俺の背中へと手を回してくれている。
「ありがと。戻ってきてくれて」
俺は恐らく泣いていた。猫に体を預けて泣いていたんだと思う。
雨は既に土砂降りだ。人一人として外には居ない。仮に居たとしてもこの雨煙では見える物も見えないだろう。
子供みたいに泣いている俺と、それをあやす様に頭を撫でる彼女。
情けない、いつもと立場が逆じゃないかと自分を叱咤激励してみても、体は意思に反して動いてはくれない。
俺は五分ぐらい、猫に抱かれて泣いていたと思う。
猫の前で泣いたのは、後にも先にもこの一度切りだ。
○
寮に戻った俺は上着を椅子に引っ掛けてベッドへと転がり込んだ。さっき鏡で見たが、泣き腫らした目は何とか元に戻っていた。
……さて、と。
再び先程の醜態を思い出した所で、妙に体が震えてくる。
誰も居ない部屋の中で奇声を上げながら家中を走り回りたい気持ちだ。そうでもしないと、この羞恥と驚愕と安心を
布団を頭まで被ったままベッドの中を転げ回ったり、死に掛けの芋虫の様に痙攣していると、蟻がどっかから帰ってきた。
ベッドの上でビクビク震えている俺を見て何を思ったか、蟻が俺に声を掛ける。
「……そういうのは夜やれよな」
「ちょっと待て蟻お前は何かを誤解しているぜ」
俺は立ち上がり、蟻へと詰め寄る。取り敢えずいつもの濁った目へと切り替え、心を安定させる。
目を元に戻した事で急激に目付きが悪くなった俺に「冗談だってば」などと言いながら蟻は露骨に話を逸らした。有り難いので俺もそれに乗っかる。
「そういえば今日、雨の中二人で喋ってるカップル見たよ。顔よく見えなかったし気まずかったしで走って通ったけどさ」
乗っかろうとしたが取り止めた。十中八九それは俺と猫だ。確かに雨の中を駆けて行く人影を見たが、まさか蟻だとは思っていなかった。
額に手を当て大袈裟に溜息を吐く。そのまま首をゆっくりと左右に振り、指の隙間から蟻を睨み付けると、蟻は大体の事情を察した様だった。
「……っは!? まさか」
この後蟻は固く口止めした。
○
猫は以前みたいに俺に甘えてくる様になった。
一緒に朝飯を食べて、部活が終わったら逢って話す。人が居なかったらキスしたり。ベンチの上で押し倒されて唇を奪われたなんて事もあった。
確かこの辺りで猫がクッキーとカップケーキを作ってくれた。
黒のカップケーキには白のシュガーパウダーが掛けてあって、フワフワで美味しかった。緑と茶色のクッキーはちょっと固めの一口サイズで俺好み。適当な菓子から脱酸素剤を引き抜いて一緒に袋に入れて、三日位ずっと間食代わりに食べていた。
お礼と云う事でクッキーとカップケーキの絵を本気で描いた。その紙をプレゼントとして猫にあげたら凄く喜んでた。部屋に飾るんだ! とか言っていた。今となってはもう棄てられてしまっているだろうけれども。
猫の精神面は冬休みの間に、結構悪化していた。
猫の内面に関してはゆっくり直していこうと思う。妨害が入らなければ半年ぐらいで直ると思っていた。
そう、思っていただけ。現実と云うのはそう簡単にはいかなかった。
妨害が、入ってしまった。
○
二月になった。下界(寮の外の世界の事。ここでは一般の男女共学校を指す)は何処も彼処もバレンタインムード一色に染まり、健全な工業系高校生には冬の寒さより辛い季節が到来した。
吐き出す息は筋雲の様に白く染まり、一月の時よりも冷たい風が吹く。それに合わせて枯れ切った茶色の木の葉が巻き上がるのは、二月特有の哀愁を感じさせる。
俺はこの時既に猫へと俺の過去を話していた。最初は驚いていたが、俺が話し終わってから「教えてくれてありがと」と言ってくれた。俺が”そのうち話すよ”と言った事を覚えていたらしい。
そんな事があってから二月二日になった。
俺は猫と、今日は亀も一緒に売店へ来ていた。
俺達の学校には売店がある。教務や事務が働いている建物の二階にあって、そこまで大きくはない。コンビニ一つ分と言ったところか。売店の近くには買い食い用の長椅子があって、俺達はそこへ腰掛けている。
この日は休日で、売店は開いていない。休日に売店が開いていない事は寮生なら既に誰もが知っている。開いていない売店に来る人は居ない。黒い革張りの椅子には俺達三人しか座っていなかった。
俺は猫に肩を貸して、適当な音楽を聴いている。猫は俺に頭を預けて、携帯でゲームをしている。亀はそんな俺と雑談。内容を忘れてる事から考えて、どうでもいい内容だったんだろう。
だらだらと過ごすだけ。永遠に変化の起こらない空間。そんなものが存在するはずはない。悲劇は一つの電子音と共に現れた。
猫の携帯へとメッセージが届く。差出人のアイコンを見た猫は慌てた様にゲームを消して、メッセージを読み始めた。
俺はそんな猫の急激な変化が気になって、聴いていた音楽を止める。猫の頭が邪魔でメッセージの内容までは覗けない。
ちょっとして読み終えたらしい猫から
『イカナキャ』
という
俺が猫の狂気が再燃するのを感じたその時には、既に猫は階段目掛けて走り出していた。
俺は慌てて立ち上がって追おうとする。隣で亀も動く気配を感じ、俺は亀へと言葉を叩きつける。
「亀は荷物の見張りと猫のメッセージの確認! 俺が行くから!!」
それだけを短く言って俺は猫を追いかけた。
拙い マズイ まずい。
走りながらも俺は考える。
幸いにも今は夜だ。周りが静かなお陰で猫の足音が良く聞こえる。音の方角から察するに、おそらく目的地は学校の校舎。
豹変したようにメッセージを読み出した猫。その後の”イカナキャ”という言葉。
その通知は俺の知らないアイコンからの物だった。
”行かなきゃ”なら何かしらの荷物は持っていくだろう。最低でも携帯ぐらいは持っていくはずだ。しかし猫はそれすらも置いてきている。
となると……。
俺は猫へと追いついた。半ば無意識なのか少し
一つ目の校舎を素通りし、二つ目も同じ。三つ目の校舎が近づいた所で猫は左へと折れた。
俺は一旦猫を泳がせることにした。今捕まえてしまってもいいが、口が固くなってしまう。「ただ散歩したくなっただけだよ」なんて言い逃れされたらどうしようもない。証拠が何も無いからだ。
でも何か決定的な行動を起こした後ならば。
猫はどうやら亀の教室へと向かうらしい。猫が進む校舎には亀達の使う教室がある。猫はそこへ続く剥き出しの鉄階段を音を立てて上がって行く。
この校舎の二階に亀の教室はあるのだが、猫は二階には脇目も振らずに三階へと登る。俺は予想が外れた事にちょっと吃驚しながら猫を追跡を継続する。猫が一直線に辿り着いたのは最上階の三階だ。ここまで来て俺は漸く猫の目的が分かってしまった。何をするのか分かって、何でするのか分からなかった。
そこで俺が何を見たと思う?
俺が三階に辿り着いた時、猫は落下防止用のコンクリ製の塀を乗り越えようと
あまりにも現実離れした光景に目を疑う。頭が真っ白になりかけるが、それでも体は半自動的に動いてくれていた。
「猫!!」
俺は猫の左腕を掴んで手前へ引き寄せた。猫は意識が無いのか、泥の詰まった袋のように引き摺られながら引っ張られる。八割ぐらいを手繰り寄せた所で、猫に力が入り始める。まるで男みたいに強烈な力に、俺は一瞬手を離しそうになる。そこまでして死にたいのかと憤怒と
俺はこの間もずっと猫の名前を呼び続けている。それでも猫は俺の声が聞こえていないかの様に、ただひたすら塀を乗り越えその向こう側へ行こうとする。
「……ったくよぉ!!」
俺は掴んでいた腕を半ば無理矢理猫の背中へ回し、腕を固めて関節を
腕に走る痛みに我に返ったのか、猫は
俺は取り敢えず猫を壁に預けるようにして座らせた。俺もその隣へ腰掛ける。
猫の腕を掴んだ左手は離せなかった。
「猫、話してくれ。何なんだ?」
猫は答えない。カメラの様に無機質な瞳が、瞬きをしながら俺の顔を見る。
「私、何でこんな場所に居るの?」
本当に猫は分かっていないらしい。少なくとも俺の目から見て今の猫は嘘を吐いている様には見えなかった。
「言ったら話せ」
俺は断定口調で前置きしてから、先ほほ程の猫のありのままを話した。首を振り信じてないような猫の袖を捲らせると、猫の左腕には赤くなった俺の手形が残っていた。
ここまでして猫は俺の話を信じたらしい。自分の記憶をゆっくりと辿っていき、突如悲鳴を上げた。
猫は俺へと跳び付いた。俺の肩の辺りを千切れそうな程強く握ってガタガタと震えている。歯の根も合っていない。カチカチと歯と歯がぶつかる音が、耳元に寄せられた猫の口から止まる事なく響いている。
俺は猫の背中へと手を回して、猫を落ち着かせる為に優しく撫でる。
「彼が、彼が」
その”彼”が俺を指す言葉でないことは直ぐに分かった。昔、猫の体と心を傷付けて逃げた。そんな男の事だろう。
氷の様に冷たい風が吹く。凍える木枯らしが
猫は俺の服をぎゅっと握り直して言った。
「彼が、自殺したって」