I,逢愛哀   作:殺多鴉

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慣れて   奈って文字はカリンって花で
馴れ合った 花言葉は”唯一の愛”って
成れの果て。言うらしいですよ。

   もう俺にはどうでもいいことですが。


奈章

 猫の自殺未遂から、猫の態度が目に見えて変わった。尤も、それを感じられるのは俺ぐらいなものだろうけど。

 猫が()()(なび)き出した。これが変化だ。

 今までは俺だけが呼び出される事が多かったのだが、そこに亀が加わる様になった。俺が呼ばれて行った時には既に亀が猫の隣に居ると云う状態。俺が来てからも猫は亀から離れない。仕方が無いので猫の隣に座って音楽を聴いているだけ。

 一応飯も一緒に食べてはいるのだが、どうにも疎外感を感じずにはいられない。食堂に入る前も以前は何かと俺に話しかけてくれていたのだが、今は専ら亀と話し、時々俺と二、三言会話してまた亀と談笑を再開する。

 詰まる所、俺は”おまけ”へと成り下がったって事だ。

 おかしいだろ? 付き合うってこう云う事なのか? 彼氏彼女って皆こういうものなのか? あの日の告白は? それすら”嘘”だったっていうのか? 俺は特に猫を束縛していなかったが、他の男をメインに据えてくれと言った覚えも無い。俺の立場は? 俺の役目は? 告白って何だ? 好きって何だ? あの笑顔は? あの涙は? 全てが大嘘憑き。全てが”無かった事”に? 俺が悪いのか? 猫が悪いのか? 誰が悪いんだ?

 頭が変になりそうで、俺は考えるのを打ち切る。暗示を掛け直して”凪”へと戻す。

 この頃はずっとこんな感じだ。思考を切り替えた瞬間に激しい頭痛に襲われたりする。

 

「戻りたいな……」

 

 自分で言って苦笑いする。それはドコに戻る? イツへ戻る? そもそも俺に居場所なんて何処にも無いじゃないか、いや、あった。()()()んだ。それは昔のお話。過去の話。嘘吐きの法螺話。今は違う。猫の隣に居るのは俺ではないし、俺の隣には誰も居ない。

 何故だろう。それでも俺は一緒に朝食を食べ、猫の隣に居続ける。

 彼氏。俺には歓喜(よろこび)悲哀(かなしみ)もない。名ばかりの彼氏。こんな物ではない。俺が求めたものはこんな醜い物ではないと内心焦ってはいても、俺はただそこに存在しているだけ。

 

 神に問う。信頼は罪なりや?

 

 俺はそれでもまだ猫を信じていた。いつか元に戻ってきてくれるだろうと信じて表立って猫へ言ったりはしなかった。

 亀の隣で楽しそうに笑う猫を見ると、俺が知らなかっただけで猫は別の男とも付き合っていて、亀は? 蠍は? いや俺の知らない相手とも? と疑惑は不審を生み、不審は疑惑を生み、だからと言ってそれを問いただす様な勇気も無く、先の様な不安と恐怖でのた打ち回る様な思いで、猫に対して卑屈に誘導尋問の様な物を試み、その結果に内心一喜一憂し、上辺は何でもないかの様に取り繕って、時々猫を人目の無い所に呼び出しては、猫の唇を好き勝手に蹂躙し、寮に戻ってから死人のように眠りに落ちる。こんな人間に俺はなってしまっていた。

 それでも俺は決して手だけは出さなかった。ソレは互いに愛し合う(俺は世の中の人間にだって”愛する”事が出来るのか甚だ疑問に思い始めているが)人同士がする行為で、つまり今の俺と猫では駄目なのではないかと、俺は夜通し一人考え、その事でも頭を抱えて悩んだりしていた。

 人に愛されたくても、人を愛する能力に於いては俺は致命的にまで欠けている様で、俺は”束縛してでも猫を自分の者にしたい”という心と”猫の居たい人傍へ居させてあげたい”という真逆の心に悩み、夢にさえ見て、(うな)されるようになった。

 こんな時に、俺が昔望んだ事が、今望んでないタイミングで起きてしまう。

 あの日は確か、俺が猫を拒絶する一週間前だった。

 

 

 俺は昼飯を食い終わってから寮の自室でやる事も無く(くつろ)いでいた。今日は日曜だ。今までなら猫の呼び出しやらで何処かで駄弁ってたはずの休日。それなのにこうして暇が出来てしまう、という事が今の俺の心には少し悲しい。

 そういえば最近、例の小説同好会へ提出する為の小説を書き始めた。今はその表紙絵を描いている所。

 

 内容は、心が読める男女のお話。こう書くと平々凡々な物語だが、男には食人嗜好、女には飲血性癖がある。偶然に出逢った二人はお互いの心を読み合い、”自分の事を理解できるのはこの人だけだ”と思い、時間を共有し始める。二人は味見程度に互いを()()()()いたが、暫くすると女の欲求が暴走し始める。もう離れられ無いほどに依存していた二人は命すら削り始め……。

 

 なーんてストーリーの予定だ。

 勿論、女は猫がある程度のモデルだ。命を削ってまで依存するのもあの日の自殺未遂に案を得たもの。と言いたい所だが、実際には亀へと猫が(なび)き始めた事への嫉妬が大きくを占めている。つまりは悲劇(トラジティ)にする予定。いっそ猫から別れを切り出してくれればケジメも付くというものだが、猫からはまだそんな言葉を聞いていない。(もっと)も、今の猫は俺と碌に会話してはくれないが。

 

「乳飲み子、か」

 

 俺は持っていた鉛筆を机へ放り投げる。

 母親の胎内に居れば問答無用で母体の栄養を奪い、そこに存在しているだけでその負担は凄まじい。出産の際には地獄のような痛みを母親へと与え、生まれ出てくれば所構わず時間も気にせずに泣き叫び、庇護を求める。

 護りたいと思ったんじゃない。思わされていたのかもな、何て一人で苦笑いしてまた気分を沈め、頭の中に硝子(ガラス)の破片が充満しているような、そんな陰鬱な気分になる。

 

「いや、猫の場合は()飲み子かな」

 

 なんて、笑うに笑えない洒落を思いついた。俺の他には誰も居ない部屋で一頻(ひとしき)り笑ってから、何故か潤んでしまった目元を袖で拭って溜息を吐く。

 手持ちのメモ帳に”血飲み子”と新たに書き加え、俺は作業を中断する。

 携帯に誰かからの通知が入ったからだ。

 

「蠍から俺に? 珍しい事があるもんだな」

 

 しかしもっと分からないのはその内容だった。

 

『猫の前で俺の話はしないでくれ』

 

 たった一文だけ。全く意味が分からない。

 詳細な説明を求めるメッセージを飛ばしてみたが、待てど暮らせど返事が無い。俺は蠍を取り敢えず無視しておく事にした。男に、まして関心も興味も無い奴に使う時間が勿体無い。

 表紙絵の制作を再開しようとした所で、今度は蟻からの通知が入る。

 

『蛇。図書館下まで来てくれ。なるべく早くだ』

 

 こんな風に蟻が俺を呼び出すのは珍しい。というより蟻から頼まれ事をされる事自体がまず(まれ)だ。

 つまり尋常では無いという事。嫌な予感がする。そして俺の嫌な予感というのは結構な的中率を誇る。同年代とは比べ物にならない量の不条理を、理不尽を、嘘泣きを、言い訳を、いかがわしさを、インチキを、堕落を、混雑を、偽善を、偽悪を、不幸せを、不都合を、冤罪を、流れ弾を、見苦しさを、みっともなさを、風評を、密告を、嫉妬を、格差を、裏切りを、虐待を、巻き添えを、二次被害を、吐き出す事無く全て抱え込んで押し込んだ俺の体質は、否が応でも不幸を惹き寄せて引き寄せる。

 俺は上着を引っ掴み、二月の屋外へと飛び出した。

 ベンチのある丘を通り過ぎ、校舎の前を横切り、図書館へと辿り着く。正しくは図書館を内蔵した建築物と言うべきだが。この建物は一階部分に多目的ホールと休憩所が、二階には図書館と新聞読者用スペースが存在している。

 図書館下と言えば大体ここの休憩所の事を指す。俺は重たい硝子戸を押して中へと入った。

 蟻と猫は直ぐに見つかった。長椅子に二人並んで座り、何やら話している様にも見える。いや、蟻が猫へ質問を投げかけているというほうが近いか。

 

「おい、蟻。一体何だってんだ?」

 

 俺は座らないまま二人に近付き話しかけた。

 

「蛇。怒らないで聞けるか?」

「内容による。一応言ってみろ」

 

 猫が慌てた様に蟻を止める。それを見て蟻は一瞬躊躇したようだったが、思い切った様に話し出した。

 

「蠍が猫に手ぇあげたんだ」

 

 蠍、先のメッセージ、そして今の蟻の言葉。これを一つに繋げて考えると、少なくとも聞いていて楽しくなれるような内容では無い。

 今までのストレスと思考分析で精神が限界近くに達していた俺は、蟻の言葉を聞いて、逆に冷静になった。いや、一週回って感情が消えたと言うべきかもしれない。

 それこそ、猫の事を俺に話していた時の亀の様に。

 

「ほう。それで?」

「俺が見たのは蠍が猫と話してるとこからだ。此処で二人が会話してたから何となく見てたわけ。そしたら雰囲気が傍目に分かるぐらいに険悪になってきて、遂に蠍は猫の肩掴んで壁に叩き付けたんだ」

 

 俺の目にはその光景がまるで手に取るようにはっきりと浮かび上がった。その映像の中の蠍は目を見開いて、神経質そうな薄い唇をわなめかせている。猫は何も言わずに蠍のされるがままだ。

 

「その後蠍は猫の顔を殴りつけたんだ。俺が慌てて蠍を止めに入ったら、蠍は猫を置いて逃げてった。そして今に至るってわけ」

 

 猫はさっきからずっと左の頬のあたりを手で押さえている。壊れ物を扱う様にそっと手に触れどかしてみると、左の頬骨の辺りが赤くなっていた。

 

「そか、報告あんがと」

 

 俺は再び外に出ようと扉へ振り返る。別に怒ってるわけではない。蠍とサシで話し合いをして、腕の一本ぐらい貰っても特に問題ないよな、と、妙に冷え切った頭で淡々と考えているだけ。

 

「蛇! 何処行くの!?」

「別に。ちょっと野暮用」

 

 慌てた様な猫の声も今はどうとも感じない。俺の返事は自然とそっけなくなる。

 

「蠍を傷付けたら、別れるよ」

 

 猫のその言葉に俺は足を止める。今何て言った?

 猫を傷付けた存在すら俺には裁けない。裁く権利はお前には無いと、端的にはそんな内容であると理解するのに数秒を要した。

 俺を棄ててまで加害者を守る? そんなに蠍が大事? 重要? 大切な存在?

 じゃあ俺は? 俺は何でココに居る? 存在している? 居てはいけなかった? 居ては駄目だった? だめ、嘘だ。駄目、嘘だ。ダメ、嘘だ。否定、嘘だ。ヒテイ、嘘だ。ひてい、嘘だ。キョヒ、嘘だ。拒否、嘘だ。きょひ、嘘だ。拒絶、嘘だ。きょぜツ、嘘だ。キョゼツ、嘘だ。キらい、嘘だ。きらイ、嘘だ。キライ、嘘だ。きらい、嘘だ。

 嫌い?

 俺の手元から物を壁に叩き付けた様な鈍い音が響く。俺達の他に数名居た周囲の人間が何事かとこちらへ振り向く。猫と蟻も俺を見ている。それで(ようや)く俺が音の原因だと気が付いた。

 無意識の内に右手を壁に叩き付けたらしい。木張りの壁を殴りつけた拳を見ると、指の付け根が赤くなっている。一箇所切れて血が出ているみたいだった。

 

「ねぇ」

「蛇」

 

 二人が俺を呼ぶ。これは笑えない。何より、無意識の内に壁に拳を叩き付け、切れて血の出ている自分の拳を他人事の様に眺めている自分が居る事が最高に笑えない。

 

「俺、帰るわ」

 

 もう、限界なのかもしれない。

 

 

 寮への帰り道、俺は左手だけをポケットに突っ込んで歩いていた。

 履き潰した白いスニーカーの踵を引き摺り、右腕だけを揺らして進む。

 右手から細く流れる血が灰色の石畳へ時々落ちる。それでも先より勢いは大分収まっている。瘡蓋(かさぶた)が出来初めているんだろう。どうでもいい。

 何処からか口笛が聞こえる。誰も聞く人が居ない口笛は溶ける様に空へと消えていく。俺は知らず知らずの内に口笛を吹いていた。

 子供の頃に誰もが一度は聞いた事があるであろうあの旋律。ハ長調のはずのその曲が、今の俺には自然と短調に変わる。

 愛も勇気も友達では無い。正義なんて人それぞれ全くの別物だ。

 

「何の為に生まれて、何をして生きるのか?」

 

 俺はその疑問に答えられなかった。

 

 

 俺は狐と誘い合わせて晩飯を食べた。右手は寮に戻った時、水で軽く洗って於いた。傷口が割と小さかった事と、既に血が止まっていたので特に処置とかはせずそのままだ。

 

「どうしたんだ蛇」

「いんや……、別に……」

 

 狐にまで気付かれる程に、今の俺は目に見えて不機嫌らしい。

 上手く言語化出来ない何かが俺の中に渦を巻いている。諦めと嫉妬と疑念とをミキサーで掻き混ぜたような、そんな感じだ。

 今まで食べてきた中で最高級に不味い飯を食い終わり寮へと戻る。鉛の様な飯と云うのはあの様な物を指すのだろう。そのままベッドへと倒れこんだ。

 時間は既に夜だ。雲が掛かっていて星は見るべくも望めない。街灯の白い明かりや窓から漏れる黄色の光。人工の照明だけが暗闇を照らす。

 何となく溜息を吐いて寝返りを打つと、首に何かが引っ掛かった。ネックレス。猫から貰ったキーホルダーに少し細工をして首から掛けられるようにしたソレが、寝返りをした時に首に絡まったらしい。

 俺は貰ったその日からずっとコレを身に着けている。これが最後の猫との繋がりになるかも、なんて馬鹿な空絵事を思い描きながら。

 俺はネックレスの先に付いたキーホルダーを握り締める。壊れて砕けそうな程に強く。

 それから、急に力を抜く。

 

「馬鹿みたいだな……」

 

 俺は寝転がったまま呟いた。俺がこんなにも精神的に参ってしまっていると云う事実があまりにも情けない。

 猫と一緒に居て、本当に助けられていたのは俺の方だったのかもしれない。友達になってくれて、彼女になってくれて、居場所になってくれた。

 初めて告白した。

 初めて告白された。

 初めてキスした。

 初めて泣いた。

 思い返していても仕方が無い。

 

 後悔は先に立たず、役にも立ちはしない。

 人間には表裏があるのが当たり前。

 信じるものがスクワレルのは足元だけ。

 楽しい事には必ず代償を払わねばならない。

 俺は善い事をしたんだろうか。それはただの偽善だったのか。

 

 携帯が不意に震えだす。音と長さからして多分電話だ。

死に掛けの蛞蝓(なめくじ)の様にベッドの上を這って携帯に手を伸ばす。着信は亀からだった。

 

「どした」

 

 何で俺の声はこんなにも欝々としているんだろうか。

 

『ちょっと来てくれ! 猫が暴走してるんだ!』

 

 暴走って事は文字通りに意味無く闇雲に走り回っているだけなんだろう。よく猫はそういった行動を取る。理由は分からないがこんな暗い夜の中?()()で追いかけっこか。

 気分がまた落ちる。底の見えない泥の中へブズブズと沈み込んでゆく。

 

「行って、どうしろと?」

 

 言葉に棘が混じる。亀が俺に何をして欲しいか分かっているはずなのに。まるで少しでも時間稼ぎをするかのように答えの分かり切った質問を返す。

 

『猫を止めてくれ』

 

 亀は通話を終了する。その声には俺に有無を言わせない強い意志が籠められていた。反論しようと携帯を耳に当てるも、聞こえてくるのは無情な電子音ばかり。

 俺は何度目になるか分からない溜息を吐いて、部屋を出た。

 俺は薄暗いリノリウムの廊下を上履きでペタペタ鳴らして歩く。天井灯が床に反射し、そこだけが不自然に白く輝いていた。そんな廊下を(しばら)く歩き、靴を履き替えて寮の外へと出る。

 誰も居ない。こんな時間、こんな寒い中、好き好んで出歩くのは気違いか気狂いぐらいなものだ。肩を(すく)め、更に足を踏み出す。

 特に当てもなく寮の外を歩き出す。体が揺れるに合わせて、首から下げたネックレスから場違いなほどに澄んだ鈴の音が聞こえてくる。猫から貰ったキーホルダー。その音は綺麗に澄んでいるが故に一層寒々しい。

 俺は鈴の音を鳴らし、黒い上着を半ば闇と一体化させながら歩く。辺りには風の音と鈴の音だけ。

 心にその気が無くとも、俺の五感は意思に関係なく情報を集めだす。十分程歩いたり止まったりを繰り返せば、場所など直ぐに特定出来る。

 

「……左」

 

 左手方向から荒々しい足音。遠くには女性らしきシルエットがぼんやりと見える。

 その影が近づき、目の前を通ろうとする時、俺は彼女の左腕を掴んだ。

 いつかの自殺未遂を思い出し、腕を握る手に必要以上に力が(こも)る。

 急ブレーキを掛けた車のような衝撃と共に彼女は動きを止めた。

 

「……猫」

「えっ……、あ、凪……」

 

 ()か。猫の中で俺は既に凪へと戻ってしまってるらしい。

 俺へ話しかける猫の歯は処々(ところどころ)が赤黒い、潮風で錆びた鉄骨のような色をしていた。また自分の血を飲んでいたんだろう。

 俺は努めて明るく声を掛けた。その程度の事すら意識しなければ出来なくなっている自分に気付き、少しだけ怯えてしまう。

 

「何してたんだ?」

 

 猫は答えない。ただ繋いだ手が弱弱しく握られる。俺も無意識にその手を握り返す。

 その一瞬で猫と出逢った最近の出来事が映画を早送りにした時の様に脳内で再生された。

 

 『猫、です。あなた■狐の友達?』

 『私は■と友達になり■いよ駄目?』

 『必要と■れてるって、思わ■てよ……』

 『あーっ、もうっ!! 私は■の事が■きって言ったの!!』

 『名前■呼んで■、い■かな?』

 『私と■れて下さい』

 『■と、付き■ってくれま■か?』

 『蠍■傷付■たら、■れるよ』

 

 テレビの砂嵐のような雑音と共に途切れ途切れに思い出す。たちまち過去の記憶がありありと目の前に展開せられ、楽しかったな、何てふと懐かしんでしまった。それらを俺が既に過去の事として考え始めてしまっている事実に気が付いてしまう。

 後懐、コウカイ、後悔。

 果たしてイツ間違えたのか。ドコで道を踏み外してしまったのか。

 猫が俺の顔を見上げている。俺よりも身長の低い猫は俺の方を見ると自然と上目遣いになる。少しだけ潤んだ瞳、先ほどまで走っていたからか桃色に上気した頬。夜風に吹かれて流れる髪。俺はやっぱり猫の事が愛おしかった。

 ゴメン。って一言言ってから猫に口付ける。もうすっかり慣れてしまったキス。多分これが最後になるかもしれないから。

 俺の方から舌を入れる。今まではずっと猫から先に入れてきていたのだが、今回だけだ。

 十秒程の短いキス。

 俺は唇を離した。手の甲で口元を拭う。直ぐに

 

「猫! 蛇も! やっと見つけたよ」

 

 亀が建物の影から姿を現した。現れたタイミングから察するに、きっと亀は見ていたんだろう。そして余計な邪魔を入れないで静かに待っていてくれたんだろう。

 俺もその程度の事に気が付かないはずが無い。それでも亀のその優しさが今の俺には嬉しくて、嫌だった。

 ごめん、ありがと、ごめんなさい。

 口の中で呟いてから、俺は今気付いたとばかりに亀へ片手を上げる。

 猫との最後の接吻は、少しだけ血の味がした。

 

 

 次の日、俺は猫達と朝飯を食べなかった。俺は狐に頼んで、狐も俺の急な変化に戸惑いながらも朝飯に付き合ってくれた。

 数日して二月十二日。猫から届いたメッセージには”彼が死んだってのは実は誤報だった”みたいな内容の文章が明らかに喜びを隠し切れない文体で書かれていて、また絶望すると同時に幽かな希望を感じた。

 猫が亀へ靡き出したのはあの日の自殺未遂からだ。その理由が雲散霧消した以上、再び俺の所に戻ってきてくれるのではないかと云う淡い期待。

 その次の日の朝、俺は再び猫達と一緒に朝飯を食べて、俺の望みは泡沫のように呆気無く散った事を覚った。

 猫は相変わらず所か、以前にも増して亀にべったりになっていた。遂に俺は猫と一言も話さずに朝食を食べ終える。蠍はあの日の暴力以来、一度も顔を見ていない。別に見たくも無いのだが。

 

 焼け死ねる様な思い、声にならない叫び、恐怖。

 ガス室に送られた犬は死の道で。穢れ無きまま少女を待てり。

 恋? 愛? 好意? 思い? みんな嘘だった。

 闇夜に蠢く声を聞け。そして君は何をした。

 俺は、出逢って、愛して、哀に堕ちた。

 

 (アイ),(アイ)(アイ)(アイ)

 

 離れれば歩み寄り、近付けば逃げる。女なんて蜃気楼だ。幻にしか過ぎない。

 此処に日本一の馬鹿が居る。貴方は幸せだ、幸福なんだ、と見たことも無い誰かを憐れむ愛情。

 不良品で無い人間が居たならそれこそが不良品。

 出る杭は打たれるのではない。抜いて棄てられる。棄てられた杭集う掃き溜めで再び醜い蹴落とし合い。

 居場所が欲しいと願ったのはいつの事だったか。

 分からない。ワカラナイ。

 思考の坩堝へと堕ちていく。

 明日はバレンタインだ。

 

 

 猫からはチョコを貰えた。俺は嬉しくて笑った。まだ笑うことが出来た。聞いてみた。

「本命ですか?」

 答えた。

「違うんだ」

 俺は理解した。納得出来てしまった。笑みが消えた。

 絶望と愛惜を同時に感じた。

 

 冗談だよね?

 冗談じゃないよ。

 嘘だよね?

 嘘じゃないよ。

 本当に?

 本当に。

 

 チョコレートは全部食べた。場違いな程に甘くって、吐き出しそうになった。

 それでも全部食べた。

 決めた。

 月曜日、全てを決めようと思う。

 

 

 二月十七日。天気は確か晴れだった気がする。風は全く感じられない。にもかかわらず、遥か彼方の上空では雲が凄ス速さで流れている。その差が面白くて、俺は呼び出してから猫が来るまでの間、ずっと空ばかり眺めていた。

 十分ほどして猫が来る。

 俺が呼び出したのは例の図書館。その建物の二階にある新聞読者用スペースだ。この時間帯に人が居ない事を俺は経験上知っている。昔、といっても猫と知り合う前だが、学校中を歩き回ってマッピングする事が無性に楽しかった時期があった。

 実際、俺達の学校は文化祭で迷子が出る程迷路なので、マッピングしておいて何も損は無い。その時にこの場所も見つけた。

 今時新聞を定期的に読む健全な学生が俺達の学校に居るはずも無く、基本的にこの場所には閑古鳥が鳴いている。故に人目の心配をする必要は無い。

 

「何? どうしたの、かな」

 

 猫はおずおずといった感じで俺の隣に座る。男女で長椅子に腰掛ける、傍から見ればさぞ羨ましい限りだろう、何てどうでもいい思考が頭に浮かぶ。

 

「ちょっと聞きたい事がある」

 

 俺は紙切れのような薄っぺらい笑みを浮かべる。今の俺は完全に素だ。故に本音で話し合えるし、本音で傷付ける事も出来てしまう。誤魔化しの嘘を、俺は今吐く事が出来ない。

 

「何でそんなに元彼が()()なの?」

 

 敢えて猫が用いた単語を使う。俺も亀も蠍も、皆が()()だと言った猫。

 猫は何も答えない。ただ俯いて、膝の上に置いた手の甲を眺めているだけ。

 

「何で最近亀とばっかり喋ってるの?」

「それはっ!」

 

 大きな声で俺の発言を遮る。一旦俺の顔を見てから、猫は再び目線を下げる。

 

「いつも蛇が不機嫌だから……」

「そりゃあ、他の男に一々一喜一憂する自分の彼女を見れば誰でもそうなるでしょうねぇ」

 

 謝罪すらない。私が悪いんじゃない、お前が悪いんだとでも言いたげな返答に俺は覚悟を決めた。

 

「俺がずっと前から思ってた事を話そうか?」

「何でそんなに彼が大切なら、俺の事を好きだ何て言ったのさ」

「信じてたよ、本気で。疑うなんて嫌だったからね。離れていく様な気がした」

「だけど、俺に居て欲しいって言ってくれた数少ない人だから」

「でも、結局の所はその彼とやらの替わりでしかなかったんでしょ?」

「愛してるって、そう伝えたのは」

 

 聞き覚えのある言葉。猫が昔歌った曲の歌詞。俺の肩に頭を預け、彼氏との過去を思い出しながら悲しげに歌った猫の姿は今でも覚えている。 

 だからこそ、俺の言葉は猫の胸に刺さるはず。

 

「そんな軽いフレーズだったんだね。便利な道具だったんだね。近くに居てくれればそれこそ誰だってよかったんでしょ?」

「さみしい、なんて言葉吐いてさ」

「両親が離婚して、その娘は浮気をする。血は脈々と受け継がれていくんだ。素敵だねぇ」

「それでまた次の男を見つけて”君しか居ないんだ”って言うんでしょ?」

「嘘だらけの言葉で惑わすのはもう止めてくれよ」

 

 別に俺は天邪鬼(天ノ弱)ではない。潔癖症(ケッペキショウ)でもない。ただ繰り返し(繰り返し一粒)たくないだけなのだ。疫病神(ヤクビョウガミ)を縛り付けた鎖の少女(鎖の少女)

 

「今でこそこんなに大人しく聞いてっけど、内心何でそれがダメなの? とか考えてんだろ?」

「本気だったんだぜ? 初めての彼女になってくれて。でも」

「分かり合えたフリしてるだけで本当は、何も、分かっちゃいなかった」

「あんなに舞い上がって馬鹿みたいだ。こんなに踊らされて馬鹿みたいだ」

 

 俺は自分の敵だと認めてしまった相手にはまるで手加減というものが出来無い。

 口から吐き出すナイフが猫に何を考えさせているかは分からない。

 それでも言い切る。

 

「どんなに後悔したって、もう元には戻れない」

「お前に取っては遊びみたいな事なのかも知れねぇけど、俺は本気だったんだ」

「今更何言ってもだ。居ると邪魔なんだなってのは、直接言われやしてねぇけど聞こえてる」

「思い悩んで、夢を見ては、俺は手を伸ばした。この気持ちが理解できますか?」

「代わりはいくらでも作れるんだろ? その事気付いちまった俺は退場するよ」

「じゃな、猫。今までは本当に楽しかったよ」

 

 俺は猫をフッた。

 ちょっと待ってよ、と縋り付こうとする猫を振り払って、俺は一階へと続く階段に向かう。叫び出したい気持ちを圧し殺して、絶対に歩く調子を崩さない様にゆっくりと立ち去る。

 暫く無言で座っていた猫が、そこから立ち上がったのはそれからまもなくの事だ。

 猫は呟く様に二、三言聞こえない声で何かを言って、蛇と同じ道を寮へと引き返す。外には木枯らしが吹くばかり。

 こうして俺と猫は二月十七日、最悪の別れ方で終止符を打った。

 

 その後猫は別の彼氏を新しく拵えて何事も無かったかのように生活している。まぁ自分が悪くないと思い込んで居るんだから、それが当たり前と言えば当たり前なのだが。

 

 

 

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