少年は自分が愛した少女の亡骸を抱きしめ虚空に問いかけた。
『誰かを好きになるのは罪なのか』
少女は愛した人の血で穢した己の身体に問いかけた。
全てのものには終わりがある。
つまり、何事にも死があると云う事。
死があると云う事は生があると云う事。
寿命とは生から死までの一つの流れ。
これは、そんな『流れ』に抗おうともがき続けた
とある少年と、とある少女のお伽噺。
ここは某高校の廊下。一人の少年が次の移動教室へと向かうべく、ただ独り、歩いていた。彼の周囲には誰もいない。この年代なら友達の一人や二人いたって、なんら不思議ではないのに。彼の周りには誰もいない。少年は俗に言う『転生』というものを五年ぐらい前にしたらしい。何故転生したのかはわからない。ただ漠然とした後悔だけが残っている。
自分が今までの記憶と人間関係を持って今この瞬間に生まれたのではないことをどうやって証明するのか?という問いを見たことがある気がするが、まさにそうして生まれたのが彼、と云う訳だ。
彼はいつからか人の心が読めるようになっていた。そのときから彼には友達を作ることが出来なくなってしまった。人間、表面上は笑顔で笑っていても、心の中では早く死ねと呪いをぶちまけていたりする。自分に近しい人間の本性を見てしまった彼は、人と云うものが信じられなくなってしまっていた。彼が一人でいるのには別の理由もあるのだが。
彼は目を前に向けた。数メートル先には、一人の女生徒が立っていた。壁に寄りかかり、気だるげに窓の外を見つめる少女。
彼女は何を考えているんだろう。
少年は気になった。彼は彼女の心を読もうと意識を集中させた。
心から聞こえててくる彼女の声は、少し距離があるからか雑音が混ざり聞き取りにくい。
少年はもう少し近づいて心を読む。聞こえてきたのは疲れたような女の声。
(血が、飲みたいなぁ……)
「え!?」
少年は驚いた。てっきりそんな気味の悪い嗜好の人間はこの世でただ一人だと思っていた。何よりも、声を上げたことで、彼女に気づかれてしまった。
(何?この人)
(いや、なんかごめん)
(まったく、気をつけてよね)
「ん?」
「へ?」
少年と彼女は顔を見合わせた。周囲の生徒がいぶかしむような目を向けて通り過ぎていく。それに気がついても、二人は動くことができなかった。
(……)
(……)
(も、もしもーし)
(あ、はい。聞こえてますよー)
どうやら彼女も少年と同じで心を読むことができるようだ。親近感も手伝ってか、少年は彼女に声を掛ける。
「あの、後で話したいことがあるんだけど、時間取れる?」
「いいよ。わたしも君と話したいことあるし」
「それじゃ、ここの売店前でいい?」
「わかった、またね」
ここまでおよそ五分。立ち話にしては少し長かったか。再び歩き出した少年の耳に壊れたラジオのようなノイズが聞こえた。授業開始のチャイムが鳴る前兆だ。
……完全に授業に遅刻です。
○
そのコマの教員にこってりと絞られた後、少年は集合場所である売店へと向かった。見ると既に彼女は到着しており、近くのベンチでこちらに背を向けて座っている。
(遅かったわね)
(君が早すぎるんだよ)
(そう? 普通に来たつもりだったのだけど)
お互いにそんなことを考えつつ、少年は売店で珈琲を買った。売店に来て何も買わないというのは流石に怪しまれる。
店員の笑顔と心を見送って、少年は彼女が座っているベンチに腰掛ける。
「ちょっと、隣に座らないでよ」
「いきなりそれはあんまりじゃないかな…」
傷付いたような表情を作って少年は肩をすくめた。それを華麗にスルーして少女は語る。
「一応聞くけどあなたは浦部君、で合ってるよね?」
「やっぱり分かるのか。となると君は咲樹で合ってる?」
「いきなり名前ねぇ。別に良いけどさ。やっぱり君も人の心が読めるんだよね?」
「そうだよ。そっちもだよね」
「うん。まあね。全部丸々って訳じゃないけどさ」
「俺も同じ。一々言わなくても伝わってると思うけど」
「なんとなくね。相手がぼんやりとしか考えてないとわたしもはっきりとは分からない」
「そこも同じか」
「だね」
浦部はさっき買ってきた珈琲に口をつけた。独特の苦味が口に広がる。そろそろ用件を切り出そう。
浦部は一つ息を吐き、咲樹へと向き直る。
「あのさ、廊下で考えていたあれって、本気?」
「そんなことないよ……ってこれは無駄なんだよね。そうだよ。わたしは人の血が飲みたいの。自分でも狂ってるって思う。でも飲みたいの」
「その気持ちは分かる。もう気付いているかもしれないけど、俺は」
浦部は一旦言葉を区切り、彼女…咲樹の目を見つめた。心の奥まで見透かされそうな、そんな目が悲しげに揺れている。
「カニバリズムだから」
カニバリズム・人間が人間の肉を食べる行動。食人、食人俗、人肉嗜食とも言う。ようは人間の肉を食べたいとする嗜好の持ち主の総称である。
咲樹の目が逸れた。それを見た浦部は悲しげに俯く。目は逸らしたまま咲樹はゆっくりと言った。
「自分が、嫌い?」
でもそれも一瞬。もう咲樹は目を逸らしてはいない。真っ直ぐこちらを見ている。
「わたしはそんな自分が怖くて、友達を作らなくなった」
「え?」
「最初はわたしにも友達がいたよ? 親友もいた。でもね、どんなに仲が良くたって何でもない一言であっさりと仲違いしちゃうんだよ」
話しながら咲樹の目はどんどん冷たくなっていく。自分のトラウマを掘り起こしているのだから当然か。
「その親友にだけ、わたしが血が飲みたいんだって教えた。絶対に内緒だよ? って。でも次の日に学校に行ったらクラス中の皆に知れ渡ってた」
淡々と話す咲樹の手は硬く握り締められていた。浦部はその手に自分の手を重ねた。自分は味方だよ、と言葉で言わずに伝えようと。
まあ、伝わるんですけどね。形から入るって奴だ。
「その時からかな。わたしが心を読めるようになったのは。最初は吃驚したよ。あれだけ仲良く笑っている友人が心の中では私に怯え、恐怖しているんだもの。あの親友でさえわたしを忌み恐がっていたの」
その気持ちは痛いほど理解できるし、伝わってくる。浦部は自分の少年時代を思い出した。
最初はとても仲の良かった親友。
自分の嗜好を話した途端に化け物でも見るような目でこっちを見てきた友達。
いつからか心を読めるようになり、クラスメイト全員に避けられていることを知った。
自分は人間じゃない、人間と関わってはいけない。
そのころからか浦部は自分と周囲に溝を作って、あまり人と関わらなくなった。
笑顔で話しかけていても、内心では忌み嫌われていると分かっていて、仲良くすることなんて浦部には出来なかった。
「……そっか、君も同じか……」
咲樹がこっちを見ていた。自分の過去回想が伝わってしまったらしい。嫌な物見せちまったかな……。誤魔化すように話を進める。
「世の中には知らなくたって良い事ってのもたくさんあるんだよ。俺は友達とは全員縁を切ったし、彼女とも別れた。自分の事好きでもない彼女と付き合いたくなかったからね」
「わたしも彼氏と別れたよ。わたしとヤりたいだけだったからね。アイツ、猿みたい」
身体目当てで付き合うような軽佻浮薄の輩は死ねばいいと思う。
「男なんてみんなサルだよ。そこにちょっと愛情が加わるだけさ」
「女はみんな嘘吐きで見栄っ張りよ。そこに愛情が加わるだけよ」
二人から乾いた笑みが零れる。十代そこらで何言ってんだろうね、俺達は。
「でも、大丈夫。わたしは嫌わないよ」
浦部は驚いた。自分の事を受け入れてくれると言ってくれる、そう思ってくれている人なんてもういないと思っていた。
「でも、俺は」
「わたしは浦部君の事をちゃんと理解出来るよ? それに浦部君もわたしの事嫌ったりしてないでしょ?」
「それは、咲樹が俺と同じ」
「そう、同じ嫌われ者だよ。最底辺の世界の住人だ。でも、だからこそドン底の人間に寄り添える。一緒に居てあげられる」
浦部は泣きそうになった。自分の事を避けないで、ましてや一緒に居てくれると思ってくれている、それだけで嬉しかった。
「……だからってわたしの事食べていいって訳じゃないからね?」
「別にそんなこと考えて! ……って分かっちゃうんだよね。ごめんなさい。考えました」
「まったく……もう」
「って言いながら君も俺の血を飲みたいとか考えないでほしいね」
ぶっちゃけちょっと引く。自分がこんな事考えているんだなぁ、というのを三人称で見ると中々に狂っているのがわかる。
「だって飲みたいんだもん!」
「にっこり笑顔で無邪気に言うんじゃねえよ。可愛いじゃねえか」
「じゃあ!」
「あげません」
「むぅ」
拗ねたように頬を膨らませる咲樹。そんな姿は可愛い。可愛いのだが、喋っている内容があまりにもぶっ飛んでいるのだ。
「てか、血が飲みたいならスーパーでレバーでも買ってこいよ」
「あれはダメ。前に一回吐いたし」
「既にお試しですか」
「わたしが好きなのは人間の生き血。それ以外は体が受け付けないの」
「まぁ、その辺は俺もだな。それに自分のもダメなんだよな」
「そう! 前に自分の血を飲んだんだけど不味くて飲めたもんじゃなかったよ」
「……それも試してたんですか」
学校の敷地内でなんて会話をしているんだ俺たちは。そんなことを考えてると咲樹が、
「一応言っておくけど、わたしにも好みがあるからね? 誰の血でもいいみたいな軽い女じゃないよ?」
「何の宣言だ」
「あ、でも浦部君ならいいよ。むしろ好きな部類に入る」
「マジで!」
「だからってわたしの事美味しそうって思わないで」
「咲樹だって俺の事美味そうって考えただろ!」
まったく残念である。これが無ければ普通の女の子なんだが……。
「わたし達は普通の人には理解されない。でもわたし達ならお互いを理解出来ると思わない?」
「突然、何さ」
「わたし達でお互いに自分の嗜好を満たし合わないかって聞いてるのよ」
「それは、どういう」
突然の提案に
「はい、ここに一本の注射器があります」
「何さらっと物騒な物出してるんだ、というよりいつ買ったんだそんな物」
「まあ、気にしない気にしない。話が進まないでしょ?」
諭されるように言われると黙るしかない。でも、これ、間違ってるのは咲樹のほうだと思う……。
「わたしは一日一回これで浦部君から血を貰う。わたしはあなたにわたしの体を噛ませて、《味見》させる」
「交換条件ってやつか」
「どう? 悪い話じゃないと思うけど」
浦部は考えた。自分にとって初めて現れた理解者。一緒に自分達を理解しあい、共に欲求を満たそうではないか。つまりはこういう事だ。
……確かに悪い条件じゃない。本当に注射器一本で済めばの話だが。
「……いや、俺からは遠慮しておくよ。なんか自分が抑えられなくなりそうで怖いんだ」
「そっか……。じゃあ、わたしのぶんだけお願いね」
「わかった」
浦部たちは、その場で連絡先を交換した。その場で明日の待ち合わせ時間と場所を放課後の屋上に決める。
じゃあね。またな。と
○
次の日の放課後。浦部と咲樹は約束通り屋上に来ていた。咲樹は既に注射器を握り締めて待っている。
「遅かったわね」
「咲樹が早すぎるんだよ」
「まぁ、いいよ。それじゃあ、お願いね」
「ああ」
浦部は自分の袖を捲くり、腕を露出させる。咲樹はそこに丁寧にアルコールを塗り、注射器を突き刺した。
「っ……」
注射器に自分の血が流れ込んでいるのを見るのは誰だっていい気はしないだろう。これをこの先何回か繰り返すのかと思うと、さっそく溜め息が出る。
「はい、おしまい」
そう言って咲樹は注射器を浦部の腕から抜き取り、絆創膏を貼った。
「これで、終わりか?」
「うん、おしまい。それじゃあ、いただきます!」
咲樹は注射器から血を飲みだした。朱い液体が注射器から針へ、針から咲の口内へと流れていく。
(ヤバい……これ、たまんない……)
うっとりした目で自分の血を飲んでいる姿を見るのは何というか、不気味だった。暫く見ていると、どうやら飲み終わったらしく、ようやく注射器を口から離した。当たり前のように注射器の先端を舐めとり始める。
(やだぁ……。もっと、もっと……)
声こそ切なげなのに、こんなにも悪寒がするのはどうしてだろう。でも、自分の血を必死で求める彼女は、本当に美味しそうに見えた。遂に咲樹は注射器をバラして、ガラス管の中を舌で舐め始めた。
(よかった……。まだちょっと残ってる……)
咲樹は幸せそうに浦部の血を舐めていた。
浦部が見ていることなど、既に咲樹の頭のなかには存在していなかった。
切なげな吐息をあげて、咲樹はずっと注射器を舐め続けていた。
十分近く咲樹の血飲は続き、漸く終わったのは空が橙色に色づき始めてからの事だった。
(……ごちそうさまでした)
「……お粗末様でした」
「え!?」
驚いたように咲樹は浦部を見た。本当に浦部の存在は頭の中から無くなっていたらしい。
「い、居たの? って居たに決まってるよね、そりゃあ……」
「まあ、な」
さっきの彼女の姿声を聴いていたからか、答える浦部の声も滑らかには出てこない。自分の目の前で、かなりの美少女が切なげな吐息を漏らしながら、自分の血が入っていた太めの筒を一心不乱に舐め続けていたのだ。何故浦部が動揺したかはお察しの通り、だと思う。
浦部が一人、男の
「とにかく、ありがと」
こちらも見ないで咲樹は言った。言の葉には感謝と照れが半分ずつ。
「なんだ、急にしおらしく」
返す浦部はややぶっきらぼうになる。きちんと返事は返すところが彼らしい、か。
「まあ、気分だよ。それよりも、もしまた血が飲みたくなったら、その時は飲ませてね。頼んだよ」
「正直、そんな機会は二度と来ないことを祈っているんだが」
「じゃあ、作ればいいじゃん♪ お互いに彼氏彼女はいないわけだし」
「好きでもないやつと付き合うのは御免だぞ」
「でも」
咲樹は手すりから離れて振り返った。長めの髪が夕陽に輝き、浦部の目に眩しい。だが、それにも負けない満面の笑みが、浦部を捉えていた。
「好きになりかけなら、構わないでしょ?」
「……まだ知り合って一日しか経ってないぜ」
「なんていうのかな、時間の問題じゃないと思うんだ。何でか分からないけど、わたしは今、君の事を好きになりかけてる。これが嘘じゃないってこと、君なら分かるでしょ?」
当然、わ分かっている。浦部達の間に嘘は存在しない。することは出来ない。
「そうは言ってもな……」
「嘘はよくないよ? わたしの事、悪くないなって思ってるじゃん」
「……まぁ、似たもの同士だとは、思ってる」
浦部が答えると、彼女は微笑した。その笑顔には浦部を安心させる何かがあった。
「そんなもんなんじゃない? そんなもんだよ。彼氏彼女って」
「お互いに心が丸わかりってのも、面倒くさいな」
「言葉は嘘吐きだね、浦部君は」
「俺は根っからの天邪鬼なんだよ」
「照れ屋の間違いでしょ?」
浦部が言い返すと、彼女の言葉はそれに乗っかって帰ってくる。
人とのふれあいが楽しいのか。
彼女といることが楽しいのか。
言うだけ言って、咲樹は去って行った。
去り際に、恥ずかしいから追いかけんなよ、なんて心の声が聞こえて。
照れ屋なのはどっちだよ、なんて浦部は思った。
これも咲樹に聴かれてるんだろうな、なんて。
そんなことも思った。
○
校門から夕陽に染まる屋上を見上げ、浦部は家路についた。家までは少し遠いので、浦部は自転車で通学している。中二からの付き合いである銀のシティサイクルは夕日を反射して朱色に染まっていた。
家に帰るとすぐに夕食を摂るのが浦部家流だ。今日の夕食はサラダとハンバーグ。それが人の肉でないことに、浦部は何故だかがっかりした。
今日、彼女が血を飲む姿を見たからか。
今日、彼女のことを意識したからか。
咲樹を食べたい。
あの柔らかそうな肉を食べたい。
少しでいいから食べたい。
そんなことを考えると、美味しいはずのハンバーグがひどく味気なく感じた。
食べる気がしなかった。
○
(彼氏彼女ねぇ……)
部屋のベランダでミント味のガムを噛みながら、浦部は今日の事を考える。今日の咲樹の言葉について考えてみる。
多分咲樹とはうまくやっていける。
もちろん喧嘩もするだろう。
お互いに我慢する事もあるかもしれない。
それでも、うまくやっていける様な、そんな気がした。
相手の心がお互いに読めるってのもある。
でも、それ以前に、こんなに異常な嗜好を理解してくれるのは、世界で彼女だけだろうってのがある。
彼女だって、きっと同じだろう。
血が飲みたいなんて気持ちを理解できるのは俺だけだって。
俺たちは似たものどうしで、お互いにコイツしかいないって、直感的に感じているんじゃないかと思う。
なんてことを考えて、浦部はまだ味の残っているガムを家の敷地外へと吐き捨てた。
何故だか咲樹の肉が食べたくなった。
誰でもいいわけじゃない。今は、
あいつの肉が食べたい。
そう思ったら、なんだか泣きそうになった。
理由も分からず悲しくなった。
寝ればきっと忘れられる。浦部はベッドの中に潜り込んだ。頭まで被った布団の中は、自分の手も見えないほどに、真っ暗だった。
○
昨日から数えて次の日。浦部は教室の一番端、自分の席に座って溜息をついた。ここは周りに人もあまり集まらず、時計も見やすいと浦部の中で評判なのだ。周りに人が多いと頭の中に勝手に人の考えや思考が入ってくるので、それに脳の処理を裂くのはあまりにもったいない。自分で制御できないからなおさらだ。
恋人や友達と縁を切って以来、浦部に話しかける物好きなど誰一人としていない。浦部からすれば、そのほうが気疲れしないで済むから、遥かに楽なのだが。
(あいつ、マジ意味わかんねー)
(一人でいるのがかっこいいとか思ってんのかな、あいつ。キモ)
とはいえ、皆から漏れ聞こえる心の声だけはどうしようもなかった。耳は塞げても、脳まではふさげない。
どうしようもならない事だって、ある。
心の声なんてのは遠くにいれば聞こえない。ただ、気持ちが強ければ強いほど、その声は大きくなる。自分が何も考えないようにすれば。早い話が注意をそちらに向けなけば。ある程度の声を意識から追い出すことはできる。それでも相手が近くにいる時や、強い想いはどうしても頭の中に入ってくるが。
(……くっだらねぇ)
浦部は考えるのも面倒になって、机に突っ伏した。まだ授業は残っているから本格的に眠るわけにはいかないが、それでもこの方がだいぶマシだった。当たり前のことだが、寝ている時には頭の中に何も入ってこない。目を閉じてじっとしていると、だんだんと周囲の声が消えてゆく。
その内、何も聞こえないようになってくる。
その内……。
(血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲み)
浦部は絶叫して跳ね起きた。クラスの奴らが驚いたような目でこちらを見ていたが、浦部はそれどころではなかった。周りを見渡したがそこに姿はない。だがその声は確実に大きくなってきている。つまりはこちらへと向かって来ている。
誰が、何て分かりきっていた。
こんな物騒な事を考える奴は、この世界に俺を除けばただ一人。俺が所属するクラスを知らないから探し回っているのだろう。
教室の扉がゆっくりと動き始める。
浦部の背筋を寒いものが通り過ぎた。
扉の向こうに姿を現したのは、やはり咲樹だった。彼女は浦部の姿を見つけると、安心したかのように微笑んだ。
(よかった……。やっと、やっと……、見つけた)
まるで、腹を空かせた仔犬が母犬を見つけたかの様な、そんな笑い方だった。
(ねぇ、お願い。今すぐ血を飲ませて)
懇願するように彼女は浦部に語りかける。
(お願い、飲まないと私死んじゃいそうなの。だから飲ませて。もう一度だけ飲ませて。私、何でもするから。食べたいなら私のことを食べてもいいから、好きなだけ食べていいから。だから今すぐ血を、血を飲ませてお願い!)
足がすくんで動けなかった。
でも、目を離すことも出来なかった。
こちらをじっと見て、血が欲しいとおねだりする彼女はそれほどに可愛らしく、とても美味しそうだった。
(お願いこっちに来て話だけでも聞いて私に血を飲ませてお願い!)
(お前……、昨日飲んだばかりだろ……? それに今のお前普通じゃないぞ? やめた方が……)
(知らないよそんな事。ねえ早く休み時間終わっちゃうから早くお願いだよねえ!)
(でも)
(お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!お願い!)
(おいおい、マジかよ……)
絶対に普通じゃない。浦部の心の声は彼女にも聞こえていたはずだったが、彼女からは全く反応がなかった。
頭の中が血のことで一杯だった。
浦部の顔から血が引いて行った。
○
二人で屋上に上がると、彼女はすぐに求めてきた。
血を。
昨日も見た注射器を片手に、咲樹は恍惚とした表情を浮かべていた。
(また血が飲めるんだ)
浦部の頭の中にはそんな声しか聞こえてこない。
半ば諦めるように腕を差し出すと、咲樹は消毒もそこそこに注射針を突き刺した。
「っ!」
我慢したとはいえ、やはり痛いものは痛い。歯を食いしばったが、息が漏れた。
「我慢してね。大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫。すぐに終わるんだ。すぐに終わるから。すぐに終わるんだよ。すぐに終わるからさ」
まるで自分自身に言い聞かせるかのように咲樹は小さな声で呟き続けた。正直、怖かった。
血を抜き取り終わると待ちきれないとばかりに、咲樹は注射器から血を飲み始めた。血を飲む音に合わせて、彼女の白い喉がコクリコクリと動く。
(ヤバい……。たまんない……)
咲樹は俺が見ていることも忘れて、自分の求めるままに俺の血を飲んでいた。注射器から血が出なくなると、昨日と同じように、彼女は注射器をバラして舐め始めた。
(おいしい……。もう最高……)
咲樹は浦部の血が入っていた注射器をいつまでも舐め続けていた。
一時間ほどして、口や袖を涎でべたべたに塗らした咲樹は、その場から立ちあがった。その目に宿るのは満足感が半分、悲しみが、半分。
「美味しかったか?」
「美味しかった」
さっきまで聞こえていた声はもう聞こえない。
「ごめんね、怖がらせて。もう、大丈夫だから……」
「そうか……」
「後悔してる……」
「知ってる」
「浦部君が怖がっててもぜんぜん気にならなかった……」
「……うん」
「ねぇ、私おかしいよね」
浦部は何も言えなかった。彼女の考えが完璧にわかってしまうからこそ、簡単なことは言えなかった。
「昨日、家に帰ってから、普通にご飯を食べて、お風呂に入って、浦部君にお礼のメールを打とうとしたら、君の血の味が頭に蘇ってきて」
咲樹は制服の袖で目の辺りを拭った。それでも、溢れ出る滴は止まらなかった。
「君の血がどうしようもなく飲みたくなって。気がついたらそのことしか考えてなかった」
咲樹は泣いていた。自分が自分ではなくなっていくような気がするのが怖くて。自分が誰かに支配されているような、そんな感覚に囚われて。
「ごめん、ごめんね……」
ただ泣いて、哭いていた。浦部はそれを黙って聞いているしかなかった。聞くことしかできなかった。
なあ、やっぱりこれって俺の血を飲んだからなのか?
うん。
やっぱりあげなきゃよかったかな。
うん。
わかった。
……もし、
ん?
もしわたしが今日みたいになったら、殴ってでも止めてほしい。
……わかった。
……、ありがとう。
咲樹は屋上のドアを開けて去っていった。昨日とはまったく違う気持ちを抱えて。
浦部は咲樹がいなくなった屋上で一人空を眺めていた。壁に背を預け、ずるずると座り込む。今朝は青空こそ見えていたのに、今は分厚い雲が視界を覆っている。僅かに見える陽の光は今にも雲に掻き消されそうだ。
「……はあ」
溜息をついて浦部は煤けた床から立ち上がった。少しよろけたが問題ないだろう。屋上に吹き付ける風は冷たく、浦部の体温をどんどん奪っていく。ここに居たところでどうしようもないだろう。
「帰るか……」
浦部は校内へ通ずる重い鉄の扉に手を掛けた。ひやりと冷たいドアノブに不快感を覚えつつ、ゆっくり回すと、古い扉特有の軋むような音を立てて扉は開いた。階段を下りて自分の教室へと向かう。クラスメイト達は今頃体育館で仲良くバスケットボールの試合中だろう。遅れて授業に参加することも考えたが、体がそれを拒否した。机に引っ掛けっぱなしの鞄を引っ掴んで保健室へ向かう。
保健室に着くと、浦部は養護の先生に早退する旨を伝えて帰宅した。
今は無性に一人になりたかった。
浦部は裏口から外に出ると、自分の自転車が止めてある駐輪場へと向かった。自分の自転車を他の自転車の群れから引っ張り出し、鍵を開ける。荷物籠に鞄を放り込むとすぐさま自転車に跨り、学校から逃げ出すかのように校門を目指した。
中学の頃から酷使されているシティサイクルは踏み込むたびカラカラと音を立てる。いつもなら快適に回るペダルも今日は重い。前から吹き付ける風は、雑草を揺らし、ビニール袋や空き缶を転がしていく。そのうちひび割れたコンクリートの道にポツポツと黒い滲みが出来始める。雨が降ってきたのだ。
「……っんどくせえな……」
浦部は自転車に乗ったまま、荷台に括りつけてある傘を引き抜き展開する。自分を守るバリアーのように広げられる傘。刹那、突風に煽られ、傘の骨が折れた。心棒は折れ曲がり、開くこともままならない。風が壊れた傘を煽り、浦部は危うく転びかけた。浦部は自転車を止めた。この雨ではタイヤは滑って使い物にならない。何より傘が邪魔だ。
「めんどくせえ……」
吐き捨てるように呟いて、浦部は自転車を引いて家に帰った。空は真っ黒な雲で一面覆い尽くされ、太陽など跡形もなく消し去られている。明日は晴れるのかな、と浦部は思った。
○
次の日、天気予報は晴れ。ゲリラ豪雨に注意してくださいとのお知らせだ。最近天気が不安定な気がする。どうやら異常気象ってのは今年もきちんと働いているらしい。たまにはさぼってくれても大歓迎なのになぁ……。
浦部はいつものように、授業が始まるまでの時間、机に突っ伏していた。いつものようにクラスは騒がしい。音の声も心の声も。今日の話題は何で昨日俺が早退したか、についてのようだ。そりゃそうだろう。何故かクラスに突撃してきた謎の美少女に連れ去られて授業をサボった挙句に早退などされたら、気になるのも無理はない。それでも自分の所へ直接聞きに来ない辺り、自分の立ち位置を再確認させられる。こうして根も葉もない噂というのは作られて広まっていくんだなぁ、としみじみ思う。
そういえば、どうして女子男子の群れはあんなにも騒がしいのだろう。
少し考えて出た結論は呆気無い程に単純で的確だったと思う。
それは多分自分の存在が認められなくなるのが怖いからに違いない。だから自分を見てくれと、自分に気付いてくれと、あんなにも騒ぐ、はしゃぐ。自分一人で自分の存在を証明できないから、だから周囲の人間へ自分の存在をアピールするのではないか。それで確認できる自分など、所詮他人というフィルターを通して見た偶像に過ぎないのに。
ぼんやりとした思考の中で浦部はそんなことを考えていた。どうでもいいことを考えるのは疲れている証拠だ。背中を伸ばして体を椅子の背もたれに預けると、反った背筋が気持ちいい。続けて首を左右に曲げるとポキポキと心地よい音が鳴る。さて、次の授業はなんだったかな。時間割を思い出しつつ浦部が鞄を漁っていると、やはりというか、聞き覚えのある女性の思考が頭に流れ込んできた。
(血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲みたい血が飲み)
驚いて教室のドアを見る前に、彼女はその扉を開けていた。目は狂気に彩られ、自我があるのかも怪しい。ただそこには自分の血を欲しがるだけの、そんな人間がいた。
(お願い今すぐ血を飲ませてお願い今すぐ早く!血を飲ませて血を血を血を血を早くお願い飲ませて!)
(いや、もしお前が血を欲しがったら、殴ってでも止めてくれって言われてるからな)
(……そう、なら)
一瞬で目が凍った咲樹は背中に隠していた右手を挙げる。そこには大刃のカッターナイフが握られていた。
(殺してでも飲ませてもらう)
何の躊躇いも無く刃を出し、くるくると右手で回しながら近づいてくる姿に浦部は恐怖した。そこにあるのはただ、血が欲しい、という欲求だけだ。下手するとこの教室で殺人事件が発生しかねない。
考えること約二秒。浦部は諦めた。クラスメイトに授業は休むと伝え、ざわめく教室を後にした。今度は鞄も持って行った。多分今日は教室には戻れないだろうから。
○
屋上に行ってもそこには誰一人としていなかった。もっとも、仮にいたとしてももう咲樹は何も気にしなかっただろうが。カッターナイフを教室で振り回すぐらいだ。
教室で飲もうと考えていた程だ。
もう逃げることはできない。浦部は悟った。
「はい、じゃあ手を出して」
血が飲めるとわかってから、咲樹はさっきとは別人のように上機嫌だ。
「……」
ここで拒否したら間違いなく殺される。というより殺すというのが分かっていた。浦部は黙って腕を差し出した。
「ありがと」
咲樹はカッターナイフの刃を浦部の人差し指にあてがうと、何の躊躇いも無く切りつけた。切られた傷口から血が溢れ出てくる。
「いただきます」
そして当たり前のように浦部の指にしゃぶりついた。
(美味しい……)
咲樹は恍惚とした表情で浦部の指を口に含み、血を吸い上げる。舌で傷口を舐め、一滴も血を逃すまいと強く吸いつける。
そんな彼女はとても幸せそうだった。
それは母親を求める乳飲み子のようで。
《血飲み子》
そんな言葉を思いついた。ぴったりの表現だ、なんて思った。
血を飲む彼女は赤子のように幼くて、可愛らしくて官能的。
そして、とても美味しそうだった。
肌、肉、身体。
その全てが浦部の食欲を誘った。
食べたい。
この声はきっと今の咲樹には聴こえていない。聴こえているかもしれないけれど、もうどうでもいい。
咲樹を食べたい。
この子を食べたい。
柔らかそうな太腿も、肉付きのいい腕も、温かそうな首筋も。
何もかも食べつくしたい。
食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。
狂ったように自分を求める彼女を食べてしまいたい。
食べたい……。
気が付くと咲樹は離れていた。
「絆創膏、持ってくるね」
もったいないからね。浦部君の血が無駄に流れるのは。
もう咲樹の心の針は浦部本人の心配よりも、浦部の血の心配に大きく傾いていた。
傷が痛い。
心が痛い。
吸われ続けた傷口よりも、口内で弄られ続けた指先よりも。
本気で食べてしたいと考えたことを、彼女に知られたことが痛い。
隠すことが出来ないから。必死に騙してきた自分の心を知られてしまった。
何もかもが、今の浦部には痛かった。
「ねえ、浦部君……」
絆創膏を貼りながら、咲樹は消えそうなほど小さな声で呟いた。
「もう一度だけ訊くよ?」
「……」
「わたしを、味見する……?」
「……」
「食べたいんだよね……?」
「……ああ」
「なら、いいよ。味見だけ、なら」
「……やめておく」
「味見だけなら平気だよ……。食べないで噛みつくだけだから。……食感ぐらいなら味わえると思うよ」
「……」
「本当に食べなければわたしみたいにはならないと思う。大丈夫だよ」
本人の許可は下りた。後残すは自分の意思のみ。
「……いいのか?」
止まれなかった。
「いいよ…。でも痛いのはダメだからね」
「……ああ」
咲樹の手をとって、その腕にそっと噛みつく。そのまま舌を這わせて肌を舐める。軽く舐めただけでも分かる。これは極上の肉だ。
気が付くと、浦部は彼女の腕に齧りついていた。
(痛っ……!)
浦部ははっとして我に返り、噛んでいた腕から口を離した。
そこには確りと浦部の歯形が付いていた。
「優しくする、って言ったのにさ……」
咲樹は泣きそうな顔で笑っていた。悪戯をした子供を窘めるような、そんな笑顔で泣いていた。
それからというもの、浦部と咲樹は学校の屋上に行くのが日課になった。休日には人目につかない場所や自分達の住む土地から離れた町を歩き回った。
お互いに体も心も傷つきながら帰って行った。
咲樹が血を飲む量は段々と増えていった。そして、吸血衝動に襲われる、その頻度も段々と狭まってきていた。登校前、昼休み、学校帰り。その都度咲樹はカッターナイフを片手に浦部の前に現れた。浦部も何も言わなかった。浦部の左腕と左手は夥しい量の切り傷で一杯になっていた。
代わりに、といっては難だが、咲樹は血を飲ませてもらった後、必ず浦部に『味見』をさせた。浦部もそれをわかっていて咲樹を『味見』した。何より、体が我慢できなかった。浦部が味見をする時間も日に日に長くなっていった。咲樹の両腕は浦部の歯形で至る所がどす黒くなっていた。
味見が終わると咲樹はいつも涙目になっていた。腕中にびっしりと浦部の歯形をつけて、それでも耐えている咲樹はとても健気で美味しそうに見えて。浦部は味見を止められなかった。自分達がおかしいと分かっていながら、この生活をどうしてもやめることが出来なかった。
お互いに傷付くことで納得しようとした。
自分が傷つくことで相手を慰めようと。
自分も傷つくことで自分を正当化しようと。
咲樹はもう吸血をやめられない。
浦部はもう味見を止められない。
こんな生活、長く続くわけもないのに。それでもやめることが出来なかった。
ある日浦部は咲樹に話しかけた。内容はなんて事ない世間話。バラエティー番組でやっていたことの受け売りだ。
「なあ、知ってるか?」
「何を?」
「前にクスリをやってたやつに、もう一回やりたいですかって尋ねると、殆どが二度とやりたくないって答えるらしいぜ」
「だろうね……」
「だけどさ。もし、今日で世界が終わるとしたら真っ先に何をしますかって聞くと、クスリをやるって皆そろって答えるらしい」
「そんなもんだよね」
「そんなもんだよな」
二人は黙り込む。重い沈黙が二人の間に立ち込める中、浦部は口を開いた。
「結局、人間って脳味噌よりも体で生きてるんだな」
「そうだね……本当にそうだね」
浦部の血を飲んでいる時の咲樹には理性なんてもんは殆どなかった。浦部も似たようなものだが咲樹程ではない。浦部と咲樹の違い。多分直接に食べているかいないかの違いだろう。
自分の指から溢れ出る血を美味しそうに飲んでいる咲樹を見て、浦部はこんなことを考えた。
(もしも俺が今すぐ首を掻っ切ってもいいって言ったら、多分コイツは何の躊躇もなく切り裂くんだろうな)
……なんて。
(いいね。それ……。最高だよ)
だよな……。
浦部は咲樹の頭に手を置いた。咲樹はやっぱり可愛く笑って、嬉しそうに血を吸いだし始めた。
どうしようもない、お互いにどうしようもない。
先の未来は破滅しか見えなかった。
多分俺はそのうち失血で死ぬんだろうな、と漠然と考えた。
何故かは知らないが、それは定められた運命のような気がした。
ねえ、浦部君。
……あ?
わたし、浦部君のこと、愛しt……。
最後の咲樹の言葉は聞こえなかった。浦部が貧血で意識を失ったからか。支えを失った体が咲樹へと倒れこむ。それでも咲樹は血を吸っていた。
嬉しそうに。
悲しそうに。
嬉しそうに。
○
「起きた?」
浦部が目を覚ますと目の前に心配そうな表情を作った咲樹がいた。床に寝転がされ、足の下には浦部の鞄が置いてあった。至極簡単な対貧血の応急処置。もともと知っていたのか、こんな事になるかもと事前に調べておいたのか。
……まあ、どっちでもいい。
浦部は貧血からか考える事も面倒になっていた。
浦部君、そのままでいいから聞いて。
……ああ。
わたし、浦部君のこと好きだよ。
知ってる。
嘘じゃないよ?本当だよ?
……分かってる。
死ぬほど君が好きだよ。
……そうか。
「前に言ったよね。好きになるなんて理屈じゃないって。きっとこれもだよ。君の血を飲んでから。体がどうしようもないほど君を求めてるんだ」
「……そうなのかもな」
「でもこのままじゃきっとわたしは浦部君を殺しちゃう。君の血を飲みつくして殺しちゃうと思う」
「そうだろうな……」
「それなら……」
わたしを、食べて……。
栄養のために喰べちゃうんだぜ。メスはどんな気持ちでオスを食べるのかな。
栄養のために喰べられるんだぜ。オスはどんな気持ちでメスに食べられるのかな。
今となっては昔、咲樹とこんな会話を交わした事があった。
「……それは駄目だ」
「そんな意地張るのやめなよ。もうわたしを食べてよ。じゃないと」
「咲樹を殺すぐらいならお前に殺されたほうがいい」
「……嘘吐きだね」
「嘘じゃない」
この気持ちは本当だ。俺には咲樹を殺すことなんて出来ない。
「でも、わたしの事食べたいって思ってるじゃん。わたしのこと、死ぬ前に食べたいって思ってるじゃん。どうして嘘つくの?」
「だからって食べられるかよ。一切れでも食べたら俺だってきっと歯止めが効かなくなる」
殺したいわけじゃない。でも食べたくないわけじゃない。人間は脳味噌じゃなくて体で生きているんだ。勿論浦部だってそう。
「俺は咲樹に死んでほしくない。……嘘じゃないってわかるだろ?」
「でも、浦部君が死んだらわたしはきっと自殺する。浦部君のいない人生なんていらない。これも嘘じゃないってわかるでしょ?」
「それでも俺は咲樹に生きていてほしい。死なないでほしい」
「でも、このままじゃきっとわたしは浦部君を殺しちゃうよ!」
悲痛そうな表情を咲樹は浮かべた。血を飲まなければ解決するはずなのに、そのことは口にしなかった。
「……その前になんとかする」
「どうにもならないよ! 分かってるくせに!」
咲樹は興奮で言葉の前後がぐちゃぐちゃになっている。浦部の冷静さは咲樹を鏡に映したように真反対。
「わたしを食べれば解決するよ!」
「それでいいわけねぇだろうが。そのうち…そのうち逃げるさ。まだ死にたくはないからな」
「なら、どうして今すぐに逃げないの?逃げようと思えば逃げられるじゃない」
「なんでだろうな」
「……分かるって。わたしを、食べたいからでしょ? なら早くたべちゃいなよ」
「……知らねぇよ、そんな事」
「嘘吐き!」
「……」
浦部が何も言わないでいると、咲樹は浦部を睨み付けて、屋上から出て行ってしまった。もし、浦部が貧血で倒れていなかったらビンタのひとつでも食らわせていたかもしれない。それぐらいに咲樹は怒っていた。浦部もそれは分かっている。
それでも、浦部は咲樹を食べる気にはなれなかった。
食べたくないわけじゃない。でも、その為に咲樹を死なせるような事だけは絶対にしたくなかった。
浦部を殺してしまうぐらいなら自分が食べられて死んだほうがいいなんて、そんなのは絶対に間違っている。はずだ。
もう、アイツに殺されるのもいいかもしれないな……。
なんて思う。
いつかはきっとそうなるのだろう。
咲樹は満足するまで血を飲まないと自分を保つ事が出来ない。だから、浦部は咲樹から離れられない。味見をするのがやめられないのもある。
俺がいなくなれば、咲樹は死ぬ。
咲樹の傍に居続ければ、俺が死ぬ。
食べたら、咲樹は死ぬ。
食べなかったら、咲樹が死ぬ。
分かりきっている。
この先に未来なんてあるわけがない。分かりきっていた。
ようやく動けるようになった浦部が家に帰ると、母親が心配そうな表情で出迎えた。
「最近具合悪そうだけども、大丈夫?」
「大丈夫だよ」
今はまだ。たぶん一週間も持たないと思うけど。
「そう……。でも心配ね。最近よくふらふらしてるし……」
「ちょっと疲れてるだけだよ。たぶん寝ればよくなるさ」
「……そんなものかしら」
多分、大量に血を飲まれているのが原因だけどね。
ここ数日は血が少なくなったからか、免疫すら落ちているような気がする。今までは風邪なんて引いたこともなかったのに、今では一日中身体がだるい。
「一度お医者さんに掛かってみたら?」
「大げさだって。暫くすれば勝手に治るだろ」
母親は納得いかない表情のまま、頷いた。
まあ、親なんてそんなもんだよな。
別に母親が嫌いってわけじゃない。
他人の心が読めない人間なんてそんなもんさ。
誰も本当の事なんて分かりはしない。
分かってもらおうと言葉を尽くしても、信じてはもらえない。
例外はアイツだけだ。
なんて思って気が付いた。
今日、咲樹のことを味見してなかったや…。
不意に咲樹の肉の食感が口に湧き出た。
勿論忘れようとした。直観的にこれは駄目だと感じた。
でも、幾ら夕飯を口に運んでも、何度歯を磨いて口を濯いでも、
思い出す。
消えない。
思い出してしまう。
まるで消えない。
これはヤバい……。
本気でそう感じた。
夜中、ベッドの中で浦部は何度も寝返りをうった。
咲樹の肉の事が忘れられない。まったく眠れない。
気を紛らわそうと自分の腕に噛み付いた。
痛い。痛いだけ。当たり前だ。
それでも何度も自分の腕に噛み付いた。
何度も。何度も、何度も。何度も、
痛い。
痛いな……。
そんな時、携帯が鳴り響いた。
咲樹からだった。
「今すぐ血を飲ませて」
「……」
「家の前に居るから。今すぐ出てきて」
遂に、と思った。
遂にここまで血を飲む間隔が短くなったかと。
住所を教えた記憶は無いが、そんなものちょっと調べればすぐわかる。アイツは血を飲むためなら何でもする。今更そのぐらいで驚きはしなかった。寧ろ、何で今までそこまでしなかったのか不思議なぐらいだ。
「ねえ、聞いてるの? 早く」
「……わかった」
短く答えて通話を切る。断れば無理矢理にでも家に押し入ってくるのは分かっていた。寧ろそうするつもりだったと分かってしまう。
ベッドから降りて音を立てないように着替える。
窓の外には真っ赤な月。
こんなにも月が紅いから……、最期の夜になりそうだ。なんて浦部は思った。そういえば咲樹も吸血鬼だったな。
○
部屋の窓を乗り越えて外に出ると、咲樹は表情の死んだ顔で街燈の下で待っていた。いつだったかのように機械のような眼をしていないぶん、死人の方がいくらかマシなのかもしれない。
街燈の陰には一台の車が駐めてあった。
「……遅かったね」
「咲樹が早すぎるんだよ……」
「とりあえず、乗って」
「乗ってって……お前、車で来たのかよ」
「乗って」
「……なあ」
「乗って」
浦部は車に乗り込んだ。
浦部と咲樹を乗せた車は、道に誰も居ないのを良い事に、交通法なんぞまる無視の走りで浦部達を何処かへ連れて行く。浦部は行き先が気になった。終着点は目に見えているのに、目的地が分からないなんてな。面白い洒落だと思うが、笑っていられる気分じゃない。
「なあ、どこに行く気だ?」
「山の中」
「そっか……」
無理に起きたのもあるだろう。貧血気味なのもあるだろう。咲樹の事を食べたくて仕方無いのもある。
浦部の頭は赤い霧でも掛かっているかのようにぼんやりしていた。
《山の中》と聞いて、答えは一つしか思い浮かばなかった。
埋められるんだろうな。
そんなどうでもいいことを考えた。
○
時間にしておよそ二十分程経っただろうか。行く道中、何回も擦ったりぶつけたりしながらも二人を乗せた車は目的地に辿り着いた。着いた場所は、夏にキャンプ場として使われている場所。今の季節は夏ではないし、おまけに深夜だ。誰もいない。
そして、誰も来ないと思われる場所だった。
車から降りると、咲樹は当たり前のように浦部の手をとってカッターナイフで切り付けた。そして当然のように血を飲み始めた。浦部は抵抗しなかった。血を飲んでいるときの咲樹はとても美しく、血を飲まれている自分、も嫌いではなかった。
そのうちに浦部の意識は朦朧としてきた。
当たり前だ。既に一回、気絶しているのだから。そう簡単に血の量が回復するわけがない。
それから十分もしないうちに、浦部の意識は闇の中に沈んでいった。咲樹は目から泪を流しながら、それでも血を啜っていた。
○
夢を見た。
「お待たせ致しました。**の肉です。」
虚空から声だけが告げる。
夢の中で俺はキャンプ場で肉を焼いている。既に包丁などの調理器具も準備してある。
俺が焼いている肉からは今まで食べてきたどんな肉よりもいい香りがして、今すぐにでもかぶりつきたい程だった。
ほどなくして肉が焼けると、あらかじめ用意しておいた塩胡椒で味を整え、口に頬張った。
今まで経験したことの無い美味しさ。なのに何故、
食べたことがあるような気がするんだろうて。
○
(気がついた?)
不意に咲樹の声が頭に響いた。まだ少し重い瞼を開けて、声のしたほうを見ると、そこには咲樹が立っていた。
枯れかけた樹の下で。アルミのパイプ椅子の上に立って。
その手には縄で作られた輪があった。反対側の先は樹の枝に括り付けられている。樹の周りには鋸がひとつ。
包丁も、まな板も、塩も胡椒もある。ここはキャンプ場だ。肉を焼く為の準備も整っている。炭も火が点けられていた。
咲樹は微笑んでいる。恐怖を覆い隠すかのように笑っている。
浦部は声が出なかった。やめさせようと声したが、それは声にはならなかった。
でも、心の声は届いたはずだ。
やめろ! やめてくれ!
もしかしたらそれは言葉ではなかったかもしれない。でも、これだけ心から叫んで聞こえないはずがない。
体が勝手に動いていた。咲樹の元へ駆けつけようとして立ち上がるが、眩暈と吐き気に襲われて再び地面に叩き付けられた。それでも動こうとした。
やめろ、やめろ! ダメだ駄目だ!
絶対にダメだ! やめてくれ!
死ぬな!!
咲樹は震える手で掴んでいた輪を首にかけた。
(浦部君、今までありがとう。わたし、幸せだったよ。君の血を飲んでいる間が一番幸せだった。浦部君のこと、大好きだよ。本当の本当に大好きだよ)
(わたしのこと、忘れないでね。必ず覚えていてね。絶対だよ)
(美味しく食べてね。残さず食べてね。全部食べてね)
(食べている間、ずっとわたしのことを愛してね。ずっとずっと愛してね。わたしのこと、愛してね)
(……約束だよ……)
(バイバイ)
折り畳み椅子が蹴られた。
咲樹の体が宙にぶら下がった。
風と振動で体が僅かに揺れる。縄が括り付けられた木の枝がミシリと軋む。
でも、それだけ。それ以外はぴくりとも動かない。
死んだ。
咲樹が死んだ。
目の前で死んだ。
そんな光景を見て、浦部が真っ先に思ったことはひとつだけ。
うわ、不味そう。これは食べれねーや……。
どうして今まで気がつかなかったのか。気づく機会は幾らでもあったはず。浦部と咲樹は似たもの同士のはずだ。昔、咲樹は確かにこう言っていた。
(「わたしが好きなのは人間の『生き血』。それ以外は体が受け付けないの」)
浦部が食べたかったのは『生きている人間の肉』だった。今、向こうにぶら下がっている『死肉』は浦部の求めているものではなかった。浦部がどうしても咲樹を死なせたくない本心は、自分でも気付いていないに書き換わっていたのかもしれない。
じゃあ、咲樹は何のために死んだんだ?何のために?
どうして? どうして? どうして? どうして?どうして? どうして?
『何故』死んだ? 『なぜ』死んだ?
『ナゼ』死んだ? 『誰のために』死んだ?
誰のために死んだんだ?
頭の中は後悔しかなかった。心の中も後悔しかなかった。
浦部には生きている理由が無くなった。死ぬ理由ならあった。
それだけのおはなし。
○
気がつくと浦部は折り畳み椅子の上に立って、『死肉』をロープから切り離していた。そして、残ったロープを自分の首に巻きつけた。
折り畳み椅子の上から『死肉』を見下ろす。自分の好きだったモノを見下ろす。
『死肉』はとても不味そうに見えたが、『咲樹の体』は美しかった。
表情など、生前とは比べ物にならない程歪んでいるが、それでも可愛らしかった。愛らしかった。愛しかった。
未練などない。絶望ならあった。
どうして俺は咲樹を『生きている間』に食べなかったのか。
間近で人が死ぬ所を見て、それでもそんな事を思ってしまった俺は、もう人間ではない。化け物だ。
化け物に人間を愛する資格なんてあるはずがない。アイツに愛されたいだなんて思うはずがない。化け物を愛する人などいるはずがない。アイツは俺ではなくて、俺の血を求めていただけ。そうだ。俺ではない。俺じゃなかったんだ。
浦部は迷わず、折り畳み椅子を蹴り飛ばした。
首一点に全体重がかかり、ロープが深くまでめり込む。首の辺りで何かが砕けるような嫌な音がした。そんな時になって
(わたしの事、忘れないでね。必ず覚えていてね。絶対だよ)
(美味しく食べてね。残さず食べてね。全部食べてね。
食べている間、ずっとわたしの事を■し■ね。ずっとずっと■■■ね。わた■の■と、■■■■■。)
(……約束だよ……)
もう遅い。
ごめん……。
ごめん……。
もう手遅れだ……。
ごめんな……。
BADEND リトライしますか?
※はい← ※いいえ