朝に笠松から出て東京へと戻る新幹線の中、俺は今日までやってきた仕事のことを思い出す。
普段はジャージを着てトレセン学園から離れない俺だが、昨日は非常に珍しくスーツで仕事をしてきたからだ。
それは転入試験の付き添い。
以前に面倒を見た子で一時期は夢と希望を失ってトレセン学園を中途退学するところだった。だが俺と話をしたことで走りたいという希望を持つように。
その子は転入すると決めたら行動はすばやく、親と一緒に笠松のトレセン学園へと見学。その後はすぐに転入試験の希望を出し、昨日の日曜日に試験を受けたということだ。
決めてから試験を受けるまで9日。
中央に限らずトレセン学園は自由な日時で個別に受験が可能とはいえ、あまりのスピードに驚いてしまう。
うちの理事長は小さな見た目に合わず、仕事はとても早いのは嬉しいことだ。
付き添いに俺が必要なのは怒りでいっぱいだが。本来は担当トレーナーがやるべき仕事だが、1度契約を切ったから仕事の範囲外と言ったから俺へと回ってきたわけだ。
規則的には元担当なのでやる必要はないものの、納得いかない気持ちがある。
だからこそ俺が代わりに付き添いをしたのだが。
でも付き添いをしたことはよかった。転入試験で本人はかなりの手ごたえを感じていた。
教官のおかげでまた夢を追えて幸せ、と感謝の言葉を俺に言って。
こういうのがあると教官をやっていてよかったと心の底から嬉しく思う。
そして翌日、つまり今日になるがふたりで一緒に戻ってきた。
今日まで彼女はよく頑張った。ここからはもうひとりでやっていける。これ以降に俺ができるのは試験合格後に見送るだけだ。
嬉しさとさびしさの気持ちが同居するなか、トレセン学園付近の駅まで電車に乗ったあと、別れて1人になった俺は自宅へ戻る。
ジャージに着替えたら今度はトレセン学園に出勤だ。おととい、昨日と教え子たちには自主練をさせたから今日はしっかりと指導をしたい。
今の時間は昼なため、走っている子はとても少なく静かな日だ。
よく晴れていて、とても走るのに快適だから食事後にランニングする子はちらほらいるが。
2日しか離れていないが、笠松でウマ娘を見てからこっちが恋しくなってたまらなかった。
正門で立ち止まり、そんなことを思っていると正面からジャージ姿のハヤヒデがやってくる。
ハヤヒデは俺の姿を見つけると、小走りで近寄ってきた。
「やぁ教官。おかえりなさい、でいいかな?」
「あぁ。少し前に笠松から戻ってきたばかりだから、それで合っている」
「その晴れやかな顔を見ると、よかったようだね」
「試験も合格するだろうよ」
教え子が新しい道へ無事に進んでくれて、すっきりしている俺は晴れやかな笑顔を向けるとハヤヒデも一安心といった様子で笑顔になった。
「これからランニングか?」
「あぁ。今日はとても天気がいいから走りたくなったんだ。教官も一緒にどうだ?」
「まだ飯も食ってないんだ。それに笠松の職員やえらい人と会話して疲れている」
今まではいい出来事があったからテンションが高くて疲労は感じづらかったが、自分で言葉にすると一気に疲れがやってきている。
笠松に行っては教職員と教えることへの情報交換。
あとは試験時間中は俺が暇なので、そのあいだに現地トレセン学園の子たちから中央への話をねだられたこと。練習を見てくれなど。
練習は見れないことを言葉を選んで断り、マイナスなことを言わないようにするのは気疲れが多い。
向こうのトレーナーに気を遣って、中央を美化しすぎないように意識して話をするのも大変だった。
嫌なことでは中央は地方がレベルを低いとバカにしている、中央の奴らは偉ぶっていて嫌いだと苦情やケンカ腰で言ってくるウマ娘やトレーナーもいた。
そこはどうしても差が出てくる部分がある。ファン数の違いによるメディアへの露出、グッズ数の違いが。
あまり俺から言うことはせず、話を聞くことに徹していた。
気を使い、罵倒をされて心が疲れたときは髪をさわって癒されたい。
他のことは何も考えずに。
そうなると思い当たる人物の髪に心当たりがある。
先日もさわり、最高の髪品質なハヤヒデが。
……さわりたい。どうしてもさわりたい。
周囲にいる人は片手で数えるぐらいしか行き来がない。
ハヤヒデに性癖を知られているのと、もう人に見られているから以前よりは抵抗感が薄い。
「……そんな熱い視線を髪に向けてくるだなんて。私の髪をさわりたいのか?」
「ぜひとも。今回は髪の中に手を入れたい」
「手を? それはまた、なんというか……さわるならまだしも手を入れたいのは理解しがたい」
ハヤヒデの申し出に勢いよく即答し、さらには髪をさわるだけではもうおさまらない気持ちだ。
あのふわふわもこもこの髪の中に手を入れ、どういう感触かが非常に気になる。気になってあたりまえだ。
ハヤヒデは微妙に嫌な顔をしているが、ここまで来たらもうどうにでもなってしまえ。
全部ハヤヒデの髪が魅力的なのが悪い。
今まで気づいた信頼が崩れている気がするも、この魅力には抗えない。
おだやかな風に毛先が揺られるだけで俺の目はそれを追ってしまう。
「それならば、私と取引きをしようじゃないか」
「なるほど。それならお互いに得ができるな。俺個人でできる範囲内で頼むぞ?」
「教官しかできないことさ。教官には妹のブライアンが世話になっているが、そのブライアンと走りたいんだ。それと他の教え子たちとのレース形式でお願いしたい」
「ダメだ。そんなことをしてみろ。おまえとブライアンは能力が高いんだから、他の子が一緒に走ってもし挫折でもしたらどうしてくれる」
「ふむ。他の子たちにもいい経験になると思ったが、そういう可能性もあるな。それなら髪をさわらせるのはなしだ」
「ぐっ……要望を断るのは歯を食いしばるほどに悔しいけどな。走ること以外にしてくれ」
「このこと以外か……」
ハヤヒデは腕を組み、俺から視線を離して空を見上げては悩み始める。
俺が教えていたとき、ブライアンとハヤヒデはよく勝負をしていた。何度か他の子もふたりと一緒に走ったが、抜きんでて高い能力とメンタルに圧倒され自信を失いかけた子がいた。
その子は俺の話を聞いて、1週間かけて元気を取り戻したが大変だった。またそれをやるのはやめていただきたい。
今すぐハヤヒデの髪を猛烈にさわりたいが、仕事の、仕事以上に教え子たちを大事にしているから。
だが、このままだと断られそうだ。もしさわってもいいのなら、昼ご飯なしでもずっとさわっていたいほどに。
「今度バーベキューをするときに参加をさせてくれる、というのではどうだろうか」
「バーベキューか」
年に3回ほど教え子たちを集め、ちょっとの補助金とたくさんの自費でやっているバーベキュー。
参加自由で参加費無料の親睦会だ。肉、野菜、魚と種類豊富かつ、そこそこの量を用意している。
ご飯を食べるだけのものだが、人とのふれあいをしたい子やご飯を食べたい子たちからは好評だ。
それを参加させろと言う。
今までは俺の手から離れた子は誰であろうと参加を拒否していた。
その理由は人数が増えてお金がかかるのと、参加した子と契約しているトレーナーに悪印象を持たせるからだ。
俺の手から離れたのに教官と仲良しているのは嫉妬をするのもいるし、トレーナーの技術や練習メニューがこっちに流れてくる恐れがある。
だから今までは断っていた。
今回の髪をさわるついでに、変えようか考える。
先輩たちと飯を食いつつ話ができるのは楽しいだろうし、俺もかつての教え子たちと話をしてみたい気持ちもある。
「私をきっかけとして他の人たちも参加するというのなら、トレーナーから許可を取ることを必須としよう。材料も自分で持ってくることにすれば教官も楽になると思うが」
今まではトレーナーたちと極力問題を起こさないようにやってきた。そうすれば、俺の教え子だからとスカウト時にマイナス評価へとつながらないから。
だが、ウマ娘たちを優先して行動するのはいいかもしれない。今回の件でウマ娘を軽く扱ったトレーナーがいるとウマ娘が不幸になるとわかったからな。
今回はなんとかできたが、俺の力だけではなんともできないことがあるだろう。
俺が関係するトレーナーたちの問題だと思う行動は強く忠告をし、理事長たち上層部へと問題提起するのがいいかもしれない。
「そのあたりだな。俺のほうでトレーナーたちに周知するからハヤヒデはじっとしていろよ。夏のバーベキューまでには間に合うだろうし」
「感謝する、教官」
「……これで合意だな?」
「ああ。ここでは目立つから学園内の門の影でやろう。外の人に見られるとどういう噂が広がるかわからないだろう?」
周囲を見渡すハヤヒデの頭の動きで、髪は左右に揺れる。
その動きは目から離せず、早くさわりたくてたまらない。
ハヤヒデはゆっくりと歩いていくが、俺はそれに耐えられなくてハヤヒデの手首を掴む。
一瞬だけハヤヒデは抵抗するも、すぐに俺へとついてきてくれる。
学園の敷地内。正門のすぐ裏側にある木に行き、通路の影になるよう位置を調整する。
「教官から強引にされるのはひさしぶりだな。前のときは夜遅くだったな」
「変なことを言うな。あれはおまえが深夜に走るから俺が捕まえただけだろう。それもハリセンで叩いたからさわっていないぞ」
強引に連れてきた俺が言うのもあれだが、そんな変なことを言わないでもらいたい。
俺がウマ娘に怪しいことをしていると思われるじゃないか。
髪をさわるのも怪しいことだって? ウマ娘はレースだけじゃなくファンサービスやライブでは髪が大事だから、そのチェックということでなんとかなるだろう。
ならなかったら、そのときに考えよう。
「ほら、後ろを向いてくれ」
「前と同じようにか?」
「前からさわるのもお互いに恥ずかしいだろ」
「教官が髪をさわるとき、どんな顔をするのか気になるところだが、恥ずかしいのには同意する。ほら、好きにさわるといい」
ハヤヒデが俺へと背を向け、前回さわった、あの素晴らしい髪が目の前にやってきた。
その髪を見て、嬉しくなるが深呼吸をして心を落ち着ける。髪をさわるときは落ち着いていないと深く楽しめないからな。
「今回は髪の中に手を入れさせてもらう」
「中? 普通にさわるんじゃないのか」
「前はそれでよかったんだが、欲を抑えられなくてな」
そう言って、ハヤヒデのボリュームと弾力がある髪の中にわくわくしながら両手を入れていく。
その弾力ある髪の中はマシュマロのようにもちもちとした感触で俺の手を圧迫してくる。
見た目どおり、ハヤヒデの髪は一房ごとに固まっていて弾力性があって楽しい。
左右の手でハヤヒデの髪をさわり、握る。手の上でこすりあわせるといった様々なことをする。
ハヤヒデの両耳はこっちを向いているが、耳と尻尾の動きは落ち着いているから怒ってはいないらしい。
「……前と違って不思議な感覚だ。髪の中をさわられるのは。前にも言ったが、そんなにも私の髪はいいのだろうか?」
「とてもいい。癖のある髪だが、ただぼさぼさとしているだけじゃなく手入れがしてあるから触り心地がいいんだ。何度もさわっていくと、心の疲れが段々と癒されていく」
「私は今の髪が好きにはなれないが。教官みたいな人に需要があるとわかったから嬉しいよ」
「デビューしてからだとたくさんの人に髪を見られるんだからな。インタビューをされたときにマイナスな発言はしないでくれ。おまえの良さを自分で悪くしてしまわないようにな」
ハヤヒデの髪を手でまとめ、ポニーテールやツインテールにするとなかなかにいいものだ。今までハヤヒデの髪はただ降ろしているだけだった。
だから、自分の手で髪型を作るのは非常に楽しく、好奇心が満たされていく。
実に幸せだ。髪をさわることは今まで我慢していたことだから、余計に幸福感はある。
「幸せは向こうからはやってこないものだよな」
「なにかあったのか? もし他の教官やトレーナーに嫌がらせを受けて何かをするのなら手伝うが」
「嫌がらせはあるが、なにかするまでもない。いやな、昨日あの子から『教官のおかげでまた夢を追えて幸せ』って言われたのを思い出したんだ。
幸せは追い求めるからこそ幸せであり、与えられるものじゃないと気付いてな。今、俺がこうやって幸せを実感できてそう思ったんだよ」
「自分で努力した結果が形として見えるからこその幸せだと私は思う。私もデビューするときや勝ったときにそう思えるだろう」
俺の考えにハヤヒデも同じようで、同じ考えなのが嬉しく思う。世の中には色々な幸せの考え方はあるがこれもひとつだと。ウマ娘に関わる前は物質的な、お金がたくさんあればいいと思っていた。
だがウマ娘が成長していく姿を見るのが最高に嬉しく、俺が求める幸せと喜びは成長なんだと気付いた。
自分の考えをまとめながらハヤヒデの髪で髪型を様々に作って遊んでいたが、元に戻して整える。
そうして、元のふんわりもこもこを見ると髪に顔を埋めて吸いたくなってきた。
さわるだけでなく、そこまでやるのは変態だろう。いや、ここまで来たんだ。もっと突き進んでしまえと自分の中でささやきが聞こえてくる。
だが、俺がなによりも心を引きつけるのは髪の美しさを間近で見て、そのすばらしさを手で感じ取りたいことだ。
髪に顔を入れて匂いを、呼吸をするのは少々違う。
ハヤヒデの毛先をさわりながら、そんなことを考えてしまう。
たくさんの幸せを感じていると、ふと視線を感じる。
その方向には教え子で、ジャージを着たサイレンススズカがいた。
ランニングから帰ってきたらしく、汗をかいている。
俺と目が合うと、まるでイケないものを見たかの表情で校舎のほうへと慌てて走っていった。
その足音でスズカに気づいたハヤヒデは慌てて俺から離れる。
「私はもう行く! 約束の件は忘れないで欲しい!」
そう言って足早に歩いて去っていく。
残された俺は髪をさわった幸せと見られた気まずさがある。
俺も本来の目的だった昼飯を食べるために、食堂へと行くことに。
今日の放課後、練習に参加したスズカからはじっと見つめられたが、それがどんな感情を持っているかはわからない。
髪をさわっていた俺を見下しているのでもなく。
練習中に俺へなにかを聞きたがっていた様子だったため、近くに他の子がいないときに説明をした。
簡単に言った内容は『心が疲れたからハヤヒデの髪で癒されていたんだ』と。
心が疲れることにいたった原因は、昨日、おとといと練習の指導を休んだ理由だ。
そのことは教え子たち全員が知っているため、スズカも納得してくれた。
疑惑を持たれることがなかったことに安心する。
それとこうしてウマ娘たちの面倒を見られることが楽しいということに。
髪をさわるのは楽しく幸せではあるが、ウマ娘たちが元気に未来へと向かって頑張る姿はなによりもすばらしい。
教官という立場は多くの子の喜びと悲しみを見続けるものだ。
悲しみの中には過去に、絶望して学園を退学した子もいる。
でも、だからこそ俺のような教官という存在が必要なんだろう。トレーナーたちと出会う前に心と体の準備をするために。
そして、トレセン学園をやめたとしても、それぞれが自身の幸せを見つけられることを信じ、俺は教官という仕事を改めて頑張ることを確認した。
ウマ娘の髪をさわりたくなったときに話が増えていきます