門限破りをしてオーバーワークをしている子がいた。
その子は俺の教え子である、中等部2年生のサイレンススズカ。
ちょうど俺が学園周辺での夜間見回り担当のときに遭遇した。
夜間の見回りはトレセン学園の職員が定期的にしているのだが、今夜は俺の番だった。
夜の午後10時を少し過ぎたとき、ジャージを着て晴れやかな顔でトレセン学園の寮へと戻ってきたスズカ。
ランニングをすることは悪いことではない。俺も走っていいと言っている。
ウマ娘にとって好きなときに好きに走れないのはストレスが溜まり、走るのを押さえつけると心に悪いからだ。
事前に夜間ランニングをしたいときは自己申告をさせることで、足にどれくらい疲れがたまっているかが把握しやすく体調を見てはトレーニング内容を変えることがある。
今日のスズカは走らないと言っていた。天候がよくないしすべると危ないからと言って。
怪我をしたら楽しく走れないから大事にしろと言っていることを理解してくれたんだと嬉しくなった。
だが降っていた小雨はなくなり、今夜は重い雲が晴れて満月が明るく輝いている。
それできっと気分が良くなって走ったんだろう。走るのが好きなのは以前に教え子だったミスターシービーを思い出す。
今もふらりとやってきては外周中の子たちと一緒にランニングをしては俺のことで話をしていると聞く。
もしかしたら、シービーの影響でスズカも天気が悪い日に走る楽しさをより強く覚えたかもしれない。
スズカは今までの教え子で1番か2番目ぐらいに走ることが大好きで注意して見る必要がある。
そんなスズカと契約したトレーナーはこの走り癖を抑えられるのか心配になる。かといって強引に抑えるのも問題だ
好きなことを我慢するのつらい。
それは俺がつい最近まで髪をさわりたい欲求を我慢しつづけたから、よくわかる。我慢しすぎると、そのうちに暴発してしまうから。
だとしてもだ。夜間は車や不審者で危なくなると言って心配しているものだが。
俺の目の前にいるこの子は反省しているのか、にらむ俺から目をそらしては申し訳なさそうに耳を伏せている。
そうやってスズカをにらんでいると月明りでもわかる髪の美しさがある。
スズカの髪は腰まである明るい色の茶色。
その髪はおだやかな風に吹かれて、さらさらとなびいている。
走ることしか考えていない子だから枝毛が多く、髪質は悪いと思っていた。
だが、これはどうだ。
少し汗にぬれた髪は月の光で淡く輝き、俺は目を離すことができない。
幻想的な光景で、たとえるなら紅葉の美しい秋の山のような。
そんな景色を見る気持ちにさせてくれる。今まで髪を意識しないようにしていたから、意識した途端すばらしいものが近くにあったことに気づけた。
すらりとしたスレンダーな体を持ち、まだ幼さが残る中等部2年生のスズカ。
身長は150後半から160ぐらいなので、少し上から見下ろせるから髪が頭頂部から流れていくのが見られて嬉しくなる。
「あの、教官? 何もないのなら走ってきますけど?」
早く走りたくてたまらないと、うずうずした様子で意識は俺の向こう側、ずっと続いているアスファルトの道へと行ってしまっている。
耳と尻尾がそわそわと動いて走りたがっているのが顔だけじゃなく、体全体で訴えているのがよくわかる。
今は俺の前で、やりすぎるなと言っていた約束を破っていたから、申し訳なさがあるが少しすれば忘れて走り去ってしまいそうだ。
だからスズカの意外にも綺麗な髪を見て、仕事を忘れるんじゃないぞ、俺。
「いや、ある。あるから走らないでくれよ」
スズカの足のために必要以上に走らせたくはない。
だからといって、ここで怒鳴りつけてもやめるのは一時的だ。明日の朝にでもランニングを始めることだろう。
自己紹介のときは走るのが好きで趣味だとも言っていた。そんなスズカから走るのを止やめさせるのは心苦しい。
でも走るときはとても生き生きとしていて、幸せいっぱいな様子なのはよく見ている。
台風が吹く、大雨が降る、路面が凍る、陽炎が出るほどの熱さ。どんなときでも様々な場所、時間、状況で走るのを楽しむのがスズカだ。
「スズカが長く、速く走るためにも体は大事にして欲しいんだが」
自由に走って風に髪がなびく姿は美しいが、教官としてウマ娘のレースが好きな人間としては今の言葉は申し訳なくなる。
走るのが好きな子に制限をつけるだなんて悪いことを。
誰だって自分の趣味に口出しをされるのは嫌に決まっている。それが結果的には自分のためになるとはわかっていたとしても。
好きなときに自由に楽しくやるのが趣味だから。
「夜は事故や怪我をする可能性がとても高いのはわかるだろう? そうなったら1人で走るのとは別の楽しさがあるレースができなくなる」
「レース、ですか?」
「ああ。どんなウマ娘でも走れる非公式なフリースタイルと公式のレースは大きく違う。見ただけじゃわからない、あの熱狂と歓声、ファンたちの応援」
「でもそれならフリースタイルも同じですよね?」
「ああ。違うのはウマ娘たちだな。優れた指導者、恵まれた環境で鍛えられた脚は公式レースならではの強さだ。
そんなウマ娘がいる中で最初から最後まで逃げて1番でいられたのなら最高だとは思わないか?」
「……それはわかりました。けれど、私は走るのが好きなんです。走っていたいんです。
人がいなくて自分の足音だけが響く夜の時間帯。自然と人工の光が混ざり合うなかで走るのはわくわくして心が弾むんです」
俺の言葉を聞くうちにスズカは悲しそうな顔になり、か細い声を出した。
それを聞き、言い過ぎたと後悔してしまう。
「いや、すまん。俺はスズカに怪我をして欲しくはないだけなんだ。説教するようなことを言って悪かった。
だが門限は守ってもらいたい。規則を守らない不良だなんて思われたらトレーナーは付きづらくなるし、併走相手を探すのに苦労する」
スズカは少しだけ悩んだ様子で「わかりました」と返事をし、素寮へ向かって軽く走っていった。
怪我をせず健康でいてもらいたい。そういう想いが強いため、よく説教めいた話をしてしまう。
いつも言ってから後悔をするが、この心配する気持ちはなかなか抑えられない。
でも今日のところは帰ってくれたから安心する。
スズカが寮に入るところまで見たところで今日の仕事は終わりだ。
……スズカは怪我をしない運動量を把握し、怪我をしやすくなる場所や時間帯に気をつけるようになると嬉しいんだが。
そう思いながら学園へと戻った。
◇
翌日の朝は昨夜にあったことを思い出し、自分自身の感情をうまく抑えられないのに落ち込んでしまう。
出勤して仕事をするも効率よく仕事ができない。こういうときは電子タバコか、ウマ娘たちの髪を見て癒すしかない。
行動をすると決めたら、昼ご飯を食べ終わったあといすぐに目的の場所へと行く。
そこはトレセン学園の屋上だ。昼休みの時間は屋上を使うウマ娘たちが10人ほどいる。
せっかくの安らぎの時間をできるだけ邪魔しないよう、俺ははじの方へ行くとジャージのポケットから電子タバコを取り出す。
昼でもランニングしているウマ娘を見つけると、その子を見るのに集中して電子タバコを吸っていく
それから20分ほど時間が経った頃だろうか。
屋上の扉が開く音が聞こえる。
昼休みももうすぐ終わりなのに、ここへ来るだなんて珍しいなんて思うも視線は動かない。
今はランニングやトレーニングを終えてクールダウンしているウマ娘たちを眺めるので忙しい。
目はウマ娘に集中し、けれど耳から聞こえてくる足音は俺へと向かってくる。
前のようにビワハヤヒデだろうか。もしくは生徒会の誰かが電子タバコで苦情を言いにきたか?
誰かはわからんが気晴らしぐらいの会話をしてくれると嬉しい。
そう思っていると、その足音は俺のすぐ隣までやってきて止まる。
「落ち込んでいるようですけど、大丈夫ですか?」
声をかけてきたのは悩みの原因でもあるサイレンススズカだ。
顔を向けると、昼には走ることが多いのに今は制服姿で驚いてしまう。
心配そうにこっちを見るスズカに対し、フェンスへと顔を向けては電子タバコを深く吸い込み、吐く。
そうして電子タバコをポケットにしまってからスズカへと向き直る。
「おまえにキツく言い過ぎたかと考えていたんだ」
「いえ。それなら私もちょっとは悪かったなと思っているので。……さっきまで練習時間外でも走ることについてハヤヒデ先輩に相談に乗ってもらって、自分のことしか考えない私は子供だなって思ったんです」
悪かったことを謝り、反省する。大人よりも大人らしい考え方だ。
だがまだ早すぎる。スズカはもっと純真で走ることだけを考えるほうがきらきらとしている。そういう面倒なのは教官である俺や契約することになるトレーナーに任せるといい。
ウマ娘は走り、踊り、歌。あとはついでにファンサービスを考えていればいい。
「おまえはまだ子供でいていいんだ。すぐに大人へなろうとすれば、心がゆがんでしまって生きることにつらくなり、この世すべてに怒りを持ちっぱなしになってしまう」
「なんですか、そんなに危ないんですか、大人って」
「大人は人と人とのコミュニケーションを取るのがひどく面倒でな。努力せず結果ばかり出そうとするのが……この話はやめよう。それで用事があるのか?」
俺の返事を冗談、もしくはおおげさに言ったのかと思ったスズカはちょっと微笑んでくれた。
俺もつい愚痴を言いたくなるが、ここは話題を切り替える。
スズカのことだから、俺も納得できる走る量についての相談だろう。ハヤヒデと相談したんだから、きちっと合理的な説明があるはずだ。
スズカの次の言葉を待つとスズカは俺から視線を外し、けれど恥ずかしそうに上目遣いで見てくる。
頬を赤くし、耳と尻尾はそわそわと動いて落ち着きがない。
そこまで緊張するほど言いたいことはなんだ。まるで告白する女子学生みたいなんだが。
「えっと、ですね、私のお願いごとを聞いてくれませんか? 教官は髪フェチ? だと聞いたので髪をさわらせてあればいいって」
……なるほど。髪をさわらせるというのを恥ずかしがっていたわけか。
ウマ娘は尻尾の毛並みを重要視していて、髪はその次だ。それを知っていたから、ハヤヒデのをさわるときには多少はお願いしやすかったが。
だがな、ハヤヒデ。後輩に何を教えているんだ。俺の性癖までばらしやがって。
俺の教官人生を終わらせるつもりか。もしくは悪い評判がついてきそうだが?
こんなことを他に聞かれでもしてみろ。ダメだ、屋上にいる他の子にもう知られている。
ほら、その子たちも俺へと嫌そうな顔を……してないな。初めてハヤヒデの髪をさわったときにいた子たちだ。
その子たちは「私たちのことはおかまいなく!」と言って暖かい笑みをしてはすぐに自分たちへの会話へと戻っていった。
これは安心すればいいのか。それよりも今はスズカのことか。
「女性の髪をさわるのは俺が幸せを感じるひとつではあるな。それでスズカは何を望む?」
「夜、門限を破ったときの──」
「ダメだ」
「あの、まだ言い終えてないんですが」
「規則は守れ。おまえだけ許してしまうと、みんな好き勝手に走るようになってしまう。どうしても破る必要があるときは緊急時だけだ」
耳をしょんぼりとさせたスズカは左まわりであたりを歩き始め、他になにかないかと考え始めている。
昨夜はスズカの脚を心配して注意はしたが、どうしてもスズカは走ることのほうが大事だ。
教官という仕事はそういう子に怪我をさせないようさせるものだ。だから他の教官がやらない練習もちょっとは取り入れている。
時々、希望者を連れて学園以外の場所で練習をするということもやってはいるが。
もっと気分が変わるような遠くへ行くのはありかもしれない。マイクロバスは運転できるし、今の教え子は全員乗せられる。
あとはこれが経費で落ちるか調べてみよう。
「あ、そうだわ。それなら遠くへ走りに行きませんか? 私だけじゃなく教官の元で学んでいる全員で。それなら私だけをひいきにしていると思われませんし!」
名案を思いついたスズカは顔を輝かせ、勢いよく俺のすぐ目の前までやってきたはきらきらとした目で言ってくる。
この案はちょうどスズカのためになにができるかと俺が考えていたのにぴったりだ。
これで髪をさわれるのなら嬉しい。
「それをしてもいいが。学園と話し合いをしてやっていいかの許可、場所を選ぶのと予約だから時間がかかる。できない場合もあるが、それでいいのなら」
「はい、教官が約束してくれるのなら大丈夫です」
尻尾をぱたぱたと動かし、満面の笑みを浮かべるスズカ。
信頼を得ているのは嬉しいが、ダメだった場合はものすっごく罪悪感が来るんだが。
そうならないように努力はするが。
「それではよろしくお願いします」
そう言ってスズカは俺に背中を向ける。
髪をさわれる。心の中でぐっとガッツポーズをし、けれど声や態度を表に出さないよう頑張って耐えた。
俺は自分の手を服でごしごしと拭いて緊張しながら、そっとスズカの頭へと手を伸ばす。
さわった瞬間、スズカの体は固まったがなでているあいだに緊張感が抜けていく。
スズカの髪はやわらかく、しっとりさらさらで何度も頭をなでると幸せな気持ちになってくる。
まるで絹のような感触だ。髪を手で持ち上げ、宙へ落とすとさらさらと水のように流れ落ちていく。
……綺麗だ。この髪の毛の1本1本が落ちていく姿は美しい。
この茶色はあざやかな紅葉を見ている気分がしてくる。ヒーリング効果が抜群で、疲労が抜けていくような。
髪の匂いもフローラルなシャンプーの香りがして、とてもいいものだ。
細かいことを言うのなら、毛先側のほうは以前にケアをあまりしていなかったのか、なめらかではない。
髪を意識しはじめたのはトレセン学園に入る少し前あたりからだろうか。
学園では化粧の仕方や肌、爪のケアのやり方やシャンプーの選び方を授業でやる。
そこから自身の外見について意識を始めたのだから、髪の途中から美しくなっているんだろう。
長い髪を持っていると、髪の傷み具合でその人の歴史を感じ取れるというのも髪をさわる楽しみのひとつだ。
髪をさわっていると耳の毛にもさわりたくなるが、ここは嫌がる子が多い。耳はとても敏感であり、さわるのにはとても気をつける必要がある。
ウマ娘の耳の動きでコミュニケーションを取るからだ。
180度も動く耳で言葉はなくても感情が伝わり、走るときには周囲の音を正確に集めるから。
ウマ娘によっては愛情表現になるとも。
なので髪はさわるが、耳の近くは手を近づけないように気をつけている
「自分でさわるのとは違って、結構くすぐったいですね」
「嫌なさわりかただったら教えてくれ」
「いえ、大丈夫です。思っていたよりも優しく、大事に扱ってくれていますから」
スズカの返事は穏やかで落ち着いた声。
それを聞くと俺へのあたりがやわらかく、入学当時とくらべて成長したと思う。
はじめ、俺が自由に走らせてくれる教官だという評判でやってきたスズカ。
1年生のころは俺や他のウマ娘への愛想が悪く、自分だけの走る時間を優先してきた。
他の子たちとの併走やランニングを断っていたが、集団で走る楽しさを少しずつ学んでからは今のようにおだやかになった。
普段からクールで近づきがたい雰囲気はあるが、意外と天然な子だ。
前なんて頭から下を地面に埋められていたウマ娘を見て最初に言った言葉が『フグの毒抜き……?』なんていうものだったぐらいに。
たしか埋められたウマ娘はニンジンの気持ちをわかるためだったか、いや、それともコースのことを深く理解するというやつか?
まぁ、理解できないぐらいの意外すぎるやりかただったから、その埋まった光景は強く記憶に残っている。
そのことを思い出しているが、俺の手はとまらない。
「あの、私の髪はどうですか?」
「いい手触りだ。今のままを維持していくと教師陣に褒められるだろうし、デビューしたときにスズカのファンも喜んでくれるに違いない」
「髪でそんなに喜ぶものです?」
「喜ぶよ。走るときに風へと髪がなびく姿はかっこいいんだ。勝ったときに美しい髪の子ほど人々の記憶に残る。ただ走って勝つだけでなく人々に褒めてもらえるようになれば、もっと気持ちよく走れると思う」
「……もっと気持ちよく。私が見たい先頭の景色もですか?」
「ああ。それに髪が綺麗だと走るときの音も変わらないか? パサつきが多いのと、しっとりつやつやなのとでは違うと聞いたことがある。
髪がよくなるには普段の食生活や早寝早起きが大事だぞ」
「そこまで気にしたことはなかったです。さっそく今日から注意して髪の音を聞いてみますね。普段の暮らしのほうは……寮長の方に相談すればいいですか?」
「ああ、それがいい」
その言葉を最後に俺は昼休みが終わる時間いっぱいまで髪をさわった。
予鈴の音が鳴り、髪から手を離した俺に対してスズカは感謝の気持ちがこもった表情で俺へ挨拶をして屋上を後にした。
俺の言葉に感心し、ますます走るのが楽しみになっているスズカ。
走るのを今まで以上に好きになり、髪を綺麗にするとどういう効果があらわれるかに感心を持ってきたのは嬉しい。
これで次にさわるときがあれば、今よりもずっと綺麗になっているだろうしワクワクする。