今日の朝、学園へ通勤するときに正門前でひとりのウマ娘が待っていた。
その子は俺がとても心配していた子だ。
笠松のトレセン学園の試験を受験して合格したと俺に教えたくて待っていたらしい。
それを聞いた俺は喜びと安心のあまりに涙を流してしまった。
トレセンで夢を失った子が笠松で走る。また走ることができるというのは嬉しい。
転校は1週間以内にするとのこと。
お祝いとして、昼ご飯は俺のおごりで食べさせてあげた。
そんな嬉しい気持ちを持ったまま、放課後の指導を終えてスーパーで夜ご飯を買う。
そうしてから、朝からいい気分が続いたままマンションにある自分の部屋の前まで帰ってきた。
だが異変に気付いた。鍵穴へと鍵を入れるもすでに開いていたからだ。
家を出るときは指さし確認をして鍵をかけたかの確認をしている。今日の朝はかけ忘れたはずがない。
泥棒だろうかと緊張しつつ、ドアノブをゆっくり開けていく。
今は夜の9時だと言うのに部屋には明かりがついている。
誰かがいることは明らかだ。だけど物音が一切しないことに緊張感が増す。
慎重に家の中へ入ってから玄関を見ると、そこに脱ぎ捨てられた靴は傷のつき具合に見覚えのあるトレセン学園指定のランニングシューズだった。
一気に緊張感が抜け、安心の溜息をついてドアを閉めた。
着ているジャージの前を開け、楽になりながら家に上がる。
1LDKの部屋にはソファーやテレビ、壁際に置いてある棚には教え子たちからもらったプレゼントや一緒に撮った写真を飾っている。
その棚の隣に置いてあるソファーの上にはジャージ姿のウマ娘が寝ていた
腰まで伸びていて外ハネが特徴的な茶色のロングヘア。頭にはCBという文字があるバッジ付の白いミニハット。
その子はミスターシービー。去年の3冠ウマ娘であり、俺の元教え子。
シービーにトレーナーが付く過程には色々と苦労をした。レースで勝つことよりも楽しさと自由を求める子だから。
そんなだから俺の元から卒業し、トレーナーを次々と変えては相性が合う人がいないと嘆いていた。
今の新人女性トレーナーと契約するまでは2か月ほど俺の家へとよく来ていた。
だから合いかぎを置いてある場所も知っていて仲良くなった。どれぐらいかといえば、距離感がバグっているんじゃないかと思えるほどに密着してくるぐらいの仲に。
かといってお互いに恋愛感情はない。歳の離れた友人のようなところだろう。
シービーとは時々会って話をしているが、家へ2年ぶりに来たということは今のトレーナーと問題でも起こしたんだろうか。
すやすやと気持ちよさそうに寝ているシービーの顔を見たが、悩みがなさそうなほどにおだやかだ。
……買ってきたご飯を食べてから話を聞くか。先に起こしてしまうと、にぎやかで食事に集中できないからな。
シービーが寝ているソファの前に弁当が入っているビニール袋を置くと、一瞬だけピクリとシービーの耳が反応する。
が、それは一瞬だけのことで寝たまま起きそうにない。
袋から弁当箱を取り出して割りばしを割り、シービーの寝顔を見ながらご飯を食べていく。
静かに食べ進めていき、ビニール袋からお茶のペットボトルを取って飲んでいる途中に、ふと視線を感じた。
視線の方向にはシービーの目がいつのまにか開いていて無言で俺を見つめていた。
そのことに驚き、むせてしまう。
「あ、ごめん。大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ。おまえはもう食べたのか?」
「寮でおいしく食べてきたよ。でも教官のご飯はおいしそうだね」
「ほら、口を開けて」
目で食べたいと要求してくるシービーに対し、からあげを箸でつかむと寝転がっているシービーの口の上へと持っていく。
シービーが大きく口を開けたところで離し、からあげは口の中へとすっぽり入っていった。
「ん……コンビニのは味がいまひとつだね」
「寮のご飯は質がいいってのがよくわかるよな」
「でもさ、たまにこういう味って食べたくなるよね。なんていうのかな……懐かしい味?」
「おまえがデビュー前にトレーナーたちと契約が続かなかったころは、一緒に弁当を食べていたからな」
「それだ!」
勢いよく起き上がると俺へと指を突き付けてきた。
俺はその伸ばした手をつかみ、降ろさせる。
「それで今日はどうしたんだ?」
「教官がさ、ウマ娘を甘やかし始めたって聞いたから」
甘やかす? 俺が?
いったいいつ甘やかしたんだろうか。最近の変わったことと言えば、あの子の相談に乗って受験先までついていったぐらいだ。
あれは付き添いをしただけで、甘やかしたのには入らない。
俺がなにをしたのかと悩んでいたらシービーは自身の髪を手で持ち上げると、宙で髪を落としていく。
その癖毛が一房ごとに固まって落ちていくのを目で追ってしまう。
「髪だよ、髪。髪を優しくさわるのは愛情表現なんだよ。アタシにはやらなかったのに、どうして急に始めたの?」
「そのことか。それはストレスが溜まって抑えられなくなっただけだ。目の前に綺麗なものがあったらさわりたくなって当然だろ。あと愛情はない」
「ふぅん……」
「俺のことは別にいいだろ。シービーはどうしたんだ。なにかあって来たんじゃないのか」
「え? なにもないけど。教官が髪フェチって話を聞いたから、どうなのかなーって」
髪が好きというだけで、髪フェチのわけでは……いや、髪フェチになるのか。
自分ではそう思わなかったが、まわりから見ればそうか。
人の目があるところでさわってたから、噂が広まって当然だよなと思う。でも人前で堂々とやったからなのか、悪い噂ではない。
俺に髪が好きなんだ、っていう軽い感じで属性が付いただけだ。
指導しているウマ娘たちにも嫌がられてはいない。ただ俺の目のまえで髪をなびかせる挑発、
そういうことをされるたびに目で追ってしまい、さわりたくなる気持ちを抑えるのはやや大変だが。
シービーに見られながらご飯を食べ進めていき、からっぽになった弁当箱を持って立ち上がる。
台所に置いてあるゴミ箱に弁当箱を捨てていると、シービーが俺のところへとやってきた。
にんまりと笑みを浮かべては両手が空いた俺の両手首を左右それぞれの手でつかんでくる。
「この手はなんだ」
「アタシの髪をさわってよ。アタシだけさわられてないのって不公平でしょ?」
「さわったのはふたりだけだし、特別扱いをしているわけじゃない」
「スズカが髪をさわらせるのと交換でお願いごとを聞いてもらったって言ってたよ」
「俺の精神が疲れていたからが癒しを求めただけだし、お願いごとは違う場所で走ろうってだけだ」
自分で制限をつかないと無制限に髪を求めてしまう。ものすごく疲れたときだけは髪に癒しを求めようと考えている。
まぁ教え子たちの髪で癒しを得るなんてのは、教育者としてダメだと思うが。
早く髪の代わりになにかを見つけないと。犬の毛はさわっても満足できなかったから、次は猫カフェに行けばいいのだろうか。
そう思いながらシービーの手を払おうとしても、力強く握ってくる。
そして俺の手を引っ張ってはソファへと連れていかれ、肩を押さえられて座らされた。
シービーは俺の前に立って、力強く押さえてくる。
「そんなにアタシの髪はさわりたくない? アタシは教官を甘やかしたいのに。今のアタシがあるのも教官のおかげだよ」
「手を貸しはしたが、シービーが頑張った割合が大きいだろ」
「ううん、そんなことはない。教官がいなかったらトレーナーを選ぶのはずっと苦戦していた。もしかしたら3冠を、G1を勝つのすらなかったかもしれないよ? だからさ、アタシに恩返しをさせてよ」
シービーは俺から手を離すとソファへと寝転ぶ体制になり、座っている俺の太ももの上へとあおむけで頭を置いてきた。
そしてわくわくするシービーと困惑する俺で目が合う。
1度やりたいことを決めたらシービーはなかなかあきらめない。
だから今回は俺が折れて髪をさわるしかない。
「ほら、頭をなでてよ」
別に髪をすごくさわりたいというわけじゃなく、仕方がなくさわる。そう、これはシービーに求められたからで俺の髪フェチとは別なんだ。
誰かに言い訳をするかのごとく、小さく息をついてからシービーの頭へと片手を伸ばす。
「じゃあ、さわるからな」
ぴこぴこと耳を揺らし、好奇心いっぱいのシービーの髪をさわっていく。
シービーの髪はやわらかく、癖っ毛がある髪質だ。蛍光灯の光にあたってキューティクルがよく見える。
髪が光を反射しているようなのは、よく手入れがされている証拠だ。
俺の教え子時代はそれほど髪を気にしていなかったが、今のトレーナーと契約してからは髪の状態がよくなっている。
以前聞いた話ではトレーナーの自宅へ行って、シャンプーやトリートメントのやりかたを教えられたとのことだ。
他にもタオルドライのあとにドライヤーをやるよう言われて、シービーはめんどくさいなぁと俺に愚痴を言ってきたのは覚えている。
髪に対して強く指導できるのは女性トレーナーならではだ。男性トレーナーがウマ娘の髪を洗うとなれば、セクハラと言う子も出てくるから。
俺はシービーにまっすぐ見つめられながらも、髪へ集中する。
今日はトレーニングをしたから髪には少し汗の匂いがする。だから髪の感触もさらさらふわふわというのではなく、しっとり感がある。
「ねぇ、アタシの髪は今までさわった子の中でどれくらいのもの?」
「どれぐらいと言われてもな」
「言ってよ。別にアタシが最下位でも怒らないからさ」
そうは言っても褒めないと不満を持つのが女性というものだ。だが今までのシービーとの付き合いで、彼女へ意見を求められたのなら正直に言わないと不満を持つ。
教え子たちの中でも、俺の手から離れても最も付き合いがあるのはシービーだ。だからシービーに対してどう言えばいいかはわかる。
「ハヤヒデは最高級のシルク、スズカは未来が楽しみで、シービーのは健康的だな」
「なんかわかりづらいんだけど」
「言うほうもなんて言えばいいか難しいんだ」
「そんなものかな」
「そんなものだ」
そういう会話をしつつ、シービーの髪をさわっていく。
シービーのハネがある部分は弾力性があって面白い。だが、今の姿勢だとシービーの髪先までさわれないのが問題だ。
その代わりとして今までとは違う視点で見れるから目で見て楽しめる。
「教官はアタシの髪をさわって幸せ?」
「ああ。髪は毛布やハンカチと違って手触りが一定じゃないんだ。髪には人の歴史を感じていいものだぞ」
「うわ、変態さんだ」
「変態とまではいかないだろ。シービーも他の人のを、トレーナーの髪をさわってみるといい。きっとなにか思うはずだ」
「そっか。じゃあ教官のをさわることにするよ」
トレーナーにさわれと言っているのにシービーは俺のほっぺたに両手を伸ばし、そこから段々と頭の上を目指して手でなぞっていく。
もみあげから頭頂部近くまで。
そこまで手が行くと俺の髪のあちこちを優しく、ときにはわしゃわしゃと乱雑にさわってくる。
自分でさわるのと違い、なんだかドキドキと心臓が強く動いて緊張してしまう。
これもシービーの顔がよすぎるのが悪い。
13歳差もあるとシービーへ恋愛感情は持たないが、美人な人にさわられるのは誰だって精神が乱れて当然だ。
「うん、これは結構楽しいね」
「なんだか恥ずかしいな」
「もう少ししたらやめるよ。けど、こうしてふれあって安心したよ。屋上から今にでも飛び降りそうだと聞いていたから。教官はいつだって人の重さを抱え込んじゃうから。
去年の秋に引退した子の就職探しに付き合っていたことがあったでしょ? どういう仕事がしたいかわからないって言っていた子」
「あれは彼女に似合うなと思う仕事がある場所に連れていったら、本人がいたく気に入ったやつだな」
「そう、それ。観光地でバ車とウマ車軌道の仕事をすることにした子!」
あれはなんというか、良い偶然のめぐりあわせだ。今まで考えていなかった仕事の中から、彼女自身が素敵だと思った仕事の面接を受けたら採用された。
普段もウマ娘たちからはちょっとした日常会話からの愚痴や進路相談などをすることはある。
それはトレセン学園のカフェや食堂で出会ったときに。トレーナーや教師は信頼できない、相談をしてもダメだった場合に俺のところへとやってくるから。
こういう仕事は教官のやることじゃないが、ウマ娘に頼られると頑張ってしまう。
特に元教え子の場合はひいきし、俺が休日のときに一緒に行ってあげた。
今まではそういうふうにやってきた。だがこれからはどうしようかと悩む。
ウマ娘たちへ感情移入しすぎて段々とストレスが溜まり、少し前にウマ娘の絶望を見てから学園をやめようとまで思った。
それが頭から離れず逃れるために電子タバコを吸い始め、髪フェチという性癖を解放もした。
苦しくなりながらも助けを求める子の手をはらうことができない。そして俺が手伝ったことでその子が幸せになれるなら嬉しい。
そんなことを思いながら、お互いに髪をさわるだけの静かな時間。
この癒しの時間がずっと続いてくれればいいのにと考えながらシービーの髪へとおぼれていく。
ウマ車軌道:元ネタは人車軌道。レールの上に人が軽量の客車や貨車を押す鉄道。1882年から1959年まで続いた。