日曜日で天気がいい今日。
午後4時を過ぎてから制服を着たナリタブライアンが俺のところへとやってきた。
今日の予定ではブライアンの練習は休みで、姉であるハヤヒデと一緒にレース観戦へ行くと聞いている。
だというのに、わざわざ学園に来たのは姉に言われたからだそうだ。
なんでもハヤヒデはブライアンが美容について気をつかわないのを気にしており、俺に髪を見てもらえとのこと。
ブライアンの髪はいい状態と呼べるものではない。
髪はぱさついてツヤがなく、枝毛がちょこちょことある。特に目立つのがキューティクルがよくないことだ。
それは髪の外側にある組織で、髪の美しさを得るにあたって大事な場所だ。
キューティクルの部分が美しい状態の髪は天使の輪とも言われていて、見ためにとても影響する場所だ。
モデルやウマ娘の写真では光があたって髪が言葉どおり天使の輪のようになって見惚れることが多い。
ウマ娘は走るだけじゃなく、ライブや写真を撮られることもあって美容に気をつけるのは当然のこと。
だけれど、ブライアンというウマ娘はいかに強く走れるかの興味しかない。
以前聞いたところではハヤヒデから女らしさを持てと言われていた。だから髪だけ伸ばしてハヤヒデを黙らせたとのこと。
普段はポニーテールの髪型だが飾りひもをはずして降ろすと膝の位置に来るほど髪が長い。
尻尾のほうは髪よりも扱いが悪く、手入れをしたことや気にかけたことはないと言っていた。
尻尾も気になるが、ウマ娘にとって尻尾について話をするとセクハラになりやすいからあまり話ができない。
前々からブライアンの髪は気になっていたが、今日はちょうどいいタイミングだ。
今なら髪を俺が手入れをすることが可能だと!
俺は指導をしているウマ娘たちに20分の休憩を入れさせ、その時間内にブライアンの髪を洗うことにした。
ブライアンは面倒だと言って嫌がっていたが、なにか問題があったときにはブライアンの味方をするからと説得。1度俺にやってもらえれば、ハヤヒデもおとなしくなると付け足して。
1度教官室に全速力で走って行き、使う予定もないのに衝動買いした炭酸シャンプーの缶を手に持ち、ブライアンと一緒にやってきたのは学園内でも人があまり来ない更衣室。
使用している子は誰もいない。とはいえ、男の俺が入っているのは驚くだろうからドアは開けておく。
更衣室に入り、置いてある椅子を持って洗面台へ行くように言う。
洗面台は一般的なのよりも横に広く、髪が長いウマ娘たちのために設計されているものだ。
ブライアンの身長は160㎝で椅子に座らせて前かがみにさせるとちょうどいい高さになり、俺が洗いやすい位置でもある。
軽く洗面台を洗ってお湯の温度を調整してからブライアンに膝立ちするように指示した。
今のブライアンは耳のアクセサリをはずしポニーテールをほどいた姿だから新鮮さがある。女性の髪型は普段と違うのにしていると見とれてしまう。
「おい、教官。洗うなら早くしてくれ」
「悪かった。ブライアンの髪をつい見てしまってな」
「髪なんて意識して見るものでもないだろう?」
「見るものだ。それと鼻のテープははずしておいてくれ」
ブライアンは悪態をついてから鼻のテープをはずし、少し不機嫌な様子で洗面台のふちを両手でにぎり頭を差し出している。
俺はブライアンのまわりに水がこぼれてもいいようタオルを敷いてから、洗面台からあふれたブライアンの長い髪を持ち上げて洗面台の中へと入れた。
そうして俺は着ているジャージを腕まくりして、洗い始める。
まずはシャワーヘッドを使って髪をすすいでいく。
シャンプーを使う前のすすぎで汚れは7割ほど落ちると言われている。先にやっておくと汚れが表面に浮き出て泡立ちがよくなる。
耳に入らないよう気をつけながらブライアンの頭の先からはじめ、髪の先端までやっていく。
女性の綺麗な髪をさわるのは心が躍る。でもブライアンのはそれほどじゃない。見たときは少しだけ落ち込むが、ここから美しい髪ができる。
膝まである髪を美しくするのは時間がかかるが。
だが、もうすぐブライアンも俺の手元を離れる。もう選抜試験を受けてもいいと本人にはすでに伝えてあり、7月にある選抜レースに出るとのことだ。
ブライアンの実力ならトレーナーとすぐに契約できるだろう。
学園に入学したころは気性が荒く、他のウマ娘たちにケンカを売っては勝手に走っていた。
だが今は気性がほんの少し落ち着いた。相手が弱くても見下しはしないし、後輩相手には自分から積極的に教えるほどだ。
強い相手に挑むだけではなく、育ててライバルを作るという方針に変わってきている。
ただ言葉が少なく寡黙なタイプだから怖い子だと誤解されやすいけど。
大事にしてきた子が手元を離れていくのはいつだってさびしく、けれど嬉しくも思う。
「炭酸シャンプーを使うからな」
「なんだ、それは」
「髪にいいやつだ」
炭酸シャンプーは名前のとおりでスプレー缶からブライアンの髪へと出す泡はぱちぱちという音がし、炭酸特有の刺激的な感覚をくれる。その音は耳に心地よく聞こえ、リラックス効果も。
きめ細かい泡で毛穴に詰まった汚れをよく取り、マッサージをする洗い方で頭皮の新陳代謝がよくなる。
また配合されている美容液はよく髪や頭皮に浸透し、髪へのケアにはいいものだ。それにブライアンが経験したことがないであるものなら、おとなしくシャンプーをされてくれるだろうし。
一般的によく使われる液体タイプのとくらべれば値段は高いが、ブライアンと髪のためなら気にするほどじゃない。
これが毎日となれば、髪が好きな俺でも支出は苦しくなるが。
「シャンプーは問題ないか?」
「あぁ。刺激と音が不思議だな。意外とおもしろい。それに教官の手つきが手馴れている」
「ウマ娘の妹にやっていたからな」
「妹は強かったのか?」
「それなら未勝利で終わったよ」
妹は速くなかった。だが妹が頑張って走る姿を見たことで俺はトレセン学園で教官という道に進んだ。
学生だったころは俺に甘えてきてかわいく、髪をよくさわらせてくれた。だが26歳になった妹は兄離れをし、今はイベントプロデュースの仕事をしている。
会うことも少なく、年末年始にちょっと顔を会わせる程度。
懐かしいなと思いながら、手が止まっていることに気づいて慌てて再開する。
女性の髪を洗うのは11年ぶりだが、洗い方は体で覚えているものだと我ながら自分に感心してしまう。
昔に洗ったことを思い出しつつ、残り少ない休憩時間のうちに終わらせる必要があるから集中しないと。
だからといって手抜きはしない。耳や首筋には気をつけ、洗い残しをしないようにして洗う
炭酸スプレーを全体に使って洗っていき、そのあとはすすぎだ。
シャワーヘッドからのお湯で丁寧に洗い落としていく。
髪の毛を痛めないよう乱暴にせず、優しく髪にふれながら。
そうしてお湯でしっかりすすいだあとは髪を軽く絞ってからバスタオルで髪全体を優しく押さえるようにして水分をふき取っていく。
頭からはじめていき、途中から体を起こさせてからタオルを交換しつつ髪全部の水分を取っていく。
ある程度、髪を終えたら顔や目元にタオルをあてて髪以外の水分を取ることも忘れない。
洗面台の正面にある鏡越しにブライアンは俺へ不機嫌そうににらんでくる
「これで終わりか?」
「まだタオルドライだけだ。次はドライヤーを使う」
「……面倒だな。タオルで水気を取って自然乾燥だけでいいだろ、髪なんてのは」
「そのままだと髪によくない。ぬれたままの髪は、髪をおおっているうろこ状のキューティクルが開いていて、傷みやすいんだ。だから早く乾かせば自然乾燥よりよくなる」
「そこまで綺麗にしなくてもいいだろ。姉貴が言うから教官に髪を任せたが、そこを気にするよりかは筋トレをしたほうがいいと思う」
ひどくあきれた声を俺にぶつけてくるが、それは違う。
まず髪が綺麗だと選抜レースのときに注目されやすくなる。と、いうことは髪に気を配っているとわかる。つまりは自分自身に気を使う時間と労力があるということだ。
ウマ娘は走ることばかり夢中になってしまうから、そういう要素は評価時にプラスとなる。
それに走るだけじゃなく、ウマ娘のレースはライブをする。だから踊りや歌のときにも髪が綺麗でないとトレーナーがウマ娘を大事にしていないと評価をもらってしまう。
だから見栄えがいいのはいいことだ。それに髪がぼさぼさで手入れがないよりも、髪が美しいと初対面の第一印象がよくなってブライアン自身が併走を持ちかけるときに成功がしやすい。
理由はあるが、そのままではうるさいと言われるだけだ。
俺はドライヤーとクシを準備しながら、強い相手を求め、姉にあこがれを持つブライアンに言いたかったことを言う。
「ハヤヒデの髪は綺麗だよな」
「当然だ。姉貴がそうだから私にもそうしろと?」
「いや、そうじゃない。髪が綺麗なのは印象によく残り、ブライアンが走りで倒した相手はブライアンを今よりも意識するようになる。
相手の記憶に残るということは、それだけ自分を負かした相手に思う感情が強くなるわけだ」
「私に負けた相手は私を倒そうとより努力すると?」
「そうだ。おまえは強い相手を求めている。倒すだけじゃなく、育てるのも大事だ。今だって後輩たちに走り方を教えているだろ? それと同じように将来は強い相手になる」
「……ふむ」
ブライアンが考え込んでいるあいだ、ドライヤーの強い風量で熱風を当てる。その時に髪や頭皮が痛まないよう、クシを髪に通しつつドライヤーを左右に振りながら。
髪が乾ききったら冷風を1分ほど当てる。これで髪の毛のキューティクルが閉じて、洗う前よりもよい手触りになる。
髪の毛は温めると動きがつき、冷える瞬間に形を記憶する。
ヘアアイロンだと温度の違いで髪の形を作っていく。だがドライヤーはそこまで熱がない。だから今のヘアスタイルを維持するドライヤーが最適だ。
ブライアンの黒髪はケアをし続けていけば、きっと見惚れる髪になる。
今はまだ手触りがよくない髪の将来を想像する。
きっと絹のような手触りで、夜の闇のように純度が高い黒色になるだろう。
それは光をよく反射し、キューティクルは美しくて男女の誰もが虜になるに違いない。
長い黒髪は走るときの風になびくと、踊るように後ろへと流れていく姿はきっと素晴らしいものだと想像ができる。
ブライアンが悩んでいるときにもドライヤーとクシで手入れは進み、ロングヘアのナリタブライアンがここに生まれた。
髪を洗うよりもツヤが出ていて、光でちょっぴり反射している。
「よし、できたぞ」
「……これは見た目がよくなったのか?」
「よくなっただろう?」
ブライアンは自身の髪を不思議そうにさわり、なでていく。
俺はその光景に笑みを浮かべるが、ふと鏡越しにドアから頭を出して覗き込んでこっちを見ているウマ娘5人とと目があった。
それはスズカをはじめとした俺の教え子たちだ。
更衣室内にある壁掛け時計を見ると休憩時間の20分は過ぎているから、呼びに来たんだろう。
「あとは髪を結うだけだが、俺がやろうか?」
「いや、今はこのまま走ってみたい」
「走るのか? ブライアンの予定は休みなんだが」
「ちょっとぐらい走ってもいいだろう?」
「あー……ジャージに着替えたらな」
「わかった。寮に戻って着替えてくる」
本来の予定にないトレーニングはさせたくはないが、ブライアンはここへやってくるときと違い、うきうきと気分よくなっている様子を見るととめられない。
俺の言葉を聞いてブライアンは顔を制服のそでで拭き、ポケットからテープを出して鼻に付けると早足で嬉しそうに更衣室から出ていく。
黒髪ロングヘアのブライアンが外へ出て行くと、集まっていた子たちはブライアンの髪型や髪に興味を持っていて俺に洗われた感想を聞いて黄色い声をあげながら楽しそうな様子だ。
「おまえたち! ウッドチップのコースでランニング2周だ! 俺は片付けをしてから行く!」
そう声をかけるとウマ娘たちは「わかりましたぁ!」と複数人による返事をし、声が離れていく。
更衣室を掃除しつつ、ブライアンが髪に興味を持ったようで嬉しい。
ブライアンはあまりにも興味を持たなかったから。でもこれでちょっと興味を持ってくれればブライアンが望む、強い奴と走るという目標はやりやすくなる。
今は目つきが怖く無愛想な子という評判が強いから。それで髪をよくすれば好意的に見る子も増えるだろう。
もし可能なら髪が綺麗になったときにさわらせてほしいところだ。
俺はブライアンのよりよい将来に期待しつつ、掃除を終わらせて更衣室を出る。
これから走るロングヘアのブライアンがどういう走りをするか楽しみだ。