狸を被る
実のところ、俺は人混みがそれほど得意ではない。
長く居ると、人の話し声やあらゆる雑音で頭がいっぱいになって、目が回ってしまうのだ。
路上で楽器をかき鳴らしているときは、自分の音に集中できるからさほど問題がない。
エクスターミネーションを退け、ニフティがアダムを殺し――サー・ペンシャスが死んで、すぐのことだ。
天使の攻撃により崩壊したために、みんなで改装したハズビンホテルには、宿泊客が殺到していた。
あまりの人の多さと騒々しさに、俺の部屋の防音システムはあまり役に立っていない。
俺は部屋の中で楽器をかき鳴らすから、内側の騒音が外に漏れないように気を遣っている。
しかし来客を無視しないために、外からの音はそれなりに通すようにしてあるのだ。
そうでなくとも、俺はそれなりに耳が良い。
遠くの音が拾える。それ以外にも細かな音の聞き分け、小声での会話の聞き取りなんかも。
ハズビンホテルにやって来ている悪魔たちは様々だが、チャーリーが望むような理由で来ている者はいなさそうだ。
皆が口々に言うのは「ここに来たら天使が殺せる」「上級天使殺しのニフティ様はどこ?」など。
たまに無料で泊まれるから、という理由も聞こえる。
それから、チャーリーはどこだと探す報道陣、パパラッチたち。
つまり、今のハズビンホテルは、俺にとって少々居心地の悪い空間になってしまっている。
頭痛のする頭を押さえながら、バーの空いている席に腰かけ、バーテンダーに向かって指を一本立てる。
「シンデレラひとつ」
「洒落たカクテルの名前を覚えたじゃねえか、ゴースト」
ハスクにそう言われ、俺は思わずぱちくりと瞬きをした。
俺は確かに狸の悪魔であるゴースト・ライターだが、姿は違っていた。
狸だからもちろん、変化が得意なのだ。
適当なサメっぽい悪魔に化けていたけれど、ハスクにはお見通しだったらしい。
「ワオ。よくわかったねハスカー。しっぽでも出てた?」
「バーでそんなもん頼むのはお前くらいだろ、ゴースト」
「そうなんだ、知らなかった」
シンデレラはオレンジ、レモン、パイナップルジュースがミックスされたショートカクテル――ジュースしか入っていないので、もちろんノンアルコールだ。
俺はとんでもない下戸なので、アルコールは嗜めない。
それでも気分だけなら味わえる。
ハスクは三角のカクテルグラスに、要望通りのカクテルを注いでよこしてくれた。
変化を解いて一口飲む。俺の顔を見てハスクが片眉を上げた。
「ひでえ顔だな。寝てねえのか?」
「ハスクも忙しそうだね」
カウンターに肩肘をついて、前髪をかき上げた。
部屋を出る前に鏡を見てこなかったけれど、目の下にクマでもできているのかな。
「どうせ騒音で起こされるからと思って、ずっと起きてたんだよね」
「作曲の調子はどう? また俺をモチーフにしてもいいよ、狸ちゃん」
カウンターに座ってピンク色のカクテルグラスを傾けていたエンジェルにそう言われる。
「調子は……うん、あんまりよくない。だから気分転換に散歩に行ってくるよ」
シンデレラを一気飲みして、空のグラスをカウンターに置く。
「帰宅時間はこの通り」
「靴忘れて来るんじゃねえぞ」
俺はひらひらと手を振って、ホテルの外へ向かった。
「相当参ってそうじゃん。気晴らしに付き合ってあげよっかな」
「チェリー流の気晴らしは、ゴーストに合わないんじゃない?」
「ガキじゃねえんだ。自分の面倒くらい見れるだろ」
耳の良い俺は、チェリー、エンジェル、ハスクたちの会話も拾ってしまう。
いけない、元気くらいしか俺には取り柄ないのだから、はやいところ調子を取り戻さなければ。
ただでさえ、サー・ペンシャスを失った悲しみでチャーリーも情緒不安定なのだ。
「おでかけですか?」
外への扉に手をかけたところで、影から現れたアラスターに声をかけられる。
「うん。そのへんぶらぶらしてくる」
「外は暗いですからお気をつけて。変な人についていくんじゃあ~りませんよ」
「心配してくれてありがと! 気をつけるねー」
扉を開けようとした俺の手に、アラスターの手が乗る。
「忘れものです」
「……ワオ、俺としたことが」
アラスターが影から取り出したのは、俺のギターケースだった。
それを見て、俺は目を丸くしてしまう。
この俺が、楽器も持たずに外に出るなど――いや、そういう日がないわけではないけれど。
手を叩くだけでも楽器になるからだ。そこらへんにあるもの、何でも音楽を奏でられる。
だが今の俺には、そういう発想もなかった。
ちゃんと相当参っているらしい。
エクスターミネーションのときにお腹に空いた大穴、その傷がまだ治りきっていないのかもしれない。
調子が狂っていることは認識しておかなければ。
俺は天井を見上げて、ため息をついた。
「いってきます」
ギターケースを受け取り、俺は今度こそハズビンホテルの外へ出た。