傍に立つ君は完璧で究極のアイドル 作:カミキヒカラナイ
みんな違って
みんな重い
【特級呪霊アイドルと一般通過厄介ファン】
それは「今ガチ」最終回の収録を終えた日の夜のこと。
寮の自室に帰宅した紫音とアイの姿は──部屋のベッドの上にあった。
常夜灯だけが点いた薄暗い部屋の中、男女の身体がひとつに重なる。アイは背中から紫音に寄りかかり、その胸に頭を預けている。決して背が高いとは言えない紫音よりも更に小柄なアイは、すっぽりと彼の腕の中に収まっていた。
紫音は背後から抱きすくめるようにしてアイの耳元に口を寄せる。腕の中に彼女の温もりを感じながら、彼はそっと口を開き──
『好きなペンライトの色は〜?』
「赤──」
『サインは〜?』
「B──」
『好きなアイドルは〜?』
「アイ──」
『世界一〜?』
「世界一可愛いよ──」
『エへへへぇ〜〜〜♡♡♡』
(…………なんだこれ)
まるでアイドルライブのコールアンドレスポンスのように、アイのコールに合わせて囁き声でレスポンスを返す紫音。そんなやり取りがかれこれ一時間以上は続いていた。
だらしなく笑み崩れるアイを眺めながら、僕は安堵と呆れが
さて、どういう経緯でこんな囁き声ASMRみたいなことをする羽目になったのか。その理由はまさに今日──既に日付けが変わっているので厳密には昨日だが──撮影終了した「今ガチ」にあった。
恋愛リアリティショー「今ガチ」こと「今からガチ恋始めます」。恋愛リアリティ番組の例に漏れず、この番組の最終目的もまた出演者同士のカップル成立にある。
そして僕はカップリング相手である黒川あかねさんに告白し、彼女はそれを了承。晴れてカップル成立、大団円で番組は幕を下ろしたのであった。
──というのは表向きの話。
他のメンバーや番組スタッフ達からの温かい拍手による祝福。そしてその後に行われた打ち上げパーティ。
そんな
『
星の輝きの失せた黒々とした
その口唇から紡がれるのは呪詛──実は法華経のありがたい金言である──の言葉。
そんな特級呪霊もかくやという有様になったアイはその細腕を僕の首に回し、打ち上げパーティの間中ずっとギリギリと締め上げていたのである。そこで彼女の怒りが僕以外に向かなかったのは幸いだった。僕の肉体の耐久力なら鉄塊も
で、そんな怨霊と化したアイを元に戻すために彼女の要求に応えていたらこうなった。「
「……そろそろ正気に戻った?」
『あーめんあーめんごすぺるあーめん』
「だからそれも呪いの言葉じゃないから。むしろ聖句とかの類だから。やっぱり最初から正気だったでしょ紛らわしい」
あかねさんではなく僕にばかりヘイトが集中していたから何となく察していたが、やはり別段正気を失っていたわけではなかったらしい。
普通、恨み辛みで正気を失った怨霊というのは無差別にその怨念を振り撒くものだ。というより、そもそもまともな自我を残した幽霊がまず殆ど存在しないと言った方が正しい。そういう意味でもアイという幽霊は例外的な存在だった。未練はあれど怨念はなく、死後間もないとはいえ出会った時点でまだハッキリとした自我を保っていたのだから。
なので、本当に正気を失った怨霊ならばそもそも“標的を選り好みする”という思考すら存在しない。僕にだけちょっかいを出していた時点でちゃんとした理性があったことは明白である。
『……だってあの子に何かしたらシオン怒るでしょ?』
「あかねさんに限った話じゃないけどね? 前にも言ったけど、アイはもう普通の浮遊霊とはわけが違うんだから。下手なことすれば一般人は即廃人コースだよ」
アクアとルビーともう一度言葉を交わすという目的を果たす上で、誰か適当な人間を捕まえて乗り移ったりしないのにはそのような理由があった。要はただの一般人ではアイの魂に耐えられず、乗り移られた瞬間に魂が砕けて即死する羽目になる──実際に試したわけではないが感覚的に分かる。これに関しては僕とアイは同様の結論に達した──からである。
そんなアイが明確な攻撃の意思の下に触れようものなら、霊的なものに耐性のない一般人など即座に卒倒する。うっかり指先が魂の端に掠めるだけでも更なる惨事は免れないだろう。
『……シオンに嫌われたくないから、あの子には何もしない。でも寂しいなぁ……あの子といる間、私はシオンと何も話せないから』
──私にはシオンしかいないのに。
そう呟き、アイは更に密着するように寄りかかってきた。
今やアイの魂は常人など比較にならないほど巨大だが、今この瞬間の彼女はひどく儚い存在のように思えた。僕はもう一度腕を回しその小柄な身体を抱きしめる。
腕を通して感じる感触は、およそ同じ人間を抱きしめるようなものとは異なっていた。女性特有の柔らかさも感じなければ、生物ならばあって然るべき体臭さえ感じない。
何故ならアイはただ輪郭を具えたエネルギーの塊に過ぎないからだ。彼女の身体を構成するのは剥き出しの魂と、肉の代わりに魂を覆う高密度のエネルギーである。
便宜上エネルギーと呼んでいるが、それが正確に何なのかは僕にもアイにも分かっていない。僕の魂から溢れ出たものが由来であるわけだから、恐らく生命エネルギー的な何かだとは思うが、確かなことは不明である。
いずれにせよ、魂も生命エネルギーも通常の人間の目には映らない無色透明な非物質的存在だ。喩えるなら紫外線のようなものであろうか。紫外線は人間の目には映らないが、カラスなど一部の動物は色覚として認識することができる。僕のように霊感のある人間ならば目にすることが可能だが、そういった特殊な目がない限り常人がアイの存在を知覚することは不可能なのだ。
今のところ自分以外に霊感のある人間と出会ったことはない。だから周囲に誰かがいる状況ではアイと言葉を交わすことができなかった。そうでないと僕は虚空と会話するヤベー奴だと思われてしまうからである。
それはアイ自身も承知しているし、僕も完全に無視するのではなく目線で応じたりするようにはしている。
しかし僕は、アイが時折り寂しそうな顔をしているのを知っていた。やはり僕しかまともにコミュニケーションが取れる存在がいない中、その唯一の人間からも無視される状況というのは分かっていても堪えるのだろう。
『恋人同士になったってことはあの子とデートしたりするんでしょ? その間私はそれを眺めてるしかできないわけで……うわ、鬱りそう……』
「お互い仕事があるからそう頻繁に会うってわけにもいかないけど……もしかして打ち上げの時の話聞いてなかった?」
『うん、憎悪と嫉妬であんまり聞いてなかった』
「この子はホントに……」
僕も人のことを言えた口ではないが、アイも姿が変わらないとはいえもういい歳なんだからもう少し落ち着きというものを……いや、姿が変わらないからこそなのだろうか。
まあいい。聞いていなかったというならもう一度説明するだけだ。
「僕とあかねさんは言うなればビジネス彼氏とビジネス彼女……要は仕事上の関係だよ。あれは番組的に受ける流れだったから告白したし彼女もそれを了承したけど、あくまであれは演出。番組上の付き合いをいつまでも続けるほどあかねさんは暇じゃないんだから」
僕も正式に芸能デビューすることになるのでじきに暇ではなくなるだろうが、既に女優として確かな実績のあるあかねさんの忙しさは僕の比ではないだろう。「今ガチ」で人気に火がついたこともあり、これからは恋愛に
『へ? ビジネス? あの流れで!? そんなことある!?』
「まあ……嫌われてはいないだろうな、とは思うよ。流石の僕もそれぐらいは何となく分かる。でもまさか本気ってことはないと思うし……どのみち本気のお付き合いは僕の方から断るつもりだったんだ、最初から」
結局、恋愛リアリティショーを経験しても僕の感覚は変わらなかった。どう言い繕っても僕は人生二周目の精神三十路のおじさんで、まさに人生これからという若い少女の時間を僕のために浪費させてしまうことに罪悪感を感じてしまうのだ。
「こんな鉄筋コンクリートを豆腐みたいに砕くような異常者じゃなくて、もっと普通の男の子と恋愛するべきだと思うよ。あんな良い子がこんな男のために貴重な青春を無駄遣いするべきじゃない」
『確かにシオンはちょっと頭おかしいレベルのフィジカルお化けだけど……力持ちな男が嫌いな女なんていないでしょ』
「力持ちで済ませられるようなものじゃないしなぁ……それに僕みたいな男らしさの欠片もない見た目の奴を好きになる女の子なんていないよ」
せめてアクアぐらい背が高ければ良かったのだが、残念ながら僕は背丈にも恵まれなかった。あかねさんは女子としてはまあまあ背が高い方だが、この身体はそれより数センチ高い程度。女子の理想とする男性の背丈は170センチ以上だという話をどこかで聞いたことがあるし、きっと僕のような女々しくて背が低い男なんぞ守備範囲外だろう。
『何でこんなに自己評価が低いの……? 確かにかっこいいより可愛くなるよう育てた自覚はあるけど、普通この容姿でここまで卑下できる……?』
勿論、演出とはいえ衆人環視の中で告白した以上、しばらくは仮初の恋人関係を続ける必要があるだろう。これですぐ疎遠になるようでは視聴者に演出だったことがバレてしまう。恋愛“リアリティ”ショーなのだから、番組内で交わされた言葉は全て
「というわけで、しばらくはファン向けに恋人らしい関係をSNSなんかでアピールしていくことになる。あかねさんには迷惑かけるけど、そこは了解してもらってるよ」
『そ、そうなんだ〜……敵ながらちょっと憐れ……』
「お互い……特にあかねさんは『今ガチ』で顔が売れた身だから当分は予定が合わないだろうけど、いずれ時間を作ってビジネスデートに行くことにもなってる。流石にその時はアイと会話できないから、そこは我慢してもらうことになるかな」
『シオン、絶対にあかねちゃんの前でビジネスデートって言っちゃダメだよ。ビジネスだろうが何だろうがデートはデート、ちゃんと男の子としてしっかりエスコートすること!』
「? うん、分かった」
確かに、あんまりビジネスビジネス言ってると本番でもそれが態度に出てしまうかもしれない。それではファンにも演技がバレてしまうかもしれないし、そうなればわざわざ付き合ってくれているあかねさんにも迷惑がかかってしまう。
流石はアイだ。こういう女性ならではの細やかな気遣いにはいつも助けられている。
『ま、そういうことなら今日はこの辺で許してあげる! あんまり女の子に色目使っちゃダメだよ?』
「色目使った覚えはないんだけど……まあ、許してもらえたなら何よりだよ」
『じゃあ朝までお話しよっか!』
「いや時間」
明日は普通に学校があるのだが、今何時だと思っているのだろうかこの守護霊様は。
だがアイはそんなこと知らんと言わんばかりに指を動かし、念動力で壁に備え付けられたスイッチを押して部屋の照明を点けた。常夜灯のみの薄暗かった部屋が一気に明るくなる。本気で寝かす気ないなこの人。
『シオンなら一日ぐらい寝なくても平気でしょ?』
「確かに体力的には一日どころか一ヶ月寝なくても大丈夫だけど、精神的な疲労がですね……今日が最終回の撮影だったこと忘れたのかな?」
『知りませーん! 周りを気にせずシオンと話ができるの
まあ確かに、誰
『あーあ、外でももっと気軽にシオンと話できる所があればいいのに』
「学校だと中々難しいね。でもお昼休憩はアクアと一緒にとるようにしてるし、アイとしては悪くないんじゃないの?」
『うん! 話はできないけど、近くでアクアの姿が見れるのは嬉しい! だけど……』
「だけど?」
『 ル ビ ニ ウ ム が 足 り な い ! 』
「あー……」
ルビニウムなる未知の物質についてはさて置くとして、アイの言いたいことは分かった。要はルビーと会えなくて寂しいのだろう。
アクアとはクラスメイトだし、ここ数ヶ月は「今ガチ」のメンバーとして仕事でも頻繁に顔を合わせていた。
一方、妹のルビーとはクラスが違うこともあり殆ど顔を合わせることはなかった。アクアとルビーは仲の良い兄妹だが、流石に学校で一緒に昼食をとるほどではない。家に帰ればいつでも会えるのだから当たり前だが、やはり学校ではクラスメイトとの交流を優先しているようだ。
『アクアは昔からしっかり者だったからあまり心配してなかったけど、ルビーはちょっと不安だなー。子役経験のあるアクアと違ってあの子に芸能経験はないし、ちゃんとアイドルやれるかなぁ』
「そういえば正式に苺プロ所属のアイドルになったんだっけ、彼女。ユニット名は──」
「うるっさ」
お願いだから密着状態で絶叫を上げるのはやめてほしい、切実に。精神が軋む。
『新生B小町! 私のB小町の襲名ユニット! もうっ、ルビーったらママを喜ばせるのが上手なんだから♡♡♡』
大喜びでジタバタと足を暴れさせるアイ。全身から放たれる喜びのオーラが部屋を満たし、ピシピシとラップ音を鳴り響かせた。
そう、ルビーはアイが所属していたアイドルユニット「B小町」の名を受け継ぎ、「新生B小町」として苺プロからデビューを果たしていた。
とはいえ新生B小町は発足からまだ間もなく、相方の有馬かなと共に動画投稿サイト等を通しての草の根活動に勤しんでいるのが現状である。アイドルとして歌や踊りを披露するのはもうしばらく先になるだろう。
『不安だなー、心配だなー。ルビーはちゃんとアイドルとしてやっていけるかなー?』
「ぴえヨンダンスを踊り切ったルビー見て『この子なら絶対大丈夫!』って断言してなかったっけ?」
『不安! だなー! 心配! だなー! これはもう──
「却下」
『なんでえええええ!!』
むしろ何で許可されると思ったのだろうか。
『私なら歌もダンスも笑顔の作り方もアイドルのことなら何でも完璧に教えられるよ! こんな適役他にいないでしょ!』
「そりゃまあ、アイほどアイドルを知り尽くした教師役なんて他にいないだろうけど……そもそもどうやって教えるつもり? アイの声はルビーには届かないのに」
『そうだったあああああ!?』
ついさっきそれについて話していたばかりだろうに。
というかそもそもどうやってルビーの指導に行くつもりなのだろうか。アイは僕から五メートル以上離れることができない。アイがルビーの下に行くということは、必然僕も同行することになる。だが、僕にはルビーに……
『え? 普通に遊びに行けば良くない?』
「そんな友達の家に行くような感覚で気軽に行ける場所じゃないでしょ、仮にも芸能事務所なんだから」
『私にとっては実家みたいなものなんだけど』
「アイにとってはそうだろうけどね……」
残念ながら僕にとって苺プロは気軽に遊びに行けるような所ではない。ちゃんと目的を明確にした上でアポを取り、きちんとした許可を得た上でなければ無理だろう。確かにアクアとルビーの二人とは同じ学校の同級生として仲良くさせてもらっているが、流石にノーアポで事務所に突撃できるほどの仲ではない。
『いーやーだー! ルビーがアイドルやってるとこ見たいー! 後方母親面でレッスンしてるルビーを見守りたいー!』
「遂に臆面もなく駄々捏ねだしたぞこの三十二歳児……こら、ベッドの上でジタバタするんじゃありません!」
ベッドの上に仰向けで寝転がり、思いっきり両手足を振り回し駄々を捏ねるアイ。かつてのトップアイドルの姿か……? これが……?
『あ、いいこと思いついた』
かと思えば、ピタリと動きを止めそんなことを呟く。
何だろう、嫌な予感しかしない。
『私じゃなくてシオンがやればいいんだよ、教師役』
「は?」
『私がシオンにアイドルの歌とダンスを教えて、シオンがルビーにそれを教えるの。これなら実質的に私がルビーに教えてるも同義!』
「ちょっと何言ってるか分からない」
『……ハッ! もしやこれが愛の共同作業!?』
「聞いて」
一人で結論し勝手に盛り上がるアイ。なるほど完璧な作戦だ。不可能だという点に目を瞑ればだが。
言いたいことは分かるが、事はそう単純なものではない。確かに僕ならB小町の歌と振り付けを覚えるぐらいわけないが、そもそも新生B小町の教師役に僕がなるのは不可能だ。誰が十五歳のアマチュア、それも元読者モデルの自称霊能者を振り付け師として雇うだろうか。……自分で言っててダメージ負うなこの肩書き。
『そこはシオンがアクアを説得する感じで……』
「肝心な部分僕に丸投げかい」
『任せたよ相棒っ☆ その代わり歌と振り付けは完璧に教えたげる! シオンを完璧で究極のアイドルにしてみせるからね!』
「いいえ、私は遠慮しておきます」
『まずは一曲目! 「サインはB」!!』
「聞いて」
ふわりとベッドから飛び降り、ビシッと出だしのポーズを決めるアイ。
途端、続けて文句を言おうとした僕の口は強制的に閉じられた。
アイの纏う空気が変わる。スポットライトに照らされたわけでもないのに、まるで後光が差しているかのように光り輝いていく。
気付けばアイの服装が変わっていた。普段は記憶にある服装を再現しその日の気分によってコロコロ変えているが、今の彼女が身に纏うのはピンク色のアイドル衣装。フリルを散りばめたスカートの裾が身体の動きに合わせてふわりと広がり、兎を模した髪留めで結わえられたサイドテールが華やかに揺れる。
──B小町の「アイ」がそこにいた。
『ア・ナ・タのアイドル〜♪』
軽やかに
『サインは……B──!』
気付けば僕は文句も忘れ、目の前で舞い踊るアイの姿に釘付けになっていた。舞台は寮の部屋だというのに、光り輝くアイがいるというだけでこの場が一端のステージにでもなったかのような錯覚を覚える。
それは見惚れるばかりの輝きだった。凶刃に倒れ一度は終わってしまったかに思われたその輝きは、どういう運命の悪戯か人ならざる霊魂として再誕し、今こうして僕の前で舞い踊っている。
そして罪深いことに、僕はその輝きを日常のどこに於いても認めることができた。隣を見ればいつも傍に光がある。それがこの世に天涯孤独となった己の人生をどれだけ熱く輝かしいものとしているか、彼女はきっと知る由もないのだろう。
『私を推してくれるのなら 爆レスをあげる──』
恍惚を噛み含んで舞い踊る明星を眺める。部屋の照明よりもなお明るく光り輝く、一番星の生まれ変わり。全てを照らし悉くを一新するが如き星光の眼差しがこの身を貫き、燃え立つような命の輝きが霊威甚大の風となって空間を満たした。
『ア・ナ・タのアイドル〜♪ サインはB! Chu☆』
ウインクと同時に投げキッスが飛ぶ。
アナタのアイドル。今この瞬間だけは、彼女は僕だけのアイドルだった。
振り付けの隅々にまで行き渡る練度の冴え。目を見張るような完璧なパフォーマンス。それらに対する感動以上に、この光景を独り占めしているという事実にこそ、僕は感動し、歓喜に打ち震えていた。
何て浅ましいのだろう。アイはあんなにも子供達との再会を願っているというのに。
こんな時間がもっと続けばいいと。愚かな僕は、そんなことを思ってしまうのだ。
『うーん、我ながら完璧! やっぱり久し振りでも身体が覚えてるもんだね☆ どう? 振り付け覚えた?』
「──ごめん、ちょっとぼーっとしてて細部があまりよく見れなかった。もう一度踊ってもらっていい?」
『ええええー!?』
本当に、どうしようもない。
十二年前、雪の降る夜に出会ったその日から。夜空の高みと深みとを結晶化させたような星の瞳に目を灼かれたその瞬間から、とっくに私は貴女の
【黒川あかねの執着】
「……あのさ、シオン君。これから、どうする?」
恋愛リアリティショー「今ガチ」の全収録が終了した日の夜。
とあるバーを貸し切り全ての出演者とスタッフが打ち上げに興じる中、あかねは隣に座る紫音に向かってそう問いかけた。
二人の周囲に人はいない。気を遣われているのだろう。あかねと紫音はカウンター席の片隅で静かにグラスを傾けながら、これからのことについて話し合っていた。
何故か時折り首元を
「あのシーンは放送されるわけだから、しばらくは彼氏彼女の関係を続けるべきだろうね。あかねさんには迷惑かけるだろうけど……」
「迷惑だなんて、そんな! むしろ私の方が迷惑かけないか心配なぐらいで……いや、その、そうじゃなくてね」
もじもじとグラスの
頭の動きに合わせて艶やかな黒髪がさらりと揺れる。室内の照明に照らされ黒紫色にきらめく髪に思わず視線を奪われたあかねは、星の輝きを湛えた瞳と視線が合ったことで我に返った。
「あの、だからね。その……」
たとえどれほど恐ろしかろうと、この問いだけは、偽りなき自分の言葉でなければならないのだと。
「私達の交際って、仕事? それとも……本気のやつ?」
下を向きそうになる視線をなけなしの勇気を総動員することで律する。真っ直ぐに紫音を見つめ、あかねは遂にその問いを口に出した。
その問いかけを受け、紫紺の瞳が一瞬揺れる。あかねにとってはそれだけで十分だった。星の光をたった一瞬だけ
「それは……」
「変な気は使わないで良いよ。シオン君は私のこと、異性として見てないでしょ?」
どこまでも優しい彼を困らせたくなくて、言い淀む紫音の言葉に被せるように声を重ねる。
あかねは全て察していた。興味がないわけではないのかもしれない。だがあかねは紫音の眼差しに恋愛感情の類が存在しないことを見抜いていた。
恋愛感情と異性に向ける欲望……即ち性的欲求は切っても切れない関係にある。欲望の
だが、紫音にはそれがない。仮にも女優であり、世間一般の水準と照らし合わせれば間違いなく美形に属するであろう同年代の少女を前にして、彼はまるで性的欲求を抱いた様子がなかった。
別にその手の欲求がなければ恋愛が成立しないというわけではない。しかし、今まさに若きを謳歌する少年少女の恋愛事においてその手の感情が介在しないことは極めて稀だ。仮にも好意を寄せているのならば、その手の欲求はむしろあって然るべきだと言っても過言ではないだろう。
つまり、あかねに対して
優しい彼のことだから、それを指摘せず曖昧なままにしておけば、あるいはずるずるとなし崩し的に男女の仲に持っていくこともできたかもしれない。しかし、あかねは命の恩人に対してそのような卑怯な手段を取りたくはなかった。そのような発想に至る己の醜さに心底嫌気が差しつつも、せめて好きな人の前では誠実な自分でいたかったのだ。
「……そうだね、正直に言おう。僕はあかねさんを異性としては見ていない」
「……っ」
「でも、それはあかねさんに限ったことじゃない。僕はこれまでの人生で誰かと恋仲になったこともなければ初恋を経験したこともないんだ。だから、僕は誰かに恋をするという感覚が分からない」
紫音は落ち着き払った声色で、淡々と己の胸の内を語った。
あかね
「要は精神的に未熟なんだよ、恥ずかしい話だけど。僕は誰か特定の異性に対して恋愛や愛欲といった感情を抱いたことがないんだ」
知らないものは理解しようがない。つまりはそういうことだった。
「恋愛、つまり男女間に生じる相愛というものは人が人に抱く感情の中でも一等特別なものだと思う。時に熱く燃え上がるものと形容される恋愛感情は、だからこそ血の繋がらない男女を強く結びつける。けど、僕にはそんな燃え上がるような愛だの恋だのを感じた試しがない。……そんな曖昧な男が誰かと付き合うなんて、相手に対して失礼だと思うんだ」
紫音の話を聞いたあかねは、自分のことを棚に上げて「真面目なんだね」と小さく笑った。
「真面目?」
「うん。だって、私達ぐらいの年齢で『恋愛とは何なのか』なんて考える人はいないよ。何となく相手を好きになって、何となく恋人同士になる人が殆どだと思う」
だが、あかねはその真面目さが嬉しかった。
紫音は分からないなりに一生懸命恋愛について理解しようとしていた。それはきっと相手に対する思い遣りがあるからだ。真に相手を思い遣るからこそ、生半可な考えで付き合うような真似をしたくないのだろう。
そうやって真摯に相手と向き合う真面目さと優しさに、あかねは救われたのだ。
「私は、恋愛っていうのは自分にはない何かを相手の中に求める心なんじゃないかなって思うんだ。それが長所であれ短所であれ、何かしら自分にはないものを相手に見た時にそれを魅力に感じて、やがて恋焦がれるんだと思う」
「自分にはないものを……それは、憧れと何が違うの?」
「憧れと恋は紙一重だよ、シオン君」
そうだ。あかねは紫音に憧れている。
かつての憧憬、あの巨星の少女と同じように強く輝くこの少年に、どうしようもなく恋焦がれているのだ。
だが、それ故にあかねは紫音が自分を恋愛対象として見れない理由が分かってしまう。何故なら、あかねにあって紫音にないものなど存在しないからだ。
いや、あかねに限った話ではないかもしれない。その美貌、その才能、芸能人として求められるあらゆる要素において紫音に比肩する者などこの世にどれだけいるだろう。それが同年代ともなれば何をか
恋をしたことがないというのも頷ける。紫音はたった一人で全て完結しているのだ。欠けているものなどないに等しい。唯一彼になくてあかねにはあると言えるのは芸歴ぐらいなもので、それすらあり余る才気の前では霞んでしまう。
そんなことは分かっている。紫音にはあかねなど必要ない。彼の人生において、自分など星の数ほどいる女の中の一人に過ぎないのだと。
だが、それでもあかねには紫音が必要だった。たとえ彼から求められることなどないとしても、この想いは止められない。
「じゃあ、私達はお仕事として彼氏彼女しようね。本当の彼氏彼女はゆき達がいれば十分だし」
「……ん? 本当の彼氏彼女って、ゆきさんが?」
「気付いてない? ゆきとノブ君、この間から付き合い始めたんだよ」
「えぇ!? 全然気付かなかった……番組ではふってたからてっきり……」
「テクニカルだよねぇ」
あかねは自然な流れで話題をずらす。紫音に気を遣わせないように、気にしていない風を装い、明るい口調で。
だが、笑顔の裏であかねは決意を固めていた。今は仕事上の関係でもいい。紫音の人生にあかねは必要ないことなど承知の上で、それでも彼の傍で、彼のために生きていくのだと。
彼に必要とされたい。代え難い何かになりたい。その他大勢の女の一人として終わりたくない。
──この人の人生の、欠けてはならない一部でありたい。
そのためには今のままではいられない。自分は女優だ。ならばあの夜の恩に報いるためにも、ただの女優として終わるわけにはいかない。
紫音と並び立てるような立派な女優になる。いつか彼に振り向いてもらえるような、彼に必要とされる存在にまで自分を高める。その時こそ、誰に恥じることもなくこの想いを口に出せると思うから。
黒川あかねは恋焦がれている。
あの嵐の夜に命を救われ、目を灼かれたその瞬間から。黒川あかねは、桐生紫音にどうしようもなく
【
今まで敢えてアイに対してどういう感情を抱いているかは明確に描写してこなかったが、今回でようやくその内心が明るみになった。
結論から言うと出会った瞬間にアイに脳を焼かれた厄介ファン。かなり深刻なレベルで精神をやられており、変な方向に独占欲を拗らせている。幸いにして理性を残しているので深刻なことにはならないが、何かの拍子に
ちなみにファンとしての思いと十年来の相棒としての友情と異性としての親愛が複雑に同居しており、その割合は5:4:1ぐらい。恋愛が分からないというのは本当で、なまじファンとしての思いが強過ぎて異性として見れていない。神聖視が過ぎてガチ恋できないタイプの厄介オタク。しかもそれすら割と無自覚という一番救いようのないタイプ。
【
ナチュラルに「私にはあなたしかいないの」とか言っちゃうレベルで紫音に対する想いがグラビティ。意思疎通できる相手が紫音しかいないという事実が拗らせている最たる要因。こればかりは生者に対する執着という幽霊の本能が悪さしているので致し方ない面はあるが、結果として嫉妬を拗らせると執着心が高じてヤベーことになる。紫音は「狂ったフリをしてるだけ」と判断したが、実は普通に怨霊になる一歩手前だった。
ちなみに紫音がやたら自己評価が低いことに首を傾げているが、原因は言うまでもなくアイ自身である。こんな顔面偏差値激高無差別破壊兵器が十二年間片時も傍を離れず常に隣にいればそりゃ価値観の一つや二つ容易に狂う。紫音は無自覚にアイを基準として世の女性を見てしまっているため、それもまた恋愛感情を分からなくさせる要因の一つになっている。
【
公式で重い女。有馬かなに対する憧憬は本人に拒絶されたことで裏返り反転アンチと化したが、同じような理由で憧れた紫音は普通に優しくしてくれたため普通に激重感情を抱くようになった。あるいは拒絶されなければかなちゃんに対してもこうなったのかもしれない。
しかし肝心の紫音は既にアイによって脳を焼かれており、恋愛感情行方不明の愛を知らぬ哀しきモンスターと化していた。それでも諦められず、紫音に振り向いてもらえるような立派な女優になることを決意する。言うなれば自分から告白するタイプの白銀会長。つよい(つよい)。