充希がこの北海道に足を運んだのは、かねてから目にかけていた一頭の1歳馬を買うためだ。
電車やバスを乗り継ぎ、慣れた足取りで目的地へと向かう。
北海道を来訪するのはこれが5、6度目。
父がオーナーブリーダーという家で育った彼女にすれば、ある種の里帰りのようなものだ。
「……けど、なるべく父さんとは会いたくないなぁ」
雲を通して差す陽光に目をひそめて、ふう、と息を吐く。
「まああの人、確か襟裳のほうだったから……今日は出くわすことはないよね」
はあ、と肩を落とす。
「……あたしが馬主になったってこと、遅かれ早かれ知ってくるだろうし……。ちょっと憂鬱だなぁ」
中央競馬の馬主資格はつい最近に取得した。あとは馬を購入し、調教師へ預託し、競馬場で走らせるだけとなった。
自身の憧れそのものを、自身の勝負服で走らせるというのは些か複雑だが、これは素直に喜べる。
なにせその馬が夢を駆ける瞬間の目撃者となれるのだから。
ただ気が引けるのは、父の存在。
競馬場に出向けば、高確率で顔合わせするだろう。一番会いたくない存在に。
今から初めての愛馬を買うというのに、充希の表情は芳しくない。
「……っ、いやいやっ! あんなオヤジがなんだ!
「ああ、あのチビですか。……物好きな方が来られたな」
目的地である牧場――ではなく、農家に到着し、いの一番に1歳馬がいるかと問えば、生産者の農夫はすっかり忘れていたのか、ポンと手を叩いて、
「ただあれ……すんごく悪いですよ、気性が。えーっと、こっちです」
「ありがとうございます」
通されたのは、農家の自宅の裏にある沢。
充希はこの沢を目にして、ある種の感慨を覚える。
「ここが……そのチビ、って馬が育ったところなんですね」
「まあね、
やっぱりかと充希は内心で頭を抱える。
こればかりは仕方ない。あの馬の気性的にも。
「ああ、いたいた。ほら、あれです」
そうして農夫が指さしたのが――野山から出てきたような黒鹿毛の馬だった。
「あの仔、買っていいですか!?」
「えっ」
唐突な申し出に農夫は目を丸くする。
「もし買い手がついてなかったら、ぜひとも買わせてください! 評価額通りに買わせてもらいますので!」
「お、お嬢さん、落ち着いてください! あいつ、
「買います!」
その宣告に、再び農夫は目を丸くする。
「とりあえず血統表だけでも……」
「買います!」
「わかりました! わかりましたから血統表だけでも!」
農夫は一旦倉庫へ入り、1分ほどで充希のもとに戻ってくる。
「これが血統表です。父シプリアニ、母セイシュン……」
「買います!」
「わかりましたから! 200万円で! 200万円でどうです!?」
「買います!」
充希はそう叫んで、農夫に押しつけるように札束を手渡す。
「では! この仔! 貰っていきます!」
沢へと走っていき、ほとんど野生と化した黒鹿毛に近寄る。
「おーい! 今日からあたしが! あなたの馬主だからねー!」
その声に対して、黒鹿毛はぷいと顔を逸らしてしまう。
「とりあえず3日後、またあの仔を迎えに来ます。その時はお願いしますね」
ひゃっほーい! とスキップしてこの場から立ち去る充希に農夫は、
「なんだったんだありゃあ……」
と零す他なかった。