1970年5月終盤。
日本競馬が今年も日本ダービーでの激闘と勝ち馬に沸く中、充希はというと。
「――おーい!
北海道・安平。その地域にある育成牧場を訪ねて、自身のただ一頭の持ち馬を撫で回してもみくちゃにしてしまっていた。
イマくん、と充希から呼ばれた黒鹿毛の2歳牡馬は、少々仰け反りつつも腕に擦りつこうとしている。
「イマくん買ってから2年だよ? 月日が経つのが早すぎるよ」
頭をわしゃわしゃとしつつ苦笑してみせる。
その笑みには、どこか温かさも含まれていた。
「しっかしイマくん、だいぶ垢抜けたかな? ちっこいけど最初よりは立派な馬体になっちゃってる気がするよ」
今度はそっと手を添えながら、黒鹿毛の馬体を見上げる。
2年前までは野山から這い出てきたような姿をしていたというのに、今となっては黒光りさえしているみたいな気がした。
まさかここまで成長するとは、と充希は笑みを湛える。
と、黒鹿毛を撫でていれば、頭にタオルを巻いたひとりの男性がニコニコしながらやってくる。
「すみません、今井オーナー。少し、よろしいですか?」
「ん? ああ、
精武という男性は充希をじーっと見つめたあと、思わず吹き出してしまう。
「……
「ぷっ、ははははは! いやいやごめんよ。
「いくら家族ぐるみの顔なじみといっても、一応繕いましょうよ……」
「くくく……いや申し訳ない。ミツキちゃんの幼少期を知ってるとね、どうにも……ぷっ、くくく……違和感が……」
「おやっさん!」
充希は口を結び頬を膨らませ、抗議の意を表明する。
だがその行動がまた、おやっさんの巌のような表情を崩す。
「いやー笑った笑った。……しかしねぇ、ミツキちゃんが馬主ねぇ」
「おやっさん、一応ここの場長でしょ? 建前でも――」
「あーやめやめ! 堅苦しい堅苦しい! 団子みたいな馬群の真ん中に挟まってる気分だよ! そういうのやめ!」
「……はいはい、わかったよ。おやっさんがそこまで言うなら……」
「うん、それでいい。……ただおやっさんとしちゃあ、ちと複雑なんだよなぁ」
「あたしが馬主ってこと? なんでさ?」
「やたら走らなさそうな馬を大枚はたいて買ってきそうだから」
「なに言ってんのさ、おやっさん、あたしは馬を見る目に自信が…………うん、ごめん。やっぱないや」
「いや馬を見る目云々より買ってきた馬なんだよ、問題は」
「……走りそうでしょ?」
「いやまったく」
充希は転げそうになる身体を抑えて、
「なんでさ!? 絶対走るでしょ!? イマくんは!」
と抗議するが、受けた本人は、
「いやさっぱり。併せ馬が壊滅的すぎる」
という言葉で一刀両断。
充希は思わず肩を落としそうになるが、まだだとばかりに声を上げようとすると。
「あ、でもいいとこあるよ、チビには」
「チビじゃないって!
「まあ、
「……他には?」
「さっぱり。ぶっちゃけ走らんぞ、このチビ」
もう頭を抱えるしかなかった。名前は流されるわ、評価は散々だわで。
「……まだ、まだ本番が……」
致命傷を幾度も受けているような気になりながらも、うぐぐと唸りつつそう零す。
「……そういやミツキちゃん、この馬、
いきなりそう問われて、顔を上げる。
充希は実った胸を張ると、自信満々に告げる。
「……関東!」
「へー、関東のどこだ?」
「……関東!」
「で、どこ?」
「……関東! あとは秘密!」
「……まさかとは思うが……」
「……本当は関西がよかった。けどどこにも受け入れ先どころか伝手もなかったから門前払い。だから関東のどこか……」
「……関東のほうも回ったのか?」
「回った。大御所の
はあ、と溜め息を吐かれて、充希はへなへなと座り込んでしまう。
ヒカルイマイが心配そうに嘶くほどには、今の充希はまっさらだった。
「しゃーねぇ。ひとつ借しだぞ」
そう告げられて、充希は目を丸くする。
ちょっと待ってな、とおやっさんは走っていくと、3分ほど経て戻ってくる。
「おーい、ミツキちゃん。朗報だぜ。関東だけど受け入れ先、あるぜ?」
「ホント!?」
ぺこぺこと礼をしながら、拝むほどには。
充希には今のおやっさんが輝いて見えた。
「おう。美浦の
「神様仏様おやっさん……!」
「チビの預託時か、暇があれば会ってみるといいさ。そこの調教師にな」
――けっこう面白い厩舎だぜ?
そう告げて、おやっさんは破顔した。