【第二部始動】モブウマ娘がハンドラー・ウォルターのところへ来る話【第一部完結】 作:合間理保
もっとウォルタートレーナー概念はやるべきだよなあ!?
目の前の扉がいやに大きく感じる。
他のトレーナー室と同じもののはずなのに、それだけが重いもののようだった。「ウォルター」と簡素なネームプレートのつけられたそれは、死地への扉と変わらないように思えた。
それでも、私はこの扉をくぐらねばならない。
そうしなければ私はもうどこへも進めないのだから。
曰く、ウマ娘を使い潰す悪辣。
曰く、地獄への道。
それが耳に入ってくるウォルターというトレーナーの評価だった。
実際、彼の下に入った何人ものウマ娘が怪我で引退を余儀なくされているらしい。
しかしそれでも私は彼を頼らなければならない。誰の目にも留まらず、評価されない私がどうにかしてレースに出るには、どんなトレーナーにでも縋るほかなかった。
意を決して慎重にノックする。
反応はない。居ないのだろうか。そのことにどこか安堵する自分がいる。
いや、そんなではいけないのだ。たとえこの道の先がどこへ続こうとも私は進まねばならない。もう一度ノックしようとした矢先、声が返ってきた。
「入っていいぞ」
ごくりとつばを飲む。失礼しますと声をかけ、扉を開けた。
デスクに座った男が、座ったままこちらを振り返るように半身を向けている。
灰のような目で、こちらを見てくる。じとりと、温度のない瞳は、だがその奥に赤い光をともしているようだった。
「生徒を呼んだ覚えはないのだが」
「はい、呼ばれていません。私は、私の意志でここに来ました」
「……」
彼はわずかに眉をひそめた。それはそうだろう。いきなり名も知らぬ生徒が押し掛けてきたのだから。
私は勢いよく頭を下げた。
「お願いします! 私の担当トレーナーになってください!」
「……」
「お願いします。私いつまでたっても担当になってくれるトレーナーがいなくて……。このままじゃレースも出れなくなってしまうんです!」
頭を下げたまま、お願いしますとくり返す。
彼は黙ってしまった。しばらくそのままの姿勢でいると、はあとため息が聞こえた。
「他を当たれ。俺よりいいトレーナーなど掃いて捨てるほどいる」
「すでに当たりました。その結果今ここに居ます」
「ならば諦めろ。お前には素養が無かった。中央以外にも走れるところはある」
「諦められません。私はまだここで走りたいんです」
そう、私はまだ走りたいのだ。もっと、もっと走りたいのだ。
泥をすすっても、石に食らいついても走りたいのだ。
それだけだった。
何秒経っただろう。私はまだ頭を下げ続ける。それ以外に方法を知らなかった。
「頭を上げろ」
「はいっ」
唐突にかけられた声に、弾かれるように応える。ウォルターと目があう。彼は変わらずに灰のような瞳で私を見た。
「着替えてこい」
「え?」
「体操服に着替えてこい。まずはお前の走りを見て考える」
「は、はい! わかりました! すぐに戻ります!」
踵を返して扉を開ける。「すぐに戻ります!」とくり返し言えば、彼はわずかに笑ったようだった。
私たちは学園内のレース場に立った。
「マイルだ。左回り。600メートルほどの直線、そこから合わせて400メートルのコーナー。残りは直線。高低差はほぼ無い。お前の全力を見せてみろ」
「わかりました」
願ってもいないチャンスだった。今までは誰一人として個人で走っているところを見てくれさえしなかったのだ。
わずかに震える体を押さえつけ、ゲートに入る。呼吸を一つ、二つ。
ゲートが開く。寸分の遅れもなく私は飛び出した。
最初の直線。スピードに乗ってくる。最高速を維持したまままっすぐ走る。ここには位置取りの駆け引きも何もない。ただただ自分の力を出し切ればいい。
邪魔なものが何もない。ただ、気分が良かった。
最初のコーナーに入る。体が外に振られないよう芝を踏みしめる。遠心力をねじ伏せ、スピードを殺さずに走ることは難しい。バランスを崩しかけた。
それでもやる。やれる。そのまま最終コーナーへ突っ込め。
手を振り、足を回し、コーナーを姿勢を崩すことなく走り切る。
そのまま最後の直線へ。そこで、私の体はもうへばった。コーナーで減速したスピードを巻き返せない。
最後の伸びが足りない。
肺が苦しい。筋肉が悲鳴を上げる。汗が全身から噴き出す。それでも前へ。前へ。
私の限界はここじゃない。ここで終わるのは私じゃない。
その意志だけで体を動かした。視野が黒く狭まる。酸素不足だろうか。いや違う。これは集中しているからだ。
そう自分を鼓舞して走り続ける。数百メートルがこんなにも長く感じる。
ゴール地点にいるウォルターが見えた。そうだ。私はまだ走れる。
ストライドが大きくなる。その勢いのままゴールにめがけて突っ込んだ。
ぜえ、ぜえ、と息も絶え絶えに私は芝に座り込んだ。
ウォルターがこちらに歩み寄ってくる。
そうだ、これは試験だった。こちらを見定めている人の前で情けない姿は見せられない。
そう思って立ち上がろうとしたところに、タオルが投げ渡された。頭の上を覆ったそれを私は素直に受け取る。汗を拭けば、徐々に息も落ち着いてきた。
「そのままでいい。聞け」
「はい。どうでしたか? 私は」
「……。どう答えてほしい」
その言葉に、何の迷いもなく私は答えた。
「率直に。ありのままを」
「そうか」
そこで、ウォルターは「では」と言葉を切った。
「スタートは良かった。反応がいい。その後のスピードに乗るまでも、まあ悪くはない。が、そこまでだ。トップスピードが足りない。コーナーの走り方も身に付いていない。スタミナが足りず出足の良さを活かせない」
「ぐ……」
「総じて、大成はしないだろう。トレーナーが付いてもたかが知れている凡百のウマ娘の一人。そういった印象だ」
「うぐ……」
率直にとは言ったものの、こうまでボロボロに言われるとさすがにこたえた。
思わずうなだれてしまう。
「で、どうしたい?」
「え?」
「言った通り、中央で大成はしないだろう。だが、走る場所はここ以外にもある。お前は、どうしたいと聞いている」
「私は……」
「俺の悪名は俺の耳にも届いている。それでもなお、お前はここで、俺のもとで走りたいか?」
私は渡されたタオルをぎゅうと握りしめた。
私がどうしたいか。
「私は、中央で走りたい。ボロボロになっても、グシャグシャになっても、ちょっとでも早く走りたい」
そう、私は楽しかったのだ。
辛くて、苦しくて、もう限界だと泣き喚きたくなろうと、私は走るのが楽しくてしょうがないのだ。
「だから、お願いします。ウォルタートレーナー。私をあなたのもとで走らせてください。走るチャンスをください。覚悟はできています」
立ち上がってそう言えば、彼は嘆息した。
「620だ。」
突然言われた数字に、私は目を丸くした。
「620。俺のもとにいる限り、それがお前の名だ。」
620。何の意味もない通し番号。それが私か。
私は殊勝に頷いた。
「わかりました。ウォルタートレーナー」
「では行くぞ。620」
お前のレースはこれからだと、彼は片頬を釣り上げた。
まあ最終的に曇ることになるんですけどね初見さん
トレーラーだけなので続きはない