【第二部始動】モブウマ娘がハンドラー・ウォルターのところへ来る話【第一部完結】   作:合間理保

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第10話

 仕掛けるタイミングは、いつだ?

 

 向こう正面、レースは半分を過ぎた。

 

 私はイレギュラーの先行ウマ娘の陰で好機を伺いながら、じっと前の様子を見ていた。

 

 逃げる二人の背中が少しずつ大きくなってくる。

 逃げ切るつもりの彼女らのペースが落ちてきている証だ。

 

 いや、待て。

 思っていたより、逃げウマ娘のペースが保たれていない。二人で争ったせいでスタミナの配分をミスしたのだろうか。

 

 このペースなら追い抜ける。

 

 背後の集団に意識を向ける。

 ウォルターの言っていた差しウマ娘は、集団の中で閉じ込められるような位置にいた。

 他のウマ娘たちから抜けだせられずにいる。

 

 逃げウマ娘は潰れ、差しウマ娘も勝負に出られずにいる。

 ということは。

 

 ちらりとこちらを見る妖しい瞳の先行ウマ娘と目が合う。

 彼女は口の端をわずかに吊り上げた。

 その目は雄弁に語っていた。

 

 ついてこられるか、と。

 

 瞬間、私は直感した。ここが勝負所だ。

 私と彼女は同時にスピードを上げた。

 一気に逃げウマ娘の背中が近づいてくる。相手はこちらに気付いたようだが、反応が鈍い。やはり、ペース配分を誤ったらしい。

 

 このままいけば、私はイレギュラーの先行ウマ娘に次いで二着を取れるだろう。

 

 このままいけば?

 

 ふざけるな。それで満足できるか。

 

 私は勝ちに来たんだ。中央で一度も取れなかった頂点、それが目の前に近づいているんだ。

 イレギュラー、それがなんだ。

 すべてを食い破って、私が頂点に立ってやる。

 私の力を証明してやる。

 

 私のために。

 617たちのために。

 ウォルターのために。

 

 ギアを上げる。私は加速していく。妖しい瞳のウマ娘は微かに笑った。

 デッドヒート。二人で横並びになり逃げウマ娘を躱す。観客の歓声が上がった。

 

 ここからは一騎打ちだ。私が勝つか、彼女が勝つか。

 わずかに彼女が先に出る。私は必死に追いすがった。

 

 全身の筋肉が悲鳴を上げる。呼吸が追いつかない。思考が千々にバラけていく。

 

 横並びの私たちの位置が、徐々に前後になっていく。

 だが、離されない。

 負けたくない。ウォルターに勝利を届けたい。

 肉体を燃やし、精神を燃やし、魂を燃やし、私は決して彼女から離されない。

 

 最後のコーナーを抜ける。あとは直線だけだ。

 

 だけど、その時点で私にはもう何も残っていなかった。

 私の中の全てを燃やし尽くし、灰のようになって、それでもなお彼女に付いていくのが精々だった。

 

 がくん、と膝から力が抜ける。よろけそうになり、視界が暗くなっていく。

 

 ここまでなのか、そう絶望に頭が染まっていく。

 

 その時、黒に塗りつぶされる視界の中で、赤い何かが瞬いた。

 鮮明に輝く赤い光が、倒れそうになる私を支えた。

 

 いや違う、これは光じゃない。

 声だ。

 赤く光る声が、私の体を押す。

 

 ああ、声が見える。

 

 ターフに倒れていった、勝利を掴めなかったウマ娘たちの数多の声が見える。

 

 声が、私の喉に空気を送る。

 声が、私の脚を回す。

 声が、私の背を押す

 

 赤い声に包まれ、私は限界を超え加速していく。

 

 黒に染まった視界が一気に開ける。

 こちらに妖しい瞳を向ける彼女の、驚きの表情が目に入る。彼女は歯を食いしばりスピードを上げる。私も彼女を逃さないよう加速した。

 

 私の中の全てを燃やし、絶望さえ焚べて、それでもなお彼我の差は埋まらない。

 まだだ。まだ何かあるはずだ。私はまだ戦える。私の全てをつぎ込め。燃え残った灰さえかき集めろ。

 

 火を点けろ、燃え残った全てに。

 

「お、おお、おおおおおっ!」

 

 叫びをあげ、私は体をつき動かす。少しずつ彼女との距離が詰まる。イレギュラー、その背に手が届く。

 彼女も私も走り続ける。私はついに彼女に並んだ。

 ゴールはもう目前だ。

 顔一つ分、私の体が前に出る。そして、

 

 ぐしゃり

 

 と音がした。

 

 私の脚が体を支えられなくなり、肩から地面に倒れこむ。勢いそのままに一回転、二回転と何度も転がりながらゴール地点を抜ける。上も下も分からず、私は芝の上に突っ伏した。

 

 観客から悲鳴が上がる。

 最後まで競り合っていたウマ娘は、その瞳を見開き、驚愕の顔つきでこちらを見る。

 後続のウマ娘が大きく私を避けるようにゴールを駆け抜けた。誰もが、顔をこわばらせていた。

 

「き、救急! 早く!」

 

 ウマ娘の悲痛な叫びが響く。

 私の脚はぐちゃぐちゃになっていた。痛みに声を出すことすらできない。

 

 周りの視線を遮ろうと、ウマ娘たちが私を囲むように立つ。私に背を向けているが、不安そうな様子が背中越しにも伝わった。

 

 妖しい瞳のウマ娘が近寄ってくる。

 

「君、大丈夫だ。すぐに救護が来る。なに、大したことはない。だからこっちを見ているんだ」

 

 安心させようとしてか、優しい言葉をかけてくる。その顔の向こう、背後に映る電光掲示板の結果が目に入った。私は、見てしまった。

 

 私は二着だった。

 私は彼女より僅かな時間前に立ち、けれどゴール直前で転んだ。大きく失速し、ゴール地点ではすでに妖しい瞳のウマ娘のほうが前になっていたのだ。

 

 涙が溢れてくる。体の痛みにではない。

 

 勝てなかった、その事実に打ちのめされる。

 

 ぎゅうと芝を握る。唇を噛みしめた。

 救急隊が駆けつける。

「鎮痛剤の用意を!」

 隊員が声を張り上げた。

 そばにはウォルターの姿もあった。彼は静かに私を見つめていた。

 

 隊員の手でストレッチャーに乗せられる。私はウォルターのほうに顔だけ向けた。

 ウォルターの顔、灰が降り積もったような瞳を見て、私は悟った。

 

 失敗した。

 

「あ、ああ、ごめんなさい、ごめんなさいっ」

「大丈夫だ。大丈夫だから今は安静にするんだ」

「こんなっ、ごめんなさいっ」

 

 ウォルターの瞳に、彼の背中に降り積もる灰を幻視し、私はただ謝ることしかできない。

 

 617の言った通りになった。きっと後悔することになる。彼女はそう言っていた。

 

 私は失敗したのだ。

 自分の身体を壊し、そしてウォルターの重荷となってしまった。彼が背負いこむ、怪我をさせたウマ娘の一人となってしまった。

 ウォルターの望まぬ結果をもたらし、彼の積み重ねの一つとなってしまった。

 

 噂はさらに増えるだろう。

 ウォルターに使い潰されたウマ娘がまた一人、と。

 

 ウォルターは優しい顔で私を安心させようとした。けれど、その瞳は罪の意識に溢れていた。

 

 彼のせいでは無いのに、私が愚かだったばかりに、彼は罪に苛まされる。

 ウォルターはただただ私を心配し、声をかけてくる。

 

「大丈夫だ。だから、今は戻って、休め。――。」

 

 その言葉に、私は思わず彼の腕を掴んだ。

 休めと言われ呼ばれた名前、それは、私の名前だった。

 

「ち、違う」

 

 声が震えた。恐怖に腕まで震えだす。

 

「違う。私は620。俺のもとにいる限り、私は620だって、あなたがそう言った」

 

「もういいんだ。大丈夫だ。今は休め。――」

 

 やはり620とは呼んでくれない。私はもう620ではいられないのだろうか。

 震えが体全体に広がる。奥歯がガチガチと鳴った。

 私は幼子のようにウォルターの腕を強く握った。

 

「お願い。私はまだ走れる。だから……」

 

 620と呼んで、と言おうとしたのだけれど、それより先に私の意識は薄れていった。

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