【第二部始動】モブウマ娘がハンドラー・ウォルターのところへ来る話【第一部完結】 作:合間理保
仕掛けるタイミングは、いつだ?
向こう正面、レースは半分を過ぎた。
私はイレギュラーの先行ウマ娘の陰で好機を伺いながら、じっと前の様子を見ていた。
逃げる二人の背中が少しずつ大きくなってくる。
逃げ切るつもりの彼女らのペースが落ちてきている証だ。
いや、待て。
思っていたより、逃げウマ娘のペースが保たれていない。二人で争ったせいでスタミナの配分をミスしたのだろうか。
このペースなら追い抜ける。
背後の集団に意識を向ける。
ウォルターの言っていた差しウマ娘は、集団の中で閉じ込められるような位置にいた。
他のウマ娘たちから抜けだせられずにいる。
逃げウマ娘は潰れ、差しウマ娘も勝負に出られずにいる。
ということは。
ちらりとこちらを見る妖しい瞳の先行ウマ娘と目が合う。
彼女は口の端をわずかに吊り上げた。
その目は雄弁に語っていた。
ついてこられるか、と。
瞬間、私は直感した。ここが勝負所だ。
私と彼女は同時にスピードを上げた。
一気に逃げウマ娘の背中が近づいてくる。相手はこちらに気付いたようだが、反応が鈍い。やはり、ペース配分を誤ったらしい。
このままいけば、私はイレギュラーの先行ウマ娘に次いで二着を取れるだろう。
このままいけば?
ふざけるな。それで満足できるか。
私は勝ちに来たんだ。中央で一度も取れなかった頂点、それが目の前に近づいているんだ。
イレギュラー、それがなんだ。
すべてを食い破って、私が頂点に立ってやる。
私の力を証明してやる。
私のために。
617たちのために。
ウォルターのために。
ギアを上げる。私は加速していく。妖しい瞳のウマ娘は微かに笑った。
デッドヒート。二人で横並びになり逃げウマ娘を躱す。観客の歓声が上がった。
ここからは一騎打ちだ。私が勝つか、彼女が勝つか。
わずかに彼女が先に出る。私は必死に追いすがった。
全身の筋肉が悲鳴を上げる。呼吸が追いつかない。思考が千々にバラけていく。
横並びの私たちの位置が、徐々に前後になっていく。
だが、離されない。
負けたくない。ウォルターに勝利を届けたい。
肉体を燃やし、精神を燃やし、魂を燃やし、私は決して彼女から離されない。
最後のコーナーを抜ける。あとは直線だけだ。
だけど、その時点で私にはもう何も残っていなかった。
私の中の全てを燃やし尽くし、灰のようになって、それでもなお彼女に付いていくのが精々だった。
がくん、と膝から力が抜ける。よろけそうになり、視界が暗くなっていく。
ここまでなのか、そう絶望に頭が染まっていく。
その時、黒に塗りつぶされる視界の中で、赤い何かが瞬いた。
鮮明に輝く赤い光が、倒れそうになる私を支えた。
いや違う、これは光じゃない。
声だ。
赤く光る声が、私の体を押す。
ああ、声が見える。
ターフに倒れていった、勝利を掴めなかったウマ娘たちの数多の声が見える。
声が、私の喉に空気を送る。
声が、私の脚を回す。
声が、私の背を押す
赤い声に包まれ、私は限界を超え加速していく。
黒に染まった視界が一気に開ける。
こちらに妖しい瞳を向ける彼女の、驚きの表情が目に入る。彼女は歯を食いしばりスピードを上げる。私も彼女を逃さないよう加速した。
私の中の全てを燃やし、絶望さえ焚べて、それでもなお彼我の差は埋まらない。
まだだ。まだ何かあるはずだ。私はまだ戦える。私の全てをつぎ込め。燃え残った灰さえかき集めろ。
火を点けろ、燃え残った全てに。
「お、おお、おおおおおっ!」
叫びをあげ、私は体をつき動かす。少しずつ彼女との距離が詰まる。イレギュラー、その背に手が届く。
彼女も私も走り続ける。私はついに彼女に並んだ。
ゴールはもう目前だ。
顔一つ分、私の体が前に出る。そして、
ぐしゃり
と音がした。
私の脚が体を支えられなくなり、肩から地面に倒れこむ。勢いそのままに一回転、二回転と何度も転がりながらゴール地点を抜ける。上も下も分からず、私は芝の上に突っ伏した。
観客から悲鳴が上がる。
最後まで競り合っていたウマ娘は、その瞳を見開き、驚愕の顔つきでこちらを見る。
後続のウマ娘が大きく私を避けるようにゴールを駆け抜けた。誰もが、顔をこわばらせていた。
「き、救急! 早く!」
ウマ娘の悲痛な叫びが響く。
私の脚はぐちゃぐちゃになっていた。痛みに声を出すことすらできない。
周りの視線を遮ろうと、ウマ娘たちが私を囲むように立つ。私に背を向けているが、不安そうな様子が背中越しにも伝わった。
妖しい瞳のウマ娘が近寄ってくる。
「君、大丈夫だ。すぐに救護が来る。なに、大したことはない。だからこっちを見ているんだ」
安心させようとしてか、優しい言葉をかけてくる。その顔の向こう、背後に映る電光掲示板の結果が目に入った。私は、見てしまった。
私は二着だった。
私は彼女より僅かな時間前に立ち、けれどゴール直前で転んだ。大きく失速し、ゴール地点ではすでに妖しい瞳のウマ娘のほうが前になっていたのだ。
涙が溢れてくる。体の痛みにではない。
勝てなかった、その事実に打ちのめされる。
ぎゅうと芝を握る。唇を噛みしめた。
救急隊が駆けつける。
「鎮痛剤の用意を!」
隊員が声を張り上げた。
そばにはウォルターの姿もあった。彼は静かに私を見つめていた。
隊員の手でストレッチャーに乗せられる。私はウォルターのほうに顔だけ向けた。
ウォルターの顔、灰が降り積もったような瞳を見て、私は悟った。
失敗した。
「あ、ああ、ごめんなさい、ごめんなさいっ」
「大丈夫だ。大丈夫だから今は安静にするんだ」
「こんなっ、ごめんなさいっ」
ウォルターの瞳に、彼の背中に降り積もる灰を幻視し、私はただ謝ることしかできない。
617の言った通りになった。きっと後悔することになる。彼女はそう言っていた。
私は失敗したのだ。
自分の身体を壊し、そしてウォルターの重荷となってしまった。彼が背負いこむ、怪我をさせたウマ娘の一人となってしまった。
ウォルターの望まぬ結果をもたらし、彼の積み重ねの一つとなってしまった。
噂はさらに増えるだろう。
ウォルターに使い潰されたウマ娘がまた一人、と。
ウォルターは優しい顔で私を安心させようとした。けれど、その瞳は罪の意識に溢れていた。
彼のせいでは無いのに、私が愚かだったばかりに、彼は罪に苛まされる。
ウォルターはただただ私を心配し、声をかけてくる。
「大丈夫だ。だから、今は戻って、休め。――。」
その言葉に、私は思わず彼の腕を掴んだ。
休めと言われ呼ばれた名前、それは、私の名前だった。
「ち、違う」
声が震えた。恐怖に腕まで震えだす。
「違う。私は620。俺のもとにいる限り、私は620だって、あなたがそう言った」
「もういいんだ。大丈夫だ。今は休め。――」
やはり620とは呼んでくれない。私はもう620ではいられないのだろうか。
震えが体全体に広がる。奥歯がガチガチと鳴った。
私は幼子のようにウォルターの腕を強く握った。
「お願い。私はまだ走れる。だから……」
620と呼んで、と言おうとしたのだけれど、それより先に私の意識は薄れていった。