それでもいい、という方のみお楽しみください。
物語の前日弾となります。
題名も、内容も、本編で変わる可能性もありまが、大体こんな世界観だと思って頂ければと思います。
開演
薄暗さを感じない部屋の中。天井に取り付けられた電灯と、窓から入ってくる太陽光で部屋の明暗を調節している。
掃除が行き届いていない窓枠には薄っすらと埃が積もっているが、広い事務室には埃臭さは感じない。外から人の往来があるのもあるが、定期的に空気の入れ替えをしているためだ。
部屋の中では話し声は少なく、大部分はカタカタとプラスチックの打音が部屋に響いている。周りを見回していたことで、少しの間止めていた手を再度動かし、私も周りにならって書類作成のためにキーボードを指で叩いた。
報告書を書くために脳内の棚から抜粋した文言を適当に並べていく。報告書の内容は無難も無難、誰の目にも止まることは無いだろう。会社で昇格していくには、上司や役員の目に留まらなければならないが、前回とほぼ変わらない報告書から、自分でも昇格するつもりのない文章なのがひしひしと伝わる。
次の文言をどうするか、背中をじりじりと焼く日差しを感じながら考えていると、隣に目が映った。
「…はぁ」
隣の男が始業から何度目かわからない大きなため息をつく。こちらまで嫌になる嫌気を孕んだため息を吐いた男は、ボサボサで手入れが一切なされていない頭を掻きながら、書類に向き合っている。
ため息は私を挟んで男とは反対側の席にいる女性からも聞こえる。必要最低限の化粧や手入れはなされているが、彼女は窶れて疲れ果てている様子だ。
こんなため息合戦が日夜行われている職場に捻じ込まれ、私もここに来ている事を何度目か後悔した。だが、また別の仕事を担っているため、仕方が無いと苛立ちを飲み込んだ。
太陽が頭の上にあったのが少し前に感じていたが、気が付けばもうオレンジ色で普通の会社ではもうすぐ終業となるだろう。この会社ではさらに数時間の労働の末、日付が変わる直前に解放される。ため息の一つでも付きたいのは心底頷ける。
しかし、ため息が漏れているのは私の周りだけではない。私の両隣とその先に数人、向かい側にも机はずらりと並び、その奥にも見える。数十人の労働者がタコ部屋にぎゅうぎゅうに押し込まれ、皆モニターを見ながら大きなため息をが漏らしている。
両隣にいる二人だけでもここの労働がかなり過酷である事は想像がつくが、ここでは部屋中に蔓延している。
休憩がてら外の空気を吸いに行きたくなるが、つい三十分前に行ってしまっていたことを思いだし、上がりかけた腰を古びた堅い椅子に落とした。
私たち労働者が固められている場所の先、部屋の対岸にはソファーや収納棚が置かれた簡易的な事務所と、会社の社長が座る大きな机が設置されている。
そこには私たちを束ねている社長がふんぞり返って座っているが、特に仕事をしている様子はなく、新聞を読みふけっている。
馬車馬のように働かせられている従業員たちが声を大にして反発をしないのは、彼の風貌が明らかに普通の社長とは異なるからだ。指には指輪、首からは派手なネックレスを下げている様子から、堅気の人間ではないのが伺える。もしくは、そう言った人種の息がかかった者だろう。
ここで味気ない書類作成を行う以外で、私が遂行するべき仕事は彼らが行っている不正の証拠を集めることだ。
だが、連中も馬鹿ではなく、中々尻尾を出さない。焦って捜査してもこちらがボロを出してしまう可能性もあり、ここはゆっくりと時期を見なければならない。
そう思い、あくびを噛み殺しながら再度キーボードに向かおうとした時、傍らに置いていたボールペンを床に落としてしまった。フローリングの床に甲高いプラスチック音はよく響くが、よく似た打音がそこら中で鳴っている事で誰の目にも留まらない。
自分の事で精いっぱいなのか、両隣の男女もこちらに目を向けることなくキーボードとモニターを交互に見ている。
座ったままペンを取ろうとするが、コロコロと私の後ろ側へと転がっていく。どうしても立たなければならないようで、やむを得ず立ち上がる。
反対側に座っていた女性は、また休憩に行くのかと言いたげな顔をする。しかし、そんなことよりも自分の仕事を終わらせる方が優先されるらしく、すぐにモニターへと視線を下げる。
私は後ろを振り返り、床に落ちているペンを見下ろした。座っている私の手がギリギリ届くか届かないかの境界線に落ちており、忌々しいと罵りたくなった。
まあいいか。いら立ちを発散している暇があったら、早く拾って業務に戻った方が目立たない。しゃがんで落ちているボールペンを拾った。休憩から三十分は経過しているとはいえ、一日中同じ姿勢である。痛くなってきていた背中を伸ばし、凝り固まった筋肉を解した。
バキバキと音がなるのを聞きながら大きく伸びていると、不意に外の風景が目に入る。飽きる程見た景色だが、夕日に照らし出される街並みと言うのはまた違う。
数秒か、十数秒か。窓の外を眺めていたが、不意に後ろから声がする。野太い声は、部屋の奥でふんぞり返って新聞を読んでいた部長のだろう。
「ケイト!サボってないで仕事しろ」
参考までに言っておくと、偽名だ。こういった組織内部に入り込み、捜査をするうえでは恨みを買いやすいため、身分や立場がバレぬように本来とは異なる名前を語っている。
ふんぞり返っている社長に対し、どの口が言っているんだと言いたくなったが、ぐっと堪えた。すみませんと一言返し、仕事に戻ろうと椅子をどかした。座る前にもう一度、外の風景を眺めようとした時だ。
見慣れて見るところもなくなっていたはずの風景が、一変したのが視界に広がった。数百メートル先だろう。見たことも無い輝きを放つ青い光が瞬いた気がした瞬間、淡青色の閃光と共に青い炎が立ち上がった。
巨大だと一瞬でわかった。数百メートル先でも、数台のトラックを簡単にのみ込むような大きさの炎が出現すれば、見間違えることは無いだろう。
急に出現した炎に、ガス管が破裂でもしたのかと思った。しかし、ガス管による爆発の割には炎の量は少なく、見慣れない淡青色の閃光も見えたことで、脳の端では爆弾による爆発だとなぜか理解できた。
炎の膨らみ方がガスとはかけ離れた形であったことも爆発と結論付ける要因になったが、大部分の理由は爆発が起こった地点は主な主要道路で、ガス管は通っていない筈だったからだ。
そんなことを冷静に考えていたが、巨大な爆発の後には決まって衝撃波が発生する。すぐさま行動しなければ、死ぬ。そう脳が結論付けた。
爆弾自身の威力もあるだろうが、発生した高温で高密度の空気が数百から数千倍に膨張し、空気が放射状に拡散した。
近くにいた人間は爆風で舞い上げられると衝撃波で砕かれた。車は軒並みひっくり返り、頑丈なフレームは飴細工のようにひしゃげて折れ曲がった。
木々は根元からなぎ倒されるか、風圧に耐えきれずに折れてしまうのも少なくはない。地面を綺麗に均している強固なアスファルトは、爆心地近くでは捲り返って土が露出し、遠く離れているはずのこの辺りにまで亀裂は一瞬で及んだ。
爆発に近ければ近い程に建物は地面のアスファルトと同じくコンクリートが砕け、粉塵をまき散らしながら倒壊する。爆発の衝撃を諸に受けたかどうかで変わってくるが、爆発から半径数十メートル内に存在した建築物は軒並み崩れていく。
そこから離れた地点では、倒壊はせずとも衝撃を受けた建物は亀裂や一部半壊し、内部の鉄筋を露出させていく。爆発地点から離れれば離れる程、倒壊するほどの影響は受けなくなっていくが、離れた分だけ影響する面積は倍々に増えていく。
一キロ程度離れれば、衝撃波で多少の損壊と破砕した窓ガラスの雨を浴びる程度で済む。だが、それは倒壊する部分から見れば軽症であるといった話だ。人体が浴びればただでは済まない。
そして、私が居る地点では建物が半壊する恐れがあった。このまま突っ立っていれば、ガラス片でズタズタにされるだけでは済まない。爆心地から飛んできた様々な破片に撃ち抜かれ、一瞬で絶命することは間違いないだろう。
本能がそうさせたのか、それとも、ただ反射神経が良かっただけなのか。私には判断が付かなかったが、爆発の衝撃が到達する寸前でしゃがむことができた。
光よりも圧倒的に遅い音と衝撃波が、爆発から一テンポ遅れて私たちの耳に届いた。壁の陰に隠れたはずだったが鼓膜だけではない、全身を殴打されたような衝撃に、私は意識を一瞬にして奪われた。
「うっ……」
暗転していた視界が僅かに回復した。朦朧とする意識の中で、私は天を仰いでいた。亀裂の生じている天井が視界全体に映し出されており、パラパラと砕けた破片が所々から落ちてきてる。
天井に括り付けられているはずだった蛍光灯も、反射板ごと外れて地面に落下してしまっていたり、天井に辛うじてくっついていても割れて中の端子が露出している。
大量の紙が舞い上がっている。爆風で誰かの始末書か報告書かもわからない再生紙が、大量に舞い落ちてきているのは、倒れてからさほど時間が経っていないことがわかる。
意識を繋いでおくことができず、再度意識を失いそうになっていく。これまで過ごしていた日常が手から離れていくのをなんとなく感じていたが、現実逃避をして現実を受け入れたくなかったのだろう。そのまま眠りに付くようにして、意識を手放そうとした。
近くに何かが落ちて来たのか、床を伝って来た大きな衝撃に手を離れかけた意識が急激に戻ってくる。
目を開くと、相変わらず亀裂の生じた天井が映る。自分が住んでいるマンションの天井を、見慣れた天井を見上げる形で起きることを期待したが、そこにあるのは非情にも非日常が広がっている。
「う……っ………くっ…………」
意識を取り戻して体の異常を自覚し始めると、身体の節々に痛みを感じ出した。あまりの爆発音に鼓膜が破れかけたのか、耳も耳の奥も痛い。衝撃が脳にまで響いたのか、感じたことの無い頭痛に襲われた。
ただ立ち上がるだけなのに、無意識のうちに呻き声をあげてしまった。耳鳴りがしており、更にグラグラと視界が揺れている。耳の奥にある三半規管がやられたのか、平地にいる筈なのにちょっとした斜面にいるような感覚がする。
一度体を起こすのを諦め、しばらくの間体を横にしたまま休めていると、甲高い耳鳴りが少しずつ収まって来た。徐々に周りの音が聞こえ始めたが、何だか聞き慣れない音がする。まだボンヤリとしかわからないため、何かと聞き間違ったのだろう。
回復に専念するため、目を閉じたまま仰向けで倒れていたが、私はすぐに飛び起きる事となった。
吸い込んだ空気の中に、日常ではまず感じられない物が含まれていたからだ。土や埃臭いのは、この状況であるならば状況の分析に参考にならないが、それらの中に鼻腔を通して刺激臭を感じた。この特徴的な香りは、火薬の匂いだ。
「っ…!?」
全身に残っていた痛みも忘れ、飛び起きる。それでもボンヤリとしか音を拾えない鼓膜からは、くぐもった断続的な音しか聞こえてこない。
緊張度が高まり、意識も完全に覚醒したことで、聴覚の回復が早まったのだろうか。耳鳴りが収まると、町中の至る場所で火薬の破裂音が轟いていた。
十数回も連続で規則的に聞こえてくるものもあれば、不規則的に聞こえてくるのもある。それが小火器による発砲音であるのは、火を見るよりも明らかだった。
一度失神から立ち直りかけた時には、まだ何かもわからない紙が宙を舞っていたが、既に紙や塵が地面に落ちている。
先ほどまでは、斜面にでも立っているような感覚がしていたが、三半規管がやられていたことで平衡感覚がおかしくなっているのかと思っていたが違うようだった。
辛うじて掴んだままだったボールペンを取り落とすと、右側に向かって転がっていく。止まることなく進んでいくペンは、衝撃波で崩れてなくなった壁から外に落ちて行った。
滑って落ちないように周囲を見回した。爆心地からは未だに色濃い黒煙が上がっている。車のガソリンに引火でもしてしまったのだろう。形成されたクレーターの中心では、オレンジの炎が燃え盛っている。
「……テロ…?」
その一言を絞り出すので精一杯だった。しかし、道路を封鎖する様子や警察が動く様子が無かったのが矛盾している気がする。
これだけ大きな爆発は組織ぐるみでなければ不可能なはずだが、それならば国が察知して動かないわけがない。逆に、一人でこれだけの爆発を起こすなども不可能であり、聞こえてくる射撃音からも大きな組織でのテロ、もしくは他の国による奇襲攻撃だと予想される。
とはいえ、戦争やテロだったとしても決めつけるのは早すぎる。情報が少ないうちから決めつけるのは早計過ぎるだろう。
どんな風貌なのかわかればおおよその見当がつくが、爆発の影響で大通りはまだ砂塵が少し舞っていて、襲撃者たちの姿がよく見えない。
人の姿は見えずらいが、大通りの被害状況はおおよそ掴める。道路は爆発でほぼすべて吹き飛ばされてしまったようで、地面が露出している。木々も根こそぎ吹っ飛ばされ、建物の近くに散乱している。そこには人の形をした物体が横たわっている。動かない部分に関しては、考えないようにした。
都心であるためかなりの数のビルが並んでいたはずだが、爆心地周辺では跡形もなく崩れている。数百メートル離れたこのビルでさえも傾く威力であるため、それもうなづける。
隣や道路を挟んで向かい側のオフィスが見えてしまうぐらいには、損傷が激しい。机は投げ飛ばされるか、壊れた壁に押しつぶされている。そして、それは物だけでなく人間もだ。
血を流して倒れる人々の姿が確認できるが、やはり一人として動く人間はいない。倒れてからどれだけの時間が経っているかわからないが、爆心地近くには人間が軒並みいなくなるぐらいには経過しているようだ。
あれだけ栄えていた街並みを、見る影もなくなったビル群を現実を受け入れられずに眺めていたら、爆心地とこのビルの丁度間辺りで爆発が起こった。
コンクリートや土が周辺に飛び散り、六階は高さのあるビルのはずだったが、目線の高さにまでバスケットボール台の破片が打ち上がっている。それでも百メートル以上は離れているはずなのに、破片がここまで到達した。
すぐ隣で建物を支えている柱に、コンクリートの塊がぶち当たる。表面のコンクリートが剥がれ落ち、大きく歪ませて内部の鉄筋を露出させた。
「…いかないと……」
その爆発に触発されるように、私も動き出した。後方を振り返ると、外とはまた違った風景が広がっている。隣のビルに隠れかけていたことで、私の居る位置の外壁は亀裂で済んでいるが、窓は全て割れてしまっていた。
そのガラス片を浴びたのだろう。あのため息をついてた両隣の男女は上半身を血塗れにし、モニターもキーボードすら残っていない薄汚れた机に突っ伏している。
彼女達も演技をしているのではなく、本当に死んでいるのだと実感させられる。血と埃の匂いに交じって、僅かにアンモニア臭がする。呼吸が止まり、脳の機能が低下したことで全身が脱力し、尿道を塞いでいた筋肉が弛緩して膀胱内の尿が出てしまっているのだ。
机を挟んで反対側には私をじろりと睨んできていた女性は、顔の詳しいパーツがわからない程原型を失っており、口と思われる場所から赤い泡を吹いて死んでる。
窓際にはふんぞり返って新聞を読んでいた社長が、その時の体勢のまま高級そうな椅子にもたれていた。持っていた新聞は爆風で吹き飛んでしまっているのだろう、指には掴んでいたであろう新聞のざらばん紙片が残っているが、真っ赤な血にまみれている。
ガラス片が大量に突き刺さっている社長だった者の口は半開きになっているが、その奥には抉り込んだガラス片が光を反射してキラキラと輝いている。ガラス片と唾液の混じる血液を口の端から垂れ流す死体から目をそらし、歩き出した。
あまり踵の高い靴は履いていないが、走ろうとすれば小石を踏んで転んでしまうため、歩く場所は選びながら扉へと向かっていく。タコ部屋のように人が詰め込まれていたはずだが、奥側に行けば行くほど死んでいる人間は少なく、死体は残っていない。みんな逃げてしまっているようで、廊下や階段に繋がる扉は無造作に開け放たれている。
扉から廊下に出て、左側にある非常階段へ向かおうとしたが、開かれている扉の奥に階段の踊り場が見えない。爆発の衝撃で崩れてしまったのだろう。金属の手すりだけが一部分残っているだけだった。
右側の階段から地上に向かって歩き出したが、建物自体が傾いている事で降りにくい。亀裂が生じて外の景色が一部見えているが、どこもこの建物とそう変わらないように思える。
目や耳に入ってくる過剰な情報量に、脳が圧倒されていたのだろう。閉所に入った事で一時的に情報が遮断され、自分の事を変える見ることができた。こめかみの辺りに痛みを感じていたが、手を伸ばして触れると水気を帯びていた。
指を見ると真っ赤な血がこびり付いており、そういえば頬に液体の垂れる感触がしていると思っていた。顔を傾けて自分の体を見ると、白かったスーツの襟元が血で赤く染まっている。
血は見慣れていると思っていたが、流石に血の気が引きそうだった。だが、流石に倒れる程ではなく、そのまま階段を降り続けた。
五階から降りはじめ、二階へ差し掛かろうとした時だ、銃の発砲音が響きわたった。先ほどの遠く離れた地点で鳴っていた小さなものではなく、かなり近い耳につんざく破裂音だ。
耳を塞がなくともいいが、反射的に耳を押さえた。塞いだ上からでも発砲音が鼓膜を揺るがす。連続した発砲音が狭い建物内を反響し、どこから聞こえてくるのかわかりづらかったが、この建物内である事だけはわかった。
「っ…!」
正体不明の襲撃者は建物内部に既に侵入してきていたようで、身を隠していたであろう生存者を見つけたらしい。複数人の男女の物と思われる悲鳴が上がり、地面に倒れる音が聞こえてくる。丁度、下の階からだ。
『クリア』
くぐもった声がすると階段を上り始める足音が聞こえて来た。電気系も最初の爆発でやられているため、電灯の付いていない暗い階段を何かが上がってくる。ライトの光が階段の吹き抜けから私を照らし出した。
「っ…!」
思ったよりも強い光の強さに顔を背けたのもあるが、身を引いたことが功を奏した。耳を劈く破裂音と共に、耳の横を高速で何かが通り過ぎた。
コンクリートの壁を弾丸が砕き、大量の破片の雨を私に降らせた。そのまま階段を駆け上がろうとするが、屋上へ向かえば八方塞がりとなってしまう。そう分かってはいるが、階段を駆け上がる足を止めることはできなかった。
私の革靴が床を蹴る音と、私を追おうとする重いブーツの音が下から私を追ってくる。全力で走っているはずなのに、全く距離が離れる様子が無い。それどころか反響しているせいで、手を伸ばせば届くような近距離に居そうな感覚がして焦りが生じる。
どうしようどうしようと頭の中が混乱しかけるが、冷静になれと頭を働かせた。踊り場を回り、元々いた階へ続く階段を駆け上がる。次の踊り場には、誰かが使っていた金属のロッカーが目に入った。
開かれている金属のロッカーの中には、私物がほとんど残っていない。持ち主か火事場泥棒が持って行ったのだろう。今の私には好都合だ。それでも私にとっては重いが、軽くなった金属のロッカーを上って来た集団に向けて突き落とした。
『来るぞ!』
発砲音に引けを取らない金属音を鳴らし、火花を暗い階段に瞬かせながら、金属のロッカーが先頭を上ってきている人物を押しつぶした。
仲間からの警告がなされたが反応が一瞬遅れ、ロッカーの餌食となった。大した重さではなかったが運動エネルギーが重なり、致命傷に至らせたことだろう。
効果のほどを見る前に隠れたが、ライトに照らされて一瞬見えたのは、警察や民間人が武装したのではなく、軍隊のような装備を着込んでいた。
ガスマスクのような物を顔に装着し、ヘルメットで頭部をしっかり保護している。上から下、指先まで服や手袋で覆われ完璧に闇に溶け込んで、ライトで照らされなければ見えなかっただろう。
ロッカーを付き落とした反撃がなされ、鼓膜を刺激する発砲音が狭い階段内に轟いた。二度、壁を叩くような音が響き、続いて砕けたコンクリートがフローリングの床に散らばっていく。
それに足を取られないように、先ほどまで仕事をしていた事務室に戻って来てしまった。二階程度の高さであるのであればともかく、逃げるにしてもこの高さでは飛び降りる訳にもいかない。
右往左往しそうになるが、後ろからは金属のロッカーを避けながらゆっくりと階段を上がってくる足音が聞こえてくる。なるべく足音を立てないように移動し、すぐに自分の席だった場所へ回り込んだ。
回り込まなければならない程に机が散乱したり並んでいるため、早く隠れなければならない状況ではもどかしい。
いくつかの死体の後ろを通り過ぎ、自分の机にきた。椅子は近くに転がっているが、それに用はない。椅子をしまうための机の下の空間に体を滑り込ませた。
机の下は三方を板で覆われており、机を挟んで向かい側に来るであろう兵士に私の姿は見えない。多少なりとも時間を稼げるかもしれないが、じり貧になるのは間違いないだろう。
しかし、それをわかっていても、隠れる選択を取らずにはいられなかったのは、明らかに動揺していたからだ。
私が机の下に隠れるとほぼ同時に、事務室へ兵士の入ってくる足音が聞こえて来た。革靴やスニーカーとは違う、ブーツの重々しい足音。埃や小さなコンクリートの破片を踏みしめるざらついた音が聞こえて来た。
ガスマスクをしている事で、吐息がフィルターを通過する呼吸音が僅かに聞こえてくる。その数から、一人ではなく、三人程度は兵士がいるのだと分かった。
壊れた窓からは吹き抜けていく風の音や、発砲音と爆発音が折り重なって聞こえる為、この部屋に入って来た人数は定かではない。
周囲を見回して、目に見える範囲に私が居ないのを確認しているのだろう。時折、装備と装備の擦れる小さな擦過音が聞こえてくる。
それとも何か指示を出していたのか、一言もしゃべることなく歩き出す。捜索しているらしく、社長の机の方や奥の小さなキッチン、当然ながらこちら側にまで歩いてくる音がする。
私がロッカーを付き落としたことで、何か抵抗があるのかと思ったのだろうか。捜索する動きはかなりゆっくりで、正確な足取りでこちらに向かっている。
じっくりと時間をかけて死角を潰しているのだろう。時折腕を振るような音と、握った銃の中のパーツが合わさる樹脂の音がする。いくつも並んでいる大量の机を調べ始めた。入り口側の机は見やすいがこちらの窓側は見えないため、机を避けて窓側へ回り込むと、一つずつ中を探り始めた。
ガスマスクのフィルターで繰り返される安定した呼吸が感じられ、彼か彼女らかはわからない人物に慣れを感じた。
机の奥の壁面に体を押し付け、身を縮こまらせてなるべく見つからないように息を殺した。どうせなら死体の真似でもすればよかったと思ったが、訓練された兵士がまず見逃すはずもない。
確認のためだろう、窓際で机に突っ伏して死んでいる人物や床に倒れていた人物に、問答無用で弾丸が放たれていく。表情や体に動きが無く、本当に死んでいるのかどうかを見定めた。
甲高い発砲音を響かせるたびに、弾頭を射出した空薬莢が床に落ち、小気味の良い金属音を響かせる。それがカウントダウンのようで、処刑台向かっていく感情が沸き上がる。
私が隠れている机は、並べられている中でちょうど真ん中に位置する。自分から見て右側から四回発砲音が鳴り、ゆっくりと近づいてくる足取りは、私の隣に座っていた男性の番となる。
息を殺していたいのに、高鳴る心拍が五月蠅くてそれだけで見つかってしまうのではないかとさえ思う。肋骨や筋肉を突き破って心臓が飛び出してもおかしくない程、拍動する衝撃が胸に伝わってくる。
脈を測るつもりなのだろう。机に無造作に投げ出されていた腕を掴むと、分厚そうに見えるグローブの上から手首に触れた。
建物自体が少し傾いているせいで残ってはいないが、彼の足元にわずかに残っていた尿をブーツで踏んで確認している。
そして、これまでと同じように、彼に弾丸を打ち込んだ。もし、私が死体のふりをしていたらどうなるのか、目の前で実演して見せた。アンモニア臭を掻き消す、刺激のある火薬臭で咳が出そうになる。
埃やチリの僅かに積もるフローリングの床を何度かバウンドし、目の前に転がって来た空薬莢の中に、まだ火薬の爆発で発生した硝煙が残っている。火薬の爆発で温度が高いらしく、紫煙のように立ち昇っていく。
そのそばに、遅れて粘着質の高い真っ赤な液体が流れ落ちて来た。頭を撃ち抜かれたことを示唆する、砕けた骨や脳漿などが混じっている。
死体のフリをしていたらどうなっていたか。いや、死体のフリをしていなかったとしても、それは変わらないだろう。同じく死が、弾丸に乗ってやってくる。
一瞬で意識を奪われれば、まだましだ。撃たれれば私の意思に関係なく血反吐を吐き、床でのた打ち回って死ぬことになるだろう。激痛と燃えるような、体感したことの無い痛みを感じるはずだ。
そして、ついに私の番が来た。机の一番奥で縮こまっている事で、立っている兵士に直接見られてはいないが、その間に隔てる物など無く、屈めば簡単に見えてしまう。
どうなるか見てきてわかり切っているはずなのに、嫌に想像の膨らみ過ぎる私は残虐に殺される光景だけが独り歩きし、ガタガタと震えて見つかるのを待つしかない。
立ち止まっていた兵士が半歩下がり、膝をつくような動作で身を屈めようとした。腰が少し下がると、兵士の構えている拳銃が机の縁から顔を覗かせた。
奥の見えない、螺旋状の凹凸がある銃口と目が合った。いつ弾丸が飛び出てもおかしくない、一センチ程度の穴は正確に私の方を見ており、私は死期を感じずにはいられなかった。
グリップを握り、トリガーに掛かっている指をもう少しでも強く握れば、沈黙を続けている拳銃は、叫び声を上げるように火を噴くことだろう。
兵士がさらに身を屈めると、両側面の顎元についているガスマスクの丸いフィルターが目に入る。あと数センチでも体をさらに下げれば、兵士の視界に入ってしまう。見つかりたくない、死にたくないと心の中で祈るが、そんなことに関係なく兵士が体を下げていく。
ああ、ペンの一本でも持っていれば、体に刺したりして抵抗することぐらいできたかもしれないのに。そう思いながら、転がして建物の外へとペンをを落としたことを後悔した。
撃たれる瞬間を見ないよう、頭を抱え、目を瞑った。
『居たぞ!』
私を刺す言葉が投げかけられた。机の下から引きずり出され、撃ち殺されることを遂に自覚した私は、死ぬ事実を受け入れられずに叫び声を上げようとした。
しかし、私の叫ぼうとした行動は、切り裂くような甲高い女性の声で掻き消された。トイレにでも誰かが隠れていたのか、引きずられるような音と共に甲高い叫び声が事務室に入ってくる。
同じ職場の人間だったのか、それとも、外から逃げて来た人間なのかわからなかった。泣き喚いて、半ば発狂乱した声では判別がつかなかった。
あと数ミリでも顔を傾ければ、見られていた段階で動きが止まった。こちらへ向けていた銃口を下に向け、しゃがみかけていた兵士は名残惜しそうに立ち上がる。
ホルスターに拳銃を戻しながら、私が隠れていた机の前から右側に離れて行った。並んでいる机を回り込んで事務室の中央へ戻っていく。
『くっそ、そっちだったか』
賭けでもしていたのか、楽しそうな悔しそうな声質だ。複数人いた兵士が女性を囲んでいるのか、さっきまで泣き叫んでいた女性は恐怖で声も上げられなくなっていった。
私は机の内側から顔を少しだけ出し、窓側に兵士が誰もいない事を目で見て確認した。そのまま机の奥で震えていたかったが、私はここで動かなければならなかった。
あの女性を殺して終わりではないはずだ。再度捜索を始めて、次は確実に兵士たちはトイレから引きずり出した女性のように、私を扱う事だろう。
そうなる前に、私は逃げ出さなければならない。隠れる場所を変える程度では、本当に時間を先延ばしにする行為でしかないのはわかり切っている。
部屋の中央に集まっているであろう兵士たちに、姿を見られずに動ける範囲は非常に狭い。その中で見つからないようにするのは一筋縄ではいかないだろう。
調べ終えた別の机に逃げる事を考えたが、窓側ではほぼ全員が机に突っ伏しており、唯一下に隠れられそうな机はまだ探されていない。死体を動かせば自分がいることを知らせるような物であり、隠れることは難しい。
物も散乱していて、あまり派手に動けば音が鳴って見つかってしまうだろう。地面に這いつくばり、なるべく音を立てないようにゆっくりと移動をし始めた。
名残惜しくもある机の下から這い出て、まずは右側を見た。床に倒れていた同僚の額には小さな穴が開き、後頭部は内部から破裂したように内部が露出していた。その内容物と血液が建物が傾いている事で、こちらにまで届いている。
あまりのグロテスクさに、胃が体内で蠢き、内容物を吐き出そうとしたが、私は喉を手で占めつけ、飲み下した。
しかし、体の反射はそれでも内容物を押し出そうとするため、我慢する私の体は大きく跳ねて痙攣する。声すらも上げることができず、私は必死に飲み込んだ。
死体から目をそらし、兵士が帰って行った方向とは逆の左側に這って進みだす。焦って靴を床に当ててしまったら確実に銃口がこちらに向くため、細心の注意を払う。
『さっきはよくもやってくれたなあ、お仕置きが必要だな』
兵士の一人がそう言いながら女性に迫っている声がする。私の罪を押し付けてしまっている事に罪悪感が沸き上がる。しかし、移動するのを止めてしまえば、二人諸共あの世に行くことになる。
申し訳なさに名乗りを上げようとしたくなるが、何の武器もない私では、彼女を救い出すことも、奴らを蹴散らすこともできない。内心で何度も謝りながら、壊れて崩れている壁際まで到達した。
「知らない……知らないよぉ……」
泣きじゃくる彼女の声は、震えていてその恐怖が私にも伝わってくる。知っている人物の声である事すらもわからない。
そんな彼女に兵士が平手打ちでもしたのか、肌を叩いた乾いた音がする。一度や二度ではなく何度も繰り返し、その度に女性から悲鳴と嗚咽が漏れる。
『そんなわけないよな?たった今起こったことだぞ?』
楽しそうに尋問する兵士がまた平手打ちを見舞った。今度は先ほどよりも強かったようで、大きな悲鳴が聞こえた。
こちらが見つかるまでの時間が少しでもある内に、私は何か打開策が無いか探した。事務所の中央から離れる形で机の通路に沿ってきたが、何もない。部屋の角は先ほどペンを落とした、人が両手を広げても足りない位大きな穴が開き、外の景色が見えた。
何か逃げる為の通路が無いか、壊れた壁から落ちないように顔を出して外を調べるが、見えるのは隣のビルか遠い地面だけだ。ここから下の階へ逃げようと思ったが、建物の傾きは私が居る位置が一番突出している。
建物の状況を前のめりと表現するのであれば、前のめりになった先端に私はいる。角度の問題で、私の居る場所が建物の最外端となるため、一つ下の階に行くのには、体を宙に浮かせなければならないのだ。
一部分が崩れているとはいえ、指を懸けられるような場所はなく、鉄筋が露出していても身体を支えられるほどの握力は無い。
ここから逃げる事ができないのであれば、戻って階段を下りるしかなくなるが、事務室の入り口の前には、あの兵士たちがいる。どう奇襲をかけようとも逃げきれない。
爪を噛んでどうするか悩んでいると、後方から甲高い発砲音が聞こえた。それと同時に、床へ力なく崩れ落ちる人間だった者の倒れる音も私に届いた。先ほどまで彼女の嗚咽が聞こえていたが、銃声を境にぱったりと途切れた。
『まだいるかもしれない、捜索を再開しろ。くまなくな』
そう言うと、またそれぞれの持ち場へと戻っていく足音が聞こえて来た。タイムリミットが近づいており、私は焦りを隠せなくなっていた。
地面ばかり見ていたが、顔を上げると隣の半壊したオフィスが目に入った。壁は崩れて中は吹き抜けになっている。すでに捜索が入った後なのかはわからないが人気は無い。
両手を広げても届かない程広く幅があったはずだったが、今日はなんだかその散乱したオフィスが近く感じた。
現実逃避や願望がそう見させているのではない事を、私は感じていた。向こうの建物も多少傾いているが、こちらほどではない。そして、こちらのビルは隣のビルに向かう形で傾いているのだ。
地盤の問題か、それとも地下に通っている水道管や下水管の問題だろうか。どっちでもいい、私はこの前代一隅のチャンスを活かさない手は無いのだから。
しかし、恐怖もある。失敗して落ちれば確実に死ぬ。それに加えて、向こうのビルも、いつ崩壊してもおかしくなさそうな見た目であるのも行き難い理由の一つになっている。となりはどの階も吹き抜けになっていて、ビルを支えているのが一部の壁と柱であるため、ちょっとの重みで崩れてしまいそうに見えるのだ。
そして、近づいてはいるがそれでも両手を広げてやっとの距離だ。助走を付ければ余裕で飛び越えられるかもしれないが、そんなスペースも時間もないのだ。
そして、この靴が悩みの種だ。踵が数センチ高いこのヒールで助走など付けられる物か。しかも届くだけではだめだ、落下していく体を持ち上げて部屋に入り込むだけの筋力は無い。一度の跳躍で二メートルを超えなければ、届かなかったのと同じく落下の未来が待つ。
けれど、行くしか私の生きる道は無い。でなければ、彼女と同じ道をたどることになってしまうのだ。進まなければならない恐怖と後退する恐怖に挟まれ、時間は無いが覚悟を決めようと深呼吸を行った。
少し後ろに下がろうとした時だ、右側から気配を感じた。改めて窓側の机を調べようとした兵士が私を見たのだ。ガスマスクは顔をすっぽりと覆うタイプの物で、視界を確保するためのレンズが二つ目元にある。
そのレンズ越しに兵士の目が見えたが、小さく細まった。口や眉はガスマスクで見えなかったが、探るような目つきではなく笑うような雰囲気を感じた。
たった今撃ち殺された女性と同じように、楽しんで殺すつもりなのだと私は直感的に理解した。自分の中でも血の気が引き、動きが止まってしまった。
「っ…!」
若干下側を向いていた拳銃を私に向けようとするが、向けられてからでは動けなくなる。頭が真っ白になりかけたがそれだけは頭が働き、私は弾かれるように低い姿勢から隣のビルに向けて走り出した。
たったの一歩、二歩目まで行かない助走から、私は隣のビルへ向けて飛び出した。覚悟を決める暇などろくに与えられぬまま、銃口をこちらに向けようとする兵士の静止を振り切って私は中空に体を投げ出した。
生暖かく煙臭い匂いを纏う緩やかな風が、横から頬を撫でる。訓練時以来に感じる、久々の無重力感に内臓が浮くような感覚に体が支配される。
ヒールで心配ではあったが体を投げ出すように跳躍したことで、思ったより体が進んでいく。ビルとビルの間ぐらいで跳躍の最高点に達し、半壊しているビルに近づくごとに私の高度は下がっていく。
どこを通ったかわからないが、私を狙って放たれた弾丸が近くを高速で飛び抜けた。甲高い通過音に、姿勢が大きく崩れてしまう。
飛び出すことができたプラシーボ効果だったのか、それとも姿勢が崩れたことによる空気の抵抗が大きくなったのか。飛んでいる間ではわからなかったが、私の体は目的とした場所につく前にドンドン重力に引かれて下がっていく。
同じ階に着地するつもりだったのに、床と同じ高さに目線が来てしまっている。五階を通り過ぎてしまうが体は前へ前進を続け、四階の縁に到達した。
剥き出しになった鉄筋に肩が引っかかり、スーツが破れた。直径が一センチはある金属の棒に当たったのもあるが、皮膚が裂けた痛みに判断が一瞬遅れた。
床の一部でも、鉄筋の一本でも掴むことができれば良かったが、握った手は宙を掴む。ぶつかったことで一瞬減速することにはなったが、また体は加速して落下を続ける。
しかし、痛みに構っている暇はない。それにばかり気を取られてしまえば、それこそ地上まで真っ逆さまに落ちることになる。次が最後のチャンスだ。二階まで落ちてからでは、その速度に体を支えることはできない。
三階の床に到達し、私は折れるのも厭わず手を伸ばした。床の周辺に掴めそうな構造物はなく、剥き出しとなった鉄筋を両手で掴んだ。
落ちる胴体を腕の筋肉で繋ぎ止め、手の力だけで支える事となる。止まることができたなどと喜ぶ暇も一息つく暇もない。
人が素手で使用することを前提で作られていないため、そのザラついた表面や凹凸が鋭く、皮膚に食い込んだ。しかし、これを放したら死んでしまう。しっかりと握り込み、落ちないように握力を保ち続ける。
だが、それも長くは続かない。この伸び切った腕を曲げ、早く体を持ち上げなければ握力も限界が来てしまう。人生で懸垂などをしたことは無く、初めての試みとなったが、私の筋肉量からそれは難しいのはぶら下がって初めて気が付いた。
いくら力を込めても腕は振るえるだけで、身体が持ち上がることは無い。どうにか持ち上げなければ、私の行く末は撃たれるのと変わらなってしまう。必死に抵抗し、体を持ち上げられそうになった時、指先がじんわりと熱を帯びるのを感じた。
剥き出しになった金属で指の皮膚が裂けたらしく、血が滲み始めたのだ。乾いたものより濡れた金属は圧倒的に滑る。握力が無くなって来たのもあるが、血液が潤滑液の役割を果たしてしまい、全力で握り込んでいるはずの指が徐々に体重を支えられなくなってきた。
滑り落ちてしまう前に、体を振り子のようにして前後に揺らし、二階へ降りようとするが、後ろから私を見つけた兵士が何かを言っているのが聞こえた。
そっちを見る余裕は無かったが、甲高い発砲音がすると、すぐ近くのコンクリートが粉塵を舞い上げて弾けた。高速で物体が通過した音と硬い物同士が衝突した鋭い音が合わさり、耳鳴りのように周りの音を塞いだ。
「くっ…!」
それでも掴む手を緩めず、下の階へ降りるために体を揺らそうとした直後、二度目の発砲音と同時に、私が掴んでいた鉄筋が真っ赤な閃光と共に火花を散らした。
コンクリートを弾丸が殴った時以上の甲高い音が鼓膜を刺激し、衝突で粉砕した金属の破片が指や顔を襲う。
「うぐっ!?」
私の体を支えていた鉄筋が弾丸で抉られ、形状を保つことができずにぐにゃりと折れ曲がった。痛みで手が緩んでしまったのもあるが、滲む血液で滑ってしまった。
ずるりと金属から手が離れ、再度私は無重力に身を躍らせた。当たり所が良ければ、助かるかもしれない。そんな望みもあったが、私は未練たらしく血液で染まった掴んでいた場所ばかり見上げていた。
下から吹き上げる風や急速に流れていく風景が、私に事実を突きつけた。その頃になって、ようやく自分の置かれている状況を理解した。受け入れきれず、肺に取り込んでいた空気を押し出して悲鳴を上げようとした時、私は体を貫く衝撃に意識が遠のいた。
ゆっくりとやっていくので、気が向いたら読んでみてください。