それでもええで
という方のみお楽しみください。
金髪で青い瞳をした人間など、そこら中にいるだろう。たまたま似た兵士が来たのかもしれなかったが、こちらにまで匂いが漂ってきそうなほど装備に焦げた様子が見られるのは、キッチンの中で爆発を起こした兵士以外居ないだろう。
あれだけの爆発に巻き込まれれば死んだだろうと思い込んでいたが、奴はしぶとく生きていた。凄まじい生命力と言いたいが、これだけの負傷をしても尚、私を追うという執念には感服する。
私が残した血の跡を追っていたらしく、若干下を向いてた兵士は玄関に残っていた血痕を足で踏み、靴で擦り広げてている。落ちてからさほど時間が経過していない物だと確認しているのだろう。
顔を上げた兵士と目が合った。青い瞳が私と娘を捉え、目を細めた。獲物を探し出した狩人というのには、欲望が渦巻きすぎている。
森で動物を狩る狩人には獲物に対し敬意がある。命を奪って頂く事への感謝、相手を尊重したうえで行われる狩りとは全く違う。
目だけで口元は見えていないが、にんまりと笑っているのを感じる。下げていた自動小銃をこちらへ向けようとするが、爆発の影響で左手が使えないのか、グリップを握る右手だけで照準を付けた。
「っ!」
引き金を引く直前にようやく私は動き出した。娘の手を引いて動いていたのではリリィが撃たれてしまうため、少女を抱えながら今来た廊下を引き返した。
甲高い連射音が家中に響き渡り、壁や床にいくつもの穴が穿たれる。埃と飛散した木の匂いが鼻につく。私の動きに合わせて銃を横に薙いで撃ちまくっているため、立ち止まる訳にもいかず正面のキッチンまで走り抜けた。
手持ちの弾丸だけでは心もとないため、キッチン内のシンク近くに隠していた拳銃を拾いに向かう。だが、あと数歩という所で、兵士の放った弾丸が私の右肩を撃ち抜いた。布の服が裂けると同時に血が飛び散り、壁や床を汚す。抱えていた娘にも例外なく血が降り、真っ赤に染まった。
兵士は片手で銃を扱っていた。乱射のせいで銃が大きく暴れているのだろう。肩ばかりに意識が向きそうになったが足も被弾していたらしく、踏みしめようとしていた足が踏ん張りをきかせることができずに倒れ込んでしまった。
「うっ!?」
娘を守るためにしっかり抱きしめようとしたが肩を撃たれた事と、自分の予想外の動きと撃たれたショックで頭が回らず、娘を抱え続けることができない。娘にかかっていた慣性が私の腕力を超えてしまい、数メートル先に娘が倒れてしまう。
「リリィ…!」
倒れた娘はぐったりと倒れ込んでしまっているのは、当たり所が悪く気絶してしまったらしい。近づいてすぐに抱え直したいが、その暇はない。すぐ後ろからこの部屋へ向かう兵士の足音が聞こえているのだから。
撃たれたのが片足だけだったのが功を奏した。まっすぐ正面に向かって転んでいたら、廊下から撃たれて終わりだっただろう。左足を被弾したことでやや左側に転び、廊下からは壁で見えない位置に二人ともいる。
即座に撃たれることはなかったが、キッチンへ兵士が押し入ってくれば時間の問題だ。この足ではどう事が進んでも逃げきれない。あれだけの執念、奴は私を絶対に逃がさないだろう。
なら、私が武器を持っていないと思い込んでいる今が、反撃するチャンスだ。撃たれていない足で地面をゆっくりと押し出し、入り口から遠ざかる。壁際のコンロ周りを背にし、上着の下に隠していた銃を構えようとするが、右肩を撃たれているせいで標準が上手く定まらない。
「くっ…」
グリップを握る右手の上へ左手をかぶせ、ぶれる照準を固定する。私に反撃する手立てが無いと思っているのか、それとも反撃する可能性を考慮して兵士の足取りはゆっくりなのかはわからないが、嫌に遅い。
姿を見せた瞬間に、残りの弾丸全てを奴に叩き込んでやる。引き金を握る指に力が入り過ぎているのか、リボルバーの撃鉄が少し上がっている。シリンダーへ繋がる機構も動作し、ギリギリと小さな音を立てながらシリンダーが僅かに回転した。
あともう少し力を込めれば弾丸が発射される。引き金を引こうとした時と、撃鉄が雷管を叩く瞬間のラグを僅かにでも減らすため、それ以上の力は籠めずに兵士が現れるのを待つ。
来い。来い。と心の中で念じながら、銃身に取り付けられているサイト越しに部屋の入り口を睨む。強いストレスを抱えた状態での射撃は、私に視覚と聴覚で影響を与える。
殺される可能性を大きく孕む高ストレス、心拍数を大きく増大させる高緊張の状況下により、トンネルビジョン現象が起こっていくのが自分でもわかる。
周囲から音が消えていく。風や遠くから聞こえていた発砲音は一切遮断され、自分の呼吸音すら聞こえなくなっていくのだ。
側面までほとんど見えていたはずの視界が、目を潰されたわけではないというのにどんどん狭まっていく。見えていた棚や壁が見えなくなり、銃を握る自分の手すらも視界の外へ消え、サイトとその周囲の小さな景色以外見えない。まるでストローでも覗いているようだ。
呼吸法などのストレス緩和で症状を弱めることはできるが、その時間は残されていない。別の事をして集中力が切れてしまわぬよう、私は針のように細い視界で亀のようにじっとその時を待つ。
相手も同じ高ストレス状況下であれば、側面にズレて攻撃をする対処法もあるがこれは期待できない。私が動けないのと、戦闘能力を持たない人間を躊躇なく撃てる連中が、こちらと同じストレスを抱えているとは思えない。
それに、私が反撃することを想定していないのも、相手がストレスを感じていない要因と考えられる。私が銃を持っていると兵士が知らないのは、メリットにもデメリットにもなるが、今回はメリットの方が大きいだろう。
サイトを通した小さな視界の中で、何かが揺れ動いた気がした。電気が止まって薄暗い中でも微妙な変化に気が付けたのは、黒い装備を着込んだ兵士に対して背景としている小さな景色が白い壁を映していたからだ。
兵士がどんな顔をしていたか、何をしたかなどは全く分からない。自分がどこを狙ったのかも。もしチラッと顔だけを出して引っ込めたのではあれば外しているだろうが、それを考慮できるだけの余裕は無く、残っていた弾丸全て撃ち出した。
立て続けに弾丸がぶっ放すとその度に衝撃が手と腕を駆け抜け、指に若干ながら痺れさせた。発火した火薬から発せられる高圧のガスが爆音を生じ、鼓膜を引き裂かんとする。もう少し音量が高ければ音を甘受する器官がやられ、恒久的な音響外傷を伴っただろう。
奴へ弾を撃ち込まなければならない一心で何度も引き金を引いた。弾数の管理はしていたはずだが、緊張や異常な状況に飲まれて我を忘れてしまっていた。
残った弾丸など、ものの数秒で撃ち尽くし空薬莢だけが残るシリンダーが回転する音と、爆ぜた後の雷管を叩き続ける撃鉄の音で我に返った。
「はぁ…はぁ……」
心拍数が増大し過ぎて、全身に回す血液が足りていないらしく息が苦しい。肩で大きく呼吸をして整えようとするが、喉の痛みに気が付いた。
発砲しながらいつの間にか叫んでしまっていたのだろうか。加減なく絶叫したせいで、咄嗟に声を出すことができなかった。
無意識で引き続けていた引き金から指を離し、銃を下げると兵士は床に沈んでいた。何発当たったかわからず、狭まっていた視界ではそれを把握することはできなかった。
倒せたのであれば、何発当たったかなどはどうでもいい。私の撃った弾で銃を首から支えていたスリングが切れ、兵士の取り落とした自動小銃が私の近くに転がっていた。
既存の銃に似てはいるが、見たことも無い形状の銃だ。拾い上げて試しに引き金を引くが、内部の機構が作動する音はするが弾は出ない。安全装置は解除されていて、それが原因ではない。
マガジンリリースボタンを押し、グリップよりも銃口側に取り付けられているマガジンを銃身の下から引き抜いた。中にはまだ弾が残っているため、壊れたか安全装置だけではない複雑な機構があるのだろうか。
奪った武器で戦うのは得策ではなさそうで、とりあえず弾倉からすべての弾丸を引き抜き、チャージングハンドルを引いて本体の薬室に入っていた弾丸も排莢して武装解除させた。
撃たれた足が震えるがなんとか立ち上がり、転びそうになりながらも兵士へと近づいた。腰のホルスターから拳銃を引き抜き、銃身を覆っているスライドを引いて全ての弾丸を排莢した。
小気味いい音を立て、黄色い薬莢と茶色の弾頭で構成された弾丸が空中を錐もみしながら飛んでいき、床を転がる。弾に我々が使う弾丸との違いは無いように見える。
自動小銃と同様に弾倉を引き抜き、銃の側面からピンを引き抜いてスライドを前進させて通常分解する。形状は多少違くとも基本的な構造は同じようだ。
見た目を改造しているだけのだろうか。分解したスライドとグリップ部分を投げ捨て、壁際に倒れているリリィへ向かおうとした。
「リリィ…」
震える足で自重を支え、気絶している娘の方へ向き直った直後、後方から物音がした。肩越しに振り返った私の目の前が真っ暗になったと思うと、頭に何かが衝突した激しい痛みが強烈に頭を駆け抜けた。
「うっ!?」
体に浮遊感に似た感覚に襲われると、真っ暗になった視界が一気に開かれた。感じた浮遊感と顔への痛みから、遅れてようやく殴られたのだとわかった。兵士が手に付けていたグローブのせいで、視界が黒くなったように見えてしまっていたのだ。
リボルバーを撃つ際に背中を預けていた棚に背中を打ち付け、ようやく浮遊感が収まった。警戒を解きかけていたせいで対応が遅れに遅れ、尻もちをついて倒れ込んでしまう。
新しい兵士が入ってきた音はしなかった。撃った兵士が短時間ではあるが意識を失っていたのか、それとも死んだふりをしていたのかはわからないが、私は仕留め損なっていたようだ。
武器をろくに持っていない最悪の状況ではあるが、周囲を確認しようとしても手で覆われて黒かった視界が、今度は白く星がチラついていた。脳震盪が起こりかけているのもあるが、貧血も相まって視界が定まらない。
チラついた星は程なくして退いていくが、視界の中央に捉えていた兵士と思わしき影が大きく揺らいだ瞬間、左肩に刺すような痛みを感じた。
「っああああああああああああああああ!」
脳震盪で頭が働いていなかったせいで、最初は痛みをあまり感じていなかったが、立ち眩みのような感覚が引いた瞬間にこれまでにない激痛に襲われた。
鮮明となっていく視界と意識が周囲の状況を拾い上げ、脳が情報として理解していく。撃ち殺したと思っていた兵士がナイフを投擲したらしく、左肩に得物が深々と突き刺さってしまっていた。
痛みと言う物にはいつになっても慣れない。苦痛に悶え、子供のように叫んでしまう。しかし、叫ぼうと息を吸うだけで、痛みから逃れようと身を捩るだけで、刺さったままのナイフに患部が刺激されて、更なる痛みを呼ぶ。
引き抜こうとするが、刃渡りが十五センチは越えている重たい軍用ナイフは私の肩を容易に貫通している。動脈を傷つけている可能性があり、安易に引き抜くことはできない。
そうしている間にも、兵士は二本目のナイフを装備に取り付けられているナイフケースから引き抜いた。今投げて来たのと同じナイフで、柄に近い刃の根元には波打ったセレーションが付いており、鋸の様に見えるそれが余計に得物の凶悪さを体現している様だ。
丸腰の状況で、これは最悪だった。私が倒れた直後の追撃は間髪入れずだったが、じっくりと狙いを付けられる今は脳天だろうが心臓だろうが好きな場所へ投げることができるだろう。
得物を握る兵士に対し、私は激痛に悶えて右側へ倒れ込んだ。これは悪足掻きでもあるが、最後の賭けでもある。
痛がっているフリではない。実際に刺さったナイフからは痛みを感じているし、気を抜けば気絶してしまうのではないかとさえ思える激痛に襲われているが、倒れる方向は意図している。
普通のイメージなら左肩を負傷していれば、左肩を抱え込むようにして左側へ倒れるだろう。それが逆であるため、こちらの意図している事を悟られるか冷や冷やしたが、奴も撃たれたことで冷静ではないらしく、即座に攻撃する様子は見られない。ナイフを回転させ、柄から刃へ片手で器用に掴みなおして大きく振りかぶる。
それに対してゆっくりと倒れながらも、最小限の動きと自身の体で伸ばそうとする腕を隠し、開かれた棚の扉へと手を突き出した。私がぶつかった衝撃で、シンク下に取り付けられた小さな観音開きの扉が開いてしまっていたが、そこに勝機がある。
銃を構えるまでを考えるとかなり切羽詰まってはいるが、それでもゆっくりと動かなければならないのは、相手に余裕を感じさせなければならないからだ。
なぜなら、兵士との距離は2メートルであり、かなり大きく見積もったとしても3メートルは越えない。私が武器を出そうとしていることを事前に気取られれば、投げる姿勢に入っていたとしても構えるまでに接近が可能な距離だ。
既に銃を構えている状況や遮蔽物がある事を除き、射手にとって標的との距離が5メートル以内にいることは全く安全ではない。しかも、今回はその半分以下であるため、ギリギリまで引き付ける必要があった。
倒れ込みながら私の伸ばした手が棚の扉に触れる。視線からばれないように、目は兵士の方を向いたまま、私は手探りで拳銃を探す。
もし、自室の机のようにただ銃を張り付けているだけであれば、最初に捜索が入った時点で破壊されていただろう。だが、ここの隠し場所には細工がしてある。
包丁を穴に差し込んでしまっておけるスペースがあるが、上からでは包丁で見えず、下側やしゃがんだ低い位置からでなければ見えないようにカバーが取り付けられている。兵士は生存者や隠れている人間を見つけだす為、見える位置までしゃがみ込まなかったことで見逃された。
指先が扉に使われているプラスチックとは異なる感触の樹脂に触れた。グリップを握り込むと同時に、包丁差しの下から拳銃を引き抜いた。
こういう場所の銃を使用する時点で、切羽詰まった状況であると想定していたが、それが功を奏した。薬室に弾丸は装填され、スライドを後退させる手間が無い。さらに、撃鉄を起こす必要のあるハンマー式の銃ではなく、撃鉄のないストライカー式のハンドガンであるため、すぐに弾丸を撃ち出せる。
引き金の中にもう一つ小さな引き金が仕込まれており、それが安全装置となっている。その二つを引きながら出なければ射撃を行うことができない。何かのはずみで暴発することを考えると、良い隠し方ではなかったが今回のような即座の射撃には適している。
障害物を考えて射撃している時間はなく、棚の扉越しに引き金を引いた。自動式拳銃はリボルバーと違って内部に衝撃を緩和する機構が備わっているため、射撃の衝撃は先よりも感じない。
当たったかどうかなど確認することもせず、ある分だけ弾を射撃する。射撃の跳ね上がりが少ないため、兵士へ止まることなく連射する。
止まることも無く何発もの弾丸を放つ。視界が硝煙と発砲炎で塞がれようとも、兵士の位置は把握している。障害とも言えないそれを無視し、弾丸を放ち続けた。
兵士の着込んだアーマーをすり抜けて被弾し、弾丸が当たる度に血飛沫が舞う。兵士が何かを叫び、こちらに向かって走り出そうとしたが、踏み出そうとした片足をぶち抜いた。
立て続けに三回引き金を引き、その内の二発が膝へ一発が太ももを撃ち抜いた。バランスを大きく崩した兵士が前かがみに倒れ込み、私の前へ頭部を晒した。
私の持つ拳銃に手が届く距離に倒れているため、兵士がこれ以上撃たせまいと手を伸ばしてくる。時間にすれば一秒未満という短い時間で、兵士は私が握り込んでいる拳銃を奪い取ることができただろう。
しかし、引き金に掛かっている指に、ほんの少しだけ力を込める方が圧倒的に速い。差し出した掌ごと兵士の額へ弾丸を抉り込ませる。曇りガラス越しに大きく瞳が見開かれたと思うと全身を脱力させ、二階で撃ち殺した兵士のように意識を感じさせない人形のように突っ伏した。
ガスマスクについた穴からは赤黒い体液が溢れ出し始め、フィルターを通して行われていた呼吸も聞こえなくなった。普通なら頭部に弾丸を撃ち込んでいる事で死んでいるのを確定できるが、この兵士はそれを覆るようなしぶとさを見せて来た。
金属の棒で殴り、爆発に巻き込ませ、22口径のリボルバーとは言え被弾しても尚、立ち上がって見せた。不死身なのではないかとさえ思える兵士の頑丈さに、頭部へ立った一発だけでは不安が残った。
寝そべらせていた体を持ち上げ、座り込みながら銃口から硝煙を立ち昇らせる拳銃を構えた。照準をガスマスクの男へと向け、引き金を引くのに特別な力加減は必要ない。幼子の肌を撫でるような握力でも雷管を爆ぜさせる機構を作動させるに至る。
乾いた火薬の射撃音と共にガスマスクのフィルターが裂けて血を噴き出した。生死の確認は今の一発で十分なはずだが、もう一回確認しなければ不安の芽を摘むことができずに引き金を引いた。
ガスマスクに残っていたレンズを叩き割り、目を潰しても弾丸は勢いを衰えさせず、眼球のすぐ裏に存在する脳味噌をズタズタに引き裂いた。肉体という抵抗によって、弾丸に生じるマッシュルーム減少により、潰れて砕けた破片が頭部全体に広がり確実に兵士を絶命に陥れる。
ようやく死亡した実感がわいた私は、ため息をつきながら握っていた拳銃に目を落とした。金属独特の艶消しがされたスライドが後退したままになっている。
スライドストップによって後退したままという事は、マガジン内の弾丸を全て撃ち尽くしている事を意味する。空薬莢が排出されるエジェクションポートからは、スプリングで押し上げられてきた弾倉の底が見えている。
弾倉をもう一つ棚の中に隠していたはずだ。今の戦闘で周囲には何かが居ることが知れ渡ったわけで、無線で連絡を取られれば返答が無い事から、私は脅威として認識されてしまう。
ここに捜索の手が入る前に逃げないと。そう思いながら棚の拳銃を引き抜いた辺りに手を伸ばそうとするが、銃を持っていた手から得物が滑り落ちた。
金属パーツが使用され、サイズの割に重い拳銃が重々しい音を立てながら床に落下してくが、それを事前に掴みなおすことができなかった。指先の感覚から、落ちていくのはわかっていたはずなのに咄嗟に動かせなかったのだ。
何かよからぬことが起こっているのはわかったが、その実態を掴めていなかった私は、落ちた拳銃を拾い直そうとして初めて来た付いた。座り込んでいる床に血だまりができている事に。そして、それが今もなお広がり続けている事に。
私の下腹部には、兵士が投げたと思われるナイフが深々と突き刺さっていた。切れ味のある得物は、柄に達するほどまでに身体に抉り込んでいる。
そちらは肩と違って重要な血管を傷つけてしまっているのか、肩以上に血が患部から溢れ出している。
「くっ…!」
兵士は自分が反撃されるリスクを追ってまで急所をわざわざ外すだろうか。それは考えられない。私の放った弾丸と空中衝突を起こし、軌道が変わってしまったのだろうか。
肩に刺さっているナイフ以上に、これは抜けない。ポケットにしまっていた止血剤を使おうかと思ったが、出血量が多いせいでかけたそばから血流に押し流されてしまうだろう。
だが、やらないよりはマシかもしれなかったが、ポケットから取り出すのも難しい程に体が重くなっていた。体験したことが無い程の倦怠感と酩酊のような意識の混濁は、私の死期がもうすぐ目の前に来ている事を示唆している。
せめて、娘だけでも逃がしたい。どうにかして、気を失っているリリィを起こさないと。目の前で私に死なれるのは幼い彼女にはショックかもしれないが、それでも生きていくためには踏み越えていかなければならない。
「リリィ……」
ポケットから止血剤を取り出すことができなかった私に立つことなど到底不可能。娘の方へ体を投げ出して倒れ込み、匍匐するようにしてゆっくりとではあるが近づこうとした。しかし、三十センチも進む前に、私は動けなくなっていた。
出血がひどい。体が床に縫い付けられているように、肌が解けて床と一体化してへばり付いてしまったように、私は前進することすらできなくなっていた。
伸ばした手で床を掴み、足で床を蹴ろうとしても一切身体は床から離れない。全身全霊の力を込めようと、自分の周りだけ重力が極度に強まっているのかと錯覚する。
「くっ………リリィ………リリィ…っ!」
どんなに手を伸ばそうとしても、娘まで腕一本分以上の距離が離れており、陰を掴むこと知ら出来ない。もっと腕を伸ばそうとするが、腕を上げる事すらままならなくなり、手がゆっくりと床へ落ちた。
体が重くなっていく中で、私は肌寒さを感じ始めていた。夕方とは言え夏が近くて暑かったはずなのに、今では厚手の服が欲しいぐらいだ。そして、眠い。
命の危険があり、寝てなどいられない状況だというのに、たまらなく眠たい。どうしようもなく、死ぬほど眠い。
どんなに寝不足での研修や会議だったとしてもここまでの睡魔に襲われたことはなかった。体感したことの無い猛烈な眠気は私の瞼を重くさせ、永遠の眠りへと誘おうとしている。
全身から力が抜け、視界がぼやけていく。ここまで頑張ってきたが、遂に私の悪運もここまでか。はっきりとつなぎ止められていた意識まで薄れ始めた。
最後の頼みである娘を助けることもできずにこんなところで果てるなんて、どういう過程を踏んできて、どれだけ頑張って来たとしても悔いが残る。
もっといいやり方が、もっといい立ち振る舞いをできたのではないかと。無意味な自問自答が最後の最後に押し寄せてくる。しかし、今になってすべてが過去の物となり、後悔の終点には助けられなかった娘が取り残されている。
最期に娘を見ようとしたが、辛うじて残っていた聴覚が足音のような物を感じ取る。ボンヤリとした意識の中で、その音が聞こえてきた方向に目を向けた。曇りガラスを通してみたようなぼやけた視界では、どんな人物なのかもわからない。
黒い影に私は本当の最後を受け入れるしかなくなった。こいつが来なければ、気を取り戻した娘が混乱の中でも逃げられるかもしれなかったが、新たな兵士が入って来たことでその可能性が完全に0まで落ち込んでしまった。
入ってきた人物は何かを言っている気がしたが、意識レベルが低下し始めている私には聞き取ることはできなかった。例え聞き取れても、武器もないこちらとしては抵抗のしようがない。
その人物はこちらへと近づいてくると私を掴んで移動させたらしく、床を見ていた視界が大きく開けた。ぼやけているが、白い背景は天井だろう。
瀕死の私をわざわざ天井を見えるようにするとは、殺す相手の顔を見ようとしているのか、誰が殺したのかを知らしめようとしているのか、どちらにせよ嫌な性格な奴だ。私はそう思いながら、意識を手放した。
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