リオリールとトルテのアトリエ~三つ大島の錬金術士~ 作:ジャミゴンズ
日が傾き、ハチヤド全体を包み込む白い湯気が、夕焼けのオレンジ色に染まり始める頃。 リオリールたちは、まるで巨大な迷路のようなこの村のシステムをようやく理解し始めていた。
入場時に支払った30コール。
それは単なる通行料ではなく、このテーマパークのような温泉街における自由通行の手形だったのだ。
30コールは宿代としても破格なのに、街の外に出なければ追加料金も取られることが無い。 それで成り立つのは、ハチヤドはとにかくでかく、活況で商売が盛んだから。
宿は全て、共有の巨大な源泉の上に成り立っている。
どの宿を利用しても良し、毎日別の寝床を選んでも良し。
旅人は自分の好みに合わせた夜を演出できるのが最大の売りだ。
そもそも宿は8つだけではなく、町全体をざっと巡っただけでも17箇所も宿屋はあった。 なんでそんなに宿屋が多いのかは分からないのだが。
「競争が激しいのさ」
と街行く人からは聞いた。 つまり、ハチヤドは選ばれし宿の称号なのだろう。
それが鼓奏村――ハチヤド――という場所であった。
「これ全部泊まれる場所なんだよね~」
一通り巡り終わったリオリールとトルテ、カスカルは橋の架け橋のベンチに腰掛けてパンフレットを眺めながらお話をしていた。
どこも趣向を凝らした独自のコンセプトを掲げて、様々なサービスを提供している。
小気味よい金属音が響く『鉄工の宿・鳴弦』
現役の鍛冶師も御用達というこの場所。
初めての人でも職人が手解きしながら、鋳造などを体験させてくれるという。 お客様が職人の熱と技術を、直接体験できる場所として提供されていた。
ドンドンと太鼓の音と弦の優雅な音が響きわたるのは『祭り屋敷・響』
宿の店主は音楽家らしく、大広間では常に公演曲が奏でられている。
朝も、昼も、夜も、雰囲気に合った音楽を鳴らし、宿泊している人たちの飛び入り参加も勿論オーケー。
子供から大人まで大鍋の料理を囲みながら音楽と共に過ごす。
賑やかで楽しそうだが、静かに休みたい時はすこし賑やかすぎるのかもしれない場所だった。
ピンク色に鮮やかに彩られた、一風して変わった景観の宿は『眠り姫』
窓辺にはフリル全開のカーテンが揺れ、甘ったるい香りが混ざって漂ってくる。
男性であるカスカルは何とも近寄りがたい外観だったが、カワイイという概念を追いかけているだけで男性の利用も勿論問題が無かった。
目移りしてしまいそうな凝ったコンセプトの宿たち。
一通り見て回り、すっかり空には星が瞬き始めている。
中庭の足湯ベンチに腰を下ろし、三人はさて、と顔を見合わせた
そろそろ泊まる場所を決めなくてはならない時間だ。
「ねぇ、どこに泊まる? どこに泊まる?」
リオリールの無邪気な問いかけに、うーんと腕を組むカスカルと、頬に手を当て考え込むトルテ。
このハチヤドは選択の自由がある。 だからこそ、意見は見事に割れた。
リオリールも随分と目移りしたが、やっぱり最初に決まったのも彼女だった。
「私はね、『潮騒亭』が良いな!」
リオリールが指差したのは、海側に面した最も歴史ある宿だ。
『奏で海浜』を歩いた事で故郷のユウバナ村を思い出した。
久しぶりに海の音を聞きながら眠れそうだ。
だが、彼女の本当の理由は食事だった。 メニューにわかめがある。
「……私は、『深緑の隠れ蓑』 が良いかな」
トルテが挙げたのは山側に建つログハウス風の宿だった。
「さっきちらっと見えたんだけど、ロビーの壁に珍しい乾燥ハーブや鉱石がインテリアとして飾ってあった。 あれは多分、高壁山脈特有の素材だと思う。 近くで観察したいし、あわよくば採取場所を聞き出せるかもしれない」
「ええー、山小屋ならカンカン山でいっぱい見たよぉ」
「海もユウバナ村で毎日見てた」
「トルテちゃん、山は油断すると危ないんだよ。 崖が落ちて来ちゃうかも」
「海も怖いし」
「怖いし?」
「ワカメ飽きた」
「そんな……!」
むぅ、と二人が睨み合う。
感情と郷愁で選ぶリオリールと、実利と知的好奇心とわかめ拒否で選ぶトルテ。
平行線だ。
「俺は、『双子月』 にしようかと思ってる」
そこに、カスカルが割って入った。
彼の手にあるパンフレットには、天文学者が建てたという宿の案内がある。
「ウィッシュの故郷、星読み村の技術が使われてるらしいんだ。 あの地図のお礼も兼ねて、どんなものか見ておきたいしな」
あー、とリオリールとトルテも納得する。
ウィッシュに貰った小箱は、とっても素敵な星空が詰まっていたが、宿の天井ともなればそれこそスケールが違うだろう。
きっと外とは違う、満点の星空が趣を変えて出迎えてくれるに違いない。
「えー、じゃあどうするの? ジャンケン?」
「多数決なら割れちゃうよ」
リオリールとトルテが困ったようにカスカルを見る。
今まで、旅の間はずっと一緒だった。 同じ焚き火を囲み、同じ屋根の下で眠る。
路銀の節約も兼ねて当たり前に続けた事だったので、ずっと一緒に過ごしていたから忘れていた。
カスカルはふっと息を吐くと、パンフレットを閉じた。
「無理に合わせる必要、ないんじゃないか?」
「え?」
リオリールが瞬きしてカスカルを見る。
「ここはハチヤドだ。 だったら、お互いに一番泊まりたい場所に泊まればいいんじゃないか」
どうせ宿賃は変わらない。 どこに行っても同じだ。
「せっかくの選べる自由なんだから、俺達もそれに倣うのはどうだ?」
カスカルの言葉は、突き放すようでもあり、同時に二人を一人の旅人として尊重するようでもあった。
成人の儀の旅。
それは、いつまでも三人一塊でいることだけが正解ではないはずだ。
「まぁ、それもそうだよね。 今日は別々に泊まろうか」
「賛成一票」
「朝にここで待ち合せれば良いよね!」
「ああ、一番目立つしな」
少しの寂しさと、それを上回る納得感。
カスカルはじゃあそうしよう、と短く手を挙げると振り返ることなく『双子月』の方へと歩き出した。
遠くなって人ごみに紛れて行く兄の背中を見送って。
残されたリオリールとトルテは、顔を見合わせる。
「じゃあ、トルテちゃん。 後でお互いに泊まった宿の感想でも教え合おうよ」
「うん」
「えへへ、じゃあ、また明日! おやすみ、トルテちゃん!」
「おやすみ、リオ……なんか、変な感じだね」
「あはは、そうだね!」
笑い合い、二人は背を向けた。
リオリールは海風の吹く方へ、トルテは木の香りのする方へ。
賑やかなハチヤドの夜。
今夜は初めて、一人ずつの夜を過ごすことになる。
離れ離れになる。
それを内心でもっとも安堵し、歓迎したのはトルテだった。
静かな宿を選んだ理由は確かに、高壁山脈由来と思われる素材が気になったからでもある。
だけど一番の理由は、山沿いにあってハチヤドの中で最も喧騒から遠く静かだったからだ。
深緑の隠れ蓑は、宿というよりも森にひっそり佇むような庵の様だった。
リオリールが軒先村でお世話になったという薬師、ウィボッチ・オグサエルというお婆さんの家に似た雰囲気である。
太い丸太を組んで作られたログハウス風の建物は、壁一面を蔦が覆い、夜風に揺れる葉擦れの音がサワサワと心地よいリズムを刻んでいる。
これは本物の葉を綺麗に切り取り、きちんと職人の手が入っているのか乱雑なものではなかった。
扉を開けると、カランコロンと木製のベルが乾いた音を立てる。
「いらっしゃい、おや。 可愛らしいお客さんだね」
「……こんばんは」
出迎えてくれたのは、エプロンに土をつけたままの初老の店主だ。
いくつかの約束事を短く教えてくれて、トルテは部屋のキーを受け取った。
鍵にはドングリがついていてコロコロと掌に転がる。 部屋番号をドングリに刻んであるようだ。
案内板に従って廊下を進むと、踏みしめる床板からは年季の入った木の香りが立ち上る。
「ここ……かな?」
何度か部屋番号を確認してから、扉を開けた。
部屋の中は驚くほどシン、と静かだった。
防音にもしっかり力を入れているのだろうか。
室内の天井からは無数の乾燥ハーブやキノコが吊り下げられ、独特の薬草の香りが充満している。 壁際には、ハーブを調合するための専用の机と、薬缶やカップが備え付けられたお茶のスペースまで用意されていた。
一種のアトリエの中に居るようで、トルテは外装も内装も気に入った。
荷物をベッドに置くと、真っ先にお茶のスペースへと向かった。
「……試してみないと」
ポーチから取り出したのは、教会を去る際にシャイエルから少しだけ分けてもらった『紺色茶葉』だ。
備え付けのポットは手巻き式でお湯を沸かせるようだった。
シャイエルから教わった通りの手順、蒸らし時間、茶葉の量でカップに注ぐ。
湯気と共に、懐かしい香りがふわりと漂った。
出来上がったお茶を、トルテはそっと口に含んだ。
「やっぱり、ぜんぜん違う」
トルテは眉をひそめた。 不味い訳ではない。
けれど、教会で飲んだあの一杯、そしてユウバナ村のアトリエでイッチが淹れてくれたあの一杯とは何かが違っていた。
何が違うのかは分からないが。
トルテはカップをソーサーに戻し、ベッドの縁に腰掛けた。
カバンの中から、折り畳まれていた二枚の紙を取り出し、膝の上に広げる。
手配書だ。 宿紹介のパンフレットに紛れて置かれていた物。
自由に持って返れるので、貰ってきていた。
一枚には錬金術士レッドという男。
もう一枚にはイッチの人相書き。
みつ島だけでなく、ここふた島でも彼らは指名手配されている。 罪状は窃盗や食い逃げと、同じような物だった。
「イッチ、錬金術士レッドがお師匠さんなんだよね。 おとーさんってことは無いと思うけど」
仮面をつけ、黒いコートを纏った男の絵。
トルテの大好きなおとーさん――悪魔怪人レッドマンとは、似ても似つかない。
変装の可能性はあるが、トルテの直感は違うと告げていた。
おとーさんの持つ、あの圧倒的で目視できるほどの温かいオーラがこの絵からは感じられない。
一方でイッチはとても似ている。
いや、多分だが錬金術士レッドという男と一緒に手配されているのだから、こちらは真実である可能性の方が高いだろう。
特徴も共通している。
さらりとした黒髪。 一見すると冷徹な印象を与える無表情に、いっそ病的とも思える白い肌。
アトリエでの彼は常に冷静で礼儀正しく、柔らかな物腰でトルテやリオリールに接してくれる。 家事も完璧で、お客さんの依頼や事務仕事の計算も早かった。
優男のような外見に似合わず力持ちで、錬金術の素材の知識もある。
あの大嵐の日。
ユウバナ村が壊滅的な被害を受けた翌朝、砂浜で行き倒れていた彼を最初に見つけたのはトルテだった。
彼はトルテを命の恩人だと感謝し、以降アムースコ村長の下で居候しながらアトリエの助手として働いてくれていた。
リオリールもカスカルも、口には出さないが薄々気づいているはずなのだ。
手配書のイッチと、自分たちのアトリエを支えてくれたイッチが同一人物であることに。
「……おとーさんとの関係は分からないけど」
心配ではある。
トルテは手配書を仕舞い込み、部屋の隅にあるハーブ作り用の器材机の前に座り直した。 この机なら、錬金術の道具の手入れもしやすそうだ。
彼女は自分の身体に触れる。
首元、指先、腰のベルト。
いつも身に着けている装飾品たち。
これらは全て、おとーさんからの誕生日プレゼントとして貰った大事な物だ。
細いピンとしても使える試験管。 目盛りが刻まれているブレスレット。 カチリと音を微かに立てる懐中時計。
どれも錬金術の機材として使えるように実用品として加工されている。
トルテの大事な宝物。
一つずつ丁寧に外し、机の上に並べていく。
カチャ、と硬質な音が静かな部屋に響く。
そして最後に、懐から一枚の手紙を取り出した。
何度も読み返して、少し端が擦り切れてしまった封筒。 中に入っている便箋には、おとーさんの力強い筆跡で、短い言葉だけが記されている。
『成人の儀を完遂させること』
『成すべきことを成すこと』
応援の言葉も何もない。 あまりに短文で一目で読み終わる。
ただそれだけの、トルテに宛てられた手紙だが。
世界で一枚しか存在しないおとーさんからの応援メッセージと期待のこもった手紙だった。
「おとーさん……」
トルテは机に並べた道具たちと、手紙を愛おしげに撫でた。 指先から伝わる冷ややかな感触に、父の大きな手の温もりを幻視しようとする。
そのまま、テーブルに突っ伏すように顔を埋めた。
自分の使命は、おとーさんの世界征服を手伝う事だ。
いずれ世界を恐怖させ、世界の敵になるのがおとーさんだ。
トルテはおとーさんの邪魔をする者を爆殺することが役目だと。
幼いころからずっとイービルズブックに、そう言いつけられて育ってきた。
今はその為に力をつける時期。
そして、大陸のアカデミーで新式錬金術を含めた知識と技術を習得し、おとーさんをバックアップする錬金術士を育て上げるのがトルテの夢である。
いや、それがトルテの『成すべきこと』なのだ。
そのはずだ。
「私がんばってるよ、おとーさん」
顔を伏せたまま、小さく呟く。
「大人になったら、私……」
言葉が途切れる。
錬金術だって、海水でも錬金溶液でも今では爆発させずに道具を作れるようになった。
ちょっとずつ、成長しているはずだ。
リオリールのような高品質な物はまだ難しいが、それでも時折大成功することもある。
誰に聞かせるわけでもない、自分自身への確認のような言葉。
でも。
ポーチからレッドマンの落とした体毛をまとめた袋をそっと取り出し、じっと眺めて。
この心の中が座らないで浮いているような、気持ちが収まらないのは何故だろう。
教会で見つけた、おとーさんの体毛と。
シャイエルの言葉から出た海面上昇の問題。
カスカルが関わらないと決めた時に込み上げた安堵。
その時に浮かべていたリオリールの不安な顔。
でも、さっき別れたばかりの無邪気な笑顔をトルテは思い出す。
人の気持ちも知らないで、屈託なく笑うリオリールに苦笑する。
天井のランプにレッドマンの体毛を透かしながら。
トルテは言った。
「……寂しいな…………」
ポツリと漏れた本音は、ハーブの香りに吸い込まれて消えた。
やがて、手入れの終わったトルテは椅子に座ったまま意識がとろりと沈んでいく。
旅の疲れと、張り詰めていた緊張が糸を切ったように解け、トルテはそのまま机の上で深い眠りへと落ちていった。
「うっわぁっ! すっごいーーーーー!」
一方で、リオリールは『潮騒亭』の客間に案内されるなり、窓の外に広がる海……にはまるで目もくれず、部屋の中央に鎮座している鍋に釘付けだった。
「これくらいのサイズの鉄の鍋、欲しいと思ってたんだよね!」
目を輝かせて張り付いているのは、客室の中央に設えられた囲炉裏と、そこに吊るされた鉄鍋だった。
まずサイズが良い。 手持ちの鍋はコンテナかご代わりのポーチの中に入れてあるが、大きな道具を作るにはまるで適していなかった。
対するここの鍋は大きすぎず小さすぎず。
背負い用のバッグの中の空間を拡張してあげれば、持ち運べるちょっと大きな『釜』になる。
本来は、宿泊客が自分で市場で買った魚介を持ち込んで調理したり、宿の名物である鍋料理を温かいまま楽しむための設備だったが、リオリールの眼には手ごろでナイスな錬金術ができる設備に映ってしまった。
「あの、店主さん! これ、すごく良い鍋ですね!」
「いろんな人を案内したけど、まず鍋を褒められたのは初めてで、そっちがびっくりだ。 『鉄工の宿』の連中が打った特注品だから彼らに聞かせたら喜ぶだろうけどねぇ」
「あ、あはは。 部屋もとっても素敵ですよ!」
「うむ、凄くついでに褒められたけど、受け取っておくとするよ」
えへえへ、と笑い合う初対面のリオリールとおじさん。
実際、ベットには工夫が凝らされていて貝の奏でる海の音を楽しみながら眠りにつける仕掛けがあったりするのだが、そんな説明をすっ飛ばしてリオリールは早速交渉に入った。
「えっと、おじさん。 あの、この鍋って売っていませんか?」
「この鍋をかい?」
荷物を置くよりも先に商談を持ちかけられ、恰幅の良い店主は目を丸くした。
リオリールは真剣そのものだ。 自分の財布を取り出し、中身と相談を始める。
しかも声に出して。
旅費がどうだとか、自分の手持ちがいくらだから、と声に出して確認するものだから相手の懐事情が透けて見える。
リオリールなりに考えて幾らが落としどころなのかも、特に聞き返すこともなく勝手に説明してくれた。
独り言を言いながら、チラチラと店主の顔色を窺うのだから商談というより人に拠っては馬鹿にされているのかと、勘違いしてしまうかもしれない。
店主は苦笑とともに、どこか孫娘を見るような温かい眼差しを向けた。
腰にぶら下げた成人の儀の旅を示す木札が、胸元で揺れる。
まだあどけない15歳の少女が、一人前の顔をして商談を挑んでくる姿が微笑ましかったのだ。
ついに考えすぎて頭を抱え始めたリオリールに、店主はハッハッハ、と笑い飛ばして声を掛けた。
「成人の儀の旅の途中だろう? 勉強させて貰うさ」
「えっ、良いんですかー!」
「ああ。 在庫の予備で良ければ、600コールで譲ってあげるよ。 ただ、一つ条件がある」
「はい、その条件をこなせば良いんですね!」
「うんうん。 その条件はね、ちょっとだけ商談のお勉強を私としようか。 時間をとってあげる」
相場よりもかなり安い破格の値段。
しかも今の商談がとっても危うい物だと思ったのか、リオリールに手解きまでしてくれるようだ。
照れながらリオリールは頭を下げて、精一杯の感謝をおじさんにした。
「うう、恥ずかしいですけど、自覚があるんで教えてくれると本当に助かります」
「まぁ経験を積まないとね。 さて、鍋も良いけど、まずは旅の汗を流しておいで。 ハチヤドの自慢のお風呂だ。 入らないと勿体ないぞ」
「そうですね。 温泉も楽しそうで気になってたんですよ。 私、行ってみたいです!」
やり取りもそこそこに、リオリールは着替えを持って部屋を飛び出した。
店主に見送られ、ほぼ一本道なのにちょっと迷ってしまったが、口頭で案内された通りの場所をルンルン気分で歩いていく。
潮騒亭には、共用の大浴場へと直接つながる宿泊客専用の地下通路がある。
石造りのひんやりとした廊下を進むにつれ、潮の香りは次第に甘い硫黄の匂いへと変わっていき湿度が肌にまとわりついてくる感覚をリオリールは感じた。
脱衣所で服を脱ぎ、丁寧に畳んで籠に入れる。
期待に胸を膨らませ、湯気で白く煙る浴室への扉を開けると出迎えてくれたのは音だった。
コォン、コォン。
広大な岩風呂の中央。
岩壁から垂直に伸びる石の先から、赤く熱を持った滴がゆっくりと落ちていく。
それは水滴ではなく、地脈から染み出したマグマの雫だった。
誰がどう見ても、真っ赤な灼熱を思わせる大地の血液だ。
落ちた雫はジュッ、という蒸発音と共に、雫は空洞になった大岩の表面に当たり、その衝撃が岩の中で反響して、楽器のような音色を奏でているのである。
コン、コンと軽い音もあれば、大浴場の先にはドンっと地面を踏むような大きな音まで。
岩場の温泉の中にこだましていたのである。
「ひえぇ……あつそー……みんな普通に入ってて熱くないのかなぁ……?」
足先からそっとお湯に入れると、確かに少しだけ熱めではあるが想像以上に温い。
思い切って湯船に浸かると、お湯そのものが微かに振動しているのが分かる。
音の波が、お湯を介して身体の芯まで響いてくるようだ。
その波が身体を触っていき振動を伝えて心地いい。
「ふわぁぁぁ……なにこれ、すごい気持ちいー……」
「ぷっ、はは。 あんた、若いのに極楽にいるみたいな甘い声を出すじゃないか」
湯気の向こうから声が掛かった。
地元の人だろうか。
リオリールはもう少し堪能したい気持ちに後ろ髪を引かれながら、居住まいを正して声をかけてきた頭に布を巻いている年配の女性に向き直った。
「あんた、お名前はなんだい?」
「私、リオリール・フェルエクスです。 みつ島のユウバナ村から、成人の儀の旅をしていてここまで来たんです」
「うん、なるほど。 よろしくね。 ここは鼓奏村。 そして通称をハチヤド。 どうしてそう言われるのか、分かるかい?」
「最近ハチヤドって言われるようになったんですよね。 村の名前は考えたことがなかったなぁ……」
顎に指先を当てて、リオリールは岩の淵に肘を当てながら考えてみた。
そんな彼女におばさんは顔のしわを笑みに変えながら教えてくれた。
「昔から、ここは耳で入るお風呂なんだ」
「耳ですか?」
「そう。 数百年前からずっとマグマの滴が音を奏でてる。 当たった岩に反響して、鼓の音を奏でるんだ」
コォォォン……
その説明を証明するように、マグマの水滴が鼓を鳴らして大地に響く。
それを機にリオリールが耳を澄ませば、静寂の中で至る場所で自然の合奏が鳴り響いているのに気付いた。
「今はハチヤドなんて呼ばれているけど。 もともと鼓奏村っていうのは宿のことじゃない。 この自然が織りなす鼓の音と共に生きる私たち自身のこと、その場所の事を指しているんだ」
私はそれを忘れないようにしていきたいんだよ。
おばさんはそう言ってザバっと湯を跳ねさせて脱衣室の方へ向かっていってしまった。
「自然の合奏と共に生きる人たち、かぁ……」
リオリールはおばあさんの言葉を反芻しながら、肩までお湯に深く浸かった。
目を閉じてみる。
不規則で大地を滴が叩く音が、この岩の大浴場の隅々まで聞こえてきた。
ここではマグマと大地が奏でる音を聞いて育っていくんだろう。
ミミガーデン村では山頂の鉱石の音と。
ぷにの楽園ではぷにぷにの弾む音と二つの川の中。
軒先峠ではキノコと大樹と大きな滝の音の中で。
もちろん、リオリールとカスカルはユウバナ村で潮と船が鳴らす音と共に育った。
この成人の儀の旅を始めてから、自分の脚で歩いてきた全てに人生と歴史が育まれている。
それはきっと、この三つ大島全体で人が生きている音なんだろう。
まだ見ぬひと島、今ここにあるふた島、自分達の故郷のみつ島。
その全てが繋がっているから。
いろんな場所で、いろんな形で、みんなは暮らしていて、三つ大島が形成されているんだ。
ふと、先ほど手に入れた鉄鍋のことが頭をよぎった。
リオリールの夢は錬金術士になることだった。
今は大人になって大陸のアカデミーに入学することが目標だ。
『立派な錬金術士』を目指しているけど、なれるかどうかは分からない。
出来るのかな。
出来ないかも。
でも、どんな形であっても。
(この自然と人の暮らしの中、足りない物を私が錬金術で補えてあげられたら良いな……)
ポカポカとした温かさが、身体だけでなく心まで満たしていく。
立派な錬金術士。
そんな漠然とした大きな目標はこの時。
『三つ大島の錬金術士』としての自覚が、リオリールには芽生えたのかもしれなかった。
リオリールは大きく息を吸い込み、湿った空気を胸いっぱいに満たし、温泉の中に潜っていく。
全身の熱が身体全体を包んで満たしていく。
リオリールは明日からの旅が、また少し楽しみになった気がした。