リオリールとトルテのアトリエ~三つ大島の錬金術士~ 作:ジャミゴンズ
朝の冷気と温泉から立ち昇る湯気と共に、朝日に照らされる。
ハチヤド二階の中央テラスは、風情もあるせいか旅人たちに人気なようで、毎朝活気がある場所だ。
木製の階段が常に上り下りする足音と、軋んで擦れる木材の音を奏でている。
リオリールやカスカル、トルテもおのおの好みの宿に泊まり、朝を迎えてはこの場所に集合していた。
だが、今日の景気は少しだけ変わっていた。
階下を見下ろせば、大きな荷物を背負い歩きやすい旅装束に身を包んだ大人たちが、何人も集まって声を掛け合っているのが見える。
真剣な顔で話し合う横顔。 旅の工程を話し合っているのか、荷物の検品にも余念がない。
まだ数日滞在しただけのカスカルの目にも、その物々しい雰囲気の違いは明らかだった。
具体的にどう違うのかと言われれば分からない。
だけど、まるで大嵐にあった後のユウバナ村のような。
アムースコ村長を中心に大人たちが集まっていた時のことを思い出せた。
「――でね、十段峠は、ハチヤドから更に南下して殻貝街道と繋がる『マグマ溜まり平原』を越えた先にあるみたいなんだよ」
「マグマ溜まり平原か。 名前だけだと、恐ろしそうな場所だな」
「夏場はマグマがボコボコ音を立てて流れてるんだって。 でも、冬季はマグマが凍って歩けるみたい」
「へぇ……」
リオリールはテーブルの上に、ウィッシュから譲り受けた地図をカスカルたちに見せながら、集めた情報を話していた。
羊皮紙の少しザラついた表面を、彼女の小さな指先が辿っていく先には、マグマ溜まり平原の上を通って、十段峠に止まる。
リオリールが聞いた噂――海面の上昇が自然現象ではなく、ミミガーデン村の時と同じように、錬金術によって引き起こされているかもしれないという不穏な話。
「つまり、リオは調査隊の人達と一緒に、十段峠へ向かいたいってことか?」
「うん、そう! だから、早く準備してお願いしたいんだ」
「……」
カスカルは手にした硬めのライ麦パンを口に放り込みながら、視線を隣へと移した。
話を振るまでもなく、トルテの様子がおかしいことは一目で分かった。
いつも淡々として口数の少ない彼女だが、今日の静けさは明らかに異質だ。
手元のスープ皿はすでに空になっているのに、スプーンを持ったまま陶器の縁を意味もなく指の腹でなぞり続けている。
視線はテーブルの木目に落とされたままで、顔を上げようとしない。
いつもなら、リオリールの話に肯定にしろ否定にしろ。
自分の意見をしっかりと言うのに。
「……まぁ、リオの意見は分かったけど。トルテはどうなんだ?」
仕方なく、カスカルは自分から切り出した。
リオリールの視線がトルテへと向かう。
一緒に旅する仲間、成人の儀の旅を共に挑戦する一人として彼女の意志も確認しなくてはならない。
雰囲気から、あまり話したくなさそうなのは痛いほど伝わってきたが、意見を聞かないわけにもいかなかった。
「私は……」
ぽつりとこぼれた声は、まるで細い糸のように弱々しかった。
そこから先が続かない。
空のカップを両手で包み込むように握りしめ、彼女はきつく唇を結んだまま止まってしまった。
何か言い淀む深い理由があるのは明白だった。
「トルテちゃん、どうしたの? 昨日からちょっと変だよ?」
「……まぁ、そうだな……俺の考えだけどさ」
少しだけ待ってみたが続きが出てこなかったので、カスカルは深く息を吐き出し、先に自分の意見を述べることにした。
「俺達の目標は、ふた島で二枚目の認定証を得ることだ」
リオリールは一度自分の意見をコレ、と決めてしまうと頑固な側面がある。
双子の兄としてずっと一緒に暮らしてきたからこそ分かることだ。
こういう時、リオリールに掛ける言葉を間違えると、面倒になるのは本当によく知っている。
少し低く、落ち着いた声でカスカルは言葉を選んだ。
15歳になって成人の儀の旅を行う。 これは三つ大島の伝統の仕来りであり、全ての同年代の少年少女が必ず行うことである。
旅をしている間は、三つ大島の中ではあくまで子供として扱われる。
中央島へ辿り着き、洗礼と試練を越えて、初めて大人として認められるのだ。
これは誰が何と言おうと絶対に変わらないルールである。
「十段峠に向かうというのは構わないし、気になることに首を突っ込むのも良いけど、忘れちゃいけないのは目的を見失わないようにってことだ」
それをちゃんと理解しているなら、カスカルは良いと思う。
十段峠の噂話を確かめることも、寄り道ではあるけど悪いわけではない。
例えば、調査隊が組まれるということは、逆説的に考えればふた島の大人たちと共に行動できるということだ。 彼らを手伝う中で、認定証を得るための手がかりや機会が見つかるかもしれない。
調査隊への同行にはそういう悪い側面ばかりじゃない利点もある。
「なにより、ふた島のことをもっと知れるだろうからな」
「うん! そうだよね! 噂話が本当かどうか確かめるついでに、認定証を得る方法も考えようよ!」
「あのな、逆だ逆。 認定証を得る方法を考えるついでに噂話を確かめるんだよ」
「あ、あはは、そうだった」
リオに突っ込み、はぁ、と一つ嘆息するとカスカルはトルテに向き直って確認した。
「……トルテ、お前もそれでいいか?」
顔をあげたトルテは、リオリールとカスカルの顔を見比べた後。
静かに小さく分かった、と答えて、ゆっくりと頷いた。
方針は決まった。
リオリール、トルテ、カスカルの次なる目的地は、噂の渦中にある『十段峠』だ。
――・
ハチヤドの外縁、南へと続く街道の入り口には、すでに二十名ほどの大人たちが荷車と共に集結していた。
ざわざわとした人ごみの中、一際目立つ、太い声を張り上げている男性。
昨夜、ディーツハートがリオリールたちへ話題逸らしの為に指さした、恰幅の良い頭髪の薄い男性だった。
彼は仕立ての良いジャケットを羽織り、ピシっとした旅装束に着替えている。
このハチヤドの街の町長であり、今回の調査隊を率いる責任者であった。
「えっ……町長さん、なんですか!?」
「うむ、オイゲン・バドムシュルクだ。 よろしく、カスカル君、リオリールさん、トルテさん」
笑いかけるオイゲンは、厳しそうな見た目とは裏腹に暖かい雰囲気をもった人であった。
握手を交わして、リオリール達の用件を聞くとうむ、と一つ唸る。
成人の儀の旅の最中である子供たちが調査に同行したいと申し出たことには、少しだけ躊躇いがあった。
これは中央島の行政から直接指示されたこと。
社会を学ぶというには良い機会かもしれないが、危険が伴う可能性もあり得る。
悩みだしたオイゲンに、リオリールは不安になって声をかけた。
「あの、ダメですか? 一応、私たち錬金術士……の端くれなので、錬金術のことなら少しは分かるんですけど」
「なに? 錬金術士か……あれは大陸に広まっている技術者たちという話だが」
「俺達のお爺さんは、昔に王国の首都に行ったことがあるんです。 その時に、錬金術に触れていたので、妹も知っているんですよ」
カスカルが背中を押すようにフォローすると、納得顔でオイゲンは頷いて自分の膝を打った。
錬金術士が関わっているかもしれない、というのは中央島からの公文書にも記載があったものだ。
錬金術を知らないオイゲンは、未知の技術による脅威なのかと考えていたのもあって、専門家が居るのはとても心強い。
「それなら、同行の申し出はむしろありがたいくらいだ。 調査の邪魔をせず、大人たちの指示にちゃんと従うなら連れて行こう」
「やった! ありがとうございます、オイゲンさん!」
「よろしくお願いします」
リオリールが勢いよく頭を下げ、カスカルも続く。
そんな一幕を経て、十段峠へと向かう調査隊の列に加わることになった。
ハチヤドを出発し、南へ進むにつれて殻貝街道の白い道は徐々に色を変えていった。
海から遠ざかったせいか、それとも地勢が変わったのか。
足裏に伝わっていた硬い貝殻の感触が消え、代わりに歩くたびに少しだけ底に沈む。
不思議な土の上を歩くことになる。
地面に屈んで表面に触れれば、冬の外気に晒されていたとは思えない温さだった。
「マグマ溜まり平原の入り口だ。 深く掘っていくとマグマが噴き出すなんて話もあるから、気を付けたまえ」
オイゲンの忠告に、リオリールはトルテと顔を見合わせた。
夏は地表にマグマが溢れ出し、冬になってようやく冷え固まって歩いて通れるようになるという、三つ大島の中でも特異な環境を持つ場所だ。
有名なだけに、リオリールとトルテも簡単なことなら知っている。
焦げたような鉄とでも言えばいいのだろうか。 よく知る緑の深い匂いではなく、鉄を焼いたような匂いが土からは漂ってきていた。
「うわ~、焦げてる木があちこちに倒れてるね」
「あれは……漆黒の倒木石だね」
「石なんだ? 植物に見えるけど……」
「植物のカテゴリにもあるよ。 鉱石と植物の両方の性質を兼ね備えてる……って書いてあった」
マグマ溜まり平原を歩く最中、トルテの足取りもふっと変わった。
朝からどんよりとした空気を纏い、俯きがちだった彼女の顔がスッと上がり、周囲の岩肌や自生する奇妙な植物へと釘付けになっている。
リオリールと自然にやり取りして、錬金術士としての顔に戻っていた。
赤砂に塗れて岩の隙間から顔を出す魔法の草。
黄緑色に生えそろって平原を彩っているのは『うにゅう』だ。 広い三つ大島の中でも火山やマグマの通り道で出来た灰の中でしか育たないこの植物は、火薬燃料として非常に優れている。
遠くの方では高壁山脈の威容が連なり、更には地面から風が吹き上がって、大地の一部を捲っていた。
「あの風、なんだろう!」
「あれは間欠泉だ。 最近、ここらでは雨が降ったんだろう。 地下熱で温められ水蒸気になって噴き出すことがあるんだよ」
オイゲンの解説に、ほへーとリオリールとトルテも遠くを見つめる。
「元気、出たみたいだな」
少し後ろを歩いていたカスカルが、安堵の息を細く吐き出した。
しばらく歩いて、太陽が真上になった頃にオイゲンは首から下げたホイッスルを鳴らした。
「よし、この辺りで一度小休憩をとるぞ!」
号令が掛かり、大人たちが荷を下ろして水筒を傾け始める。
リオリールとトルテも、カスカルに振り向いて良いかな? と声を掛けられる。
「ああ、まぁ休憩中は良いんじゃないか? 俺は少し、大人の人からお話を聞いてくるよ」
リオリールとトルテはすぐさましゃがみ込み、マグマ溜まり平原の素材蒐集に取り掛かった。
歩いていた時から気になっていたのだ。
ここの土は本当に特殊だ。
指先で土をつまむと、表面は乾燥した砂のようにパラパラと崩れる。
しかし、手のひらでギュッと握り込むと、今度は粘土のようにねっちりとした強い粘性が押し返してきた。
靴の底がふかふかと沈み込むのに、足を持ち上げるとサラリと土が落ちる。異常に軽くて、隙間だらけのような不思議な性質を持っているのだ。
「気になったかね、お嬢ちゃんたち」
手ぬぐいで汗を拭いながら、オイゲンが二人の様子を見て歩み寄ってきた。
「この土は、レンガを作るのに最適なんだ。 熱をよく吸収するし、何より軽い。 ハチヤドの職人たちもよく土を掘りに来るんだ」
「へぇー! だからこんなに不思議な感触なんですね」
リオリールが感心して頷く横で、トルテは両手でその赤茶色の土をこね回していた。
「レンガになるのも納得かも。 天然の『錬金粘土』の代わりになりそう」
「なるほど……でも、特性を経由するなら『錬金粘土』の方が便利だよね?」
「手間を省けるのは大きいよ。 レシピも洗練できるし……品質次第だけど大きな手間を省ける恩恵は大きいから」
親友の無自覚にこぼれた考察を聞き逃さず、リオリールは素早くポーチからゼッテル用紙とペンを取り出し、ふむふむと頷きながらメモを走らせる。 こうして現地でトルテの解説を聞いた時は、すぐに思い出せるようにしないと忘れてしまうからだ。
中央島ではカスカルが言うように、洗礼と試練を越えることが大人になる為の行事だ。
同時にリオリールにはアカデミー入学のための試験もある。
軒先村でエル婆さんに言われた通り、どんな些細な気づきもリオリールはメモを取るように習慣づけようとしていた。
いつか自分たちの調合の役に立つかもしれないからだ。
というのは表向きの理由で、サボったらエル婆さんに鬼の形相で怒られてしまいそうだから。 怒ったエル婆さんの顔はちょっとしたホラーとしてリオリールに強烈な印象を与えていた。
空になった小瓶やリュックの隙間に、赤茶色の土や奇妙な植物を次々と詰め込んでいく。新しい素材に触れる喜びが、二人の指先を忙しく動かしていた。
「おーい、休憩終わりだ、お嬢ちゃんたち! 出発するぞー!」
「えー! 全然休めてないよー!」
「しまった、夢中になりすぎた」
リオリールとトルテは顔を見合わせ、文句を言いながらパンパンに膨らんだポーチを腰で揺らしながら、立ち上がって土を払った。
足元から伝わる大地の熱を確かめるように踏み込み、十段峠へ向かう列へと小走りで戻っていく。
マグマ溜まり平原の独特な赤茶色の土を踏みしめながら、調査隊は大きな分かれ道を三回ほど曲がりくねって進んだ。
ザクッ、ザクッと続いていた大人数と数頭の荷運び用の三つ牛の足音が不意に途切れ、視界が一気に開ける。
「あ、海だよ! お兄ちゃん」
「ぐるっと迂回してたのか……海岸線に戻ってきたみたいだな」
オイゲンと一緒に先頭付近を歩いていたリオリールが、思わず声を漏らす。
海岸線に出た一行を出迎えたのは、潮風に晒されて表面が白くひび割れた、大きな木製の古びた看板だった。
『これより十段峠』
ここまではマグマ溜まり平原で、この看板を境にして十段峠が始まるという明確な目印である。
ここはふた島の殻貝街道沿いだ。
行き届いているとは言えないが、人の手が昔から入っている主要な道ということなのだろう。
リオリールが小走りで看板の奥にある、潮に当たって白くなった木柵を手に覗き込む。
目の前にあるのに地面の無い海の正体は、高低差だった。
遥か崖下に広がっていて波しぶきを叩きつけるように岩盤の壁にぶち当たって跳ね返している。 横を向けば足元から垂直に切り立った断崖絶壁が延々と続いており、どこまでも先に延びていた。
波の轟音が、地鳴りのように腹の底まで振動を伝えて、体重を支える柵を震わせている。
「あわわ、転んで落ちたら死んじゃうよ!」
「ああ、凄いところだな」
西陽にあたる海の荒々しい姿に、いつの間にか隣にいたカスカルが身震いする。
「ここは昔は『十峠』とだけ呼ばれていたんだ」
カスカルの背後から、オイゲンが太い声で説明を添えた。
振り向けば、微笑ましそうに三人の子供が自然に圧倒される姿を眺めて。
「十峠? でも看板には十段峠って」
「今はそうなっている。 だが、この海岸線をずっと真っ直ぐ歩こうとするとね、断層がズレたような巨大な『段々』がいくつも立ち塞がるんだ。 当然、人間はよじ登れないし、三つ牛が通るには狭くて足場も悪い」
口で説明されてるだけでも、険しい道のりが想像できて辟易した。
三つ牛も通行できないほど狭いなら、とてもリオリールたちには歩いて通れそうにない。
「その『段』を避けるために、わざわざ内陸側の険しい山道を迂回して、峠をいくつも越える必要がある。 だからいつしか『十段峠』と呼ばれるようになった」
ふた島の北側と南側を大きく分断している原因。
みつ島もカンカン山脈によって北と南側で別れていた。
「ウィッシュが、文句を言ってたのも……ここの地形のせいなんだろうな」
「あ、そういうことか!」
「なるほど……」
軒先村で出会った同期の成人の儀の旅をしている先輩でもあるウィッシュ。
ふた島の位置についての不公平さを主張していた時は、それほど気にしていなかったが実際に訪れると確かに不便だ。
みつ島の人間は時計回りに。
ひと島の人間は反時計回りにスムーズに認定証を得る旅を続けられるが、ふた島はそうはいかない。
自然の要害とも言える過酷な地形。ここから先は、ただ歩くだけでも一苦労なのは目に見えて分かる。
好んで通る人はそうは居ないだろう。
「ふふ、よし。 説明はこのくらいにしておくか。 日が落ちる前に寝床を確保するぞ!」
オイゲンはパンッと手を叩いて、調査隊の大人たちへと振り返り注意を引いた。
近くに寄った一人の小柄な男性に近づいて指示を出す。
「身軽な数人を選抜して、一応先を確認してくれ。 ツボがあるらしいからな」
ツボ。
リオリールは聞こえてしまったその声に、ぐっと唇を人知れず噛みしめた。
――・
翌朝。
海から昇る太陽が、十段峠の切り立った岩肌を白々と照らし始めて。
調査隊は出発して間もなく、すぐに足を止めることになった。
殻貝街道の果て、波に削られた断崖のふち。
海面からおおよそ25メートルという目が眩むような高所から、調査隊として出向いた大人たちが一様に言葉を失い、眼下を見下ろしている。
「あれが、原因なのか。 しかし、これは……なんてこった」
オイゲンが信じられないものを見るように、太い声を震わせた。
激しく波が打ち付ける崖の真下。
黒々とした岩礁にへばりつくようにして、海面から半分ほど顔を覗かせている巨大な『ツボ』が確かに存在した。
ボシュウウウウウウ、と盛大な音をまき散らし。
そのツボの口からは、夥しい量の水が無限に吐き出され続けていく。
尋常ではない質量の海水が十メートル以上も空中へと絶え間なく噴き上がっているのだ。
拭き上がる水しぶきが朝日に照らされて綺麗な虹を映し出してるのが、皮肉にも見えてくる。
ツボは、まるで最初からそこにあったかのように岩礁と完全に一体化している。
ちょっとやそっとの力で動かせるような代物には見えなかった。
しかも、その前には異常な水流が原因なのか。
今までに見た事も無いような、大きな大きな『大渦』が出来上がっていた。
「すげえ大渦だ……こんなの、見た事もねぇよ!」
「オイゲンさん、何か居ます!」
「ああ、分かってる。 あれはポットクラーケだろう。 馬鹿げたデカさになっているが、間違いない」
『ポットクラーケ』
大きなスペースがある貝殻や器を住処にするタコのモンスターの一種だ。
住処にした場所を取られない為にナワバリ近くでは攻撃性が高く、ふた島の漁師たちの天敵でもある。
身を乗り出したカスカルがじっと見つめると、確かに大きな影が海面に浮かんでいた。
海面のすぐ下に、どす黒い影がゆらゆらと蠢いている。
大きさは想像がつかないが……ハチヤドへ向かう途中の砂浜で見かけた、貝殻から飛び出していたタコ足のモンスターと同じような形だ。
ツボの周囲を陣取るその姿は、近づく者すべてを海深くへ引きずり込もうと待ち構えているようだった。
「くそ、海面上昇の原因だなんて、大袈裟だと笑っていたけどよ」
近くの大人たちの吐き捨てるような声が聞こえた。
「大陸の連中の仕業か? 何を考えていやがる」
「ふざけやがって、錬金術なんて意味の分からない物で困らされてたまるかよ」
トルテが弾かれたように振り返った。
大人たちの顔は一様に歪み、険しい顔で崖下へと視線を送っていた。
その隣のオイゲンも、オイゲンは口元を歪め、苦々しく吐き捨てている。
地表から壺の置いてある海面までは25メートルの高低差。
岩礁の目の前には、船でもとても近寄れそうにない大渦。
極めつけは、ツボに住み着いたと思われる規格外のデカさのポットクラーケの亜種。
無理だ。
今この場では、何も出来そうにない。
「オイゲンさん。いくつか降りる算段を話し合いましたが……あんな巨大なポットクラーケが居ては、とても近づけません」
「仕方ないだろう……一度ハチヤドに戻って、対策を練り直そう」
「何か当てが?」
「あると思うか? これから考えるんだよ」
大人たちの間で、落胆と撤退の言葉が交わされる。
ざわざわと踵を返す調査隊の背後で、リオリールとトルテ、そしてカスカルの三人は、微動だにせず崖のふちに立ち尽くしていた。
ミミガーデン村の、満月の急須。
思い出されるのはそれだ。
リオリール、トルテ、カスカルを含めて、クラウス兄さんやタータラベのスベルさん。
そしてアウディやフラーラと村の全員で協力して排除した、あの悪意だけしかなかった道具。
そして今、ここ十段峠で同じような脅威を見てしまって。
カスカルは腕を深く組み、険しい表情で大渦の回転を見つめている。
トルテは、完全に表情を消していた。
ガラス玉のように感情の抜け落ちた瞳で、ただ眼下の光景を見下ろしている。
その冷たい指先が震え……そのままスカートの布地を白くなるほど強く握りしめていることには、誰も気づいていない。
そして。
「ツボってさ……ツボなんて……」
吐き捨て、リオリールは唇を強く結んでしまった。
「戻るぞ!」
オイゲンの声も、リオリールの耳は素通りした。
眼下の『ツボ』だけを鋭く睨みつけていた。
波の音も、大人たちの動き出した足音も遠のいて。
丸みを帯びた金属的な胴部。
特徴的な淵の反り返り。
岩礁に埋まるように入っているその正体は、錬金術士だからこそ分かる。 分かってしまった。
あれは、錬金釜だ。
見間違えるはずがない。
ずっとずっと失敗を繰り返して、やっと成功して、トルテに出会って。
ようやく形になり始めた錬金術を使う為の道具。 錬金釜が今、海水を吐き出すだけの道具として『ふた島』を。
いや、『三つ大島』を沈めようとしているのだ。
リオリールは、胸の奥で何かが冷たく焼け焦げるような感覚を覚えながら、ぐっと両手の拳を握り込んだ。爪が掌に食い込む痛みも感じない。
ツンと鼻の奥に刺激が走る。
自分でも訳が分からなくなるくらい、リオリールは悔しい気持ちに溢れ、頬に一筋の滴を垂らし、袖口で強く拭うのだった……