リオリールとトルテのアトリエ~三つ大島の錬金術士~ 作:ジャミゴンズ
十段峠からハチヤドへ戻ってきてから、数日。
具体的には6日間。
何もしなかった。
出来なかったと言い変えてもいい。
温泉街を包み込む硫黄の香りは相変わらず鼻腔をくすぐり、活気に満ちた人々のざわめきが絶えない。
しかし、リオリールたち三人の間に流れる空気は、浮き立つようなそれとは明らかに変わってしまっていた。
トルテは一人きりで過ごすことを好むようになり、リオリールも思い詰めたような表情ばかりを浮かべ、持ち前の明るい笑顔はすっかり鳴りを潜めている。
「なぁ、ちょっといいか?」
カスカルは手元の冷めたスープ皿から顔を上げ、重い口を開いた。
数日もの間、時間を置いても元の空気に戻らない現状。
いつまでも塞ぎ込んでいる二人に、カスカルはハァ、とため息を吐いた。
声を掛けても互いに顔を見ることすらせず、食器の音だけを響かせる。
「あのな、いつまで下ばかり向いてるつもりだよ」
静かな、だがはっきりとした咎めるような響きだった。
リオリールもトルテも、いつになく低い声を出すカスカルに思わず顔を上げる。
「俺達の旅の目的は?」
カスカルは妹へと声を投げる。
この重たい空気は回復する兆しはなく、旅そのものが停滞していて進展が見えない。
リオリールはビクッと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。
「成人の儀の旅だよ。 2枚目の認定証を手に入れる……こと、だけど……」
「オイゲンさんが中央島から指示されたことは?」
「……海面上昇の問題への対応」
トルテが答えた。
そう、俯瞰して問題を整理すれば簡単なことだ。
カスカルもリオリールもトルテも、15歳の子供であり大きな問題には既に大人たちが当たっている。
成すべきことは単純で、やるべきことも変わらない。
ただ、知ってしまったから迷っているだけだ。
実際、リオリールの頭の中は、ずっとそのことで一杯だった。
海面上昇なんて、人間の手で防げるような環境問題ではない。
だからリオリールも手に負えないこととして忘れようとしたが……無理だった。
自分が好きでずっと続けてきた錬金術への初志や想いを否定されたような。
錬金釜が悪意ある道具として作られていたと知ってしまったら、もうどうにも感情が纏まらなかった。
リオリールは言った。
ずっと考えてみたけど変わらなかった答えを出した。
「私、このまま旅を続けられないよ、お兄ちゃん」
自分の錬金術が役に立たなくても、自分が解決できなくたって、放って旅を続ければきっとずっと後悔してしまう。
旅の途中でこの問題を。 錬金術が悪用されていることを思い出して、気分が沈んでしまうだろう。
だから、出来ない。
きっと、トルテだって。
リオリールは顔を俯かせて黙っているトルテを見てから、カスカルの顔をまっすぐに見つめた。
「そうか」
カスカルは短く頷き、今度は対面に座るトルテへと視線を向けた。
トルテは二人から向けられた視線に、そっと首を振った。
「……私は、旅は続けたい。 でも、リオを放ってはおけない」
膝の上で拳を握りしめ、ポツリと小さな声で答えた。
トルテの胸の内は、引き裂かれそうなほどの葛藤で渦巻いている。
このハチヤドに来てから、いや、教会に入った時から。
おとーさんの事がずっと頭の中に引っかかっている。 レッドマンの世界征服の計画じゃないかもしれない。 でも、そうかもしれない。
リオリールにこの問題に近づいて欲しくない。
錬金術士を爆殺するのがトルテの使命だ。
だけど、今はまだ無理だ。 考えたくない。
その本当の理由を口にすることはできないため、彼女の言葉はどうしても中途半端なものになってしまう。
カスカルは短く息を吐き出した。
数日間、ずっと同じような意見の対立が続き停滞しきっているこの状況に、彼自身も辟易していたのだ。
「トルテちゃん」
不意に、リオリールが身を乗り出した。
テーブルに置かれた彼女の手が、木目のザラリとした感触を強く擦る。
「この際だから言うけど、目を背けちゃいけない問題だと思う。 錬金術士として!」
「でも、どうやって解決するの?」
「どうって……分からないけど、錬金釜を使うなんて許せない、でしょ?」
「……あれが錬金術で作られてなかったら……」
「そんなこと無いよ!」
「遠目からじゃ分からないよ、リオ」
トルテの語気が、ふっと増した。
いつもの淡々とした口調とは違う、早口で焦燥感の混じった声。
「大渦にモンスター。 海岸線からは高低差の激しい断崖絶壁。 近寄る事もできずに、オイゲンさんだって解決の見通しが立ってないって言ってた」
「そうだけど、でも、おかしいよトルテちゃん。 錬金術はなんだって出来るって何時も自信満々に言ってたトルテちゃんが、最初から挑みもせずに否定するなんて」
「私はおかしくない」
食い気味にトルテが否定する。
リオリールは視線をふいと逸らし、手元のカップの取っ手を指が白くなるほど強く握りしめた。
旅を続けてから……いや、初めて出会った時から何だかんだ、ずっと一緒に錬金術を学んできたのに。
一人じゃ何もできなかったリオリールに、理論を教えてくれた。
燻って失敗ばかりだったリオリールにレシピの描き方を教えてくれた。
ユウバナ村の復興を目指して、ドタバタと騒がしい事もあったけれど、同じ場所を目指して釜を攪拌してきたトルテの事は誰よりも……それこそ大講師のシーバーシーよりも錬金術士として、リオリールはトルテを尊敬している。
だから、ショックだ。
意見は対立することの方が多いけど、明確な否定は今までに一度だって無いはず。
リオリールは『立派な錬金術士』になりたい。
祖父の残した中和剤のレシピ、その手記を見つけた事が錬金術を始めたきっかけ。
自分の大好きな家族とユウバナ村の人達を幸せにしてあげられたら、素敵だからという。
狭い世界の中で始まった、確かな初志。
少しずつ芽吹いて、育って、三つ大島の錬金術士になりたいと思っているから、口から突いて出る言葉が止まらなくなった。
「トルテちゃん。 どうして反対するの?」
「そんなの、リオが心配だからだよ。 心配したらだめなの?」
「だ、ダメじゃないけど、そういうことじゃないんだよ……私が言いたい事はそういうことじゃない!」
「じゃあ、どういうこと?」
「この問題を放って置いて、トルテちゃんは『最高の錬金術士』になれるの?」
「っ……なにそれ」
「だって、トルテちゃんはそれで『おとーさん』に胸を張れるの!」
「黙ってっ!」
弾けるような聞くことの無いトルテの大声が、朝のテラス席に響き渡った。
周囲で談笑していたお客さんが、驚いた様子で振り向く。
トルテとリオリールはお互いににらみ合って、ややあってから腰を椅子に二人一緒に降ろした。
「二人とも、ヒートアップしすぎだ。 落ち着けよ」
「お兄ちゃん、私は残りたいよ。 良いでしょ?」
「……」
リオリールとトルテはもう、お互いに見向きもしなかった。
カスカルは一つ頭を掻いて。
「トルテの言う通り、お前が心配なんだ。 それは俺も同じだ……だけど、少し俺は別の事も考えている」
言うべきことではない。
そう思っていたから今まで黙っていたが、確かに不穏な芽はもしかしたらという形で周囲にあった。
まだ不満そうな顔を隠せないリオリールとトルテに、カスカルは静かに語り始めた。
ミミガーデン村の満月の急須。
今回の海面上昇の問題。
そして、故郷のユウバナ村での大嵐と、船の潰滅。
推測や可能性の話だ。 確証があるわけではない。
だけど、こうした悪意が偶然にも連続して続くことなんて、あるのだろうか。
影も形も掴めないけど、誰かが仕組んだことなのかもしれない。
「そんなの、偶然だよ……考えすぎ」
トルテは声を震わしてそう言った。
かもな、とカスカルは頷くが、もしもそうなら――
「ディーツさんが言うように、目を背けた方が正しい選択だったなんて可能性もあるだろ」
リオリールはぐっと下唇を噛んだ。
そんなの、ますます嫌だ。 許せないけど、兄の言葉はとても冷静で現実的な指摘かもしれない。
「でもお兄ちゃん。 目を背けない方が正しい選択かもしれないでしょ? 分からないんだもん、私は嫌だよ」
「はは、そう言うと思った」
15年も一緒に過ごした妹のことだ。
すくなくとも世界で一番、リオリールのことを知っているのは間違いなく自分であることをカスカルはよく分かっている。
これだけ意固地になったリオリールは、よほどの事があっても中々、意見を曲げることはしない。
曲げたのはユウバナ村を一緒に炎上させた時くらいじゃないだろうか。
「じゃあ、リオ。 お前だけハチヤドに残って、この問題に向き合っていくか?」
カスカルは苦笑交じりに、そう提案した。
「え?」
それはリオリールにとっては考えにも及ばなかった提案だった。
「俺は、この問題はオイゲンさんを中心とした大人たちに解決を任せるべきだと思ってるからだ。 理由は最初に言った通り、旅の目的が違うからだ」
静かなトーンで諭すように発せられたその言葉に、リオリールは息を呑んで目を丸くしてカスカルを呆けたように見つめてしまう。
突き放すような冷たさはない。
表情もいつも通りのカスカルだ。 お兄ちゃんの優しいけど、冷静で俯瞰的な視点で。
仕方ないと割り切ったような提案だ。
だけど、リオリールは驚いてしまった。
一人だけで、ハチヤドに残る?
事実を提示するように、テーブルに置かれた冷めたスープの入った皿を指先でトントンと叩きながら、カスカルは妹に説明した。
成人の儀の旅は、何も最初から最後まで三人一緒にやらなければならないという決まりはない。
軒先村の入り口で行き倒れていたウィッシュ。
オワンバシで出会った絵描きのエーゴン。
旅の中で出会った同年代の顔ぶれが、説明と共にリオリールの脳裏に浮かんでいく。
彼らは皆、一人で困難に立ち向かい、自分の足でこの広い三つ大島を歩いていた。
「意見が違って、お互いに譲れないなら別れた方が喧嘩するよりよっぽど健全だ。 どうせ目指す場所は同じ中央島だしな。 俺だって、自分の夢を見つけたいってのもある」
これは妹を切り捨てようとしているわけではない。 そもそも、鼓奏村……ハチヤドに辿り着いてから、漫然と寝泊りして時間だけが過ぎている不安感を、カスカルは感じていた。
カスカルなりに、一人の成人の儀の旅をしている十五歳の人間として動き出したい。 だが、同時に、リオリールの意志を最大限に尊重した結果の提案だった。
自分が追いかけるべきもの。
大人になるための儀式。 そして旅へのスタンス。
カスカルは真面目に向かい合っている結果から、言葉が出て来たのだ。
「や、やだ……」
「カスカル、本気?」
微かに漏れるリオリールの本音は小さく、誰にも伝わらなかった。
代わりに声をあげたのはトルテ。
別れて旅をするという言葉に、不安そうな顔を向けた。
「本気だ。 リオもトルテも、大人が解決するべき問題に向き合いすぎてる気がするしな」
「そ、そんな事、そうだけど……お兄ちゃん……」
双子の兄と、そして大切な友であるトルテ。
ユウバナ村を出発してから今まで、寝る時もご飯を食べる時も、楽しいことも危険なことも、ずっと三人で共有してきた。
その繋がりが途切れてしまう想像が、足元の床板が急に抜け落ちたような心細さを呼び起こす。
「旅を終えるまで、成人の儀に真剣に向き合いたいのは皆一緒だと思う。 俺が本当の大人になるためにも。 リオ、トルテ。 お前らもそうだろ?」
「ま、待ってよ……」
「そ、う、だけど……」
「このまま旅が止まるのは健全じゃない。 俺は明日ハチヤドを出るつもりだ。 クエスお爺さんから認定証に関しての話も少し訊けたし、ここに留まる理由もないんだ」
カスカルは、手元にあった硬いパンの欠片を口の中に放り込み、飲み込むと淡々と現状の立ち位置を整理した。
リオリールはオイゲンさんを中心に向かい合う大人の問題に、錬金術士として見過ごせない。
カスカルは成人の儀の旅の事に集中したい。
トルテは別れたくはなさそうだが、成人の儀の旅の方を優先したい雰囲気である。
「誰が悪いわけでもない。 ただ、やりたいことと、進みたい道が違ってしまったんじゃないか?」
この旅は決して急ぐものでもない。
だけど、のんびりとし続けて良いわけでもないと、カスカルは思っている。 目的に向かってきちんと進むべきだと。 だからこその提案。
「それなら、無理に意見を曲げて引きずり回すよりも、別れるのは一つの正しい道のはずだろ?」
逆にまっすぐに目を合わされて、リオリールは何も言えなくなってしまった。
兄は本気だ。
15年間一緒に、ずっと一緒に傍にいて面倒を見てくれたから分かる。
リオリールは、自分の膝の上に視線を落とした。 兄の言う事はとても正しい気がする。
まっすぐ過ぎて何も言い返せない。 いや、言い返す方こそが何か違う。
そのくらい、ぐうの音も出ないくらい、リオリールは感情が制御できなくなった。
海面上昇の問題に向き合いたいのは我が儘だからだ。 その自覚がリオリールにはあった。
危険だと言って反対している二人を、あの恐ろしいツボの調査に巻き込むわけにはいかない。 やるならリオリール一人でやらなくちゃいけない。
一人で残って、このハチヤドに残って。
リオリールはぎゅうっと目を瞑る。
瞼の裏にこびりつく海水を吐き続ける錬金釜がどうしても消せなかった。
「うぅ……ううう……」
リオリールは勝手に目の奥から溢れる涙を、袖口で拭った。
怖かったのかもしれない。 分かって欲しかったのかもしれないけど、どんな言葉を使えば良いのか分からないから、ただ泣いてしまった。
じっと見つめる兄に、視線を合わせるのに時間が掛かった。
荒くなった呼吸を整えて。
待ってくれている兄カスカルとしっかりと目を合わせる。
「お兄ちゃん……分かったよ。 私一人で残る……」
「そうか」
「――ま、待って、リオ」
「ご、ごめんね。 トルテちゃんも、お兄ちゃんも……私の我が儘だったよね」
「それじゃ、俺は明日には出るよ。 トルテも、一緒に行くなら準備しておいてくれ」
カスカルは立ち上がった。
そして、リオリールとトルテを一瞥し、努めて明るく口を開いた。
「それじゃあな。 今日はクウのところで荷物の整理をするよ」
「ま、まってよ……」
トルテの声はとても小さくて、歩き出したカスカルの背中には届かずにハチヤドのざわめきの中に掻き消えた。
「トルテちゃん」
「り、リオ……良いの? 本当に。 こんな事になるなんて、思わなくて……私――」
「あの、戻るね、潮騒亭に。 お兄ちゃんに残して貰う荷物、選ばないと……ごめんねトルテちゃん、ばいばい!」
「……リオ……」
赤く腫れぼった顔を見て何も言えなくなったトルテに、食器をまとめるとリオリールは背中を向けて走って去ってしまった。
リオリールが去って行ってしまった方に、姿が見えなくなってもトルテは顔を向け続ける。
こんなはずじゃなかった。
リオリールと、カスカルと、一緒にずっと旅を続けるのかと思ってた。
だって、別れることなんてありえないと。
これが成人の儀の旅なのか。
一人きりになっても、成すべきこと成す為に。
大人になるということなのだろうか。
トルテには分からなかった。
リオリールが去った方角を見つめ続ける雑踏の中に、入れ替わるように一人の男がトルテを見つけてやってくるのが見えた。 ボロン、とツィンケルタールの雑音を響かせながら、迷惑も考えずに気ままに歩いてくる姿が、嫌でも目立つ。
呆然とするトルテの目の前に、ドカッと座り込んで楽器をテーブルに立てかけると、軽い調子で声をかけてきた。
「やはー、トルテちゃんやん。 参ったで、せっかく荷運び手伝うたったのに、認定証貰われへんかったわ」
「ディーツハート……」
「おん? なんやわし、目ぇ真っ赤やで。 夜更かしは良うないらしいで。 美容やら健康やら色々言われるやん? 気ぃ付けた方がええよ」
「ぜんぜん違う。 喋りかけないで。 今、大変なの」
「アハハハ、そう邪険にせんといてや。 しっかし、成人の儀の旅って大変やな、王国生まれで良かったわ。 わし、三つ大島に産まれとったら15歳で旅するなんて自信あれへんでほんまに」
ケタケタ笑うディーツハートに、トルテは無視することに決めた。
見世物でも無い、本当に大事な問題なのに、勝手に馬鹿笑いをするディーツハート。
まるで馬鹿にされた様で気に障る。
席を立ってむくれた顔で立ち去るトルテに、ディーツハートはくくっと笑みを浮かべながら椅子に座って、食事を注文する。
店員を捕まえて、ディーツハートは意味ありげに声をあげた。
「なぁ、店員さん。 正しい事ってほんまに正しいんかいな? どう思う?」
「はぁ?」
「いやぁ、正しい思うとったこと言うたら烈火のごとく怒られて。 怖すぎて帰って来てもうたんやで。 そらあ三つ大島の人間と大陸の人間でちゃうとこはあるけどな?」
「まぁ色々あるでしょう。 余所者ならあまり深入りしない方が良い事もありますよ」
「それなぁ……あ、認定証ってどないして手に入るか聞いてもええ?」
「あんた、大人だろ。 聞かれてもなぁ……」
「あ~、やっぱそうなるわなあ」
むずいわ、とディーツハートは零して、朝食に届いた焼きたてのパンにガブっと齧り付いた。